gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

日本と韓国 結束できるか(2)

2023-03-08 07:39:31 | 戦争
日本と韓国 結束できるか(2)
“シーチン”修一 2.0

【雀庵の「大戦序章」148/通算580 2023/3/8/水】多摩川土手の東京側を下ると河津桜が3本ほどあり今を盛りの満開だった。我が街の用水路や緑ヶ丘霊園でも染井吉野の寿命が尽きた後に河津桜を植えている。河津桜は開花期間が長く、手入れもしやすいようで、20年もすれば、桜と言えば河津桜となるのかもしれない。

勢い良く咲いて、勢い良く散る染井吉野。♪貴様と俺とは同期の桜 同じ兵学校の庭に咲く 咲いた花なら散るのは覚悟 みごと散りましょ 国のため・・・染井吉野の潔さ、日本男児はそうでありたいね、と小生は思うが、ロシアや中国、韓国などでは国に愛想を尽かして他国に移住する人が増えているらしい。亡国の兆しか? どうなるのだろう・・・日本は大丈夫なのか?

朴正熙も憂国の人だった。韓国人のダメさ加減を示し、随分辛口なことを言っているのは、再起を鼓舞するためだったろう。しかし1000年間の悪弊的、病理的な国民性を改めるのは容易ではない。悩ましいことだ。前回に続いて「朴正熙選集」から主旨の引用を続ける。(補足)は小生による。

<【事大主義=自主精神の欠如】李朝の悪遺産を論ずるには、韓半島という地政学的位置から(強国に仕える、従う、属国になる)「事大主義」的対外政策を取らざるを得なかった李太祖の建国理念と、当時の極東情勢から始めなければならない。

(補足:李太祖はベトナム人。1009年に李朝を開き、中央官庁に中国風の科挙制度を導入し、官僚制を整備。儒教・仏教・道教をともに保護した)

李太祖が政治的理由で導入した事大主義は、儒教の「慕華思想」を広め、社会制度、生活様式まで中国風を真似る「模倣文化」を推進した。

(補足:「慕華思想」は「小中華思想」「中国事大」とも。 世界の中心は中国であり、中国から離れれば離れるほど野蛮人という思想。 東北アジアでは「朝鮮 (韓国)は中国に近いので野蛮人ではないが、日本は中国から遠く離れているので野蛮人である」と見る。日本人は鎌倉時代中期に蒙古・朝鮮(高麗)連合軍の大艦隊の襲来(元寇、蒙古襲来とも)を受けて以降、報復として倭寇(褌姿で長ドスを振り回す海賊)が朝鮮半島やシナ沿岸を荒らしまくったから、そのトラウマから今なお「日本は恐ろしい蛮族」として記憶されているようだ)

したがって、価値判断の基準が、自己の判断力とか自民族の文化にあるのではなく、「中国ではどうしているか?」に照応して受動的に決定し、自民族の現実や伝統の中で自ら探求しようとしない「事大依存的習性」を創り上げたのである。

それ故に民族自立性、民族的主体性が形成されず、外来文化や思想の「既製服」のみを着ようとする傾向に流れ、これが(1947年の)独立後、「救援物資依存的民主主義」となったと言えよう。

結局、この事大主義意識は、1)地政学的に強大国との事大外交を不可避にし、2)歴代王朝に事大外交を止揚(良い方向へ転換)する実力、創意も身に付かず、3)高麗以後は先代の国学的史風と民族固有文化を抹殺し、儒教など外来文化輸入に傾倒し、4)新羅が統一のために唐の援兵を利用して以来、国内問題が解決困難の場合に外国の軍事力を招致する悪習が生まれた――などの弊害をもたらしたと言えるだろう。

【怠惰と不労所得観念】李朝の社会構造は、農業のような生産活動や勤労精神が委縮するように作られていた。怠惰は後進国の一般的な特徴ではあるが、韓国的怠惰は「両班(≒特権貴族)観念」など、韓国史に根深い特権意識、不労所得観念とも緊密な関係がある。

李朝の土地制度は両班を特権地主に仕立て、両班は収租権に関心があっても農業経営には無関心であった。やがて両班は「閑良(ハンリヤン)」「フアルヤンイ」(≒無為徒食の特権階級)と呼ばれるようになった。その意味は「カネを湯水のように使い、色事に浮き身をやつす遊び人」である。

両班は実質的には金欠で、虚勢を張るものの、やがて家や身を亡ぼすのだが、虚礼を事とし上部(うわべ)ばかりを飾ろうとする形式主義そのものだ。こうした社会の雰囲気の中では貯蓄観念が生まれず、「その日暮らしができれば結構」という刹那主義が潜んでいる。

官僚的専制が土地制度上に強く働いて、農民の財産や土地は常に官憲の影響を受けるようになり、土地国有制と農業近代化を掲げて「土地利田化」(田畑の開墾整備などによる農業振興、農民の生活改善)を目指したものの両班の抵抗で促進できなかった。(手入れしなければ劣化する)「弱き財産」である農地に対する愛惜も少なかったのだろう。

このような(農地を大切にして生産性を高めても収奪されるだけだからやる気なしといった)農民の思いは「勧酒歌」「愁心歌」などの民謡にもうかがわれ、「今を思いきり楽しもう」という快楽主義が広まった。

しかし基本的に問題なのは、怠惰で無為徒食の両班など上層階級、不労所得階層だった。田舎両班の客間での空論がその標本で、火鉢で暖を取りながら虚勢を張り、家門の自慢話で終日を送り、髯ばかりをしごく懶惰な両班生活・・・これでは健全な職業観念が発達しようもなかったのである。

ドイツもそうだが、日本人の姓の中には“先祖の職業”を表すものが多い(機織り→服部、金打ち→鍛冶など)。ところが我が国の姓名は金、李、朴などで“先祖の職業”を表していない。何故か。

