こんなことを書いたら天罰がくだるかもしれません。
島田市千葉というところに千葉山智満寺という天台宗のお寺があります。山道を数キロも走って辿り着く山中の古いお寺です。山の頂上近くの山腹に位置するお寺はうっそうとした林の中にありました。
寺宝であるご本尊の秘仏を開帳しているということで訪ねました。本堂の茅葺屋根には草木が生い茂り、古いお寺であることよりも日ごろの管理の悪さが目に付きました。檀家の数が少なくて寺への収入が限られているそうです。
拝観料は一人1000円でした。友達夫婦と私ら夫婦の4人で〆て4000円です。他にもう一組の夫婦連れがいました。
案内されて薄暗い本堂の中へ入ると、村の老人が滔々と寺の縁起やら由来をしゃべりまくるのです。
・・・・え~~ェ。ご本尊は千手観音菩薩でありますがあそこに安置されている千手観音菩薩様ではありません。千手観音さまの隣においでなのは弁財天様で商売の神様です・・・・。
ええっ。拝観料と引き換えに渡されたパンフレットにはまぎれもなく「秘仏ご開帳」の文字があったのに違うんですか。
千手観音立像・元三大師坐像・弁財天坐像・厨子入り五大明王像・当麻曼茶羅・両界曼茶羅・阿弥陀三尊来迎図・伝狩野探幽作「竜虎図」・智満寺鳥瞰図・釈迦の涅槃図・・・村の老人の説明は立て板に水で続いたが、ついにご本尊の秘仏とやらは拝観できませんでした。
ご本尊の秘仏は内陣の帳の中に安置されているそうで60年に一度だけ開帳されるのだそうです。私が生きているうちには次のご開帳はないそうです。
収蔵庫の中も拝観しましたが、折角の刀剣類は錆びるにまかせた状態でした。
源義経所用の「蝉折の笛」というのもありました。写真にあった源頼朝の「陣釜」というのは戦争中に供出してしまったとかで今は現存しませんでした。
庭にある池は山の水を溜めたもので水はどんより濁っていましたが、なにやら動いているものがあり、眼を凝らすと、大きな蟾蜍(ひきがえる)が交尾の最中でした。それが一組、二組ではないのです。あっちにもこっちにもという感じでおそらく数十匹の蟾蜍が一斉に種族保存の儀式をしていたのです。
秘仏を拝観できない拝観料1000円には少し不満でしたが、思わぬ自然観察が出来たお陰でなんだか帳尻があった気分でした。
以下の紹介文は島田市観光資料から引用しました。
寺伝によると、創建は奈良時代で、鑑真の法孫にあたる広智という高僧が草庵を結んだのが始まりといわれています。平安時代中期以降は、修験道の霊場である山岳寺院として栄えたと考えられます。その後、今川氏・徳川氏の信仰が厚く、諸堂の修理が行なわれていますが、特に徳川家康は、天正17年(1589)現在の本堂の再建に着手し、翌年に完成されたといわれ、本堂内の観音二十八部衆は、茶阿の局・天海僧正・島田の有力者・志太榛原地区の代官などが寄進しています。智満寺には本尊の千手観音のほか国指定の重要文化財をはじめ、県指定、市指定など多くの文化財が伝わっています。
≪智満寺本堂≫
木造入母屋造流向拝付茅葺で、内部は中間で格子により内陣と外陣に仕切られています。杉材を用いた木割りは太く、豪放な手法は、桃山文化の影響を受けているといわれます。
≪附本尊千手観音厨子≫
本堂の内陣正面に安置されている本尊の厨子です。木造で、構造は入母屋三方造り本瓦葺様、三手先斗拱、二重軒で、木割は細かいが、蛙股等は桃山時代の様式も継承していると考えられます。外面は金箔を用いずに極彩色を施し、左右の両羽目は全体に薬草を浮き彫りにしてあります。
≪附棟札≫
天正17(1589)年に本堂を再建した際の棟札です。これによると、本堂は天正17(1589)年に再建し、翌年完成しました。
このほかいくつかの文化遺産が集約されていて、中でも本堂左手から回りこんでうっそうと杉が生い茂った山道を上った所にある由来ある杉群は見応えがあります。
これらの杉には名前が付けられていて開山杉、大杉、達磨杉、雷杉、常胤杉、経師杉、一本杉、盛相杉、子持杉、頼朝杉がありこれらを総称して十本杉と呼ばれその見事な姿は一見の価値がありです。
いずれも推定800年から1200年を経たものとされています。(子持ち杉は、倒木したために現存しません)昭和39(1964)年6月29日、国の天然記念物に指定されました。
