京都楽蜂庵日記

ミニ里山の観察記録

時間についての考察 XV:時間の矢、時間の環

2019年07月04日 | 時間学

 

  時間は宇宙的、物理的、生物的、心理的あるいは経済的時間などいくらでも分類できる。ここでは生物的時間について考えてみる。

 

     『生物学者の思索と遍歴 / 八杉龍一著』より転載

   進化は逆戻りしないといわれているので、一応ここでは時間は直線的に一方向に流れる(時間の矢)。そして個体(ヒト)レベルでは発生のプログラムに従って生まれ育ち、最後は老化して死ぬ(時間の矢)。これも後戻りはない。しかし、途中で生殖し子供を生むので、種としてのサイクル(環)がみられる。すなわち、誕生→死によって個体は死ぬが、子孫が残り、これが繰り返される。これを進化軸を上向きにとって図式化すると、螺旋が描ける。さらに細かくみると、地球上では、生物は周期的な変化(日周性、年周期、月周期、ほぼ半月の潮汐周期など)にさらされており、体内にはこれに適応的に働く生物時計の仕組みを備えている。図の螺旋の線自体が、螺旋のバネのような構造になっている。生物の時間とはこのように、直線と環が組み合わさってできたものと考えればよい。

追記 (2019/08/02)

スティーヴン・グールド『時間の矢・時間の環』(渡辺政隆訳、工作舎 1990)は、チャールズ・ライエルの地球の歴史にかかわる「斉一説」について論じたものであるが、時間の矢と環についても詳細な議論を展開している。「矢か環か?」の二分法は、そもそもどちらが正しいかの選択を前提にしたものではなく、弁証法的な方法であると述べている。 時間の矢は聖書の思想であり、ユダヤの教えであるとする。それ以外の世界では時間の循環という考え方であった。

「矢の時間」では歴史は反復しない事象の一方向の連続で、各一瞬は時間の流れのなかで、独特の位置を占め、関連した出来事が流れ物語が作られる。一方、「環の時間」では根本的な状態は時間に内在し、見かけの運動は反復する環の一部であり、様々な過去が、未来で再び現実のものとして繰り返される。そこでは時間は方向性はない。因果律は短い時間ではあるが長い時間ではなくなるという不思議がある。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

時間についての考察 XIV 疎外と時間について

2019年07月03日 | 時間学

 

 

 神と人間の関係で、疎外 (Entfremdung)の本質を抽出したのは、ルートビィッヒ•フォイエルバッハ (1804-72)であった。フォイエルバッハはベルリン大学でヘーゲルの影響を受けた哲学者である。その著「キリスト教の本質」は、キリスト教とその神学の人間学的秘密を解き明かした歴史的な書である。愛と感性と身体を原理として掲げ、宗教や信仰に含まれる欺瞞性を暴露し、マルクスやエンゲルス、ニーチェなどに影響を与えた。フォイエルバッハによると、神はもともと人間自身の本質、その力と能力を映し出したもので、人間が一番大切で神聖なるものと感じたものの名前をリストアップしたものであるとした。言い換えると、神は有限な現実の人間存在そのものであると言える。フォイエルバッハは宗教を撤廃するのではなくて、媒介と宥和の愛による「神と人間の真の統一」を説いた。「愛は人間を神にし神を人間にする」とした。ところが、主客転倒がおきて、人間が脳で創造したものが、神は天におり、宇宙も人間も創造した絶対者とされてしまった。樹からほり出した木像を拝んでいるうちに、その木像が自分をこの世に生み出したとする錯覚が生じたのである。西洋では、神は教会やそれと結びついた国家を通じて、人の生活や人生を支配するようになった。神が人間から引き離され、人間が自己疎外されること、つまり人間の最高の本質が人間の手の届かない所に置かれて、人間自身が疎外されるにいたった。そして、「キリスト教の本質」は宗教の虚偽性を暴露した本としてではなく、この疎外という哲学概念を誕生させた著書として有名になった。

