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雀庵の「大戦序章/1 第3次世界大戦が始まった?」

2022-02-25 10:40:24 | 日記
雀庵の「大戦序章/1 第3次世界大戦が始まった?」
“シーチン”修一 2.0


【Anne G. of Red Gables/434 2022/2/25金】先日、孫5人、子供3人が集まって小生の71歳誕生日を祝ってくれた。孫は4月から中2、小5年、4年、3年、1年になるが、先が長いから大変だ、と小生は思うけれど、本人も親も大変さが分かっていないから明るいものである。知らぬが仏、怖いもの知らず・・・何よりも「若さ」という勢いがあるからこそできることで、素晴らしいこと、それでいいのだ!


2月23日は第126代天皇徳仁(なるひと)陛下(令和天皇)の誕生日である。1960/昭和35年生まれで62歳。共産主義を目指す激動の60年安保騒動の最中だった。


第125代天皇明仁(あきひと、平成天皇、上皇)様は1933年12月23日生まれで88歳。明仁様が15歳になられた1948年12月23日、GHQは極東国際軍事裁判で死刑判決を受けたA級戦犯7名の絞首刑を実行した。マッカーサー、GHQは日本人を蛮族、ガキとバカにしていたから、大いに愉快だったろう。報復のタネをばら蒔いたのはまずかった・・・恨みはらさでおくものか、となるわな。


GHQ、アメリカの占領政策は日本を「100年間戦争できない国にする」のが最大のキモで、占領下で国家主権がない日本は、GHQが1週間ほどで作った日本国憲法を押し付けられ、1946年(昭和21年)11月3日公布、1947年(昭和22年)5月3日に施行された。


マンガみたいな“なんちゃって”憲法だが、日本の狡猾な政治家やエリートは「軍事はアメリカさんにお任せだから莫大な経費節約になる、戦後復興急ぐべし」と歓迎したようだ。この憲法は事実上「改憲できない」ことを軽視したツケが今まわって、いささか“老大国”気味になったアメリカさんは大丈夫だろうか、と何となく心配するようになった。旦那が老いるに従って妾が不安を覚えるのと似ている。


私見だが、国難を迎えた時は、クーデターで暫定憲法を創るか、「想定外の緊急事態だから超法規で対処する」とかのアクロバットで対処することになるかもしれない。憲法のために国民があるのではない、国民ために憲法があるのだ、米国製憲法より国民の命の方が大事だ、とか大声を上げれば、正義が大好きな日本人は「確かにそうだ」と了解するだろう。


大きな危険を避けるためには自由民主や法律、人道、人権、共生などは一時的に規制されるものだろう。強盗に襲われたら、強盗の人権云々よりもまず迎撃する――当たり前だ。「テクマクマヤコン、超法規でヘンシーン!」、便利で怪しいオマジナイ。やってみなはれ。


迎撃、排除、駆除・・・「孤立を恐れず」の小生はいささか「される」側だが、餌を求めて山から出て人間を襲ったり不安にする熊が殺処分されるニュースを知ると、「そこまですることはあるまいに・・・」と思っていた。例えば北海道新聞2021/12/3「400キロのヒグマ1頭、羅臼で駆除 11月被害続出」。


<【羅臼】2日午後7時20分ごろ、根室管内羅臼町北浜の海岸で、ヒグマ1頭が北海道猟友会中標津支部羅臼部会のハンターに駆除された。


中標津署によると、駆除されたのは雄の成獣で体重約400キロ、体長2.1メートル。午後4時すぎから近くに住宅がある海岸をクマがうろつき、倉庫に侵入したため町職員や中標津署員らが警戒していた。夜間発砲は鳥獣保護法で禁止されているため、ハンターは署員から警察官職務執行法4条(緊急避難)に基づく指示を受け、計3発を発砲した>


熊が森から出てきたら容赦なく殺処分、他の熊に対する警告でもあり、二度と人間の暮らす里に出てきませんようにというオマジナイのようでもある。過酷な制裁・・・


今、枕頭で周(しゅう)はじめ著「原野の四季 牧場の四季」(合冊本、1966年)を読んでいる。周氏(後に吉田元と改名)は、「大学卒業後の1953年、知人を頼って最果ての地、北海道根室原野に移り住んだ。ランプの下で日々を送る開拓地の牧場で、野鳥や原野の四季、原野で暮らす人々の生活をカメラと文章で記録し続けた。足かけ3年を過ごしたのである。1955年に帰京後1971年までの間に、根室原野での体験をもとに写真と文章による一連の著書を刊行した。後に映像作家として政府公式の『昭和天皇大喪の礼写真集』監修の大役を全うした」(バードフォトアーカイブス 塚本洋三氏「山階鳥研ニュース」2021年5月号)。小中生向けの「原野の四季 牧場の四季」にはこんな記述もある。


<昭和28/1953年4月5日、上野駅を出発しました。3日の後、根室原野の西別(にしべつ)という小さな駅に降り立ち、原野への第一歩を踏みしめたのでした。牧場まで四里(16km)の道のりがあり、白樺林を伐り開いてつけた開拓道路がまっすぐにのびていました・・・>


