杏子の映画生活

新作映画からTV放送まで、記憶の引き出しへようこそ☆ネタバレ注意。趣旨に合ったTB可、コメント不可。

百花

2022年10月20日 | 
川村元気(著) 文藝春秋(刊)

大晦日、実家に帰ると母がいなかった。息子の泉は、夜の公園でブランコに乗った母・百合子を見つける。それは母が息子を忘れていく、始まりの日だった。認知症と診断され、徐々に息子を忘れていく母を介護しながら、泉は母との思い出を蘇らせていく。ふたりで生きてきた親子には、どうしても消し去ることができない“事件”があった。母の記憶が失われていくなかで、泉は思い出す。あのとき「一度、母を失った」ことを。泉は封印されていた過去に、手をのばすー。現代において、失われていくもの、残り続けるものとは何か。すべてを忘れていく母が、思い出させてくれたこととは何か。(「BOOK」データベースより)


映画が公開され高評価を受けているようです。鑑賞予定ではなかったので原作の方を読んでみることにしましたが、頭の中で菅田将暉と原田美枝子 を登場人物に重ねてしまいました。特に百合子は原田さんの上品な佇まいに重なってすんなりはまって読めました。

母親の認知症という事実が重くのしかかります。
母子家庭で育った泉の中で、母の百合子は美人でピアノが上手な自慢の母親でした。家を出て結婚し、もうすぐ子供が生まれる泉が実家を訪れる頻度は多くは無かったけれど、久しぶりに帰った実家は雑然としていて、どこか様子が異なる母に微かな不安を感じながらも、いつもと変わらない笑顔と美味しい料理に泉はその不安を押しやります。

ところがある日警察からの電話で百合子が万引きで捕まったことを告げられ様子がおかしいから病院へ連れて行くよう言われます。そして認知症が発覚するんですね。でも百合子はその一年も前に自身の変化に戸惑い受診していました。本人が一番ショックで苦しいのです。百合子は忘れていく様々な事をメモすることでつなぎとめようとします。

母を心配しながらも仕事や家庭に時間をとられ後回しにしてしまう泉。子にとって親はいつまでも守ってくれる存在であり、その前提が崩れることは認めたくないのですよね。加えて母子の過去も関係しているようです。百合子は泉が中学2年の時に一年間失踪していた時期がありました。
徐々に記憶が失われていくスピードは加速していき、泉の妻・香織の名前も分からなくなる百合子。若年性は進行も早い!泉は母とのこれまでの親子の時間を思い出しながら支えようとしますが、遂に限界を超え、百合子は施設に入ることになります。泉が選んだのは家庭的で安らげる場所でした。(現実にこんな所があったらぜひにも入所したいと思わせてくれるアットホームな施設として描かれています。)

実家の片づけを始めた泉は、押入れの奥から2冊の日記帳を見つけます。それは百合子が失踪した1994年と1995年のもので、失踪事件の真相が綴られていました。百合子は妻子ある男性の元へ息子を捨てて走ったのね。日記にはその男性との女としての赤裸々な生活が描かれ、その中に泉の名は出てきません。それは敢えて意図して息子の存在を消し去ろうとしていたかのようです。しかし百合子の中でこの生活がやがて終わりを迎えることも予期していたように読み取れます。実際、神戸の大震災でその生活が喪われたことが示唆されます。泉がこれを読んでどう思いどう感じたかも書かれてはいないけれど、ただ一人の頼れる存在だった母に捨てられた彼は、母が戻ってからもまた捨てられるかもという恐怖を手放せず、どこか距離を置いて接していたようです。そして今また、母が自分を忘れて手の届かぬところに行ってしまう恐怖が彼を苦しめます。

百合子の「半分の花火が見たい」という願いを叶えようと、泉は妻が調べてくれた諏訪湖の花火大会に連れていくのですが、母はここじゃないと言います。
幼女に戻ったかのような母の行動は彼を苛立たせ、ふいと姿を消す母を必死に探す泉は、幼い頃に母に探してもらいたくてとった自分を思い起こさせます。

一年が経ちました。子どもが生まれ、百合子が逝き・・・夏の夜、実家の整理をする泉は花火の音に顔を上げます。庭から建物に隠れた「半分の花火」が見え、彼はこの家に越してきた時の事を思い出すのです。
一度は子供を捨てた百合子でしたが、彼女に残った最後の思い出が泉と再出発を始めたその夜の花火だったのだと気付いた時、泉の中にあったわだかまりが解け心から母を悼む気持ちで涙が溢れたのかなと感じました。

正直、不倫に走った百合子の行動には共感はできませんが、女手一つで必死に子供を育ててきた女性の「性」「生」を否定もできません。でももしあの地震がなかったら彼女は戻ってきたのだろうか?そう思う時、あの日記に記されていた僅かな不協和音を思い出し、やはり彼女は息子の元に戻ったのではないかと考えました。

認知症が進んでいって息子の名前も顔も忘れてしまっても、過去の思い出の断片は残っていたことに救われたような思いにもなりました。また、百合子がピアノの演奏を最後まで忘れなかったことも印象的です。人を忘れ物事を忘れ幼児返りしても、自分が身に着けた技術は覚えているものなのだと考えると、自分だったら何かな~と考えてしまいました。


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