私が銀座のレストランへ入って本格的なステーキを食べたのは、18歳で上京して働き出してから暫らく経ってからのことであった。食うや食わずの安サラリーマンにとってレストランへ入ってステーキを食うなどは身分不相応な贅沢であった。四〇数年も前のことだが、そのときのことを今でも鮮明に憶えている。
私が田舎にいるときに口にした肉類といえば、卵を産まなくなった廃鶏とか、父が鉄砲で仕留めた猪、野兎、雉、山鳥などの鳥獣であった。父は軍神・橘大隊長で有名な静岡歩兵第三四聯隊の一兵卒として中国大陸を転戦した復員兵であったから射撃の腕は確かなもので、猪狩りの手柄話は耳に胼胝が出来るくらいに聞かされた。
父の猪狩りは猟友会仲間五,六人との巻狩り方式だった。勢子と猟犬が追い立てた猪を腕に覚えの猟師が待ち構えていて仕留めるのである。時には手負いの猪を追って幾つも山を越えることもあった。獲物の猪は肢の間へ丸太を通して担いで運ばれ庭先で解体された。
モツはその場で鍋にされ猟師たちの酒盛りに供された。肉は均等に切り分けられ、戸板に並べ、誰がどの肉を取るかは籤引きで決めた。文字通りの山分けである。このとき猟犬も一人分の分け前に預かるのである。父は常に優秀な猟犬を飼っていたから猪肉はいつも二人前を獲得していた。
猪肉は俗に牡丹という。あれは唐獅子牡丹にかけた洒落だと思うが、腕のよい料理人が皿へ奇麗に盛り付けた猪肉は牡丹の花に見えなくもない。田舎料理の猪鍋はぶつ切りの肉と大根や牛蒡など野菜とのごった煮である。序でに雉や山鳥はどのように料理したかに触れておく。雉や山鳥が獲れたときは炊き込み御飯にした。鶏飯の雉または山鳥バージョンだがこの鳥飯は極めて美味である。
貧しい田舎の生活の中で牛肉にまつわる確かな記憶が一つだけある。それは庚申講の晩の牛飯である。私の田舎では庚申信仰の風習として、集落の各戸持ち回りで庚申講が行なわれていた。庚申信仰というのは中国の道教に基づく民俗信仰で、人間の体内に棲む三匹の善からぬ虫がその人に害をもたらすのみならず庚申の日には天帝にその人物の悪行を告げ口して寿命を縮めてしまうというのである。六〇日周期でくる庚申の日には男女の同衾つまり性交が禁忌とされていたから村の男どもは何をするともなく集まって酒食に興じたのである。庚申講のお供物は牛飯で、順番が我が家のときには腹一杯に牛飯の相伴に預かれたのである。
さて、何時もどおりの悪い癖が出て前置きが長くなった。銀座の裏通りにあったレストランで、身分不相応なステーキを注文した私は興味深い一つの発見をした。さよう、和蘭芥子、即ちクレソンの利用価値についてである。
銀座のレストランのステーキの皿に至極当然に恭しく添えられた植物はどう見ても和蘭芥子である。生家の裏を流れる溝に茂っていた和蘭芥子をよもや見誤ることはない。田舎では錆びた包丁で刻んで米糠と混ぜ合わせ鶏の餌にしていた草である。
周りのテーブルをそれとなく見渡すと鶏の餌を美味そうに食っている客がいた。食わずに皿へ残している奴もいた。口卑しい私は勿論食う方を選択した。少し辛味があって、青臭い感じがしたのを生のクレソンを初めて食べた印象として今でも憶えている。
田舎では鶏の餌にしていた草が、花のお江戸の銀座へくると高価なステーキの副え野菜に変じているのには正直いって吃驚した。早速、最寄の書店の立ち読みで、本に書かれていることを調べた記憶がある。
和蘭芥子は和名で、クレソンというのは元々フランス語のようである。ヨーロッパ特にフランス辺りでは蒲公英の若葉などと同様にサラダにして盛んに生食するとも聞く。クレソンが日本で栽培されたのも上高地のホテルが嚆矢とかで、最初から洋食の材料として持ち込まれたようである。
クレソンの栽培には山葵と同じく清冽な流水が適している。和名は西洋から伝わった芥子の意味で、芥子の名前が示す通り、山葵や大根と同じアブラナ科に属するヨーロッパ原産の渡来植物である。
閑話休題。三五歳のころ敷地二〇坪の建売住宅を買って歌枕「木枯しの森」近くに転居した。近所を流れる藁科川は清流で芋煮会やバーベキューなどをよくやった。そこには滾々と水が湧き出している場所があってクレソンが青々と茂っていた。そこで銀座のレストランでのことを思い出しバーベキューの鉄板で炒めてみた。するとこれがなかなか美味いのである。そこで更に工夫を凝らしベーコンやらコーンビーフやらと一緒に炒めてみると立派な一品料理になった。その後、藁科川のクレソンが住宅ローンに追われる苦しい家計を助けてくれたのは言うまでもない。
