私の原風景の一つに「鎮守の森」がある。記憶の中の「鎮守の森」は黒くてこんもりとしている。小高い丘の頂に小さな社殿があって小学校の帰りによく遊んだものである。
子供の頃は何の意識も持たず、ただ無心に遊んでいただけであったが、今にして思えば黒くてこんもりしていたのはシイの大木に覆われていたからに他ならない。
シイはブナ科の樹木で、樹高は二十五メートルにも達する大木となる。広葉樹であるが落葉はせず、所謂、照葉樹である。
文化人類学という学問の分野に「照葉樹林文化論」というのがある。
日本西半部から中国華南、ブータン、ヒマラヤにかけての照葉樹林帯とこの地域に住む民族の文化要素の類似性を一つの文化圏として捉えようとしたものである。
その内容をつぶさに知るところではないが、シイやクスが茂る「鎮守の森」は、祖先からの宗教観を伝えるのと同時に、その文化を育んだ自然環境としての照葉樹林をかたくなに守ってきた場所なのである。
私が子供の頃に教えられた日本の歴史では、先ず原始時代、石器時代があって、人々は洞窟などに住み、狩猟や漁労や採集などで生活していた。
続く縄文時代には竪穴式住居に住み、縄文式土器を使い、狩猟や漁労や採集を主とした生活をしていた。次の弥生時代になると稲作が伝わり農耕を主とした生活に変わった、といった具合であった。
ところが、最近の考古学では、紀元前約一万年から紀元前約五〇〇年頃まで続いた縄文時代においても、イヌやブタを飼育し、ヒョウタンやウリ、ゴボウ、エゴマ、クリなどの植物を栽培し、縄文時代後期においては穀物の生産も行なわれていたことが明らかになりつつある。
話があらぬ方向へ向いてしまったが、縄文時代の狩猟、漁労、採集の生活とは一体どのようなものであったろうか。
私自身の経験からすれば、狩猟は、クマ、イノシシ、シカ、カモシカ、ウサギ、タヌキ、キツネなどの獣類。キジ、ヤマドリ、カモ、ヤマバト、ウズラ、カケスなどの野鳥類を罠や落とし穴や弓矢を使って行なっていたものと思われる。私はサツマイモ畑を荒らしに来るイノシシを捕えるための落とし穴や野鳥を捕える罠の仕掛けを子供の頃に見た記憶がある。
漁労は骨角製の釣針やヤスのほか魚網や簗や筌などの漁具を使って行なったであろう。日本の河川にはサケやアユやウナギ、ウグイなどが豊富に遡上した。
さて、これからが本題の採取である。山菜の採取を趣味とする私には最も関心のあるところである。縄文時代ならずとも今日の日本でも盛んに採取が行なわれているのである。
先ず、ワラビ、ゼンマイ、コゴミ、ノビル、トトキ、ウド、タラの芽などの山菜類。マツタケ、ハツタケ、シイタケ、シメジなどの菌類。ヤマイモやヤマゴボウや百合根、ワラビ粉、カタクリ粉、クズ粉などの根茎類。アケビ、マタタビ、ヤマブドウ、キイチゴ、ヤマボウシの実などの果実類。シイの実、クルミ、クリ、ドングリ、トチの実、ヒシの実などの堅果類である。
そしてこの堅果類がもっとも安定した収量があり、且つ長期の貯蔵にも耐え得る重要な食料であった。今日でもクリやクルミは普通に食べられている。トチノミはトチ餅に、ドングリも四国の高知あたりでは加工されて今でも食べられていると聞いたことがある。
シイの実もドングリの仲間であるが、一つ違うのは生でも食べられるということである。普通、デンプン類は生で摂取するとデンプン中毒を起こすことがある。生で食べても安全なのはシイの実とヤマイモのデンプンくらいではなかろうか。
今でも福岡の大宰府天満宮では露店で炒ったシイの実を売っているそうであるが、シイの実は軽く炒って食べるのが美味いし、堅い皮を剥くのも楽である。
子供の頃にはたくさんのシイの実を拾っておいて炒って食べたものである。その方法は缶詰の空き缶などに釘で孔を開けて針金で把手を付け、焚き火にかざして炙るのである。当時の悪餓鬼はマッチを持っていたし、マッチがなくても凸レンズと消し炭で簡単に火をおこすことが出来た。
シイの実のところで縄文時代の主食はシイの実やドングリなどの堅果類だったと述べた。
これまでに判っている考古学の成果として、遺跡などから出土して確認されている木の実などは約六〇種類に及ぶ。その中で圧倒的に多いのがドングリやクリなどの堅果類である。
そして注目すべきは、これらの実を収穫するために集落の周辺に意識的に栽培されていた節があるということである。青森県の三内丸山遺跡などの発掘から縄文時代においても人口の密集した集落があったことがわかった。
これらの集落において安定した食料を確保するために縄文人はどうしたのか。集落周辺に作物を栽培或いは保護していただろうし、それぞれの集落の特産品を交易していたことは遺物からも証明されている。
話は少し脇道へ逸れる。
三月三日、桃の節句に供える菱餅は、今では菱形に切った三色の餅を指すが、本来は水草の菱の実に由来するようである。菱の実には烏菱(くろひし)のほかに青・紅・紫があったと『本朝食鑑』にある。
稲作が伝播する前の穀物の中で重要な位置を占めていたのは真菰(まこも)である。マコモは、イネ科マコモ属の多年草。別名ハナガツミ。東アジアや東南アジアに分布しており、日本では全国に見られる。
水辺に群生し、沼や河川、湖などに生育。また食用にも利用される。成長すると大型になり、人の背くらいになる。花期は夏から秋で、雌花は黄緑色、雄花は紫色。葉脈は平行。黒穂菌に寄生されて肥大した新芽(マコモタケ)は食用とされ、古くは万葉集に登場する。
中国、台湾、ベトナム、タイ、ラオス、カンボジアなどのアジア各国でも食用や薬用とされる。さらに、日本では、マコモダケから採取した黒穂菌の胞子をマコモズミと呼び、漆器の顔料として用いる。北米大陸の近縁種 (アメリカマコモ) の種子は古くから穀物として食用とされており、今日もワイルドライスの名で利用されている。以上の記述はマコモで検索した結果です。五月五日には葉・茎を採って角粽(ちまき)を作り、燈心草で繋る。これは我が国の端午の佳例であると『本朝食鑑』にある。
ここで本題のドングリに話を戻す。ドングリは現在でも「かしきり」または「樫豆腐」と呼ばれる食品として食べられている。「かしきり」の「きり」は「葛きり」の「きり」と同義である。「かしきり」は、高知県安芸市の山間地「東川地区」に伝わる、樫の実(あらかしの実)で作る豆腐のことである。
炭焼きが人々の生活を支えていた頃は、「かしきり」が重要な食材であり、「かしきり」作りは、主に留守宅を守る年寄りの仕事でした。この食べ方は朝鮮渡来のもので、韓国では今でも団栗を食べています。
日本では、ここだけに残っている貴重な食文化です。十六世紀に長宗我部元親が朝鮮から帰国するとき、朴好仁一族を連れ帰り、土佐に豆腐・にんにく・樫の実を原料とする「かしきり」の文化を伝たといわれています。以上も検索の結果です。
かしきりの詳しい作り方なども検索できます。
≪注≫写真はネット上に公開されているものをお借りしました。