日々是好舌

青柳新太郎のブログです。
人生を大いに楽しむために言いたい放題、書きたい放題!!
読者のコメント歓迎いたします。

大震災原発事故の歳も暮れ

2011年12月27日 10時15分53秒 | 日記
今年も残すところ5日になりました。

今年は阪神淡路大震災に続く戦後2度目の大震災の年でした。
阪神淡路大震災の時も神戸の街が炎上したり高速道路が倒壊したりして大きな被害をもたらしましたが、今回の東日本大震災は地震・津波と合わせて東京電力福島第一原発の原子炉3基がメルトダウンを起こすという大惨事になりました。

結果的には、この原発事故に伴う放射能拡散が取り返しのつかない被害を引き起こすことになったのです。

あのときのテレビ画面をいまでも思い起こすことが出来ますが、頚の短い福耳の枝野前官房長官の発言は繰り返し「直ちに影響はない」などという甘い認識のもので今日の深刻な事態とはおよそかけ離れた印象であった。

原発事故の発生当初から「官僚軽視」の菅前総理の事故対応は後手後手に回ることになり、結果としてベントや注水の遅れを招き最悪のメルトダウンにつながったことは、これまでの検証でほぼ解明されたようである。

今後の事故解明の過程で新しい事実が次々に出てくると思われるが、特に最高責任者の菅前総理や枝野前官房長官などは当時の状況を包み隠さずに発表して欲しいものである。

原発事故は廃炉して解体するまでに40年はかかるという長い工程であるから、その間に新たな事故を起こさないように慎重に事を進めてもらいたいものである。

今年記憶に残るもう一つのニュースは北朝鮮の金正日総書記の死去である。
良いにせよ悪いにせよ北朝鮮の独裁者として一国を統率してきたのであるから、その死の影響は少なからぬものがあるのだろう。

北朝鮮のことは拉致問題や核問題など限られた場面でしか語られることがないのであまり詳しくは分からない。新しい権力者・指導部が国際社会や近隣諸国に少しでも融合してくれることを期待したい。

犬だって由緒もあれば親もいる

2011年12月22日 10時01分55秒 | 日記
ここで云う犬とは、他ならぬ我が家の飼犬チィー坊のことである。チィー坊の出自について少しく疑義のあるところを私の記憶が確かなうちに正しておこうと思う。

チィー坊の母系すなわち母犬は血統の確かな甲斐犬であった。これは元の飼い主である入谷■■氏が山梨県石和温泉の愛犬家から大枚の金と引き換えに連れ帰った犬であって、私自身がこの眼で見ているのだから間違いはない。一方、父系はまったく分らない。つまりどこかの野良犬がきて飼い主も知らないうちに母犬を孕ませたものである。チィー坊は甲斐犬の特徴を色濃く残してはいるが、体毛などは洋犬の特徴を示している。目玉のくりっとした黒の中型犬である。

チィー坊が6歳になるまで育てた入谷■■氏の叔父貴に当たる人物が安東一家井川貸元3代目の故入谷雄一氏である。この人物については、島田市在住の俳人、故松下三郎氏の書かれた一文があるのでここに紹介しておく。

《 ■■さんの話に、清水一家井川貸元、入谷という名前がでてくるが、昔、会ったことのあるお爺さんの縁故の人、あるいは、その人本人である可能性が強い。

 昔、山村井川では楽しみが少なかったので,博打の類は結構発達していた。女衆の間でさえも宝引(ホッピキ)が盛んに行われていたし、我々がよくやったのがチョボイチである。もちろん丁半も盛んで、田代の諏訪神社の祭礼には、清水一家の親分が出向くほどで、昔ながらの賭場風景が見事に再現されていた。

 この入谷というお爺さんは、大変穏やかな性格だったが、井川近辺の貸元で、川狩り(材木流し)の人足衆について、彼らの行う丁半の胴元をやっていた記憶がある。

 昭和30年代初頭、井川ダム建設の関係で、建設業者が大勢はいり込んできたので、地元やくざの入谷お爺さんと、建設業者のやくざとの間でいざこざが起こったことがあった。賭場へ乗り込んできた建設業者のやくざが、縄張りを主張してきて、お爺さんの持っているテラセンの上がり金をよこせといってきたのである。驚いたことに、一見優しそうに見えた、このお爺さんは少しも騒がず、清水一家の縄張りであることを主張して、昔風の見事な仁義を切って退散させたのを覚えている。(松下三郎・・・私の寝言より抜粋)》

