日々是好舌

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安倍城に 歴史刻みて 夢遠し

2014年02月14日 16時23分29秒 | 日記
 日本史の中に南北朝時代という一時代がある。
 一般的には鎌倉時代の後で、元弘の変や建武の新政も南北朝時代の事件として含まれる。正確には、1336年(延元元年/建武3年)に足利尊氏による光明天皇の践祚、後醍醐天皇の吉野転居により朝廷が分裂してから、1392年(元中9年/明徳3年)に皇室が合一するまでの時代を指す。これは室町時代の初期に当たる。歴史上の人物でいえば足利尊氏、新田義貞、楠正成、名和長年などが活躍した時代だ。

 この時代には、南朝(大和国吉野行宮)と北朝(山城国平安京)二つの朝廷が存在し、それぞれ正統性を主張した。因みに後の皇室は南朝を正統としている。

 安倍城は、南北朝時代に駿河南朝方の武将狩野介貞長が築いた山城である。貞長は駿河の在地豪族で、建武の新政の時、武者所結番を勤めて禁中警護のために都にいたが、1337年に後醍醐天皇が吉野に逃れて南朝を樹立すると、貞長は本拠の駿河に戻り、南朝方として北朝方の足利一門の武将今川範国と対立した。

 狩野氏は藤原南家流武智麻呂の四男乙麿の子孫で,伊東氏,工藤氏,河津氏と同族。伊東家次の四男茂光が工藤介,その子の宗茂が狩野介を称した。狩野介とは代々に亘って伊豆介に任官している狩野氏当主の尊称であり富樫介、秋田城介などと並ぶ「八介」のひとつである。

 狩野氏の本拠は内牧城であったが、より峻険な山城の安倍城を築き、更にその周辺に城砦群を築き、安倍城を中心として今川氏と戦闘を繰り広げた。後醍醐天皇の皇子宗良親王・興良親王が、一時、安倍城に入城したこともある。

 興国5年(1344年)後醍醐天皇の第八皇子である宗良親王が安倍城に入った時、安倍城山頂から富士山を望んだ感動を詠んだとする歌が宗良親王の歌集「李花集」にある。

見せばやな語らばさらに言の葉もおよばぬ不二の高嶺なりけり  

返し

思いやる方さへそなき言の葉の及ばぬ富士の聞くにつけても


 今川範国は、遠江南朝方の井伊氏を攻撃した後、1338年に安倍城に籠る南朝方を攻撃した。1350年には、安倍城を拠点とする狩野孫左衛門尉、石堂義房の家人佐竹兵庫亮、中山左衛門尉らの出撃に対し、今川範氏の援将伊達景宗(駿河伊達氏)が今川勢を率いて駿府周辺で戦い、翌年9月にも手越河原で激戦を展開し、更に同年11月に駿河府中を占拠する中賀野掃部助、入江駿河守らと戦い、これらを久能山城に撃退した。こうして南朝方勢力は次第に今川氏に押し込まれ、14世紀末頃には狩野氏も今川氏に服属し、安倍城は廃城になったと推測されている。

 安倍城は、標高435m、比高385mの峻険な山城である。築城技術の発達していなかった南北朝時代の城は、高所にある天険の要害に拠ったものが多いが、安倍城もそうした城の一つである。

 安倍城址は写真の山頂付近にあります。