日々是好舌

青柳新太郎のブログです。
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初詣折戸辨天拝すべし 

2020年01月20日 19時20分29秒 | 日記
はつまうでをりどべんてんはいすべし
瀬織戸神社(静岡市清水区折戸1-16-6)の説明板によると、当神社は約1253年前の神護景雲元年(767年)に建てられたもので、祭神は瀬織津姫(天照大神の第二王女)である。

別名を「辨天様」とも呼ばれ、水難・豊漁・招福・修学等を祈願する神であり、奈良時代には、白い小石を奉納するとイボが取れると信仰されていたそうだ。境内には疣取りを祈願した人が成就の際に自分の年の数だけ奉納した白石がたくさんある。瀬織津姫神を祀った神社は2008年5月現在で日本全国には454社あるそうです。神社の祭神の瀬織津姫(せおりつひめ)は、日本国語大辞典第二版7(小学館)によると『流れの速い川瀬にいて、人の罪やけがれを海に運び去るという女神。』とあります。

津神社はむかし公民館でした

2020年01月19日 15時09分25秒 | 日記
安倍口新田は、徳川家康が駿府城に居た頃・・・1605(慶長10)年4月16日、徳川家康は、将軍職を我が子・秀忠に譲り、駿府を隠居所に決めて、「大御所政治」を行ないます。1607(慶長12)年から1616(元和2)年の間、実質的に駿府城が日本の政治の中心として機能していました・・・駿河国志太郡相川村から相川善七ら7人の農民が移住して開拓した新田です。相川善七の墓は内牧の結成寺にあり、この付近には相川姓が多いです。

安倍口というのは安倍川の流れが賤機山西麓辺にあったころ、駿府から安倍山中への入り口に、この村があたっていたためだそうです。

津神社(つじんじゃ)で検索すると、岐阜県岐阜市にある津神社に行き着く。伊自良川に架かる島大橋の西岸にある。社伝によると、推古天皇の時代、伊勢国安濃郡津(現・三重県津市)より勧請されたという。勧請元の神社名は不明である。

その先は全く不明です。ここまで辿り着いたのは「安倍口新田の庚申塔」で検索した結果です。郷土史に詳しい方の応援をお願いいたします。


藁馬に古き結縄のゆゑ偲ぶ

2020年01月13日 12時57分57秒 | 日記
わらうまにふるきゆなはのゆゑしのぶ
藁算は藁に結び目を作って数量などを表す方法。結縄の一種で、沖縄では藺草やガジュマルの根などを用いて20世紀初頭まで行われた。結縄(けつじょう)とは、紐や縄などの結び目を用いて情報の記録・伝達や計数・演算を行う原始的な情報媒体である。南米のインカ帝国下に行われたキープが最もよく知られている。

『隋書』巻81東夷伝倭国条には、倭人の風俗として「文字無し、唯だ木を刻み縄を結ぶのみ」と記しているが、唐古・鍵遺跡や鬼虎川遺跡など弥生時代の遺跡からは、結び目の付いた大麻の縄やイグサの結び玉と考えられるものも発見されている。

明治時代の人類学者・坪井正五郎が徳川慶喜の侍医・柏原学而から伝え聞いた話によると、現在の静岡市駿河区久能山付近では家々の勝手口に縄が2本下げてあり、塩売りが塩を置いて行く際にその量に従って縄に結び玉を作り、勘定を受け取るときにはこの玉を数える習慣があったそうだ。