李朝以来、職業観念が薄弱で、誰もが官僚になることのみを心掛ける「官尊観念」が非常に強いからである。その弊害は実に大きく、農家であっても自分の子は楽に飯を食える官途への勉強(法科、政治科など)をさせたがるのだ。(引用終わり)
・・・・・・・・・
【小生の見解】当時の模様を伝えるのがイザベラ・バード著「朝鮮紀行 英国婦人の見た李朝末期 」だ。アマゾンの解説から引用すると――
<本書は、著者が1894~1897年にかけて、4度にわたり朝鮮を旅したときの紀行である。当時の東アジアは日清戦争前後の激動の時代で、朝鮮半島においても各国の思惑が入り乱れ、著者自身幾度か謁見したことのある閔妃が殺害される事件も起きている。

当時の朝鮮はまた、開国間もない時期であり、外国人に対する偏見も根強く残っていた。ただ、それだけに伝統的風土・民俗・文化等が色濃く残り、特にシャーマニズムについては著者自身も大きな関心を抱いたようで、悪霊払いのプロセスを延々と紹介している部分もある。これらの伝承は記録としては残りにくいものであるから、貴重である。

時代が時代であるだけに、日本人についての記述も少なくない。著者自身は日本を先進国入りしつつある国、と認識している様子で、朝鮮に対する影響力を徐々に強めていることに関しても、帝国主義が当然の時代とはいえ、淡々と描写している。ただし、秀吉による侵略以来の「恨み」については何度も語っているので、朝鮮人の反日感情は、著者の目にもあからさまのものだったのだろう。

この時期の朝鮮について、政治的な思惑なしに、これだけ広範囲のことを記述したものはほかにない。それだけに、資料としての価値の高さがあるとともに、素顔の朝鮮があざやかに見て取れる名紀行でもある>

同書を久し振りに読み返しているが、朝鮮の歴史は苛烈すぎてため息が出るほどだ。巨大な中国とロシアに頭を抑えられ続け、大戦後に日本統治が消えると今度は朝鮮戦争で南北に分断された。イザベラ・バードが観察した120年前でも気の毒だったが、今もなお休戦状態という冷戦が続き、左右対立で政治は安定せず、先が読みにくい国であり続けている。120年前!にバードはこう嘆いている。

<気候は素晴らしく、雨量は適度に多く、土壌は肥え、内乱と盗賊団は少ないと来れば、朝鮮人はかなり裕福で幸せな国民であっておかしくない。

もしも「搾取」が役所の雑卒による強制取り立てと官僚の悪弊が強力な手で阻止されたなら・・・もしも地租が公正に課されて徴収されされたなら・・・もしも法が不正の道具ではなく民衆を保護するものとなったなら・・・朝鮮の農民は間違いなく日本の農民に負けず劣らず勤勉で幸せになれるはずなのである。しかしこの「もしも」は余りにも大きい!

どんな産業分野にせよ、勤勉に働けば利益の得られることが保証されれば、無気力無関心な人々も変身するはずである。そのための改革は日本によって行われてきたが、日本も自由裁量権が与えられているわけではなく、また改革に着手した(と私は心から信じる)ものの、役割を果たし、調和のとれた改革案を立てるには未経験過ぎた。

改革案が成立したにせよ、それを実行すべき官僚たちがほとんど例外なく因習と慣例の両方から堕落してしまっている。改革は断続的断片的で、日本は枝葉末節にこだわって人々を苛立たせ、自国流の干渉をほのめかしたので、「朝鮮を日本の属国にするのが目的だ」という印象を、私の見る限り朝鮮全土に与えてしまった。

旅行者は朝鮮人が怠惰であるのに驚くが、私はロシア領満州にいる朝鮮人のエネルギーと勤勉さ、堅実さ、そして快適な家具や設備を揃えた彼らの住まいを見て以来、朝鮮人の怠け癖を気質と見なすのは大いに疑問だと考えている。朝鮮中の誰もが、貧しさは自分の最良の防衛手段であり、自分とその家族の衣食を賄う以上のものを持てば、貪欲で腐敗した官僚に奪われてしまうことを知っているのである・・・>

結局、1910年8月「日韓併合ニ関スル条約」により韓国/朝鮮は日本の領土になり、日本敗戦まで朝鮮総督府の支配を受けた。韓国人、特に特権階級の両班にとっては利権を奪われて無念だろうが、圧倒的多数の農民など被抑圧階級にとっては「解放」ではなかったか? 次号で考えてみたい。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
目安箱:ishiifam@minos.ocn.ne.jp

https://blog.goo.ne.jp/annegoftotopapa4646

https://note.com/gifted_hawk281/n/n9b3c7f4231f9

https://www.facebook.com/shuichi.ishii.14


日本と韓国 結束できるか

2023-03-06 14:24:51 | 戦争
日本と韓国 結束できるか
“シーチン”修一 2.0

【雀庵の「大戦序章」147/通算579 2023/3/6/月】今朝は小雨だったが、直ぐに止んだ。寒くないから春雨だ。チャリで東京側の多摩川土手を行くと河津桜が満開だった。春はいいものだ。日韓に春は来るか?

3/3に図書館で「朴正熙選集」3巻を借りてきた。朴正熙(ぼくせいき、パクチョンヒ、日本名は高木正雄)は、1965年頃に中学生以上だった小生の世代では知られているが、それ以降の人にはピンとこないだろう。そもそも高校でも現代史を教えていないから、小生の愚息なんぞ大学へ入って「親父、日本はアメリカと戦争していたんだって?!」とビックリしていた。体育会系で小さい頃から剣道とマンガで育ったから朴正熙を知るわけはない。

「朴槿恵の親父」と言えば「ふーん」となるかも知れないが・・・まあ、そんなもので、夏彦翁曰く「健康とは嫌なものである」。戦後、最貧国の韓国をそれなりの立派な中進国にしたのが朴正熙大統領だ、くらいのことは知っておいた方がいいと思うけれど。

先日、小生の誕生日に来た愚息曰く、「親父、映画のスラムダンク見た? 俺、2回も見たよ! 2回目は子供2人を連れて行った!」。大卒、39歳、子供2人になってもこの有様だ。この快晴のような幸せがいつまでも続けばいいが・・・「オヤジと言うな、安西先生と言え、人生は『投げたらそこで終わりだ』!」と言ったら、小生の次女曰く「『あきらめたらそこで試合終了』だよ」だと。小賢しい、ウッタク、可愛くない奴だ。