◆ 湧き水に浮かぶ和蘭芥子かな 白兎
私が田舎にいるときに口にした肉類といえば、卵を産まなくなった廃鶏とか、父が鉄砲で仕留めた猪、野兎、雉、山鳥などの鳥獣であった。父は軍神・橘大隊長で有名な静岡歩兵第三四聯隊の一兵卒として中国大陸を転戦した復員兵であったから射撃の腕は確かなもので、猪狩りの手柄話は耳に胼胝が出来るくらいに聞かされた。
父の猪狩りは猟友会仲間五,六人との巻狩り方式だった。勢子と猟犬が追い立てた猪を腕に覚えの猟師が待ち構えていて仕留めるのである。時には手負いの猪を追って幾つも山を越えることもあった。獲物の猪は肢の間へ丸太を通して担いで運ばれ庭先で解体された。
モツはその場で鍋にされ猟師たちの酒盛りに供された。肉は均等に切り分けられ、戸板に並べ、誰がどの肉を取るかは籤引きで決めた。文字通りの山分けである。このとき猟犬も一人分の分け前に預かるのである。父は常に優秀な猟犬を飼っていたから猪肉はいつも二人前を獲得していた。
猪肉は俗に牡丹という。あれは唐獅子牡丹にかけた洒落だと思うが、腕のよい料理人が皿へ奇麗に盛り付けた猪肉は牡丹の花に見えなくもない。田舎料理の猪鍋はぶつ切りの肉と大根や牛蒡など野菜とのごった煮である。序でに雉や山鳥はどのように料理したかに触れておく。雉や山鳥が獲れたときは炊き込み御飯にした。鶏飯の雉または山鳥バージョンだがこの鳥飯は極めて美味である。
貧しい田舎の生活の中で牛肉にまつわる確かな記憶が一つだけある。それは庚申講の晩の牛飯である。私の田舎では庚申信仰の風習として、集落の各戸持ち回りで庚申講が行なわれていた。庚申信仰というのは中国の道教に基づく民俗信仰で、人間の体内に棲む三匹の善からぬ虫がその人に害をもたらすのみならず庚申の日には天帝にその人物の悪行を告げ口して寿命を縮めてしまうというのである。六〇日周期でくる庚申の日には男女の同衾つまり性交が禁忌とされていたから村の男どもは何をするともなく集まって酒食に興じたのである。庚申講のお供物は牛飯で、順番が我が家のときには腹一杯に牛飯の相伴に預かれたのである。
さて、何時もどおりの悪い癖が出て前置きが長くなった。銀座の裏通りにあったレストランで、身分不相応なステーキを注文した私は興味深い一つの発見をした。さよう、和蘭芥子、即ちクレソンの利用価値についてである。
銀座のレストランのステーキの皿に至極当然に恭しく添えられた植物はどう見ても和蘭芥子である。生家の裏を流れる溝に茂っていた和蘭芥子をよもや見誤ることはない。田舎では錆びた包丁で刻んで米糠と混ぜ合わせ鶏の餌にしていた草である。
周りのテーブルをそれとなく見渡すと鶏の餌を美味そうに食っている客がいた。食わずに皿へ残している奴もいた。口卑しい私は勿論食う方を選択した。少し辛味があって、青臭い感じがしたのを生のクレソンを初めて食べた印象として今でも憶えている。
田舎では鶏の餌にしていた草が、花のお江戸の銀座へくると高価なステーキの副え野菜に変じているのには正直いって吃驚した。早速、最寄の書店の立ち読みで、本に書かれていることを調べた記憶がある。
和蘭芥子は和名で、クレソンというのは元々フランス語のようである。ヨーロッパ特にフランス辺りでは蒲公英の若葉などと同様にサラダにして盛んに生食するとも聞く。クレソンが日本で栽培されたのも上高地のホテルが嚆矢とかで、最初から洋食の材料として持ち込まれたようである。
クレソンの栽培には山葵と同じく清冽な流水が適している。和名は西洋から伝わった芥子の意味で、芥子の名前が示す通り、山葵や大根と同じアブラナ科に属するヨーロッパ原産の渡来植物である。
閑話休題。三五歳のころ敷地二〇坪の建売住宅を買って歌枕「木枯しの森」近くに転居した。近所を流れる藁科川は清流で芋煮会やバーベキューなどをよくやった。そこには滾々と水が湧き出している場所があってクレソンが青々と茂っていた。そこで銀座のレストランでのことを思い出しバーベキューの鉄板で炒めてみた。するとこれがなかなか美味いのである。そこで更に工夫を凝らしベーコンやらコーンビーフやらと一緒に炒めてみると立派な一品料理になった。その後、藁科川のクレソンが住宅ローンに追われる苦しい家計を助けてくれたのは言うまでもない。
◆ 湧き水に浮かぶ和蘭芥子かな 白兎