ニホンウナギの絶滅が危惧されている。このための国際会議も開かれたようである。
ウナギ減少の理由は
•シラスウナギ、および成魚の乱獲
•河口堰やダムの建設、護岸のコンクリート化など、河川環境の変化
•エルニーニョ現象といった海洋環境の変化
などが挙げられているが、私は合成洗剤などによる水質の悪化が最大の原因ではないかと思っている。なぜなら私が子供のころに鰻はその辺の川や沼で簡単に釣れたし、竹筒を沈めておけば訳もなく獲れた。
職業として長く土木工事の現場監督をしていたが、昔は河川工事で瀬替えなどをすれば鰻といわず鯰といわず鯉や鮒やアユカケなど多くの魚類が獲れたものである。ところが近年ではこれらの魚類はほとんど見られなくなった。漁協はわれわれ工事業者を目の敵にしているが、泥水くらいで死んだ魚を見たことはないし、はなはだ心外であるが金を取るためには建設業者は恰好な標的なのだろう。
私が子供のころのことだから今から50年以上も前のことである。集落の簡易水道の水源を整備することになって大人が大勢集まっていた。
水源は山すその沢の最上流から清冽な水が湧き出していて、残りの水で山葵田を作ってあった。新しい貯水槽を作るために山葵田の石垣を崩したところ50~60センチの鰻が飛び出したのである。沢の下流の水溜りには山女や油鮠などもいたがその下流には水が流れていなかった。鰻は台風などの出水に乗じて遡上したものと思われる。餌は山葵田にたくさんいた沢蟹などを食べていたのだろう。
鰻といえば数年前に清水港へ注ぐ川の汽水域で藻屑蟹を獲るために蟹篭を仕掛けた。餌は鱸の切り身を奮発した。篭を引き上げるとずっしりと重い。中には数匹の藻屑蟹と数尾の鯊、それに1メートル近い天然鰻がはいっていたのである。その日は他の篭にも鰻が入っていて都合3尾の鰻を獲った。鰻は行きつけの鰻屋へ持ち込んだ。河川ではなく、汽水域や外海に生息するウナギは青うなぎと呼ばれ、川魚特有の臭みもなく非常に珍重されるのである。
最近、長野県出身者から聞いた話である。諏訪湖に面した岡谷市が鰻を名物に町おこしをしているそうである。
諏訪湖は天竜川の源であるが、天竜川にダムや水門ができるまでは川を遡ってきた鰻が湖で成長して多くの鰻が獲れたという。
岡谷市内ではその歴史と伝統を受け継ぎ、多数のうなぎ店や川魚店が営業している。うなぎのまち岡谷の会では、鰻の旬は冬であり「寒の土用丑の日」を全国的に定着するよう、真冬に鰻まつりを開催している。諏訪湖畔、釜口水門近くには寒の土用丑の日発祥の地記念碑がある。
「土用丑の日」といえば夏の土用が一般的なのだが、「土用」とは、立春・立秋・立冬のそれぞれの前の18日間のことを言う。夏の土用の丑の日は「う」のつく食べ物や黒い食べ物を食べると良いという習慣があった。これに対して冬の土用の丑の日は、「い」のつく食べ物や白い食べ物を食べると良いとする習慣があったようだ。
夏の土用の丑の日には夏バテ予防として鰻を食べるが、本来ウナギの旬は冬眠に備えて身に養分を貯える晩秋から初冬にかけての時期で、秋から春に比べて夏の鰻は味が落ちるのである。
鰻の漢名は「鰻鱺」(まんれい)。日本では奈良時代の『万葉集』に「武奈伎(むなぎ)」として見えるのが初出で、これがウナギの古称である。院政期頃になって「ウナギ」という語形が登場し、その後定着した。ムナギの語源には諸説あるが、胸が黄色い「胸黄(むなぎ)」からというのが天然鰻をみたことのある私の支持する説である。
古典落語の演目の一つに「薬罐」という噺がある。その噺の中で『鰻』は?という問いに、「昔はヌルヌルしていたのでヌルといった。あるとき鵜がヌルをのみ込んで、大きいので全部のめず四苦八苦」。
「へぇ」
「鵜が難儀したから、鵜、難儀、鵜、難儀、鵜難儀でウナギだ」という、鰻の呼び名についてのくだりがある。
鰻料理では蒲焼が好きである。うな重、櫃まぶし、それに肝焼きは大好物だ。粉山椒をたっぷり振りかけて食す肝焼きは最高だ。
蒸篭蒸しは筑後柳川の有名料亭で食べたが率直に言って不味かった。昨年あたりは鰻が高騰して鰻重が4000円もしたので控えていたが、最近では価格も落ち着いてたまには鰻重を食べることもできる。
いずれにしてもシラスウナギを捕獲して養殖するという今のやり方には限度がある。やはり安定した供給をはかるのには完全養殖を目指すしかないだろう。学者や研究者の皆さんにはあと一息のがんばりを期待したい。