ここで松下三郎氏のいう清水一家とは、かの有名な清水次郎長親分の構えた一家である。安東一家貸元の入谷雄一翁がいつの間にか清水一家になってしまうのにはそれなりの理由がある。

次郎長には前後三人の妻がいたことはよく知られている。その三人目の「お蝶さん」は、三河(愛知県)西尾藩士、篠原東吾の長女として天保8年(1837)4月28日に生まれた。本名は「けん」。次郎長より17歳年下である。33歳で次郎長の後妻に入ったときには既に実子入谷清太郎がいた。子供がいなかった次郎長はお蝶の連れ子清太郎を非常に可愛がったそうである。

次郎長の菩提寺梅蔭寺の境内にある「次郎長遺物館」には、次郎長愛用の胴田貫やさまざまな遺品が陳列されているが、それらの大半はお蝶さんの遺子清太郎の入谷家が所蔵していたものである。
 入谷家の所蔵品の中でも珍しいのは、あの富岡鉄斎の富士の絵である。鉄斎が清水港波止場の『末廣』に泊まった際、描いたものと思われ、お蝶さんの手から、その子清太郎、孫の麟助へと受け継がれて残された。
 入谷麟助はお蝶さんと目鼻立ちの似た美男子で、事業家タイプであり、昭和戦前、鈴与商店の関係会社の重役をつとめた。麟助には二人の息子がいたがいずれも太平洋戦争で戦死している。

一方の安東一家とは、幕末の博徒、安東文吉(あんどうのぶんきち、1808年 - 1871年)こと西谷文吉(にしたにぶんきち)が駿河国府中(現:静岡県静岡市葵区)に構えた一家である。文吉は二足草鞋の大親分で別名「暗闇の代官」とか「日本一首継親分」などと呼ばれていた。

文吉は、駿河国安倍郡安東村(現:静岡県静岡市葵区)の豪農であった甲右衛門の子に生まれる。大柄で相撲を好んだため10代の文吉は弟の辰五郎と江戸の清見潟部屋に入門し、芳ノ森の四股名で土俵に上る。後に故郷に戻るがバクチ打ちの群れに入り、自らすすんで人別帖より削られ無宿となる。兄同様に無宿となった弟の辰五郎と府中伝馬町の裏長屋に住み、夜は問屋場の人足部屋で壷を振っていた。この頃、お尋ね者の大場久八も文吉を頼ってくる。文吉20代半ば、友人が「炭彦」親分と借金のもつれで揉めた時には喧嘩相手の炭彦を斬る。この後、衆望を集め親分となるが場所的によい賭場を持っていた事もあり多くの猛者を統率していく。

大勢力となっていく文吉を見込んで天保9年(1838年)、駿河代官所は文吉と辰五郎の兄弟を呼び出して十手取縄を預けようとする。この背景には封建社会の建前だけでは解決できない遠州博徒の騒乱を文吉の手を借りて収めようとする意図があった。揉め事を押し付けられた文吉は固辞したが結局は引き受ける。二足草鞋となってからは乾児に賭場を運営させて、自らはバクチをしなかったとされる。文吉には十手と同様に公用手形の交付権も与えられていたために無宿の旅人で事情を抱えている者はこれを庇っている。「首継親分」の呼び名はこれに由来する。

遠州の博徒、国領屋亀吉こと大谷亀次郎は後年、幕末動乱のやくざ社会の様子を尋ねられた際に「清水次郎長、長楽寺清兵衛、堀越喜左衛門、大和田友蔵、雲風亀吉・・・。みんないい顔だったよ」と名前を挙げているが「文吉さんはどうでしたか」と聞かれた際には土地の方言を使って「あの人はオッカネェー(恐ろしい)人だ。ただのやくざではねぇ」と死んだ文吉を畏れたとされる。

安東一家は2代目安東の須磨吉こと西谷須満吉、3代目渡辺綱吉、4代目長倉長作、5代目青木定吉と昭和も戦後まで続いた。なお、安東一家井川貸元の初代は文吉直系の小長井清次郎、2代目は入谷松吉、3代目の雄一は松吉の実子であり昭和36年12月21日行年62歳で没している。




学校に鬼平役が必要だ

2011年12月15日 11時05分11秒 | 日記
教育界が荒廃している。
教師などの犯罪行為が後を絶たず、児童生徒に範を垂れるどころか、悪い手本になっているのである。一番身近にいる教師が羊の毛皮を被った狼なのだから児童生徒も父兄もたまったものではない。更にこの対策に最も腐心しなければならない何処ぞの県教育長が「万策尽きた」と言ったとか。これでは日本の将来を担う児童生徒の教育は完全に暗礁へ乗り上げてしまうのである。己に解決する知恵がなければ他人の知恵を借りれば良いのである。それともさっさと職を辞するのが潔い身の処し方というものだ。