また、19世紀の日本では東京盲唖学校の生徒である小林新吉が、いろは47文字に対応した結び目で文章を表記する「むすび文字」を考案した。

画像出典:コトバンク&「土俗的玩具と信仰玩具の記録集」。


石垣の石は小瀬戸や長尾から

2020年01月05日 17時59分33秒 | 日記
最近、駿府城の天守台の下から豊臣時代の遺構とともに金泊張りの屋根瓦が出土して話題になりました。駿府城は徳川家康の隠居城として「天下普請」として行われました。
本丸堀、二ノ丸堀、三ノ丸堀と三重の堀を持つ駿府城の守りの要の城濠の石垣に使われた石材は静岡市、焼津市、伊豆市などで採取された。また、三河から運ばれた石もある。
天下普請で築かれた城ということもあり、駿府城で使われている石材にはさまざまな刻印があります。これまでに300を超える刻印が見つかっており、刻印の模様は150種類にもなるそうです。
伊豆で切り出された石は駿河湾を渡り巴川を遡って十二双川を経て駿府まで運ばれたそうです。巴川にはその運搬の時に何らかの理由で川の中に落ちてしまった石が残されています。それが引き上げられ保管されている場所があります。
静岡市清水区入江町の魚町交差点を左折すると巴川に架かる稚児橋がある。
慶長2年(1597)徳川家康の命により、初めて巴川に橋が架けられ、その渡り初めの際、川の中から一人の童子が現れ橋脚を登り、忽然と入江方面へ消え去ったという。それが 「巴川に住むカッパ」 として伝えられている。
稚児橋渡り詰め左手に「河童の腰掛石」がある。解説碑によると、平成3年秋の台風により石垣が崩れ、修復工事を行った時、五つの石が掘り出され、稚児橋の河童伝説に因み河童の腰掛石と呼ばれる様になったという。この石は、駿府城を築くため、伊豆から運んだ時に巴川に落ちたものと言われている。

稚児橋の近くには「三ツ石」もある。清水区入江一丁目自治会によって立てられた「三ツ石の由来」の碑によると、この石は徳川家康が駿府城築城の際に、三河から船で運んだものだそうです。ところが陸揚げができず船が転覆し、巴川に埋没してしまったそうです。川に残された三つの大石を里人は「三ツ石」と呼ぶようになり、いつしか石の行方はわからなくなってしまい、言い伝えだけが残ったそうです。
明治27年(1894年)巴川製紙所の工場建設のときに発見され、うち二つを引き上げ門柱としたとのことです。

静岡市立北沼上小学校正門脇に置かれた石には刻印が記されている。外部からの指摘を受けて児童たちが調べてみると、長州藩初代藩主・毛利秀就にゆかりがあることが分かった。江戸初期、「天下普請」として徳川家康が各地の大名に駿府城を築かせた際の名残とみられる。児童が調べ学習を進めると、いろいろなことが分かってきた。市街地北東部の山あいにある北沼上地区には、かつて築城に合わせて石丁場(石切り場)が設けられ、石垣用の石材を産出していた。毛利家に関係する職人が石を運び出す際に刻印を付けたとみられる。同じ刻印の石は駿府城の坤櫓(ひつじさるやぐら)近くで見つかっているという。
切り出した石を運搬途中に落としてしまうと、「城が落ちる」につながるとしてそのまま放棄されたといわれる。正門脇の石もそうした経緯があったかもしれない。児童の祖父が30年ほど前、川べりで見つけて学校に運んだことも判明した。石丁場があった当時の地元の様子は「長尾・平山夜はなし」という言葉で残っているという。長尾・平山は地元の地名。昼夜を問わずにぎわったことが伝わってくる。
運搬している途中、誤って道に落ちてしまい、その場に残された「切石」の碑が長尾川沿いにもあります。


藁科川流域の小瀬戸も石切場の一つ。石切場は山中に二カ所ある。小瀬戸下奥沢は駿府城の城石を切り出した石切り場である。ここには現在でも石を切り出した場所がはっきりと残されている。切り出そうとして刻印を刻んだままの石、大きく楔(くさび)を入れた痕跡(こんせき)などが残されており、駿府城と結びつく立派な文化財である。


藁科川中流の富厚里や奈良間地区でも駿府城の石を切り出した伝承がある。奈良間の八重ヶ瀬(やえがせ)には、大小3個の巨石があった。大きいものは2間四方で、駿府城の城石のため石工が石を割ったところ、石工は事故で死んでしまった。石工たちは事故があった石を城石に使用できないため、石工の霊を慰(なぐさ)めるため念仏を刻んで慰霊(いれい)した。その石を「念仏石」という。画像出典:NPO法人静岡市観光ボランティアガイド駿府ウエイブ。並びに遠江國周智郡住人コクゾーさん。