長田平和塔
『大正14年11月23日に海軍省から横鎮長官宛に訓令
廃兵器無償下附ノ件
横須賀海軍々需部保管ノ右記廃兵器ヲ附記ノ者ニ無償下附方取計フべシ
但シ現品搬出ニ要スル費用ハ下附ヲ受クル 者ノ負担トス
右訓令ス
記
一、四十五口径露式二十五糎 VI型砲身 番号呉三一 一門
一、四十五口径十ニ糎二号徹甲弾 九個
一、四十五糎魚型水雷 頭部共 一個
一、浮標水雷缶内機ヲ除ク 一個
一、鉄鏈 一ニ粍ノモノ 一〇米以内
静岡県阿倍郡長田村村長宛』
由来の案内板によれば、海軍駆逐艦砲身及び砲弾丸などの下賜を受け、大正15年1月起工、8月に忠魂塔として竣工した。
忠魂塔建設諸費の予算は金七千円で、内訳は、忠魂塔建設工事費金六千百六十九円五十九銭也。
工事監督費金百三十円四十一銭也。
除幕式費金七百円也。
元々は、正面に東郷平八郎元帥による「極天護皇基」の五文字があった。日清日露日独の三役に出征し戦死された長田村出身者の尽忠報国の勲功を讚え、また親慰籍のため、村民の寄付土地と拠金により完成した。その後、満洲、支那事変、大東亜戦争などの戦没者も追悼慰霊してきた。
平成6年9月、大東亜戦争敗戦から50年、経年劣化により地震被害が心配されたため、砲身を短く切断し台座の補強を行ない、名前も「長田平和塔」と改名された。台座の「忠魂塔記」によれば、この砲身は大正四年呉工廠所鋳造四十五口径露式二十五糎 VI型砲身(番号呉三一 号)で、かつて軍艦「周防」甲板上にあり青島(チンタオ)の独軍を威嚇した、とある。
「周防(すおう)」は、元はロシア太平洋艦隊の戦艦「ポベーダ」であったが、日露戦の折に旅順で鹵獲され日本海軍に編入されたもの。第一次世界大戦では青島攻略戦に参加、第二艦隊の旗艦であった。大正11年のワシントン軍縮条約で除籍・解体となった。
『大正14年11月23日に海軍省から横鎮長官宛に訓令
廃兵器無償下附ノ件
横須賀海軍々需部保管ノ右記廃兵器ヲ附記ノ者ニ無償下附方取計フべシ
但シ現品搬出ニ要スル費用ハ下附ヲ受クル 者ノ負担トス
右訓令ス
記
一、四十五口径露式二十五糎 VI型砲身 番号呉三一 一門
一、四十五口径十ニ糎二号徹甲弾 九個
一、四十五糎魚型水雷 頭部共 一個
一、浮標水雷缶内機ヲ除ク 一個
一、鉄鏈 一ニ粍ノモノ 一〇米以内
静岡県阿倍郡長田村村長宛』
由来の案内板によれば、海軍駆逐艦砲身及び砲弾丸などの下賜を受け、大正15年1月起工、8月に忠魂塔として竣工した。
忠魂塔建設諸費の予算は金七千円で、内訳は、忠魂塔建設工事費金六千百六十九円五十九銭也。
工事監督費金百三十円四十一銭也。
除幕式費金七百円也。
元々は、正面に東郷平八郎元帥による「極天護皇基」の五文字があった。日清日露日独の三役に出征し戦死された長田村出身者の尽忠報国の勲功を讚え、また親慰籍のため、村民の寄付土地と拠金により完成した。その後、満洲、支那事変、大東亜戦争などの戦没者も追悼慰霊してきた。
平成6年9月、大東亜戦争敗戦から50年、経年劣化により地震被害が心配されたため、砲身を短く切断し台座の補強を行ない、名前も「長田平和塔」と改名された。台座の「忠魂塔記」によれば、この砲身は大正四年呉工廠所鋳造四十五口径露式二十五糎 VI型砲身(番号呉三一 号)で、かつて軍艦「周防」甲板上にあり青島(チンタオ)の独軍を威嚇した、とある。
「周防(すおう)」は、元はロシア太平洋艦隊の戦艦「ポベーダ」であったが、日露戦の折に旅順で鹵獲され日本海軍に編入されたもの。第一次世界大戦では青島攻略戦に参加、第二艦隊の旗艦であった。大正11年のワシントン軍縮条約で除籍・解体となった。