「他人の知恵借るゝも英知神無月」こんな句もあったが、人の上に立つ者たちに他人の知恵を借りようとする謙虚さが無いのがそもそも諸悪の根源であることを決して見逃してはならないのである。もっと世の中や人間のことを勉強しろと叱咤してやりたい。

さて、我が国は、国家の権力を行政権、立法権、司法権と分け、それぞれを独立性を有する機関としての、行政府(内閣)、立法府(衆参両院)、司法府(裁判所)に担当させ、各機関に他の機関の越権を抑える権限を与え、相互に監視しあうことにより抑制均衡を図り、もって権力の集中・濫用を防止し、国民の権利と政治的自由を保障させようとするシステムをとっている。所謂、三権分立である。

この「3」というのが実に安定感のある状態である。古くは鼎の3本の脚ということになるが、カメラにしても測量機器にしても三脚で支えることによって安定した姿勢を保つことが出来るのである。

一方の教育界はどうなっているかというと、教育委員会・学校側と児童生徒及び父兄(PTA)側ということで三権分立になっていないのである。
学校の中は一見、一般の教職員と校長・教頭という管理職に分かれているようにもみえるが、校長・教頭も教師から昇進した人たちであり「事なかれ主義」の権化のような人が多い。私にも教職員の知り合いは大勢いる。悪い人は一人もいないが世間知らずの人は多い。
彼ら彼女らは大学を出て教師になったその日から「先生」「先生」と安っぽく呼ばれて過ごすのである。生き馬の目を抜くという世知辛い世間の波にもまれることもなく学校という言わば温室でぬくぬくと過ごすのである。そんな人たちの中の最も要領の良い一部の者が校長になるのであるから管理能力などは自ずと知れたものであろう。

この際、澱んだ空気の教育界に風穴を開けて風通しを良くしなければ現状を打開するのは難しかろう。その方策として学校ごとに教育界とは別の人材を管理職として登用することを提案したい。この「教育監」には校長をトップとする学校組織とは独立した権能をもたせるのである。

私の好きな時代劇に「鬼平犯科帳」というのがあるが、独自の機動性を持った火付け盗賊改め方長官の鬼平こと長谷川平蔵宣以みたいな役割を作らなければ微温湯に浸かっている教育界には「喝」がはいらないのではないだろうか。

児童・生徒・父兄からの声はこの「教育監」へ直接届くようにして問題の握り潰しを防ぐのである。従来の教育行政組織は組織疲労をおこしているのであるからこの際は思い切った組織の改変を行う必要があることだけはたしかであろう。

