雨だけど、四月並みの暖かい一日。
三寒四温とか、一雨ごとに暖かくなるとか言いますが、
なんだか一気に春になりそうな、おいどん県です。
SNS上で色々な方々が、おもしろそうに読んでいらっしゃったので、
私も思わずポチってしまった本を読み終わりました。
『神経発達障害のすべて』
私が支援員になった頃は、発達障害は「脳の機能障害です」と言われていました。
そこで、私は脳梗塞のリハビリの本や脳についての本で「脳には可塑性がある」ということを知り、
じゃあ、どうにかなるんじゃない?とあれやこれやとやっていました。
そして、時は経ち、発達障害は「神経発達障害」となりました。
これは今、「発達のヌケ」を育てる身体そだてなどと近しいものを感じます。
ところが、相変わらず、「発達障害は治りません」が横行している世の中です。
こういう専門の本も読んで、専門医のみなさんが「神経発達障害」をどのように捉えているかも
学んでみよう!という機運が私の周りで起きました。
3月には勉強会にも参加する身なので、ここは、ひとつ!と勉強熱心な方々の勢いにも押されて、
私も「神経発達障害とはなんぞや」ということが素人目にも少しは、
薄ぼんやりと理解できるかなぁ、と期待させそうな本を読んでみることにしました。
まずは、手短に。
がっかりな内容な上に、医者、治す気ないな、ということがよくわかりました。
冒頭、「中でも重要なのは神経発達障害群という大項目の創設である」だの
「もともと脳に発達の基盤をもっている精神疾患というものが神経発達障害ということでまとめられたということは
非情に意義があることだと思います。」だのとおっしゃっている我らが杉様ですが、
「神経発達障害」の「神経」についての言及が私にはまったく読み取れませんでした。
もう、これは、私の頭が悪いのか、
杉様をはじめ、本に登場するセンセー方にとっては、論ずる以前の共通同意事項があるのか、
意図的に無視しているのか、問題意識がないのか…。
何度読んでも、「神経発達障害」については謎のままでした。
「神経」
そんなに簡単に無視していい言葉なのでしょうか。
それにしても、この本の座談会では、実にさらりと、失礼なことを言っているので驚きます。
たとえば、P5では、
「<前略>自閉症者の自伝が出ることによって、実際にはかけ離れた体験世界を持っている人が
普通のふりをして世の中に結構いるのだということがわかってしまった。」
という杉様の言。
また、P11での
「<前略>今までの大人の精神科医は、統合失調症は治らないことを前提に
精神病院の中で何もせず「お守りをする」という受け身の医療だったのですが…以下略」
という浜松医科大学キョージュ。
「普通のふりをして」だの「何もせずお守りだの」言いたい放題です。
ここには、どうにか治りたい、医療に行けばどうにかなるかもと願う患者の思いとは、
かけ離れたものを感じ、一体、この人たちは何をみているんだろうか、と私の頭がおかしくなりそうでした。
また、座談会の〆に近い部分では、
「一般精神科医も疾病をきちんと診て治療して行く時代になったと言うことでしょうか。」との
司会をつとめるりんご県のキョージュの言があり、少しして座談会は閉じられます。
要するに、2014年10月のこの本が出る前は、
少なくとも精神科医は「きちんと診て治療して行く時代」ではなかったらしいのですが(呆然)
それ以降は、きちんと診て治療して行く時代になったのでしょうか…。
そんな杉様をはじめとするお三方の放談の後は、
いよいよ、杉様の「神経発達障害とはなにか」です。
しかし、そこで語られていたことは、コンビニ型療育の必要性だの、
ペアレント・プログラムだの、お手盛り感がぬぐえないものについての有用性。
また、ペアレント・トレーニングは「ADHD系の親には向か」ず、
「ドタキャンとドタカムの連続」になると親御さんをディスる始末。
ペアレント・トレーニングが親御さんにとって、必要性や有効だ!と感じる魅力があったかどうかの
内省などはゼロなのにもびっくりします。
そして、最終的には少量処方とは言うものの、お薬の話。
「神経発達障害とはなにか」はまたしても、つかめずじまいでした。
そして、ここで、神経発達障害とは何かがつかめぬまま、
本を閉じるのも癪なので、このままぶっ通して読むことにしました。
読み終わりましたが、脳みそくたくたです。
他の部分についても、もう、がっかり感満載なのですが、
それについては、また明日書こうと思います。