映画は感性を、読書は知性を刺激する。小生は「知の巨人」を目指すのだ、「痴の虚人」で終わりそうだが・・・旺文社世界史事典やWIKI の「朴正熙」の解説から引用する。

<1917年生〜1979年没。大韓民国の軍人・大統領(在任1963〜1979)。日韓併合(1910)後の朝鮮半島に生まれる。大邱師範学校経て教師を務めていたが、やがて軍人を志して同じく日本の影響下にあった満洲国陸軍軍官学校(士官学校)に志願入隊する。

卒業後は成績優秀者が選抜される日本の陸軍士官学校へ留学、第57期生として日本式の士官教育を受ける。帰国後は満洲軍第8団(連隊)副官として八路軍や対日参戦したソ連軍との戦闘に加わり、内モンゴル自治区で終戦を迎えた。

第2次世界大戦後、韓国軍に勤務。李承晩引退後の政情不安に際して1961年、クーデタにより軍部独裁政権を樹立し、62年大統領代行、63年大統領となる。

1965年「日韓基本条約」を締結し、日米の援助をもとに“漢江の奇跡”と呼ばれる高度経済成長を実現した。72年末、維新憲法下の大統領に選出され、大統領緊急措置で国内の自由化運動を抑えた。

一方で、日本との友好姿勢も国内の民族主義(左派ナショナリズム)から敵視される背景となった。政権後半には単独での核武装などの自主国防路線や、日本に滞在していた政敵の金大中を諜報機関(KCIA)により拉致する(金大中拉致事件)など強硬な政策を進めた。

しかし国内での反発も根強く、1974年には夫人を暗殺され、1979年10月26日、大規模な民主化デモの鎮圧を命じた直後、側近である金載圭情報長官により射殺された。享年61>

朴正熙が強引ながらも経済発展の土台を作ったから今の豊かな韓国がある、と言える。そういう評価をする韓国人は80年代は圧倒的多数だったが、北朝鮮やアカの影響を受けたのだろう、年々少数派になっている。

<2017年5月20~22日に世論調査専門機関リサーチビューが行った歴代大統領の好感度調査で朴正煕は25.2%を記録し2位であった(1位は54.2%を記録した盧武鉉)。

世代別では60代と70代以上で1位。60代は42.5%、70代以上は55.0%が朴正煕を選んだ。しかし、20代で朴正煕を選んだのはわずか2.7%、30代は4.1%、40代は11.4%、50代は26.5%で、1位の盧武鉉に圧倒的な差をつけられた>(WIKI)

歴史、史実を冷静に見るのではなく、今では自分の好みで都合よく書き換えるのが韓国人の常套手段になってしまったようだ。赤色TVや北の影響だろう、意に沿わない論稿、歴史観、批評は寄ってたかって叩き潰すのが韓流・・・これでは国際社会から敬意は表されない。軽佻浮薄そのもので、その自覚もないから、やがては亡国の危機を迎えるようなことになるかも知れない。そうなっても「日本のせいだ!」と言うのだろう、まったくつける薬なし。

一般的に「独裁政治は悪い」と言われるが、薬と一緒で使い方次第では良い面もある。民主主義は政策を実現する際に議会=立法府で野党と侃々諤々の議論を交わし、野党のメンツもつぶさない必要があるから調整するのに時間もかかり、さらに司法府、行政府との擦り合わせも必要で、発案から実行までに1~10年ほどかかったりすることが珍しくない。

独裁政治は武力を背景に緊急避難的に政策立案から公布、実施まで強引に進めることができるからとても効率は良い。独裁国の中共では通常、立案し、特定市等でお試し実験し、修正などをし、実施するのだが、民意の了解を必要としないからスピード感があり非常に効率的だ。発案から施行までたった1年ほどのよう。

それは独裁政治の強みだが、どうも長続きしないようだ。ナチス・ドイツは1933~1945年の12年、強大なソ連でも1920~1990年あたりまでの70年で消滅した。スターリンが1953年に往生したあとのソ連は下り坂が始まりガタついてきたから、独裁政治の賞味期限は40年間あたりだったろう。朴正熙の開発独裁も1961年~1979年の18年間で終わり、それ以降は主に北朝鮮に対する容共左派と親米民主派の左右対立で政治は随分不安定のようだ。それでも「反日」だけは一緒というのが凄い。

「朴正熙選集」の興味深い個所を要領よく短くまとめた。まずは第1巻「韓民族のすすむべき道」から紹介する。

<国際経済学者によると、後進国が貧しい原因は、1)できるだけ少なく働こうとする国民の考え方、2)企業家の低い平均才能、3)行政の低調である。貧困は国民の悪習や反民主的政治によると仮定すれば、「後進民族は怠惰である」というのが一般的な見解だ。

貧困国の特徴は、1)原始的生産、2)人口の圧迫、3)自然資源の未開拓、4)資本の不足などである。結局、近代化の過程で資本投資もできず、実所得も低く、経済活動に対する意欲が挫けてしまう。

李朝末期に外国列強が入って、資本主義発達の契機があった時にも、我が国では何よりも企業心を発揮すべき経済的余裕も国家的補助もなかった。

他方、各国の近代化の原動力は、民族主義という宗教的情熱が国民を奮い立たせ、急激な経済開発と海外市場拡大を強行したところにあるが、我が国では近代化の土台も出来上がらぬうちに極東諸国の「餌」となり、民族資本が形成される余裕などなかったのである>(引用終わり)

【小生の見解】極東諸国の「餌」(えさ、餌食)になった・・・これは「日本に侵された、食われた」という意味だ。弱肉強食の帝国主義時代、戦争という縄張り争いが日常的な時代であり、韓国(大韓帝国)は強国に成りそびれたために、朝鮮と南満州(中国東北)の支配をめぐる日露戦争(1904/明治37年~1905年9月)の餌食になったということだ。