島田市千葉というところに千葉山智満寺という天台宗のお寺があります。山道を数キロも走って辿り着く山中の古いお寺です。山の頂上近くの山腹に位置するお寺はうっそうとした林の中にありました。
寺宝であるご本尊の秘仏を開帳しているということで訪ねました。本堂の茅葺屋根には草木が生い茂り、古いお寺であることよりも日ごろの管理の悪さが目に付きました。檀家の数が少なくて寺への収入が限られているそうです。
拝観料は一人1000円でした。友達夫婦と私ら夫婦の4人で〆て4000円です。他にもう一組の夫婦連れがいました。
案内されて薄暗い本堂の中へ入ると、村の老人が滔々と寺の縁起やら由来をしゃべりまくるのです。
・・・・え~~ェ。ご本尊は千手観音菩薩でありますがあそこに安置されている千手観音菩薩様ではありません。千手観音さまの隣においでなのは弁財天様で商売の神様です・・・・。
ええっ。拝観料と引き換えに渡されたパンフレットにはまぎれもなく「秘仏ご開帳」の文字があったのに違うんですか。
千手観音立像・元三大師坐像・弁財天坐像・厨子入り五大明王像・当麻曼茶羅・両界曼茶羅・阿弥陀三尊来迎図・伝狩野探幽作「竜虎図」・智満寺鳥瞰図・釈迦の涅槃図・・・村の老人の説明は立て板に水で続いたが、ついにご本尊の秘仏とやらは拝観できませんでした。
ご本尊の秘仏は内陣の帳の中に安置されているそうで60年に一度だけ開帳されるのだそうです。私が生きているうちには次のご開帳はないそうです。
収蔵庫の中も拝観しましたが、折角の刀剣類は錆びるにまかせた状態でした。
源義経所用の「蝉折の笛」というのもありました。写真にあった源頼朝の「陣釜」というのは戦争中に供出してしまったとかで今は現存しませんでした。
庭にある池は山の水を溜めたもので水はどんより濁っていましたが、なにやら動いているものがあり、眼を凝らすと、大きな蟾蜍(ひきがえる)が交尾の最中でした。それが一組、二組ではないのです。あっちにもこっちにもという感じでおそらく数十匹の蟾蜍が一斉に種族保存の儀式をしていたのです。
秘仏を拝観できない拝観料1000円には少し不満でしたが、思わぬ自然観察が出来たお陰でなんだか帳尻があった気分でした。
以下の紹介文は島田市観光資料から引用しました。
寺伝によると、創建は奈良時代で、鑑真の法孫にあたる広智という高僧が草庵を結んだのが始まりといわれています。平安時代中期以降は、修験道の霊場である山岳寺院として栄えたと考えられます。その後、今川氏・徳川氏の信仰が厚く、諸堂の修理が行なわれていますが、特に徳川家康は、天正17年(1589)現在の本堂の再建に着手し、翌年に完成されたといわれ、本堂内の観音二十八部衆は、茶阿の局・天海僧正・島田の有力者・志太榛原地区の代官などが寄進しています。智満寺には本尊の千手観音のほか国指定の重要文化財をはじめ、県指定、市指定など多くの文化財が伝わっています。
≪智満寺本堂≫
木造入母屋造流向拝付茅葺で、内部は中間で格子により内陣と外陣に仕切られています。杉材を用いた木割りは太く、豪放な手法は、桃山文化の影響を受けているといわれます。
≪附本尊千手観音厨子≫
本堂の内陣正面に安置されている本尊の厨子です。木造で、構造は入母屋三方造り本瓦葺様、三手先斗拱、二重軒で、木割は細かいが、蛙股等は桃山時代の様式も継承していると考えられます。外面は金箔を用いずに極彩色を施し、左右の両羽目は全体に薬草を浮き彫りにしてあります。
≪附棟札≫
天正17(1589)年に本堂を再建した際の棟札です。これによると、本堂は天正17(1589)年に再建し、翌年完成しました。
このほかいくつかの文化遺産が集約されていて、中でも本堂左手から回りこんでうっそうと杉が生い茂った山道を上った所にある由来ある杉群は見応えがあります。
これらの杉には名前が付けられていて開山杉、大杉、達磨杉、雷杉、常胤杉、経師杉、一本杉、盛相杉、子持杉、頼朝杉がありこれらを総称して十本杉と呼ばれその見事な姿は一見の価値がありです。
いずれも推定800年から1200年を経たものとされています。(子持ち杉は、倒木したために現存しません)昭和39(1964)年6月29日、国の天然記念物に指定されました。