最近、駿府城の天守台の下から豊臣時代の遺構とともに金泊張りの屋根瓦が出土して話題になりました。駿府城は徳川家康の隠居城として「天下普請」として行われました。
本丸堀、二ノ丸堀、三ノ丸堀と三重の堀を持つ駿府城の守りの要の城濠の石垣に使われた石材は静岡市、焼津市、伊豆市などで採取された。また、三河から運ばれた石もある。
天下普請で築かれた城ということもあり、駿府城で使われている石材にはさまざまな刻印があります。これまでに300を超える刻印が見つかっており、刻印の模様は150種類にもなるそうです。
伊豆で切り出された石は駿河湾を渡り巴川を遡って十二双川を経て駿府まで運ばれたそうです。巴川にはその運搬の時に何らかの理由で川の中に落ちてしまった石が残されています。それが引き上げられ保管されている場所があります。
静岡市清水区入江町の魚町交差点を左折すると巴川に架かる稚児橋がある。
慶長2年(1597)徳川家康の命により、初めて巴川に橋が架けられ、その渡り初めの際、川の中から一人の童子が現れ橋脚を登り、忽然と入江方面へ消え去ったという。それが 「巴川に住むカッパ」 として伝えられている。
稚児橋渡り詰め左手に「河童の腰掛石」がある。解説碑によると、平成3年秋の台風により石垣が崩れ、修復工事を行った時、五つの石が掘り出され、稚児橋の河童伝説に因み河童の腰掛石と呼ばれる様になったという。この石は、駿府城を築くため、伊豆から運んだ時に巴川に落ちたものと言われている。
稚児橋の近くには「三ツ石」もある。清水区入江一丁目自治会によって立てられた「三ツ石の由来」の碑によると、この石は徳川家康が駿府城築城の際に、三河から船で運んだものだそうです。ところが陸揚げができず船が転覆し、巴川に埋没してしまったそうです。川に残された三つの大石を里人は「三ツ石」と呼ぶようになり、いつしか石の行方はわからなくなってしまい、言い伝えだけが残ったそうです。
明治27年(1894年)巴川製紙所の工場建設のときに発見され、うち二つを引き上げ門柱としたとのことです。
静岡市立北沼上小学校正門脇に置かれた石には刻印が記されている。外部からの指摘を受けて児童たちが調べてみると、長州藩初代藩主・毛利秀就にゆかりがあることが分かった。江戸初期、「天下普請」として徳川家康が各地の大名に駿府城を築かせた際の名残とみられる。児童が調べ学習を進めると、いろいろなことが分かってきた。市街地北東部の山あいにある北沼上地区には、かつて築城に合わせて石丁場(石切り場)が設けられ、石垣用の石材を産出していた。毛利家に関係する職人が石を運び出す際に刻印を付けたとみられる。同じ刻印の石は駿府城の坤櫓(ひつじさるやぐら)近くで見つかっているという。
切り出した石を運搬途中に落としてしまうと、「城が落ちる」につながるとしてそのまま放棄されたといわれる。正門脇の石もそうした経緯があったかもしれない。児童の祖父が30年ほど前、川べりで見つけて学校に運んだことも判明した。石丁場があった当時の地元の様子は「長尾・平山夜はなし」という言葉で残っているという。長尾・平山は地元の地名。昼夜を問わずにぎわったことが伝わってくる。
運搬している途中、誤って道に落ちてしまい、その場に残された「切石」の碑が長尾川沿いにもあります。
藁科川流域の小瀬戸も石切場の一つ。石切場は山中に二カ所ある。小瀬戸下奥沢は駿府城の城石を切り出した石切り場である。ここには現在でも石を切り出した場所がはっきりと残されている。切り出そうとして刻印を刻んだままの石、大きく楔(くさび)を入れた痕跡(こんせき)などが残されており、駿府城と結びつく立派な文化財である。
藁科川中流の富厚里や奈良間地区でも駿府城の石を切り出した伝承がある。奈良間の八重ヶ瀬(やえがせ)には、大小3個の巨石があった。大きいものは2間四方で、駿府城の城石のため石工が石を割ったところ、石工は事故で死んでしまった。石工たちは事故があった石を城石に使用できないため、石工の霊を慰(なぐさ)めるため念仏を刻んで慰霊(いれい)した。その石を「念仏石」という。画像出典:NPO法人静岡市観光ボランティアガイド駿府ウエイブ。並びに遠江國周智郡住人コクゾーさん。