「日露戦争開始とともに韓国保護国化の方針を決定した日本は、1904年2月の日韓議定書、および以後3次にわたる日韓協約で実質的に韓国主権を手に収めた。抵抗運動に遭ったが、安重根による伊藤博文暗殺事件を機にその実行を急いだ。1910年8月「日韓併合ニ関スル条約」に署名し、併合は完了。以後韓国は「朝鮮」となり、1945年8月の日本敗戦まで朝鮮総督府の支配を受けた」(コトバンクなど)

気の毒とは言え、韓国の為政者はボロボロの国の立て直しのために日本のパワーが必要だと判断、涙ながらに「屈辱的な苦渋の決断」をしたのだと小生は思っている。大東亜戦争で負けた日本も米国GHQにグチャグチャにされ憲法まで押しつけられるという「屈辱的な苦渋の決断」を強いられ、未だに米国に安全保障を依存しているから偉そうなことは言えないが、米国依存は韓国も同様だ。

現在の日韓米の共通の敵は「中露北」である。日韓が角を突き合わせていればモンゴル・高麗などの連合軍が日本を襲った蒙古襲来も喧嘩のタネになってしまう。まったくの不毛、中露北が喜ぶだけだ。日韓が今求められているのは「小異を捨て大道に就く」ことではないか。長くなったので以下次号。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
目安箱:ishiifam@minos.ocn.ne.jp

https://blog.goo.ne.jp/annegoftotopapa4646

https://note.com/gifted_hawk281/n/n9b3c7f4231f9

https://www.facebook.com/shuichi.ishii.14

まぐまぐID 0001690154「必殺クロスカウンター」


続)インドの“バランス外交”

2023-03-05 07:56:03 | 戦争
続)インドの“バランス外交”
“シーチン”修一 2.0

【雀庵の「大戦序章」146/通算578 2023/3/5/日】「インド人」と言うと小生の世代(70代以上)はお釈迦様(ゴータマ・シッダッタ)、ガンジー、チャンドラ・ボース、パール判事、ネール首相を思い出す。それとインド象も。

<昭和24(1949)年9月、まだ空襲の焼け跡が残る東京にインドから1頭の象がやって来た。戦争中、象をはじめ上野動物園の動物たちは、脱走すると危険として処分された。「象が見たい」という子供たちの願いに応えて、当時のネール首相がプレゼントしてくれた。象の名前は「インディラ」。

ネール首相の娘で、後に首相になったインディラ・ガンジーさんの名を付けた。象のインディラは「インドの子供たちからの愛情と好意の使者です」というネール首相のメッセージを携えていた。そして昭和58(1983)年に49歳で死ぬまで日印友好のシンボルとして愛された>(「象のインディラは友好の使者」産経2015/5/8)

人物では“戦老”の小生は勇武のチャンドラ・ボースが好きだ。波乱万丈、実にドラマチックな人生だった。月刊誌『歴史人』2023/2/28「インド独立運動家チャンドラ・ボースを無事に運んだ日本海軍の名物潜水艦・伊29」から。

<「今や日本は、私の戦う場所をアジアに開いてくれた。この千載一遇の時期に、ヨーロッパの地に留まっていることは、まったく不本意の至りである」

これは英米に宣戦布告し、瞬く間にイギリス領香港やマラヤ(18世紀から20世紀にかけてマレー半島からシンガポール島にかけて存在した英国の海峡植民地)を攻略した日本軍の、驚くべき快進撃を耳にしたインド独立運動家スバス・チャンドラ・ボースの言葉である。

過激な独立運動家であったチャンドラ・ボースは、インドの宗主国であったイギリスから危険視されていて、第2次世界大戦が勃発するとカルカッタの自宅に軟禁された。だが1941年4月2日、協力者によりイギリスの敵国であるドイツのベルリンに潜伏することに成功していたのだ。

“敵の敵は味方”という考えのもと、ボースはインドへの攻撃を含む、インド独立のための覚書をドイツ外務省に提出。だがドイツ側の回答は「インド攻撃には2年間は待ってもらわなければならない」という、ひどく期待外れのものであった。ヒトラーはこの時、イギリスとの早期和平を望んでいたのである。

ボースは(イタリアの)ムッソリーニにも協力を求めるため、ローマにも赴いたが、わずかにチャーノ外相と面会できたにすぎなかった。こうしてヨーロッパで悶々とした日々を過ごしていた1941年12月(真珠湾攻撃と同時に始まった)日本軍によるイギリス領香港やマラヤへの攻撃を知ったのであった。ボースはすぐさまドイツの日本大使館に接触し、日本に行くことを熱望したのである。

日本大使館も当初は「考慮中」という冷淡な回答しか出さなかった。当時の日本は外務省、陸軍参謀本部ともにインド情勢に関しての分析が進んでいなかった。だがマレー作戦が順調に進み、海軍は昭和17年(1942)4月、セイロン沖海戦で連合国海軍を撃破。インド洋のイギリス海軍の勢力を大きく後退させることに成功している。

こうして日本軍は本格的にインド方面への侵攻を視野に入れるようになり、1942年6月15日にシンガポールを拠点として「インド独立連盟」が設立された。指導者には1915年から日本に逃れていた、インド独立運動家のラース・ビハーリー・ボースが就いている(チャンドラ・ボースと血縁関係ではない)。

ビハーリー・ボースが体調を崩したため、その後継者として注目されたのがチャンドラ・ボースである。だが欧州からアジアに至るまで戦争状態のため、イギリスの植民地であったインド人がドイツから日本まで移動するのは、陸路はもちろん海路や空路のいずれも困難であった。日独両政府が協議した結果「潜水艦による移動がもっとも安全」ということになったのである。

ドイツのUボートにボースを乗せフランスのブレストを出港し、マダガスカル島の東南沖で日本の潜水艦と会合。そこでボースは日本の潜水艦に乗り換え、日本占領下のインドネシアへと向かい、航空機に乗り換えて日本へ向かう、という作戦であった。この作戦に選ばれたのは、伊号第29潜水艦(伊29)であった・・・>