ウナギ減少の理由は
•シラスウナギ、および成魚の乱獲
•河口堰やダムの建設、護岸のコンクリート化など、河川環境の変化
•エルニーニョ現象といった海洋環境の変化
などが挙げられているが、私は合成洗剤などによる水質の悪化が最大の原因ではないかと思っている。なぜなら私が子供のころに鰻はその辺の川や沼で簡単に釣れたし、竹筒を沈めておけば訳もなく獲れた。
職業として長く土木工事の現場監督をしていたが、昔は河川工事で瀬替えなどをすれば鰻といわず鯰といわず鯉や鮒やアユカケなど多くの魚類が獲れたものである。ところが近年ではこれらの魚類はほとんど見られなくなった。漁協はわれわれ工事業者を目の敵にしているが、泥水くらいで死んだ魚を見たことはないし、はなはだ心外であるが金を取るためには建設業者は恰好な標的なのだろう。
私が子供のころのことだから今から50年以上も前のことである。集落の簡易水道の水源を整備することになって大人が大勢集まっていた。
水源は山すその沢の最上流から清冽な水が湧き出していて、残りの水で山葵田を作ってあった。新しい貯水槽を作るために山葵田の石垣を崩したところ50~60センチの鰻が飛び出したのである。沢の下流の水溜りには山女や油鮠などもいたがその下流には水が流れていなかった。鰻は台風などの出水に乗じて遡上したものと思われる。餌は山葵田にたくさんいた沢蟹などを食べていたのだろう。
鰻といえば数年前に清水港へ注ぐ川の汽水域で藻屑蟹を獲るために蟹篭を仕掛けた。餌は鱸の切り身を奮発した。篭を引き上げるとずっしりと重い。中には数匹の藻屑蟹と数尾の鯊、それに1メートル近い天然鰻がはいっていたのである。その日は他の篭にも鰻が入っていて都合3尾の鰻を獲った。鰻は行きつけの鰻屋へ持ち込んだ。河川ではなく、汽水域や外海に生息するウナギは青うなぎと呼ばれ、川魚特有の臭みもなく非常に珍重されるのである。
最近、長野県出身者から聞いた話である。諏訪湖に面した岡谷市が鰻を名物に町おこしをしているそうである。
諏訪湖は天竜川の源であるが、天竜川にダムや水門ができるまでは川を遡ってきた鰻が湖で成長して多くの鰻が獲れたという。
岡谷市内ではその歴史と伝統を受け継ぎ、多数のうなぎ店や川魚店が営業している。うなぎのまち岡谷の会では、鰻の旬は冬であり「寒の土用丑の日」を全国的に定着するよう、真冬に鰻まつりを開催している。諏訪湖畔、釜口水門近くには寒の土用丑の日発祥の地記念碑がある。
「土用丑の日」といえば夏の土用が一般的なのだが、「土用」とは、立春・立秋・立冬のそれぞれの前の18日間のことを言う。夏の土用の丑の日は「う」のつく食べ物や黒い食べ物を食べると良いという習慣があった。これに対して冬の土用の丑の日は、「い」のつく食べ物や白い食べ物を食べると良いとする習慣があったようだ。
夏の土用の丑の日には夏バテ予防として鰻を食べるが、本来ウナギの旬は冬眠に備えて身に養分を貯える晩秋から初冬にかけての時期で、秋から春に比べて夏の鰻は味が落ちるのである。
鰻の漢名は「鰻鱺」(まんれい)。日本では奈良時代の『万葉集』に「武奈伎(むなぎ)」として見えるのが初出で、これがウナギの古称である。院政期頃になって「ウナギ」という語形が登場し、その後定着した。ムナギの語源には諸説あるが、胸が黄色い「胸黄(むなぎ)」からというのが天然鰻をみたことのある私の支持する説である。
古典落語の演目の一つに「薬罐」という噺がある。その噺の中で『鰻』は?という問いに、「昔はヌルヌルしていたのでヌルといった。あるとき鵜がヌルをのみ込んで、大きいので全部のめず四苦八苦」。
「へぇ」
「鵜が難儀したから、鵜、難儀、鵜、難儀、鵜難儀でウナギだ」という、鰻の呼び名についてのくだりがある。
鰻料理では蒲焼が好きである。うな重、櫃まぶし、それに肝焼きは大好物だ。粉山椒をたっぷり振りかけて食す肝焼きは最高だ。
蒸篭蒸しは筑後柳川の有名料亭で食べたが率直に言って不味かった。昨年あたりは鰻が高騰して鰻重が4000円もしたので控えていたが、最近では価格も落ち着いてたまには鰻重を食べることもできる。
いずれにしてもシラスウナギを捕獲して養殖するという今のやり方には限度がある。やはり安定した供給をはかるのには完全養殖を目指すしかないだろう。学者や研究者の皆さんにはあと一息のがんばりを期待したい。