女房も俺も蓼食う虫である

2011年12月12日 18時44分35秒 | グルメ
「柳蓼・やなぎたで」
蓼食う虫も好き好きという諺がある。タデの辛い葉を好んで食う虫もあるように、人の好みはさまざまだという意味である。諺のタデはヤナギタデと特定されているわけではないが、料理の世界でタデといえばホンタデ(本蓼)とかマタデ(真蓼)とも呼ばれるヤナギタデを指すのである。ホンタデ或いはマタデは「これが正真正銘の辛いタデである」という意味から名づけられたヤナギタデの別名である。
 タデ科の植物は地球上に約800種類が分布しているとされ、この内の約70種類が我が国に自生または帰化している。タデ科植物の中で最も重要なものは穀物のソバおよび同属の韃靼ソバである。他にはジャムなどにするルバーブや漢方薬の大黄(だいおう)やツルドクダミ(何首烏)、染料植物のアイ、山菜として利用されるイタドリやスイバなどもタデ科植物である。もう一つ忘れてならないタデ科の草が、子供のままごとに使うアカノマンマである。
ヤナギタデは、すでに平安時代から香辛料として用いられてきた。江戸時代には栽培品種も多く作られたということである。葉を噛むと、辛くて口の中が、ただれるという意味から「タデ」という言葉が生まれたと言われている。
鮎の塩焼きを食うときに使う「タデ酢」には、ヤナギタデの葉が香辛料として加えられている。タデ酢は、ヤナギタデの葉をすりおろし酢に混ぜてつくる。アユの塩焼きのほか、臭みのある魚料理などに使われる。また、刺身を食うときに、卸しワサビとともに、「つま」として添えられている「紅タデ」は、ヤナギタデの種子の芽生え(子葉)である。
ヤナギタデは、野菜としての利用法により「芽タデ」とか「笹タデ」と呼ばれている。芽タデは葉の色により「べニタデ」と「アオタデ」に区別されている。「べニタデ」の子葉は、濃赤紫色であるが、「アオタデ」は緑色である。一般に白身の魚には「べニタデ」を、赤身の魚には「アオタデ」を用いる。笹タデには本葉を用いる。主に「アオタデ」が利用され葉の形から「笹タデ」とよばれる。
ヤナギタデの辛味は胃を刺激し胃液の分泌を促すので消化を助け食欲をそそる働きがある。また、臭みを消すだけでなく、解毒効果もあるとされる。このことから、魚などを食べるときには、ツマとして添えられているヤナギタデの葉を残さずに食べておくことが望ましい。このことにより、食あたりを防ぐことができるからである。
ヤナギタデの英名は、"Water pepper"と呼ばれ、ヨーロッパでは、この果実をコショウの代用に使う。
ヤナギタデはその全草を生薬「水蓼」(スイリョウ)と呼び、民間薬として用いられる。秋に全草を採取し、日干しにして薬用に使う。ヤナギタデには、血液凝固促進作用や、血圧降下作用を示すことが報告されている。これを消炎、解毒、利尿、下痢止め、解熱、虫さされ、食あたり、暑気あたりなどに用いられる。ハチや毒虫にさされたときには、ヤナギタデの生の葉を揉んで塗布すると痛みや腫れがおさまる。食あたりには、茎葉をすりつぶしたものに、卸しショウガを同量混ぜ合わせ、小スプーン1杯を服用する。葉を水洗いして日陰で乾燥させたものを利尿や解熱に用いる。また濃く煎じて飲めば暑気あたりによいといわれている。その他、ネパールでは、魚毒として、葉を砕いて川に流し浮いてきた魚をとる。ヨーロッバでは葉から黄色の染料をとる。
 タデ酢を作るには、タデの葉を微塵に刻んで、二杯酢に混ぜるだけでもよいが、更に手を加えるならば、擂鉢でタデの葉を細かく擂り、これに粥飯を少し加えて擂り潰し、二杯酢を加えながらとろりとするまで擂りのばせばよい。なお、タデの葉を煎って作る「いりたで」というのがあり、清汁の吸い口などに用いられる。

◆ 鮎釣れて休耕田の蓼を摘む 

まぐあいは一穴主義が身を護る

2011年12月09日 10時33分15秒 | 日記
私は静岡県に生まれて静岡県で暮らしている。これでも人一倍、郷土愛のある男だと思っている。
だから最近のハレンチ教師の振る舞いや教育現場での不祥事の続出を苦々しく思っているのだ。

勤務先の県立高校内で女子生徒を一対一の状態で補習授業をするといいながら猥褻行為を繰り返していた元教諭森田被告(47歳)は、その行為が卑劣だとして検察から準強制わいせつ罪で懲役2年を求刑された。弁護側は「反省し、社会的制裁も受けた」として執行猶予付き判決を求めたというが、そもそも懲役2年は軽いのではないかと私自身は思う。
猥褻教師は臭い飯を食うべきで、一罰百戒の諺もあるのだからここは厳しく罰することが肝要である。
県教育委員会が下した懲戒免職処分は当然である。

県教育委員会といえば、県立磐田西高校生による集団万引き事件もある。
この問題は県監査委員から定期監査結果として公表されたものであるが、県立磐田西高校では2009年度から2年間で男子生徒74人が校内外で万引や窃盗を繰り返していたという驚くべき事実である。
従来、この種の事件は教育上の配慮という理由から校名を伏せてきた。今回、監査委員があえて校名を公表したのは極めて異例であるが、事態があまりにも深刻で、県教育委員会や学校側に強く再発防止を求めたからだという。私は監査委員の判断を強く支持したい。教育的配慮が生徒に対してではなくて教育委員会や学校管理者の保身のために使われるのはよくない。

何度もいうが、教育界は「事なかれ主義」が蔓延っている世界である。磐田西高校の万引・窃盗問題は、県教育委員会には昨年の11月に報告があがっていたのにもかかわらず握りつぶしていたのかどうなのかは分からないが一年以上も公表が遅れていたのである。だからといってこの間に有効な防止策がとられたとも思えず、県教育委員会も学校側も臭い物には蓋をしていたとしか思えないのである。