凄い人生だが、チベット出身で日本に帰化した政治学者・ペマ・ギャルポ氏の人生も凄い。

<PEMA Gyalpo 政治学者、桐蔭横浜大学教授。1953年チベット・カム地方ニヤロン(現・中華人民共和国四川省)生まれ、59年にダライ・ラマ14世に従いインドに亡命、65年訪日。亜細亜大学法学部卒業、上智大学大学院中退、東京外国語大学アジア・アフリカ研究所修了。ダライ・ラマ法王アジア・太平洋地区担当初代代表、チベット文化研究所所長、拓殖大学海外事情研究所客員教授、ブータン王国首相顧問など歴任>

チベット系日本人のペマ・ギャルポ氏によると、小生がチャンドラ・ボースを知るきっかけになったのはインドのモディ首相による啓発だったかも知れない。ペマ・ギャルポ 氏の「チャンドラ・ボース復権に込めたインド・モディ新政権のサイン」nippon.com 2014/7/10から。

<【チャンドラ・ボース復権が意味するもの】モディ氏はいろいろな場面で日本と安倍政権に好意的な発言を繰り返し、称賛、敬服している。モディ氏は選挙中、インド独立のリーダー、チャンドラ・ボースに国として文民の最高の勲章を贈ると言明した。

ネルー以来インドの歴代首相は日本と友好関係を保ってきた。特に戦後日本の主権回復と国際社会への復帰にとても前向に協力してきた。アメリカを初め多くの国々から招待受けた中で日本を優先的に訪問先にする姿勢を示したのも、単に経済的な理由ではなく、地政学的、精神的にも、日本との関係者を優先している証である。

モディ首相は自分のリーダーとしての立場を明確にし、国会議員の自覚を求め、気運と緊張を煽っている。日本でも安倍政権誕生で国民の気運が前向きになったように、モディムードがインド国民に自信と期待感をもたらしている。その原動力は、リーダーの前向きな言動にあると思う>

直近のFNNプライムオンライン2023/3/4が「岸田首相が、3月中旬にインドを訪問し、モディ首相と首脳会談を行う方向で調整していることがわかった」とこう報じている。
<2023年5月に広島で行われるG7サミット(主要7カ国)首脳会議で議長を務める岸田首相は、2023年に入り、メンバー国5カ国を訪れ、各国首脳と会談を行っている。

政府関係者によると、岸田首相は3月19日から21日までの日程を軸にインドを訪問し、モディ首相と会談する方向で調整していて、2023年のG20(先進20カ国・地域)の議長国であるインドに対し、サミットへの協力を求めるほか、ウクライナへの侵攻を続けるロシアへの対応などについても協議するものとみられる>
・・・・・・・・・・・
以下、WIKIから引用する(出典は森瀬晃吉「第二次世界大戦とスバス・チャンドラ・ボース」らしい)。

<スバス・チャンドラ・ボース(1897年1月23日 - 1945年8月18日)は、インドの独立運動家、インド国民会議派議長(1938 - 1939年)、自由インド仮政府国家主席兼インド国民軍最高司令官。民族的出自はベンガル人。ネータージー(指導者)の敬称で呼ばれる。

1897年にインド(当時はイギリス領インド帝国)のベンガル州カタックに生まれた。父親は弁護士で、イギリス人により過酷な扱いを受けていたインド人の人権を擁護することもしばしばであった。ボースはこの父親から大きな影響を受けたと語っている。

カルカッタ大学ではイギリス人教師の人種差別的な態度がインド人学生の反感を買い、学生ストライキが勃発した。ボースは首謀者と見られ、停学処分を受けた。同大で学士号を取得し、1919年にイギリスのケンブリッジ大学に大学院留学した。大学院では近代ヨーロッパの国際関係における軍事力の役割について研究し、クレメンス・フォン・メッテルニヒの妥協無き理想主義に感銘を受けたと回想している。

1920年頃からボースはインド独立運動に参加するようになり、1921年にマハトマ・ガンディー指導の反英非協力運動に身を投じた。ボース自身は「ガンディーの武力によらぬ反英不服従運動は、世界各国が非武装の政策を心底から受け入れない限り、高遠な哲学ではあるが現実の国際政治の舞台では通用しない。イギリスが武力で支配している以上、インド独立は武力によってのみ達成される」という信念を抱いており、ガンディーの非暴力主義には強く反対していた。

歴史を通じて、日印関係は常に強かった。第二次世界大戦中、大日本帝国陸軍はイギリス軍との戦いで、チャンドラ・ボース率いるインド国民軍とともに戦った。インドと日本は双方の歴史における困難な時期において、お互いを支えあってきた。

両国はインドの独立後も良好な関係を保っている。2006年12月、マンモハン・シン首相は日本を訪問し、「日印戦略的グローバルパートナーシップに向けた共同声明」に調印した。2007年には海上自衛隊がインド海軍やオーストラリア、シンガポール、アメリカ合衆国とともに行ったインド洋での合同軍事演習に参加した>(WIKI引用終わり)

2022年10月の森口隼氏/三井物産戦略研究所国際情報部アジア・中国・大洋州室「地政学から見たインドの外交姿勢 多極化時代に対応する「等距離外交」戦略」のサマリーは直近の現状を要領よくまとめているので以下転載する。

◆インドは、ロシアとは「特別で特権的」な関係を維持している。ウクライナ侵攻をめぐり、西側諸国を中心としたロシアへ経済制裁を課す動きから距離を取り、対話と外交努力が紛争解決の唯一の道と主張する。

◆ 一方、周辺国に目を向けると、対中関係の悪化、アフガニスタン政変など、地政学リスクが高まる状況にある。中国を牽制するために日米豪印クワッドへ傾斜するものの、アフガニスタンからの米駐留部隊撤退により、敵対するパキスタンの影響力が域内で増大するという、インドにとって避けたかったシナリオに直面した。このため米国に対する不信感も抱く。

◆ 現代の多極化する国際政治構造において、インドはいずれのブロックにもくみすることのない「等距離外交」を貫くことで、自国の存在感を強めようとしている。(以上)