三寒四温とか、一雨ごとに暖かくなるとか言いますが、
なんだか一気に春になりそうな、おいどん県です。
SNS上で色々な方々が、おもしろそうに読んでいらっしゃったので、
私も思わずポチってしまった本を読み終わりました。
『神経発達障害のすべて』
私が支援員になった頃は、発達障害は「脳の機能障害です」と言われていました。
そこで、私は脳梗塞のリハビリの本や脳についての本で「脳には可塑性がある」ということを知り、
じゃあ、どうにかなるんじゃない?とあれやこれやとやっていました。
そして、時は経ち、発達障害は「神経発達障害」となりました。
これは今、「発達のヌケ」を育てる身体そだてなどと近しいものを感じます。
ところが、相変わらず、「発達障害は治りません」が横行している世の中です。
こういう専門の本も読んで、専門医のみなさんが「神経発達障害」をどのように捉えているかも
学んでみよう!という機運が私の周りで起きました。
3月には勉強会にも参加する身なので、ここは、ひとつ!と勉強熱心な方々の勢いにも押されて、
私も「神経発達障害とはなんぞや」ということが素人目にも少しは、
薄ぼんやりと理解できるかなぁ、と期待させそうな本を読んでみることにしました。
まずは、手短に。
がっかりな内容な上に、医者、治す気ないな、ということがよくわかりました。
冒頭、「中でも重要なのは神経発達障害群という大項目の創設である」だの
「もともと脳に発達の基盤をもっている精神疾患というものが神経発達障害ということでまとめられたということは
非情に意義があることだと思います。」だのとおっしゃっている我らが杉様ですが、
「神経発達障害」の「神経」についての言及が私にはまったく読み取れませんでした。
もう、これは、私の頭が悪いのか、
杉様をはじめ、本に登場するセンセー方にとっては、論ずる以前の共通同意事項があるのか、
意図的に無視しているのか、問題意識がないのか…。
何度読んでも、「神経発達障害」については謎のままでした。
「神経」
そんなに簡単に無視していい言葉なのでしょうか。
それにしても、この本の座談会では、実にさらりと、失礼なことを言っているので驚きます。
たとえば、P5では、
「<前略>自閉症者の自伝が出ることによって、実際にはかけ離れた体験世界を持っている人が
普通のふりをして世の中に結構いるのだということがわかってしまった。」
という杉様の言。
また、P11での
「<前略>今までの大人の精神科医は、統合失調症は治らないことを前提に
精神病院の中で何もせず「お守りをする」という受け身の医療だったのですが…以下略」
という浜松医科大学キョージュ。
「普通のふりをして」だの「何もせずお守りだの」言いたい放題です。
ここには、どうにか治りたい、医療に行けばどうにかなるかもと願う患者の思いとは、
かけ離れたものを感じ、一体、この人たちは何をみているんだろうか、と私の頭がおかしくなりそうでした。
また、座談会の〆に近い部分では、
「一般精神科医も疾病をきちんと診て治療して行く時代になったと言うことでしょうか。」との
司会をつとめるりんご県のキョージュの言があり、少しして座談会は閉じられます。
要するに、2014年10月のこの本が出る前は、
少なくとも精神科医は「きちんと診て治療して行く時代」ではなかったらしいのですが(呆然)
それ以降は、きちんと診て治療して行く時代になったのでしょうか…。
そんな杉様をはじめとするお三方の放談の後は、
いよいよ、杉様の「神経発達障害とはなにか」です。
しかし、そこで語られていたことは、コンビニ型療育の必要性だの、
ペアレント・プログラムだの、お手盛り感がぬぐえないものについての有用性。
また、ペアレント・トレーニングは「ADHD系の親には向か」ず、
「ドタキャンとドタカムの連続」になると親御さんをディスる始末。
ペアレント・トレーニングが親御さんにとって、必要性や有効だ!と感じる魅力があったかどうかの
内省などはゼロなのにもびっくりします。
そして、最終的には少量処方とは言うものの、お薬の話。
「神経発達障害とはなにか」はまたしても、つかめずじまいでした。
そして、ここで、神経発達障害とは何かがつかめぬまま、
本を閉じるのも癪なので、このままぶっ通して読むことにしました。
読み終わりましたが、脳みそくたくたです。
他の部分についても、もう、がっかり感満載なのですが、
それについては、また明日書こうと思います。