日々是好舌

青柳新太郎のブログです。
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戦艦の砲身建てた平和塔

2020年12月10日 14時54分20秒 | 日記
長田平和塔
『大正14年11月23日に海軍省から横鎮長官宛に訓令
廃兵器無償下附ノ件
横須賀海軍々需部保管ノ右記廃兵器ヲ附記ノ者ニ無償下附方取計フべシ
但シ現品搬出ニ要スル費用ハ下附ヲ受クル 者ノ負担トス
右訓令ス

一、四十五口径露式二十五糎 VI型砲身 番号呉三一 一門
一、四十五口径十ニ糎二号徹甲弾 九個
一、四十五糎魚型水雷 頭部共 一個
一、浮標水雷缶内機ヲ除ク 一個
一、鉄鏈 一ニ粍ノモノ 一〇米以内
静岡県阿倍郡長田村村長宛』

由来の案内板によれば、海軍駆逐艦砲身及び砲弾丸などの下賜を受け、大正15年1月起工、8月に忠魂塔として竣工した。
忠魂塔建設諸費の予算は金七千円で、内訳は、忠魂塔建設工事費金六千百六十九円五十九銭也。
工事監督費金百三十円四十一銭也。
除幕式費金七百円也。

元々は、正面に東郷平八郎元帥による「極天護皇基」の五文字があった。日清日露日独の三役に出征し戦死された長田村出身者の尽忠報国の勲功を讚え、また親慰籍のため、村民の寄付土地と拠金により完成した。その後、満洲、支那事変、大東亜戦争などの戦没者も追悼慰霊してきた。

平成6年9月、大東亜戦争敗戦から50年、経年劣化により地震被害が心配されたため、砲身を短く切断し台座の補強を行ない、名前も「長田平和塔」と改名された。台座の「忠魂塔記」によれば、この砲身は大正四年呉工廠所鋳造四十五口径露式二十五糎 VI型砲身(番号呉三一 号)で、かつて軍艦「周防」甲板上にあり青島(チンタオ)の独軍を威嚇した、とある。

「周防(すおう)」は、元はロシア太平洋艦隊の戦艦「ポベーダ」であったが、日露戦の折に旅順で鹵獲され日本海軍に編入されたもの。第一次世界大戦では青島攻略戦に参加、第二艦隊の旗艦であった。大正11年のワシントン軍縮条約で除籍・解体となった。

人助け竜宮小僧祀る里

2020年12月06日 16時46分51秒 | 日記
竜宮小僧の伝説

昔むかし、久留女木川(都田川の上流部)には、大淵と呼ばれる深い淵があった。その青々と水をたたえる淵の底は、竜宮に通じているといわれていた。 
 田植えのころ、村人は、忙しさに猫の手も借りたい思いで「誰か手伝ってくれんかのー」とつぶやくと、不意に大淵から小僧が飛び出してきて「オレ、手伝うぜ」といって田植えを手伝ってくれた。そして夕方になると、どこかへ帰ってしまった。 
 また、夏の日の午後、急に真っ黒い雲が湧き出て、見る間に滝のような大雨が降りだした。田んぼ仕事をしていた村人は帰る間もなく「あっ、困った。干し物が濡れてしまう」と思いきや、また大淵から小僧が出てきて、村中の干し物をよせてくれた。 
 村人が「お前はどこの小僧さんだね?」と尋ねても「どこでもいいじゃないけ」と笑って何も話さない。でも村人は、この不思議な小僧を、竜宮に通じる大淵から来る「竜宮小僧」と呼んで可愛がり、小僧も村人と、とても仲良くなった。
 「おい、小僧さん。いつも手伝ってもらうで、ご馳走したいが、何が好きかな?」と聞くと「何でもいいが、蓼汁だけは食わせないでおくんなさい」と、ひどく蓼汁を嫌っていた。
 ところが、ある日のこと。村人が誤って蓼汁を出してしまった。そうとは知らずに一口飲んだ小僧は「こりゃいかん!」といったかと思うと倒れ込み「久留女木の中茂にある榎木の下に葬ってほしい」といい残して死んでしまった。


