久しぶりのグルメ記事である。今回は、ひちふく岡部店の「いかの鉄砲寿司」だ。有名な駅弁に「いか飯」というのがあるが、あちらは詰めてあるのがもち米で、こちらは酢飯であるからちょっとばっかり趣が違う。
東海道岡部宿(おかべじゅく)は、東海道五十三次の21番目の宿場である。 現在は合併により静岡県藤枝市岡部町となっている。江戸時代の岡部名物といえば淡雪豆腐(あわゆきとうふ)ということになる。淡雪豆腐は柔らかく仕上げた豆腐で茶飯や香の物といっしょに出されていたらしい。
因みに次の宿場藤枝宿の名物は瀬戸の染め飯と辛い漬物「ほととぎす漬」であったが、現在では焼津市の焼酎屋本店が「ほととぎす漬」の伝統を守っている。辛いものがお好みの方には是非お薦めしたい一品である。
「ほととぎす漬」は酒かすに漬けたウリにからしを塗り、塩漬けしたシソの葉で巻いた珍味。「涙が出るほど辛い」と気に入った武士が名付けたとされ、藤枝宿の名物として江戸時代から昭和初期まで東海道の旅人に人気があった。
以下は蛇足であるが、東海道の宿場ごとに名物があった。由比宿はたまご餅、江尻宿(清水)では追分羊羹、古庄のうさぎ餅、府中(静岡)では安倍川餅、丸子宿ではとろろ汁、宇津の谷では十団子、島田宿では小まんじゅう、菊川では菜飯田楽、小夜の中山では子育て飴、掛川宿では振袖餅といった具合である。
私は数年前に短期間であったがここ岡部町に所在する建設会社に勤務したことがある。私の自宅からは国道1号線バイパスを利用すれば30分程度で通勤できる隣町だ。
明治時代に東海道本線が敷設されたときに鉄道が海岸線に沿って静岡、用宗、焼津、藤枝・・・・と、敷設されたため岡部宿は急速に宿場町としての賑わいを失った。
一部には住民が蒸気機関車の煙や火の粉を心配して線路の建設を拒んだ所謂『鉄道忌避伝説』という俗説もあるが、当時の新聞記事や県の上申書には東海道の各宿で積極的な誘致運動が展開されていたという記録こそあれ、反対運動があったという記録はない。
『鉄道忌避伝説』は、東海道の宿場町の大半が鉄道の恩恵を蒙ったのに岡部宿は例外的に外れたことに対する無理なこじつけなのだろう。
現在、これという名所旧跡があるわけではないが、宿場時代の大旅籠「柏屋」というのが残っていて見学できる。町内の兵隊寺(常昌院)というお寺の兵隊の人形は一見の価値がある。
遼陽城頭夜はたけて 有明月の影すごく 霧立ちこむる高梁の 中なる塹壕声絶えて・・・・「敵の陣地の中堅ぞ先ず首山堡を乗っとれと三十日の夜深く前進命令たちまちに下る三十四連隊橘大隊一線に」と、軍歌「橘中佐」にも歌われた、軍神、橘周太中佐率いる静岡歩兵第三十四聯隊は、日露戦争初期最大の激戦首山堡(しゅざんぽう)の闘いで勝利するものの、23,615名もの死者を出し、橘中佐は戦死する。
この勝利を最も喜んだのは中国の人々で、家の軒に日章旗を掲げ日本軍を歓迎したようだ。日本が勝ったおかげで朝鮮も中国もロシアの植民地にならなくて済んだのである。もっといえば負けていたら日本も植民地になっていたかもしれないのだ。
大東亜戦争後、日本軍を悪とする戦勝国米国の教育により日本軍がなんだか中国にひどいことをしてきたとされているが、一面では日本軍が西欧列強から中国、朝鮮を守っていたのだ。
さて、この静岡歩兵第三十四聯隊に入隊し戦死した地元の兵隊さんの人形を作って祀っているのが兵隊寺で一体一体本人を参考に作られている。
宿場の中ほどにサッカー選手のゴン中山の生家があって父親の儀助氏は町会議員なども勤めたことがあり、テレビ出演などちょっとしたタレント活動もしているようだ。
そのほか昔の東海道の松並木が残っていたり、「小野小町姿見の橋」などというのもある。この橋は、絶世の美女として名高い小野小町が夕日に映える西山の景色に見とれていたが、ふと下を見下ろすと長旅で疲れ果てた自分の顔が目に入った。その老いの身の上を嘆いたとされる橋である。この橋は宿場の中にあるが橋長僅か1メートルほどの短い橋であるから注意していないと見過ごしてしまうだろう。
さて、写真の「いかの鉄砲寿司」であるが、旧・岡部町役場の南側、元の国道1号線沿いにある「ひちふく」というおにぎり屋の商品である。壁にゴン父中山儀助氏の色紙なども掲げてあるこの店にはクチナシの染飯のおにぎりなど変わった商品もあって味もなかなか結構である。
当地ご通行のみぎりには宿場酒「初亀」と共にこの「いかの鉄砲寿司」をお薦めしたい。
なお、岡部町の朝比奈地区は有名な朝比奈玉露の産地であるが、上の写真の湯飲みにあるのは安い煎茶の出がらしである。
大事なことを忘れるところだった。岡部町といえば俳人・村越化石氏の生まれ故郷である。私は村越氏の生家のすぐ近くで工事をしたことがある。
