ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

よのなか科 体罰・・③

2013-05-22 15:31:17 | 新聞を読んで
最後の方に、

「体罰という言葉には自動的に「やられたほうに非がある」ニュアンスが含まれているから、

使わないようにしたらどうかと考えているんです。

片方に「暴力」があり、もう片方に「指導」がある構造の中で「体罰」という、

どうにでも解釈できる領域をその中間に置いてしまうと、

混乱するだけですから。

暴力と指導のギリギリの線はどこなのかを論じる方が、

焦点がはっきりすると思いませんか?」

・・があるんだけど、私の頭では何を云っているのかわからないな・・

確かに体罰とは罪に対しての罰であり、生徒が罪を犯したという前提がある。

生徒は罪なんか犯してない、とこの藤原さんは云っているのか?

暴力と指導のギリギリの線とはどういうことなんだろう???

指導に暴力はある、という前提がここには感じられる。

悪いことをしたらお尻をたたく・・・のは当然という考えが根強くそこにあるように受け取れる。

こうして私はすぐに分解を始めてしまう・・

悪いことをしたらお尻をたたく・・・

その行為は悪いことなのか・・??

お尻をたたかれたことで子供の心に何が生まれるか・・?

お尻をたたかれたことで子供がわかることなら、

それ以前に子供はそのことはしない方がいいとわかっているんじゃないか・・

だとしたら、お尻をたたかなくても、その時にもっと相応しい他の行為があるんじゃないか・・・

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よのなか科 体罰・・②

2013-05-22 14:06:19 | 新聞を読んで
「朝まで生テレビ」という番組があるそうで、それの引用があった。

さっきの藤原和博さんがそれに出演していたらしい。その一場面で・・・

体罰についての話しの時にあるお母さんが、

昔先生から受けた体罰にむしろ感謝しているという発言をし、

それに対し、精神科医の香山リカさんが、自分の所には、

体罰を受けて心に傷を負った人が多く来ていると反論した、という文章があった。

番組の構成上、そうした方が面白いから、わざとそういうふうな展開を狙ったのかもしれないけどね。


一つの発言に対し、反論する、という現象は世の中にたくさんある。

昔の先生から受けた体罰にむしろ感謝してる・・とその人は思っている。

その体罰がキッカケで自分の何かに気がついたのかもしれない。

結果としてその体罰は自分にとってよかったということだろうと思う。

その先生には生徒に対する愛情というはっきりとした自覚があったのかもしれない。

それをその人は感じたのだろうと思う。

その発言がされたのは、その人がそう思ったという事実がある、ということで、

だから体罰がよろしい、ということではないだろうし、

「香山ドクターが反論した」という表現から読むと、

反論というからには、

そのお母さんにそういう認識が在るという事実を否定したということだろうし、

そうすると、香山ドクターが幾らうちには体罰で心に傷を負った患者がたくさん来る、と訴えても、

その子らは弱いんだとか、体罰するに至った先生の心が読めないからだ、

とかの反論になって返って来そうな気がする。

反論にはその反論が必ず出て来る。

その場では素人のお母さんより精神科医という地位あるひとの方が発言力が強いから、

そういうことは言わなかったかもしれないけど。

でもこんなふうな反論・反論の討論になると、根本的解決は見出せない。

一人一人考え・経験が違うのは当たり前で、そういう経験の中から、

何がおかしいのか、よくよく分解して探さないといけない。

それには先ず一人一人の考え・経験を、あ~、そういう考え・経験が在るんだと、

反論などせず(そうなると反論が不可能になる)そのまま受け取ることからだ。

吟味はそれから。

でもひとは反論しちゃうんだよね。自分が正しいっ!になってるから。

幾ら話しても、これが外れてからでないと話に“ならない”・・・

んだろうなぁと思う。

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よのなか科 体罰・・

2013-05-22 13:28:47 | 新聞を読んで
今朝の毎日新聞のくらしナビという面に、

「よのなか科」というのがある。

今、キミに考えてほしいこと というサブタイトルのもの。

藤原和博さんという教育改革活動家とかの人が子供向けに書いているようだ。

今日は体罰についてのもの。

これを読んで、考えたい・・というのがむくむくと出てきた。

体罰とは「身体に直接苦痛を与える罰」と広辞苑。

この人が“体罰というどうにでも解釈できる領域・・・”と云っているように、

それは解釈なのだから、形を見るだけではわからない。

その言動が体罰なのか、愛情なのか、単なる腹立ちなのか、

本人自体が自覚のない場合も多いんじゃないかと思うけど、

どう考えても、愛情を自覚しての行為だったら、

相手の身体に傷がつくようなことにはならない。

瞬間的にカッとなって起こす先生の言動は“指導”にもなってない。

体罰とは痛い目に遭わせることで、そのことをもうしないようにさせる、

ということだろうと思うけど、

罰を与えればその人は良く変わる、という無意識的な確信を持っているということだろう。

自分が自らしたことで痛い目に遭うという経験をして、それがよかった、ということはある。

小さな子供がアイロンに触ってしまったというような痛い目に遭って、

それからはアイロンには絶対触らなくなった、というような事は、

痛い目に遭ったという経験が非常に役立ったということかなとは思う。

それはアイロンは熱いものという知恵を得たということだろう。

それにしても小さな子供が居る場所に熱いアイロンを置くような事は大人が避けるべきことで、

わざわざ痛い目に遭わせることでもない。

自分が自らしたことで、何かに失敗するという経験をして、そこから学ぶということはある。

痛い目に遭うというのは自分がした行為の結果を自分が引き受けるということだ。

痛い目に遭う と 他者から痛い目に遭わせられる のは全然別だ。

自分でアイロンを触ったことで得た「アイロンは熱いもの」という知恵は、

その子供にトラウマを背負わせないけれど、

親が子供に痛い目に遭わせてアイロンが熱いことを知らせようと、

わざと熱いアイロンをくっ付けたら、どうだろう?

そんなことを何度もしたら、子供はどうなるだろう??

「アイロンは熱いもの」という知恵が得られるというよりは、

「親は恐いもの」を学習するんじゃないか。

ちょっと論点がずれてる??

どんなことでも自分がしたことは、(他者がそれをなんとかしなくても)

自分に還って来る。心にも身体にも。

やりたいと思って入ったクラブの練習をさぼったら、力がつかないという結果を引き受ければいいんだし、

練習する気がなくなったら休むかやめればいいことで、

他者がどうのこうの言うことじゃない。

ましてや、指導という名前の暴力を振るうなんてしない方がいい。

本人にまかせればいいことだ。委ねるだけだ。

結局、その人のことをその人にまかせられない心情から体罰が起こるんじゃないだろうか。


小さな子に悪いことをするとお尻をたたく、という体罰も、

子供がそういうことをしないような環境を作れなかった大人の罪といえば、罪だろう。

それは罪と言えるものじゃないけど。

単に私たちがまだ未熟だ、ということに尽きる。
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ピキッ!とした痛み

2013-05-22 08:55:56 | 日々の暮らし・思い出
昨日の夕方排尿時にピキッ!とした痛みがあった。

昼間日帰り温泉の温めの湯に友人とながいこと入っていたとき、

ちょっと汚いな・・という感想を持ったことを思い出し・・・

もしかして・・ばい菌が入って・・わたしの抵抗力が落ちていて・・

膀胱炎になったかと思った。

20年位前に膀胱炎になったことがあり、その時の痛みと同じような感じがあった。

夜、布団に入ってからも時々ピキピキッ!と痛みが走る。

明日になってもこの痛みが消えてなかったら、病院に行くか・・・

薬局で薬を買って飲むか・・・なんて考えてた。

副作用云々・・身体の動的平衡・・なんて思ってるのに、

こういう時すぐに意識が「薬」ってなる自分だなぁ・・・

身体はそれを正常にしようとする働きがあるのに・・

なんて思いながら・・そのうち・・うとうと・・・となり始めた。

段々眠くなってくる・・・

そのとき、膀胱炎になったら水をたくさん飲むこと、というのを思い出した。

けど、眠い・・眠い・・眠い・・・・・ネ・・ム・・イ・・・

いや、寝てる場合じゃないぞ~と、エイヤーっと起き、

台所に行って水をコップ二杯がぶ飲みした。

すると当然夜中にトイレに行きたくなってくる・・で行き、

そこで又水をコップ二杯。

そして又すぐに寝つき・・又目が覚め、トイレとコップ二杯の水。

これを確か、3回か4回やった。夜中の排尿時痛みがどうだったか覚えがない。

ないくらいだから、あまりなかったのかもしれない。

半分寝てる感じだったので覚えがないのかもしれない。

朝起きてトイレ。痛みが見事なくなっていた!


身体自身が身体を正常に戻そうとする働きを元々持っているけど、

その働きを助ける役目としての水飲みだったのかと思った。

水飲みは身体を直接なんとかしようというものではなく、

身体の自然な働きの補助の役割をした、ということなのかと思った。

山岸さんの言葉で補助の役割を果たします・・だっけ、そんな言葉を思い出した。

これを確かめるのに久しぶりに青い本を手に取ったら、

どの頁も彼の伝えたい思いに溢れていた。



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