「嘘吐きは泥棒のはじまり」というが、万引は間違いなく泥棒であり、生徒を指導教育するべき立場の教育委員会や学校が泥棒を見過ごしてはならないのである。

さて、話は熊本県へ飛ぶが、金メダリストの内柴正人元客員教授にも困ったもんである。最初の報道では女子柔道部員に酒を飲ませてセクハラしたなどということだったが、準強姦の容疑で警視庁に逮捕されてしまった。本人は合意の上での和姦を主張しているようであるが、一旦こういう事態になってから女子柔道部員が和姦でしたとは絶対に言うまい。こんな事態になると二つの金メダル、熊本県名誉県民賞はかえって重荷になるだろう。

話は更に飛ぶのだが、田村義雄駐クロアチア大使にも困ったもんである。
現地クロアチアの20歳代の女性職員を視察に同行させ、公用車の後部座席で体を密着させるなどしたというのだが、全く国辱ものである。田村氏本人は全面否定しているそうだが運転手なども一緒にいたのだろうから白を切り通すのは無理だろう。日本政府外務省は相手国政府や被害女性に対してしっかりとした謝罪をして関係を修復しなければならない。
そして田村大使に対してもしかるべき処分を行わなければ示しがつかないというものだ。

所詮この世は男と女である。巧くやれというのもどうかと思うが、立場を弁えて許容される範囲で女性を愛するようにすれば何の問題も起こりはしない。「事なかれ主義」ではなくて「一穴主義」をお薦めしておく。

アメリカの兵糧攻めに根が尽き

2011年12月07日 09時54分12秒 | 日記
12月8日は太平洋戦争の開戦日である。

日本陸軍が日本時間12月8日未明にイギリス領マレー半島東北端のコタ・バルに接近、午前1時30分に上陸し海岸線で英印軍と交戦し(マレー作戦)、イギリス政府に対する宣戦布告前の奇襲によって太平洋戦争の戦端が開かれた。

続いて日本海軍航空隊によるアメリカ領ハワイのオアフ島にあるアメリカ軍基地に対する攻撃(真珠湾攻撃)も、日本時間12月8日午前1時30分(ハワイ時間12月7日午前7時)に発進して、日本時間午前3時19分(ハワイ時間午前7時49分)から攻撃が開始された。

昭和16年(1941年)のこの日、我が国は米英に対して戦争に突入したのであるが、日本時間12月8日月曜日午前4時20分(ワシントン時間12月7日午後2時20分)に、来栖三郎特命全権大使と野村吉三郎大使が米国務省のコーデル・ハル国務長官に手交した「対米覚書」には戦争をうかがわせる記述が無く、「宣戦布告無しのだまし討ち」であるとアメリカ大統領が議会で発言している。

日本はイギリスに対して開戦に先立つ宣戦布告は行っておらず、対英開戦後の12月8日の朝7時半になってロバート・クレーギー駐日大使を外務省に呼び、ワシントンでハル国務長官に手渡したのと同文の対米「覚書」の写しを手渡したものの、これは正式な宣戦布告ではなかった。同日に、オランダは日本に宣戦布告した。

1937年(昭和12年)に勃発した日中戦争において、大日本帝国政府は当初、現地解決や不拡大方針によって事態の収拾を試みた。しかし政府は軍事行動(対支一撃論)を主張する陸軍を抑えきることができず、情勢は日中両軍による大規模な全面衝突(事変)に発展する。日本軍は、北京や上海などの主要都市を占領、続いて中華民国政府の首都が置かれた南京を陥落させたが、蒋介石総統率いる国民党は首都を後方の重慶に移し抗戦を続けた。国民党軍はアメリカやイギリス、ソ連から軍需物資や人的援助(援蒋ルート)を受け、地の利を活かし各地で抵抗、徐州会戦や武漢会戦が発生した。また正規戦法以外に督戦隊戦法やゲリラ戦術、清野戦術などの戦術を用い日本軍を攪乱した。一方、西安事件を通じ成立した国共合作に基づき中国共産党軍(八路軍)も山奥の延安を拠点に朱徳率いる八路軍や新四軍が日本軍にゲリラ戦を仕掛けた。こうして日華事変の戦線は伸び未曽有の長期戦に陥っていた。

日本と中国は共にアメリカに物資を依存して戦争を行っていた。この時点で日本は石油の6割以上をアメリカから輸入していたため、アメリカなしではそもそも日中戦争の遂行は不可能な状況であった。