「等距離外交」・・・どっちつかず、曖昧戦略、中立維持。マキャベリは「これは戦争に巻き込まれたくない、交戦国のどちらとも距離を保つ、という一見良さそうな姿勢だが、戦後には戦勝国からも敗戦国からも嫌われるからよろしくない。どちらかについた方がいい、たとえ負けても戦勝国からも敗戦国からも敬意は表される。保身のために逃げた奴と軽蔑されるよりは遥かに良い」。

それはインドも承知していることだろうが、中共による侵略を阻止するためにプーチン・ロシアと手を握っているのに、そのプーチンが暴走して国際秩序を破壊し、国際社会から大顰蹙を買ってしまったのは想定外だったろう。当然、対中安全保障は低下するし、「インドはプーチン寄り」と国際社会で信用を落としかねない。

モディ首相は2022年9月、プーチンに「今は戦争の時でない」と苦言を呈したが、11月末に掲載された英紙テレグラフへの寄稿でも「今日、われわれに生存のための戦いは必要ない。われわれの時代は戦争の時代ではない。実際、絶対にそうであってはならない」と訴えたという。

「インドは米国との安全保障関係の強化を図る一方、ロシアを非難するよう求める米国の呼び掛けには応じていない。ウクライナ侵攻を受け、西側とロシアの双方との関係維持に腐心するインドのバランス外交の難しさが浮き彫りになっている」(AFP)。

プーチンに理性が残っているのなら、モディ首相はプーチンに「まずは侵攻を停止し、調停は私に任せろ」と呼びかけて欲しいものだ。それができるのはチャンドラ・ボースの勇気を讃える“中立大国”インドのモディ首相しかないと小生は思うのだが・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
目安箱:ishiifam@minos.ocn.ne.jp

https://blog.goo.ne.jp/annegoftotopapa4646

https://note.com/gifted_hawk281/n/n9b3c7f4231f9

https://www.facebook.com/shuichi.ishii.14

まぐまぐID 0001690154「必殺クロスカウンター」




インドの“バランス外交”

2023-03-03 08:09:41 | 戦争
インドの“バランス外交”
“シーチン”修一 2.0

【雀庵の「大戦序章」145/通算577 2023/3/3/金】夕べの強風は凄まじかった、まるで嵐。屋上庭園が吹き飛ばされそうで、世界の今と明日を暗示しているよう。古人曰く「悪い予感はよく当たる」。

「インドのロシア離れ 可か不可か」というテーマで書きたいと思い、手始めにガンジー(ガーンディー)の代表的著作「真の独立への道――ヒンド・スワラージ」(日本では2001/9/14刊)を読んでいる。しかし「人間、国家はどうあるべきか」という哲学でとても難しく、3ページほど読むとグッタリする。アマゾンから引用すると、

<非暴力・不服従主義による民族運動で知られる「インド独立の父」ガーンディー(1869-1948)が、自らの思想と運動の基本理念について述べた主著。編集者(ガーンディー)と読者(急進的な若者)との対話形式で書かれ、イギリス支配のもとでの近代文明を批判、真の文明とは何か、インドの真の独立のあるべき道について論ずる>

版元は岩波、訳は田中敏雄氏。HMV&BOOKS onlineによると田中氏は、

<1937年東京生れ。東京外国語大学卒業(ヒンディー語専攻)。デリー大学留学などを経て、2000年3月まで東京外国語大学教授。麗沢大学・恵泉女学園大学非常勤講師。東京外国語大学名誉教授。専攻は現代ヒンディー文学。著書は『南アフリカでのサッティヤーグラハの歴史 非暴力不服従運動の誕生』など>

原文に忠実な翻訳なのだろうが、何を言いたいのか良く分からない。カスタマーレビューを見ると「田中冬一郎/スナ」氏の「世界の眺め方を考える一冊」(2022/3/31)が分かりやすかった。この方のブログには「フリペーパー専門店の代表としてフリペの無料配布、古書販売、選書、読書会をしている」とあるから「読書のプロ」のようだ。氏はこう書いている。

<(ガーンディー曰く)「世界にまだこれほど多くの人間がいることは、世界の基礎は武器でなく、真理、慈悲、つまり魂の力であることを伝えています。戦争の力よりもほかの力が世界の基礎なのです」

1909年発刊の本書は船上で書かれたガーンディーの主著。対話形式による著者自らの『思想と運動』の基本理念。戦争話が日常となってしまった2022年現在、著者の事を思い出して手にとりました。

ガーンディーは家族の期待を受けて弁護士となるも、訴訟事件を引き受けて滞在中だった南アフリカで人種差別を受けたことがきっかけで公民権運動に関わり、帰国後は『非暴力・不服従』を提唱。イギリスからのインド独立運動を指揮したことで知られる著者が40歳の時に書いたものです。

『インド独立の父』として名前はもちろん、ライフ誌に掲載された『糸車を廻す』老年期イメージはすぐ浮かぶものの、著者自身の言葉に触れたことがなかったので、翻訳を経ているとはいえ【本書自体が新鮮】です。かつ、内容に関してもSDGsなどでエコロジー指向が共通認識になっている現在を先取りしたかのような【徹底した近代(西洋)文明批判】に驚かされました。(=明治以降の日本は『西洋の爪に捕らえられてしまった』と残念扱い・・・)

そしてインドの独立に関しては、イギリスやイギリス人といった『国家』や『人』が敵なのではなく近代(西洋)文明こそが敵であるとし、そこからの脱却と真の文明として【インド人魂の自覚による自治】を再三促しています。明治維新を美化し、すっかり西洋"常識"に適応し染まってしまった島国の1人としては、どうしても『もし、そうなっていなかったら』を考えてしまいます。

マーティン・ルーサー・キング・ジュニアやダライ・ラマ14世といった指導者にも影響を与えた『非暴力、不服従』思想理解の一冊として、また『世界の眺め方』を考える一冊としてもオススメです>