◆ 望郷の目覚む八十八夜かな 化石
東海道岡部宿(おかべじゅく)は、東海道五十三次の21番目の宿場である。 現在は合併により静岡県藤枝市岡部町となっている。江戸時代の岡部名物といえば淡雪豆腐(あわゆきとうふ)ということになる。淡雪豆腐は柔らかく仕上げた豆腐で茶飯や香の物といっしょに出されていたらしい。
因みに次の宿場藤枝宿の名物は瀬戸の染め飯と辛い漬物「ほととぎす漬」であったが、現在では焼津市の焼酎屋本店が「ほととぎす漬」の伝統を守っている。辛いものがお好みの方には是非お薦めしたい一品である。
「ほととぎす漬」は酒かすに漬けたウリにからしを塗り、塩漬けしたシソの葉で巻いた珍味。「涙が出るほど辛い」と気に入った武士が名付けたとされ、藤枝宿の名物として江戸時代から昭和初期まで東海道の旅人に人気があった。
以下は蛇足であるが、東海道の宿場ごとに名物があった。由比宿はたまご餅、江尻宿(清水)では追分羊羹、古庄のうさぎ餅、府中(静岡)では安倍川餅、丸子宿ではとろろ汁、宇津の谷では十団子、島田宿では小まんじゅう、菊川では菜飯田楽、小夜の中山では子育て飴、掛川宿では振袖餅といった具合である。
私は数年前に短期間であったがここ岡部町に所在する建設会社に勤務したことがある。私の自宅からは国道1号線バイパスを利用すれば30分程度で通勤できる隣町だ。
明治時代に東海道本線が敷設されたときに鉄道が海岸線に沿って静岡、用宗、焼津、藤枝・・・・と、敷設されたため岡部宿は急速に宿場町としての賑わいを失った。
一部には住民が蒸気機関車の煙や火の粉を心配して線路の建設を拒んだ所謂『鉄道忌避伝説』という俗説もあるが、当時の新聞記事や県の上申書には東海道の各宿で積極的な誘致運動が展開されていたという記録こそあれ、反対運動があったという記録はない。
『鉄道忌避伝説』は、東海道の宿場町の大半が鉄道の恩恵を蒙ったのに岡部宿は例外的に外れたことに対する無理なこじつけなのだろう。
現在、これという名所旧跡があるわけではないが、宿場時代の大旅籠「柏屋」というのが残っていて見学できる。町内の兵隊寺(常昌院)というお寺の兵隊の人形は一見の価値がある。
遼陽城頭夜はたけて 有明月の影すごく 霧立ちこむる高梁の 中なる塹壕声絶えて・・・・「敵の陣地の中堅ぞ先ず首山堡を乗っとれと三十日の夜深く前進命令たちまちに下る三十四連隊橘大隊一線に」と、軍歌「橘中佐」にも歌われた、軍神、橘周太中佐率いる静岡歩兵第三十四聯隊は、日露戦争初期最大の激戦首山堡(しゅざんぽう)の闘いで勝利するものの、23,615名もの死者を出し、橘中佐は戦死する。
この勝利を最も喜んだのは中国の人々で、家の軒に日章旗を掲げ日本軍を歓迎したようだ。日本が勝ったおかげで朝鮮も中国もロシアの植民地にならなくて済んだのである。もっといえば負けていたら日本も植民地になっていたかもしれないのだ。
大東亜戦争後、日本軍を悪とする戦勝国米国の教育により日本軍がなんだか中国にひどいことをしてきたとされているが、一面では日本軍が西欧列強から中国、朝鮮を守っていたのだ。
さて、この静岡歩兵第三十四聯隊に入隊し戦死した地元の兵隊さんの人形を作って祀っているのが兵隊寺で一体一体本人を参考に作られている。
宿場の中ほどにサッカー選手のゴン中山の生家があって父親の儀助氏は町会議員なども勤めたことがあり、テレビ出演などちょっとしたタレント活動もしているようだ。
そのほか昔の東海道の松並木が残っていたり、「小野小町姿見の橋」などというのもある。この橋は、絶世の美女として名高い小野小町が夕日に映える西山の景色に見とれていたが、ふと下を見下ろすと長旅で疲れ果てた自分の顔が目に入った。その老いの身の上を嘆いたとされる橋である。この橋は宿場の中にあるが橋長僅か1メートルほどの短い橋であるから注意していないと見過ごしてしまうだろう。
さて、写真の「いかの鉄砲寿司」であるが、旧・岡部町役場の南側、元の国道1号線沿いにある「ひちふく」というおにぎり屋の商品である。壁にゴン父中山儀助氏の色紙なども掲げてあるこの店にはクチナシの染飯のおにぎりなど変わった商品もあって味もなかなか結構である。
当地ご通行のみぎりには宿場酒「初亀」と共にこの「いかの鉄砲寿司」をお薦めしたい。
なお、岡部町の朝比奈地区は有名な朝比奈玉露の産地であるが、上の写真の湯飲みにあるのは安い煎茶の出がらしである。
大事なことを忘れるところだった。岡部町といえば俳人・村越化石氏の生まれ故郷である。私は村越氏の生家のすぐ近くで工事をしたことがある。
◆ 望郷の目覚む八十八夜かな 化石