  若きマルクスは『経済学•哲学草稿』において、つぎのように考えた。資本主義においては資本が「神」に相当する。資本は自分を増殖させることを目的にするが、労働は価値の源泉で、資本は蓄積された労働である。労働者は労働によって資本を増やすが、それは自分のものにならず、敵対的で搾取を拡大するものとなる。マルクスは賃労働が生み出す疎外を4つに分類した。まず、自分が生産物が自分のものとならず、敵対物に転化するという疎外が生じたと。第二は労働者と労働行為そのものとの疎外である。「幸福なパン屋」と違って、資本主義生産で分業に携わる労働者は、ベルトコンベアーの脇で袋詰めの賃労働に従事して一日をすごす。自分の手が自分のものではなく、機械の一部になっている。第三は労働者と人間の類的本質の間に生じる疎外関係である。人と類との関係の認識が、民主主義の根底的な基盤であり、弱者強者の差別を排除する唯一の哲学である。天才がある画期的な発明をしたからといって、その天才と周りの目ざとい資本家が大もうけするのではなく、天才の発揮した能力は全人類の共有財産であり、その努力や幸運にはそれなりの対価を授けるとしても、一方的に私するものではない。逆に、弱者(例えば先天性障害者)に対しても逆の同じ論理が必要である。そして第四の疎外は労働者と他の人間との間に生じる疎外である(ただ疎外の認識の共有によって、疎外はともに打破されるものなるはずである)。このマルクスの言明のなかで最も重要な抽出概念は「類としての本質」についてである。フォイエルバッハが考えた類の本質は「自然的」(エコロジカル)なものであったが、マルクスのそれは「社会的」(ソシアル)なものであったという。エンゲルは「フォイエルバッハに関するテーゼ」において、マルクスのこの概念転換(自然→社会)を新しい世界観の天才的萌芽を宿す文書として高く評価した。

 さらにマルクスはフォイエルバッハの人間理解に含まれる「本質論」を批判し、これに対置して「関係論」を唱えた。人間の本質とは個人が内包する抽象物(たとえば才能とか性格、容貌のようなもの)ではなくて、「社会的関係の総体(アンサンブル)」であるとした。ここで始めて関係との関わりのなかで、疎外論において時間を取り上げることができる。エマニュエル•レビナスの言うように、「時間はまさに主体と他者との関係そのものである」からだ(レビナスの『時間と他者』からの引用であるが、この著書を読んで意味が唯一理解できる貴重な一行である)。時間の定義をアリストテレスのように「物や事象の変化や運動の基準数」とすれば、レビナスの言明はなんだということになるが、関係も変化の一形態と考えれば矛盾はしない。むしろ関係は時間の「形質」にあたるものである。マルクスも上記の労働における4種の疎外形態において、それぞれにおける関係は述べているが、その時間の構造は詳しくは述べていない。

疎外を時間論の立場で論述しようと試みたのは内山節 (1995)である。概略、内山は次のように述べている。

「村にいる頃は、そこの自然及び共同体社会と横の時間(関係)で生きていた。しかし商品経済社会が発達し、都市を中心とする近代的市民社会の中で人々は縦軸の時間世界に入り込んでいった。そこでは、村での因習に縛られた時間の桎梏からのがれて、自由で個性に裏づけされた人間的な生活が営めると期待された。しかし大部分の人にとって、圧迫され管理され平準化された時間が流れるだけであった。かくして近代産業社会において浸透する縦の時間と,まだ持っていた山里的な時間との不調和。この不調和こそが現代の疎外なのではないか?

しかし、内山の説は明治の産業勃興期の頃の話のようであまり現実感がない(1960年代の話のように書いてはいるが)。ただ、前にも述べたがマルクスは社会的人類の登場を急がせるかり、遺存形質(レリック)を持つ自然的人類の特質を軽視したことは問題である。疎外はいかなる心的なものとして表出するのかどうか議論せねばならないが、疎外の進化的な背景については研究の余地がありそうだ。

 

追記

ミツバチなどの社会性昆虫研究を紹介した本田睨氏の「蜂の群れに人間を見た男」(NHK出版1991)では、ハチの疎外といった言葉は出ず、「部品化」という特異な用語が使われており、面白いとおもった。昆虫に労働や仲間に対する感覚 があるのかどうか?

 

参考図書

鈴木 直『マルクス思想の核心』-21世紀の社会理論のために NHK出版 2016年

木田 元 (編)『哲学の古典101物語』新書館 1998年

内山 節 『時間についての十二章』岩波書店 1995年

エマニュエル•レビイナス『時間と他者』法政大学出版会 1986年 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする