松野城跡
所在 静岡県静岡市葵区松野別所平
歴史 『駿河記』に松野城の記述として「城山、別所の辺なり」とあり、城主として別所・ほつ川・川島の三氏の名を挙げているが、三氏の動向は不明である。
また、この松野城は安倍城の支城として機能していたとされるが、これもまた不明である。
写真の■川氏之碑の読めない字は「渤川・ぼっかわ」と読むそうです。
静岡市葵区松野の「別所平」という丘陵上には、古来、「松野城」という城郭が伝承されていた。
『駿河記』に、「城山別所の辺なり。里人云、むかし別所殿、川島殿、ボッカア殿とて三人の武士居城の地なり。ぼっかおとは里人の訛言にて誤りあるべし。武人の伝絶えて事蹟時代末詳」とある。
さらに、『駿国雑志』・『安倍郡美和村誌』等に「武田家領国の時、滅亡するものか、詳ならず」とあることは、どうも永禄12年(1569)、武田信玄の駿河侵攻に際して討たれたのか、また本地を離れたのか、安否を気遣った村人たちは正月に餅を搗くことなく食べないという習慣が現在もあるという。( 静岡古城研究会 水野茂氏の記述より原文のまま転用)
『駿河記』は文政3(1820)年に島田の桑原藤泰(黙斎)によって完成された地誌です。詳細な実地調査を繰り返し、丹念に考証して駿河全郡を記した地誌として位置づけられています。
渤川氏で検索したらこんな記事に当たりました。
執筆者:竹折直吉
書名・誌名:静岡県史 資料編24 民俗2
話者(引用文献):望月藤一(M40生)
要約:静岡市松野では「セッキの餅はヒゴトに祟る」といい、セッキ(正月)に餅をつくと祟りで火が出る、といってつかない。ついて大火が出たことがある。昔、この地を支配していたボッカーさん(渤川氏)が桶狭間の戦いに出陣する際、万一帰らなかったら無念を晴らすために正月の餅はつかないように、と言い残した。ボッカーさんは桶狭間で戦死したため、その供養で餅はつかない。
所在 静岡県静岡市葵区松野別所平
歴史 『駿河記』に松野城の記述として「城山、別所の辺なり」とあり、城主として別所・ほつ川・川島の三氏の名を挙げているが、三氏の動向は不明である。
また、この松野城は安倍城の支城として機能していたとされるが、これもまた不明である。
写真の■川氏之碑の読めない字は「渤川・ぼっかわ」と読むそうです。
静岡市葵区松野の「別所平」という丘陵上には、古来、「松野城」という城郭が伝承されていた。
『駿河記』に、「城山別所の辺なり。里人云、むかし別所殿、川島殿、ボッカア殿とて三人の武士居城の地なり。ぼっかおとは里人の訛言にて誤りあるべし。武人の伝絶えて事蹟時代末詳」とある。
さらに、『駿国雑志』・『安倍郡美和村誌』等に「武田家領国の時、滅亡するものか、詳ならず」とあることは、どうも永禄12年(1569)、武田信玄の駿河侵攻に際して討たれたのか、また本地を離れたのか、安否を気遣った村人たちは正月に餅を搗くことなく食べないという習慣が現在もあるという。( 静岡古城研究会 水野茂氏の記述より原文のまま転用)
『駿河記』は文政3(1820)年に島田の桑原藤泰(黙斎)によって完成された地誌です。詳細な実地調査を繰り返し、丹念に考証して駿河全郡を記した地誌として位置づけられています。
渤川氏で検索したらこんな記事に当たりました。
執筆者:竹折直吉
書名・誌名:静岡県史 資料編24 民俗2
話者(引用文献):望月藤一(M40生)
要約:静岡市松野では「セッキの餅はヒゴトに祟る」といい、セッキ(正月)に餅をつくと祟りで火が出る、といってつかない。ついて大火が出たことがある。昔、この地を支配していたボッカーさん(渤川氏)が桶狭間の戦いに出陣する際、万一帰らなかったら無念を晴らすために正月の餅はつかないように、と言い残した。ボッカーさんは桶狭間で戦死したため、その供養で餅はつかない。