一帯は根釧台地(こんせんだいち or 根釧原野)、百科事典マイペディアによると「北海道東部,根室,釧路両地域にまたがる標高200m以下の台地。火山灰土の低湿地や泥炭地が多く,海岸部は濃霧がかかり作物生育は困難であるが,1954年から世界銀行の融資でパイロットファーム(試験農場)がつくられた。内陸部では主畜農業経営が行われる。湿原の一部はラムサール条約の登録地」。


上記のパイロットファームは、米国式の大規模農業・牧畜を推進して米国製農機を売るのが狙いだったらしいが、米国の農場に比べれば狭いという現地事情に合わず頓挫したよう。それはさておき、周氏が野鳥や自然観察を始めた頃の根室原野は、人間と相棒の馬(小柄だがタフでパワーがあり、乗り心地が良い道産子など)と乳牛などの家畜がコラボして必死で自然はもとよりカラス、そして時々ヒグマなどと戦う日々だった。


<時々炭焼きに来る甚平さんに初めて会った時、その顔を見た途端、ゾオッとしました。片目がつぶれ、顔中が押しつぶされたように歪んでいたのです。それは3年前の春の事件にさかのぼります。


甚平さんが入植したばかりの丸木小屋の近くの森に大熊が現れて、放牧していた馬を倒しました。困難な開拓には杖とも頼む馬ですから、熊に対する激しい憎悪が燃えあがりました。早速、馬の死体の周りにワナを仕掛け、町のハンターから借りてきた銃を持って、木に登って熊が出てくるのを待ち構えていたのです。


幸か不幸か、大グマは闇に紛れて忍び寄ってきました。甚平さんが樹上で夢中でぶっ放した一発は、見事に熊の心臓に命中しました。甚平さんは嬉しさのあまり、宙を飛んで森を駆け抜け、部落に着くと「クマをやっつけたぞーっ!」と大声をあげたものだから、夜中だというのに人々は大騒ぎして大グマ見物に出かけました・・・


次の年の雪解けの頃、近くの森をクマが歩いているとの知らせがあり、甚平さんを隊長に五人がクマ狩りに向かいました・・・ナラの大木の側を通りかかったその時です、ギャーッ!という絶叫が起こりました。後から歩いてきた四人の若者が見たものは、木陰から立ち現れ、すっくと後足で立ちはだかった巨大なクマが、甚平さんを殴り倒し、自分たちに向かって行くぞ!とばかりに構えた姿でした。


二番目に歩いていた若者が無我夢中で向けた鉄砲は、熊の力強い一撃によって、あっけなく飛ばされ、次の瞬間には気を失って倒れてしまいました。残る三人は辛うじてクマの攻撃から逃れることができたものの、今やクマに立ち向かう気力は全く消え失せていました。


一人が部落に急を知らせに走り、二人は百メートルも離れた木の上にのぼって、どうなることかとハラハラしながら様子を見守っていました。


クマは倒れている甚平さんに近寄って、じいっと上から見下ろします。甚平さんは死んだふりをしていましたが、そおっと眼を細く開いてみたそうです。ところがクマの大きな顔がのしかかるようにのぞき込んでいるのを見て、ギョッとしたとたん、クマの手で思い切りどやしつけられました。甚平さんが呼吸を吹き返すたびに顔や胸を殴りつけ、かきむしるのでした。こんな状態がもう少し続いていたら、いかに気丈夫な甚平さんとはいえ、ついにはお陀仏してしまったにちがいありません。


ところが幸運にも、少し離れて伸びていた若者が、やっと我に返ったのです。あたりを見回した途端、甚平さんを見下ろしているクマのどえらく大きな背中を間近に見て、声にもならぬような妙チキリンの唸り声をあげたのです。


若者の驚きもさることながら、さらに驚いたのはクマの方でした。背後に時ならぬ唸り声を聞くや、脱兎のごとくクマザサをかき分けて森の奥に逃げ去ったのです。


木の上の二人が駆け寄り、血だらけの甚平さんを助け起こし、森を出かかった時、部落の人々が駆けつけてくるのに出会いました。


甚平さんは四里離れた町の病院にかつぎこまれ、1か月後に森の丸太小屋に帰って来た時には、もはや昔日の面影はどこにも残っていませんでした。「これからのクマ狩りには鉄砲も槍もいらん。この俺の顔を見たらクマの方でお辞儀する」と、しごくほがらかだったそうです>


すごい話だ。地球という限られた地は、熊や狼、徒党を組んだ野犬など先住動物と、やたらと木を倒し縄張りを広げる開拓民=人間との激烈な生存競争の場だ。人間だけがこの60年で75億に大増殖、倍増し、他の動物は概ね駆逐され続けている。熊に駆除された人間は少なく、人間に駆除された熊は圧倒的に多いだろう。シドニー水族館などによると、サメに殺される人間は年間10~20人、人間に殺されるサメは年間数千万匹(80万トン)とか。蒲鉾、はんぺん、ふかひれスープ、小生が毎日摂取するコンドロイチンもサメ・・・さめざめ、絶滅危惧種になっている種も増えているようだ。


