ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

稀勢の里関

2013-05-24 19:59:50 | テレビを見て
大相撲を義父と見た。稀勢の里が今日も勝った。

その時、NHKのアナウンサーが最近の彼の様子を語った。

確かこんなふうなことだったと思う。正確に聞き取れてないんで、

違うかもしれないけど・・・

今場所に入る前、彼は不調だったそうで、

そのせいか、今までと違う自分だったそう。

大関になって1年以上、彼は「大関なのだから大関らしくしなくちゃいけない」とか、

「大関になったのだから優勝争いに絡まらないといけない」とか、

そんなふうな余計なことを考えていた自分だったと気がついたらしい。

そういう自分だったことに気付いたら、

今の自分のままでやればいい、となって、

今までの自分と違う自分で取り組めている、という感触があるよう。

持ってる力を発揮できるところに立てたのかもしれないと思った。

こういう感じでやっていけばいいんだな、って思ったらしい。

今ここ、だけに集中できるようになったのかもしれない。

そういうのを聞いて、近いうちに横綱になれるかもしれないなぁと思った。
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情緒不安定な子供 ②

2013-05-24 13:24:48 | ひとの幸福
情緒不安定になるのは子供だけじゃない。

大人も情緒不安定になることはしょっちゅう。私もよくある。

親が子供に対してする行為ばかりじゃなく、

自分が自分の為に行なう行為も目的があることを忘れていることがある。

自覚がないことがある。

なんのためにこうしているのか。

なんでこうしてるのか。

動作や行為にいちいち何のためかなんて考えてないよ~

それも尤もだ。

朝起きて顔を洗うのに何の為にこうするのか、なんて意識してない。

ご飯を食べるときになんでこうしてるのか、なんて意識してない。

頭が痒くなって掻く時、なんでこうしてるのか、なんて意識しない。

痒いから掻くんだよ、なんて言われそう。

でも痒くても掻かない状況もある。

オーケストラの指揮者がタクトを振ってる時に、

頭が痒くなるときもあるかもしれないけど、痒いから掻く、にならないからね~

どんなに痒くても我慢するという、掻くことをしないという行為をするにも、

指揮棒を振る目的がはっきりと自覚されてるからだろう。

掻かないのは我慢だけど、我慢するからストレスになる・・にはならない我慢だ。

自分がこうしたい、これを実現したい、という気持ちが揺るがなかったら、

目的に自覚があったら、

その行為をスッキリと出来る。

我慢だって苦渋だってへっちゃらになるのが人間の面白いところだ。

また頭が痒くなるかもしれないからもう指揮棒は振らない、なんてことにならない。

そんなの当たり前だよ、って言われるかもしれないけど、

自覚しないで生きてるとそういうことはよくある。

自分で経験してるからよくわかるよ。

かといって、気持ちが揺るがないのがいい、ということでもない。

揺らぐ時は揺らぐ。その時は揺らいでいるのがいい。

そう思う。

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情緒不安定な子供

2013-05-24 10:16:53 | ひとの幸福
下の子供が出来て上の子供が情緒不安定になる、ということをよく聞く。

上の子に気がないわけじゃないのに、上の子ときたら、駄々捏ねてばかりで、

もう、いやになる・・それに比べ下の子は無邪気で可愛い・・・

駄々を捏ねたり、乱暴したり、下の子を蹴飛ばしたりする、そういう姿を

どうしても可愛いと思えない・・・

“可愛いと思えない子供に可愛がるという行為ができない”

こんなんじゃいけないと頭ではわかるんだけど・・・と悩む。

そして出来ない自分を責める。

こういうことあるだろうな。そうなるのも無理はない。

上の子供は赤ちゃんが生まれて親の関心がそっちに行き、

それまでは親が自分のことだけ見ていてくれたのに、

赤ん坊の出現で、自分は愛されてない・・というふうになってしまうのだろう。

謂わば、誤解してしまう。

そう感じるので、親の愛を求めるために、駄々を捏ねたり、乱暴したり、

それまでしなかった赤ちゃんがえりのような行動をとる。

赤ちゃんだから構われるなら、自分も赤ちゃんになれば又親の愛を得られる、

となるんだろう。

下の子に乱暴するのも、大人の三角関係と同じで、

夫を寝取った女を憎む・・みたいな感じなんじゃないか。

それが余計に妻への愛情が減ることになるのにも気がつかない妻と同じだ。

でも、夫は妻への愛情が無くなることがあっても、

親は子への愛情はなくならないから、悩んじゃうんだと思う。

そうだ、愛があるから悩む。無ければ悩まない。

みんな悩んで大きくなった♪というコマーシャルが昔あったなぁ・・・脱線。

上の子は自分への愛情が減った、なくなった、と解釈してしまう。

子供がそう捉えてしまうのも仕方がない。だって子供だから。

こう考えると親が悩むのも子が悩むのも無理ない。

いけないことじゃない。

さっき書いたけど、

“可愛いと思えない子供に可愛がるという行為ができない”・・

・・ということなんだけど、

それもわかるけど、可愛がる、という行為の目的は、

子供の乱暴とかの行動を可愛いと思えるか思えないかは関係ない。

可愛くないと思って当然。(可愛いと思っても当然だけど。)

可愛がるという行為の目的がはっきりしていれば、

そう行為することで何を実現したいのか、に自覚があれば、

それが出来る。

目的が定まってないから迷う。

その行為の目的さえ自分の中で定まっていたら、迷わず行動できる。

子供が愛されていると実感すること。それが目的だ。

(事実愛されているわけで、子供が誤解してるだけなんだから。)

目的が定まったら嘘だってつける。

写真を撮られることで愛されていると実感するなら、

電池切れのカメラで撮る振りをすることだってへっちゃらだ。

親が子供を情緒不安定なままにしておけないというのは情熱ともいえる。

情熱があれば工夫が生まれる。

親は上の子供の情緒が安定して欲しいと願う。

愛されているのだと実感して欲しいと願う。

その願いの実現という目的遂行のために行為がある。

大袈裟な表現か・・でも、

親が子の幸せを願い、そうなるように行為、行動するということは、

この世で一番するべきことなのかと思う。

単なる血縁の親子のことだけじゃなく。

どんな行為も目的を潜ませることができる。

自分の今する行為の目的に意識的になることでそれが出来る。


広辞苑で「行為」はおこない。しわざ。あらゆる動作。

明らかな目的観念または動機を有し、思慮・選択・決心を経て

意識的に行なわれる意志的動作で善悪の判断の対象となるもの。




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