湯川博士のさっき引用した文章の続きにこういうものがある。
「人間世界の出来事の場合には、合理性とか、必然性とかを見出すところで
問題が終わるのではない。
そこでの一番大きな問題は常に人間の幸福である。
自分の幸福が問題であり、他人の幸福が問題である。
何を幸福と感じるかは知性だけの問題でないことはもちろんである。
知性が容易に合理的に把握することのできない“人間の感情とか情緒とか
いわれるものの方がより直接に幸福につながっているのである。”
“知性がまだ気づかずにいる潜在意識の働き”が
そこではしばしば決定的な意味を用いるのである。
しかし、こういう事情があるからといって、
人間の幸福の問題に対して知性が無力だということにはならない。
知性は成長し深化しうるところのものである。
“知性が自らを深めることによって、逆に人間性のより大きな領域を
知性の面まで浮かびあがらせることができるのである。”
このような努力が人間の幸福の問題と密接につながっている。
外なる世界に向かっての科学の進展が知性の深化によって裏づけられてないなら、
新鋭の武器を持った野蛮人ができあがるだけであろう。」
・・・以上。“ ”は私がつけた。
本当にその通りだなと思う。
“人間の感情とか情緒とかいわれるものの方がより直接に幸福につながっているのである。”
幸福は心が感じるものだからね~
いくら物が豊かで何不自由なくても、いつも怒ってばかりじゃ幸福じゃない。
年中、イライラしたり、自分を責めたりしてたら幸せじゃない。
“知性がまだ気づかずにいる潜在意識の働き”が
そこではしばしば決定的な意味を用いるのである。
こう書いた湯川博士はその潜在意識の働きがわかっていたんだろうな。
でなきゃこんなこと書けないはずだ。
“知性が自らを深めることによって、逆に、
人間性のより大きな領域を知性の面まで浮かびあがらせることができるのである”
この、「人間性のより大きな領域」とは潜在意識のことかと思う。
「このような努力が人間の幸福の問題と密接につながっている。」
知性が自らを深めること、その努力が人間の幸福の問題と密接につながっている。
彼も山岸さんもそれをしたのだと思う。
「人間世界の出来事の場合には、合理性とか、必然性とかを見出すところで
問題が終わるのではない。
そこでの一番大きな問題は常に人間の幸福である。
自分の幸福が問題であり、他人の幸福が問題である。
何を幸福と感じるかは知性だけの問題でないことはもちろんである。
知性が容易に合理的に把握することのできない“人間の感情とか情緒とか
いわれるものの方がより直接に幸福につながっているのである。”
“知性がまだ気づかずにいる潜在意識の働き”が
そこではしばしば決定的な意味を用いるのである。
しかし、こういう事情があるからといって、
人間の幸福の問題に対して知性が無力だということにはならない。
知性は成長し深化しうるところのものである。
“知性が自らを深めることによって、逆に人間性のより大きな領域を
知性の面まで浮かびあがらせることができるのである。”
このような努力が人間の幸福の問題と密接につながっている。
外なる世界に向かっての科学の進展が知性の深化によって裏づけられてないなら、
新鋭の武器を持った野蛮人ができあがるだけであろう。」
・・・以上。“ ”は私がつけた。
本当にその通りだなと思う。
“人間の感情とか情緒とかいわれるものの方がより直接に幸福につながっているのである。”
幸福は心が感じるものだからね~
いくら物が豊かで何不自由なくても、いつも怒ってばかりじゃ幸福じゃない。
年中、イライラしたり、自分を責めたりしてたら幸せじゃない。
“知性がまだ気づかずにいる潜在意識の働き”が
そこではしばしば決定的な意味を用いるのである。
こう書いた湯川博士はその潜在意識の働きがわかっていたんだろうな。
でなきゃこんなこと書けないはずだ。
“知性が自らを深めることによって、逆に、
人間性のより大きな領域を知性の面まで浮かびあがらせることができるのである”
この、「人間性のより大きな領域」とは潜在意識のことかと思う。
「このような努力が人間の幸福の問題と密接につながっている。」
知性が自らを深めること、その努力が人間の幸福の問題と密接につながっている。
彼も山岸さんもそれをしたのだと思う。