人間は人間同士でも激しく縄張り争いをする。人口増→ 食糧不足→ 開墾・乱獲して増産→ 人口増を繰り返し、さらには戦争で他民族の命と土地を奪う・・・人類史はこの繰り返し。人間の繁殖は地球を破壊しかねないのではないか。開墾して砂漠化してしまう。繁殖力もすさまじい。60年前の30億人台の頃、「人口が少な過ぎる」なんぞ誰も言わなかったのに、あれよあれよの間に倍増してしまった。貧困をなくそうという美名のもとに生活支援を行い、結局、生態系を乱したのだ。


限られた広さのところに密集すると動物はタフな個体だけが生き残るようだ。前述した道産子はもともと本土から北海道に渡り、厳しい環境の中でタフな個体が生き残り、パワフルになっていったという。


いろいろな面で激烈な環境を乗り越えて来た北方のロシア人、東北の支那人は、比較的温暖な地の北米人や欧州人、水田耕作のアジア人などと比べると、肉体的、精神的にタフな印象がある。気候風土のみならず為政者による統治の厳しさが、強い者には従うという事大主義や、仲間、一族で固まる相互扶助的なコネ体制を育んできたようである。有史以来現在まで、ロシアと支那という大国は一度たりとも自由民主人権法治を体験してこなかった。ロシア・支那は「力治国家」だ。「法や道義よりも力を優先させる国」(櫻井よしこ氏)である。


ソルジェニーツィンの作品は随分読んだが、5回ほど愛読した「イワン・デニーソヴィチの一日」に一貫している思想は「諦観」だと思う。厳冬の中で「いつか春になるだろう」と耐え抜くのだが、春を自分で引き寄せるという「能動的意識」がまったくないのは不思議だった。ロシア人も中国人も皇帝か共産主義の専制独裁政治しか知らず、自分たちで自由民主人権法治の国を創ろうという発想さえないのだ。


米国に亡命していたソルジェニーツィン曰く「民主主義は高潔な美徳でなく、圧政を避けるためのもの。一人の暴君が、多数の暴君になることがある。選挙では内容なき量が、内容ある質に勝利する時があり、多数が間違うことがあり、道徳的なものは敗北し易い。政党間の争いは理念なき権力の獲得となり、国民の利害は、政党の影に隠れてしまう」と、西側の自由主義体制にも批判的であり、ロシア正教を基盤としたロシア独自の社会の構築が彼の願い、希望だったという(久恒啓一・多摩大学特任教授)。自由民主人権法治の「ろくでもない面」ばかりでなく「いい面」も学べば良かったのに。


ロシア正教を含めてロシアの主要宗教の坊主たちは己の存続のためにレーニンに屈服し、レーニンは独裁統治のために主要宗教を利用した。宗教と独裁のWinWin コラボ、ソルジェニーツィン、ロシア人の限界だ。自由民主の経験がないのだから仕方がないのだろうが、実に残念、気の毒なことである。


プーチンは2008年のソルジェニーツィンの葬儀に際して、「氏の逝去は全ロシアにとって大きな損失だ。彼の著述と社会活動、長く困難だった人生の歩みは、人々と祖国、自由の理想、公正、人道主義に対する真の献身的行為の見本であり続けるだろう」と遺族への弔電で述べたという(久恒教授)。プーチンは「イワン・デニーソヴィチの一日」さえ読んでいないだろう。


共産主義者は平気で嘘をつく。露中の民は保身のために騙された振りをするが、残虐な国家体制を変えようという意識も知恵もない。良き人々は殺されるか収容所行きだから、露中を外野の我々が非難したところで効果はない。隔靴搔痒、イライラしてくる。


小生は去年の元旦にはこう書いていた。「米国依存ズブズブ日本の周りにブスブスと煙が立ち始め、やがて火の粉が上がり出すだろう。降りかかる火の粉は払わねばならぬ。2021年、激動の時代が始まった」。


悪い予感はよく当たる。小生は習近平・中共が冬季五輪後に火をつけると思っていたが、プーチンが戦端を開くとは予想外だった。プーさんではなく巨大な人食い熊、プーチンはすこぶる付きの戦争巧者である。策士策に溺れる可能性はないとは言えないが、難敵である。米欧は犠牲を恐れずにプーチンを潰せるか。


一方で習近平はこれをチャンスとして台湾侵攻を始めるかもしれない。欧米にとって対露戦争は己の縄張りに関わる重大事で、極東の台湾にまでは手が出ないから、習にとってはチャンスのはずである。台湾、日本、アジアを守るためには日豪印米加などが結束して戦わねばならない。第3次世界大戦が始まったようである。小生の妄想であればいいのだが・・・
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目安箱:ishiifam@minos.ocn.ne.jp
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