小生も踏ん張って読了しなければ、と思うが、半分ほど読んだところでは、ガンジー思想のキモは小生の座右の銘「欲少なく足るを知る、足るを知りて分に安んずる」(知足安分)、物欲に惑わされないという一種の清貧思想のようだ。やせ我慢かも知れないが、そういうマインドは武士道や日本精神にもある。ガンジー思想と重なる部分は多いのではないか。

いずれにせよ同書を読破し、分かりやすくまとめ、インドを理解し、日印などがインド太平洋の平和を共に推進するパートナーになるための青写真を示したいものである。

それにしても2022年のロシアによるウクライナ侵略は、30万年前あたりに登場した人間が縄張り争いをしてきたのと本質は同じで、モノは発展しても「マインドは全然成長していないのだなあ、蛮族のままだ」と嘆くか苦笑するしかない。

人口14億のインド・・・若者がとても多いので「21世紀はインドの時代になる」と言われたりもするが、中共の軍事的圧迫を受けて、窮鳥入懐(窮鳥懐に入れば猟師もこれを打たず)ということなのか、中共に影響力があるロシアと友好関係を維持している。

その延長のバランス外交なのだろう、インドは日本との軍事交流も随分活発化している。最近のニュースを見ると――

★MRO北陸放送2023/3/2 「国内初 航空自衛隊がインド空軍と輸送機合同訓練」:航空自衛隊小松基地で1日からインド空軍と輸送機同士の共同訓練が始まっている。輸送機同士の国内での共同訓練は初めて。

インド空軍の部隊は、陸上自衛隊とインド陸軍が滋賀県の饗庭野演習場で展開している訓練にあわせて来日。空自によると訓練には鳥取県・美保基地のC2輸送機1機・隊員10人、インド空軍からC17輸送機1機・10人が参加した。

共同訓練は、部隊の航空輸送能力の向上を図るとともに日本とインド空軍の相互理解の促進を目指している。訓練では基地周辺の空域で戦術輸送訓練が実施されている。空自とインド空軍は輸送機同士の共同訓練をこれまでインドでは2回実施しているが、国内での訓練は初めてとなる。

★産経2023/2/28「陸自、インド軍と共同訓練 中国を念頭に協力強化」:陸上自衛隊は28日、インド陸軍と滋賀県高島市の饗庭野演習場で実施中の対テロ実動訓練を報道公開した。中国を念頭に自衛隊が進めるインドとの協力関係強化の一環。訓練は「ダルマ・ガーディアン」と呼ばれ、今回で4回目だが、これまではインドで実施しており、国内では初めて。17日に始まった今回の訓練は3月2日まで行われる。

★朝日新聞デジタル2023/1/23「空自、ロシア製スホイ30と実戦訓練 機体所有のインド空軍と」:航空自衛隊は23日、インド空軍と実施している国内初の戦闘機共同訓練を報道公開した。インド空軍が持つロシア製の戦闘機が参加しており、この戦闘機は中国にも配備されていることから、空自は実戦を想定した訓練と位置づけている。

訓練は16~26日の日程で、茨城県の空自百里基地を拠点に行われている。2019年11月の日印初の外務・防衛閣僚会合(2プラス2)で合意し、南アジアやインド洋周辺で影響力を増す中国を牽制する動きを強める狙いがある。

訓練に参加しているインド空軍のスホイ30は、ロシアのスホイ社が開発した対空や対地、対艦攻撃が可能な多目的戦闘機。ロシアで生産され、中国やインドネシア、カザフスタン、マレーシア、ベトナムなどに輸出されている。ロシアはウクライナ侵略にも投入しているとされる。
・・・・・・・・
長くなったので以下次号。これから図書館に行って絶版の「朴正煕選集」3冊を借りてくる。古本屋では5万円! 小遣2か月分! 小生には手が出ないので助かる。図書館vs出版社・・・出版社は「新刊はせめて3か月は貸出しないで」と提案しているが、図書館は無視しているよう。落としどころを真摯に考えるべきだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
目安箱:ishiifam@minos.ocn.ne.jp

https://blog.goo.ne.jp/annegoftotopapa4646

https://note.com/gifted_hawk281/n/n9b3c7f4231f9

https://www.facebook.com/shuichi.ishii.14

まぐまぐID 0001690154「必殺クロスカウンター」

“戦老”閑居して勇武充電

2023-03-01 17:50:56 | 戦争
“戦老”閑居して勇武充電
“シーチン”修一 2.0

【雀庵の「大戦序章」144/通算576 2023/3/1/水】睦月、如月を乗り越えて、ようやく弥生。このところ寒気が緩んだので軽装にしていたら風邪をひいてしまった。油断大敵、警戒心を忘れるとひどい目に遭う。

現役時代、お世話になった印刷会社の社長から「プーチンは何処かで原子爆弾を使うか?」とメールを頂いたので、こう返信した。

<ヤケノヤンパチ、キーウに核ミサイル数発。「連帯を求めるも孤立を恐れず」がレーニン流です。小生がプーチンなら絶対やります。米やEU、NATOなど西側陣営は核戦争の拡大を恐れて、核ミサイルによる報復はできません。精々断交するしかできないでしょうね。

プーチンもスターリン同様、人間の命なんて全く価値を認めていませんから、100万人、1000万人が死んでもびくともしません。毛沢東は1億人を餓死やテロで不自然死させましたが、全く平気でした。習近平も同様です。国交断絶するしかないでしょうね>

残虐な赤色遺伝子のDNAがマルクス→レーニン→スターリン→毛沢東→プーチン&習近平へと受け継がれている。DNAには「楽天的から悲観的まで」性格を左右するセルトニン遺伝子があり、明るいLL型、中間のSL型、暗いSS型に分類できるという(橘玲著「言ってはいけない 残酷すぎる真実」)。

プーチン(ロシア人)は基本的に疑心暗鬼的のようだから暗いSS型か? 習近平は毛沢東と同じように自分を神格化しているから妄想的なLL型かもしれない。

橘氏によると「日本人は70%が暗いSS型、明るいLL型はたったの2%で世界一」だそうだ。日本人は自殺しやすいDNA、確かにド演歌なんぞ「死にたい」「泣きたい」「悲しい」の連発、心中なんて美学になっちゃっているし・・・戦後の平和ボケもあって勇武を尊ぶ武士道はどこへ行った? 