 村人はひどく悲しみ、泣く泣く竜宮小僧の亡骸を、言われたとおりに榎木の下に葬った。するとその木の根元からこんこんと水が湧き出した。村人はその水を利用して、たくさんの田んぼを作った。それが久留女木の棚田であるという。
 困っている人には誰にでも手を差し伸べ、自らは名乗ることもなく、見返りも求めず、死んでもなお棚田の水源となり、今も村に恩恵を与えてくれる竜宮小僧。久留女木の村人たちは、田んぼを満たしてくれる竜宮小僧の湧き水に、今も感謝の気持ちを込め、田植えや稲刈りの後には供物をして手を合わせている。
この竜宮小僧の伝説は、伝説の中での話であり、夢物語である。と一般的には考えられておりますが、実際に存在していた話なのです。
 まず「竜宮小僧」の読み方ですが、「りゅうぐうこぞう」では、ありません。「りゅうぐうしょうそう」と読むのが正しい読み方です。つまり「竜宮」に使える「小僧(しょうそう)」と言う意味で、「小僧」とは、未熟な僧、或いは、謙遜している僧を表します。
 そして、棚田のある久留女木地区の山沿いの道を北へ辿って直ぐの所、浜松市北区引佐町渋川の古東土(ふるとうど)地区には、実際に「竜宮」は、存在しております。
浜松市北区引佐町渋川の宮脇(みやわき)地区には、古代、竜王院が、住んでいたとされる御座跡が、存在しております。

つまり「竜宮(りゅうぐう)」とは、仏教上の話で、「法華経」を守護し、その教えを衆生に広める救世主である「竜王院」が、奉っている「宮」と言うことになります。更に竜王院の墓は、浜松市北区引佐町渋川の大代(おおじろ)に存在しております。画像および解説の出典は「いだいら観音の里」。



粟ケ岳無間の鐘は井戸の底

2020年12月05日 13時20分05秒 | 日記
 粟ケ岳(あわがたけ、あわんたけ。別名無間山)は、静岡県掛川市と島田市に跨る標高532mの山である。山頂は掛川市東山に属し、島田市との市境までは約200mほどである。山頂には阿波々神社があり遠州七不思議の一つ無間の鐘の伝承がある。

 山頂近くの南東斜面にはヒノキが『茶』の文字に植林されており、島田方面や牧之原台地上から見ることができる。当初(昭和7年)は松が植えられたが、マツクイムシによる枯損から、昭和58年にヒノキに植え替えられた。

 過去の山の姿は、江戸時代の安藤広重「東海道風景図会」の一枚に描かれているほか、昭和時代初期の東海道から見た風景絵葉書にも残る。これらの時代には山頂付近にしか樹木は存在せず、山の大部分は草地となっていた。

 阿波々神社(あわわじんじゃ)は、静岡県掛川市初馬にある神社。粟ヶ岳の山頂付近に鎮座する。祭神として阿波比売命を祀り、736年に創建された。阿波々神社の境内には、素戔嗚命と櫛稲田姫を祀った八重垣神社も併設されている。周辺は照葉樹林に覆われており、この林は「阿波々神社の社叢」として掛川市が文化財に指定し、天然記念物として保護している。また、この森の中では大きな岩が散見されるが、それらは磐座として祀られていた。736年の創建以来、延喜式内社に列せられ崇敬を集め、掛川城城主の保護を受けてきた。

 遠州七不思議のひとつにも挙げられる「粟ヶ岳の無間の鐘」の伝承では、鐘を井戸に投げ込んだと伝えられているが、その井戸が境内に残されている。無間の鐘(むけんのかね)とは、静岡県、佐夜の中山にあった曹洞宗の観音寺の鐘。この鐘をつくと現世では金持ちになるが、来世で無間地獄に落ちるという。