J.シンプソン『死のクレバス』-アンデス氷壁の遭難。中村輝子訳 岩波現代文庫 2000年11月
これは有名な山岳遭難ノンフィクションである。映画化もされた(「運命を分けたザイル」2005)。1985年、英国の二人の若きクライマーのジョー•シンプソンとサイモン•イエーツは、ペルーのアンデス山脈のシウラ•グランデ(6600m)に挑んだ。この峰の西側は前人未踏で、ほぼ垂直に立ち上がり、頂上は雲が暗くたれこめていた。登頂は困難を極めるが二人は登りつづけ、3日目についに頂上を極めた。頂上で心の底から湧いてくる笑いを抑えきれない二人は写真を撮る。しかし、下山で悲劇が起こる。ルートを見失い、突然、足場が崩れてジョーは急斜面を数十メートルほど落下し、足を骨折してしまう。負傷したジョーとサイモンは互いの身体をザイルで結び、下降を繰り返すが、ジョーはクレパスに滑落し、垂直な氷壁で宙吊りになってしまう。イエーツにはジョーの姿がみえず、声もきこえない。彼は今やジョーの全体重を支えなければならない。しばらくして、もはや選択の余地がないと考えたイエーツは、友人に死刑を執行していることを意識しながら、ザイルを切断する。しかし、落下したジョーはクレパスの氷棚にひっかかり、一命を取り留める。これからジョーの超人的な生きるための努力がはじまる。おそるべき意志力でジョーは数日をかけて、氷河を10kmもはい進み、まさにイエーツが下山しようとしていたその時に、ベースキャンプにたどりついたのである。
以下本書より抜粋
『アプザイレン〔ザイルを伝って岩壁を懸垂降下すること〕をやめたいという欲求は、ほとんど耐え難いほどだった。下に何かあるのかまったくわからなかったが、二つのことだけは確かだったIサイモンは行ってしまい、もう戻ってはこない。つまり、このまま氷橋にとどまっていれば、一巻の終わりだということだ。上に抜けることは不可能だったし、逆側の急斜面は、すべてを早く終わらせよとわたしを招いていた。ついその気になったが、絶望のさなかにあっても、自殺する勇気は持てなかった。氷の橋の上で、寒さと疲労で死ぬまでには、まだまだかかるだろう。しかし、長い時間をかけて、一人ぼっちで死を待ちながら、狂っていくのだ。この考えが、わたしに決断を迫った。脱出法を見つけるまでアプザイレンするか、その過程で死ぬかだ。死が来るのをただ待っているより、自分から死を迎えに行った方がいい。もう後戻りはできない。』
この意思堅固な男にとって、生存は自ら選び取るものだった。そして特にジョー・シンプソンが身をもって示したように、生存は至上命令だった。不運で機会を逸することはあっても、生きている限り至上命令に抗うことはできない。前回のアーネスト・シャクルトンといい、世界を一度制覇しただけあって、英国人(ジョン ブル)のど根性は並ではない。このドキュメントはプロの登山家が書いただけあって、臨場感がある。登山家の鮮烈な行動と心理がリアルに描けている。例えば回想場面だが、二人の日本人クライマーが目の前で滑落死する描写は凄い。「死のクレパス」はボードマン・タスカー賞、NCR賞を受賞している。