憂国の情は募れども風邪には勝てぬ、軟弱ながら今日も体調が心配なので外出は控え、昨年あたりから始めた「ルーツ探し」を再開したが、母方の従兄の中村智廣氏(弁護士)にチェックして貰う了解を得たので以下、下書きを書いた。全部、実名。
・・・・・・・・・・
突然ですが、中村秦子(やすこ)伯母さんに取り上げていただき、中村覺(さとる)伯父さんに命名していただいた石井修一です。

鈴鹿神社そばの石井君蔵(屋号:精米、座間町入谷3117)の石井茂(旧姓・関山)、石井静江(旧姓・久保、最初は石井家の跡取りの武男さんに嫁したが戦病死)の長男です。

父母は小生が4歳(1955年)頃、父の生まれ故郷である現在の地に引っ越しました。

秦子伯母さんが入院した時、お見舞いに行ったのですが既に面会謝絶で会えなかったのは残念です。覺伯父さんの晩年には、義姉・石井千惠の伴侶・篤次(旧姓・山口)の三回忌がキャンプ座間近くの石井家の菩提寺で行われた帰路、お会いできて良かったです。

智廣さんにお会いした記憶はないのですが、(妹の)ミドリさんとは面識がありました。千惠姉は「マーチャン」とも遊んだ記憶があると言います。

母・静江(久保家、士族、通称:河原宿、大正9年生)は「私は士族の出」と誇り高く、父・茂(平民)はいささか辟易していましたが、静江によると母親の「ひさ」さん(旧姓・中村?)は優秀な警察官(仮にNさんとします)と子を成したものの、出産前にNさんが急逝したため、身重ながら久保健二(士族)の後妻として嫁いだそうです。

そして生まれた子が秦子さん(覺伯父さんに嫁いでからは通称「栗原の伯母さん」)、「だから優秀なのよ」と母・静江はよく言っていました。

さて、小学校低学年の頃(1960年前後)、母・静江は2年に1回ほど小生を「松田のオジサン」(中村家?)の大きな屋敷に連れて行きました。使わなくなった蓄音機と膨大なSPレコード盤が放置されていたこと、庭と外周に小川が流れ、裏にミカン畑があったこと、正面に寺か神社があったことを覚えています。

日本実業出版社のサイト「松田惣領と松田庶子」によると――

<小田急線新松田駅を降りると、駅前の電柱に貼られている看板に書かれた地名が「松田町松田惣領」。新松田駅周辺から北側にかけては「松田惣領」という地名が広がっている。ここからJR松田駅方面を過ぎて山北方面に歩くと、やがて「松田町松田庶子」という地名となる。ざっくりいうと、東側が「松田惣領」で西側が「松田庶子」なのだが、実際にかなり複雑に入り組んでいる。

そもそも「惣領」とは跡継ぎのこと。平和な時代である江戸時代には、よほどのことがない限り長男が跡継ぎとなったが、乱世の続く中世では跡を継ぐのは長男とは限らず優秀な子が家を継いだ。これが「惣領」で、その他の子どもは「庶子」といわれる。

この付近を支配した松田氏は、領地を惣領と庶子に分け与え、それがそのまま「松田惣領」「松田庶子」という地名になって現代にまで残っているのだ。ちなみに「松田庶子」の読み方は「まつだそし」。これも中世っぽい読み方だ>

さらに調べてみると「中村舜次郎(なかむらしゅんじろう)」が登場します。

<1847-1931 明治時代の政治家。弘化(こうか)4年8月5日生まれ。家は相模(さがみ)松田惣領(神奈川県松田町)の豪農。明治5年「足柄新聞」を発行。10年初代足柄上郡郡長となり、国会開設運動や東海道本線の敷設、治水などにつくした。41年衆議院議員(政友会)。昭和6年3月14日死去。85歳>

<年弘化4年8月5日(1847年)、没年昭和6(1931)年3月14日、出生地相模国足柄上郡松田惣領(神奈川県松田町)
豪農の家に生まれ、幕末期に百姓代を務めた。明治5年神奈川県内では横浜以外で初となる週刊新聞「足柄新聞」の経営を引き継ぎ、啓蒙的な活動を行う。11年足柄上郡長に就任し、以来、神奈川の国会開設運動や東海道本線開通を支援。また、治水事業でも実績があった。交詢社社員として福沢諭吉とも親交。41年には衆院議員に当選、政友会に属した>

中村覺伯父さんは、訳アリで不遇だった(?)「ひささん」の、その忘れ形見である秦子伯母さんを名門「松田・中村家に取り戻したのだ」・・・そんな風に小生は思うのですが、如何でしょうか。

「ひささん」の血を半分引く母・静江の息子である小生にも「ナカムラ式DNA」が多少伝わっているから、いつの間にか記者・ライター・編集を天職にするようになったのかも知れません。ご感想、ご指導を頂ければ幸いです。(以上)
・・・・・・・・
男は晩年になると「ルーツ探し」を始める人が結構いるようだ。国立国会図書館には「先祖・ルーツを調べる」というサイトがあるし、民間でも「自分のルーツを探る!家系図の調べ方と作成の依頼方法」といったサイトがある。しかし、個人が調べられるのは「明治19年式戸籍」あたりで、それだって自分の名前が入っている戸籍は「自身とのつながり(直系の親族かどうか)を証明できれば入手可能」とは言え、面倒臭そうだ。

苦手な分野はその道のプロに任せ、大好き=得意な分野では全力を発揮する・・・いささかエキセントリックながら「撃ちてし止まん」で前進していこう。
・・・・・・・・・・・・
ペンネーム:“シーチン”修一 2.0
https://blog.goo.ne.jp/annegoftotopapa4646

https://note.com/gifted_hawk281/n/n9b3c7f4231f9

https://www.facebook.com/shuichi.ishii.14

まぐまぐID 0001690154「必殺クロスカウンター」