こうした状況の中でアメリカは、1941年7月25日には在米日本資産を凍結、8月1日には「全ての侵略国」への石油輸出禁止の方針を決定し、日本に対しても石油輸出の全面禁止という厳しい経済制裁を発令し、イギリスとオランダもただちに同調した(ABCD包囲陣の完成)。当時の日本は事実上アメリカから物資を購入しながら大陸にあった日本の権益を蒋介石軍から守っていた。例えば日米開戦時の国内における石油の備蓄は民事・軍事をあわせても2年分しかなく、禁輸措置は日本経済に対し破滅的な影響を与える恐れがあった。対日制裁を決めた会議の席上、ルーズベルトも「これで日本は蘭印に向かうだろう。それは太平洋での戦争を意味する」と発言している。

その後この戦争は広島、長崎への原爆投下で昭和20年8月15日の敗戦を迎えるのであるが、この戦争は

枢軸国側 戦闘参加国
大日本帝国、タイ王国(1942-45)、満州国、中華民国南京政府、蒙古自治邦政府、自由インド仮政府、ビルマ独立義勇軍(1941-42のビルマ進攻作戦のみ)

連合国側 戦闘参加国
アメリカ合衆国、イギリス、オーストラリア・ニュージーランド連合軍、カナダ、オランダ、中華民国重慶政府、ソビエト連邦(1945)、蒙古人民共和国(1945)、八路軍、自由フランス(1945)

の間で戦われ、民兵・ゲリラなど日本軍支援でつくられた郷土義勇軍のインド国民軍、ビルマ防衛軍、郷土防衛義勇軍(インドネシア)、スマトラ義勇軍、ボルネオ義勇軍、ジャワ防衛義勇軍、マレー義勇軍、マレー義勇隊、越南青年先鋒隊(ベトナム)、フィリピン人義勇軍〈マカピリ〉、比島ラウエル大統領付親衛隊、石家荘白系ロシア人義勇軍(中国)、皇協維新軍(中国)、中華民国臨時政府軍、皇協新中華救国民軍、満洲イスラム教徒騎兵団 など多くの皆さんが我が国を支援してくれたことを忘れてはならない。

焼き味噌をせむと朴の葉拾ひけり

2011年12月01日 16時27分51秒 | 日記
朴葉とは言うまでもなくホオノキの葉である。

 ホオノキは日本全国の広葉樹林に普通に見られるモクレン科の落葉高木で樹高三〇メートル、幹周りは直径一メートル以上にもなる。ホオノキの材は比較的堅く割れにくいので朴歯下駄や版木、和庖丁の柄、俎板、刀の鞘などに利用される。

 ホオノキの葉は大きく、長さ20センチ以上、時には40センチにもなり幅も広い。色は明るい緑で、裏面は白い粉を吹く。このため風で裏返ると白く見えるので遠くからでもホオノキの存在が判るのである。

 ホオノキを語るときに最も特筆すべきはアレロパシー(他感作用)であろう。アレロパシーとは、ある植物が他の植物の生長を抑える物質を放出したり、或いは動物や微生物を防いだり、逆に引き寄せたりすることを言う。ホオノキの樹冠下では、他の植物が生えることは少ない。これは、落葉や根などから分泌される他感物質(アレロケミカル)によって他の植物の発芽や、発芽した植物の生育が強く抑制されるためである。このためホオノキの樹冠下では下草が少なく落葉の堆積が目立つことになる。

 朴葉は大きくて表面がすべすべ滑らかであるため古代から食器代わりに使われてきた。また芳香があり、殺菌作用があるため食材を包んで朴葉寿司や朴葉餅に利用されている。

 私のふるさと静岡では端午の節句を柏餅の代わりに朴葉餅で祝ったから子供の頃には毎年のように山へ朴葉を取りにいったものである。我が家では今でも来客のもてなし料理の青掻敷として朴葉を使うことがある。一貫一〇五円の安い持ち帰り鮨でも朴の青葉に盛り付ければちょいと洒落た一品になる。また、朴葉の端を楊枝で綴じれば簡単に舟形の器も作れる。

 これからの季節は朴の落葉を使った朴葉味噌焼きがお奨めである。

飛騨コンロに豆炭を熾し、赤味噌を味醂や酒で溶いたものに刻み葱や椎茸やシメジや野菜或いは肉などを絡めて枯朴葉に載せて焼くといったシンプルな料理であるが酒の肴にもご飯にもよく合う素朴な一品となる。

火にかける枯朴葉はあらかじめ水に浸して置くことをお忘れなく。