ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

「知魚楽」 ①

2013-05-09 21:40:42 | 本を読んで
湯川博士の「創造への飛躍」を読んでたらこういうのが載ってた。

湯川博士が色紙を書いてと頼まれた時に、

この言葉「知魚楽」を書いていた時期があるらしい。

「知魚楽」というのは「荘子」の第17篇「秋水」の最後の章からとった文句だそうで、

荘子と恵子(恵施ともいうらしい)の問答の一つでこういうのがあるらしい。


荘子と恵子(ものしりで議論好き)が橋の上を歩いている時に荘子が

「魚が水面に出て、ゆうゆうと泳いでいる。あれが魚の楽みというものだ」と言うと、

恵子はたちまち反論した。

「君は魚じゃない。魚の楽みがわかるはずがないじゃないか」

荘子が言うには、

「君は僕じゃない。僕に魚の楽みがわからないということが、どうしてわかるのか」

恵子はここぞと言った。

「僕は君ではない。だから、もちろん君のことはわからない。

君は魚でない。だから君には魚の楽みがわからない。

どうだ、僕の論法は完全無欠だろう」

そこで荘子は答えた。

「一つ、議論の根元にたちもどって見ようじゃないか。

君が僕に『君にどうして魚の楽みがわかるか』と聞いた時には、

すでに君は僕に魚の楽みがわかるかどうか知っていた。

僕は橋の上で魚の楽みがわかったのだ」と。

・・こういう問答。実に面白い。

荘子の「既に君は僕に魚の楽みがわかるかどうか知っていた」何故そう言えるか・・

最初、恵子に「君は魚じゃない。魚の楽みがわかるはずがないじゃないか」という発言があるけど、

この発言は、自分ではない荘子の気持ちが既にわかっていることを示している。

荘子は魚の楽みがわからない、と恵子はわかっていることがこの言葉遣いでわかる。

それなのに、恵子のその後の発言では、もちろん君のことはわからない、と言っている。

矛盾してる。

荘子の「君は僕じゃない。僕に魚の楽みがわからないということが、どうしてわかるのか」

その通りだ。そしてこれ。「僕は橋の上で魚の楽みがわかったのだ」と。

小気味いいね~

荘子はわかったと思ったのだ。

言葉は何処まで行っても言葉だ。認識で在ることから逃れられない。

これではちょっと思索不足。

荘子は橋の上で、僕である荘子の気持ちをわかったのだ。

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「知魚楽」 ③

2013-05-09 15:13:19 | 本を読んで
この問答について湯川博士は、こんなふうに書いている。

「科学の合理性と実証性に、かかわりをもっているという見方も出来る」と云っている。

「魚の楽みというような、はっきり定義も出来ず、実証も不可能なものを認めないという方が、

科学の伝統的な立場に近いように思われるけれども、

私自身は荘子の言わんとするところの方により強く同感したくなる。

科学者のものの考え方の一方は「実証されてない物事は一切信じない」で、

もう一方は「存在しないことが実証されていないもの、

起こり得ないことが証明されていないことは、どれも排除しない」というもの。

素粒子なるものの正体はわからない。

素粒子の構造は何等かの仕方で合理的に把握できるだろうと信じて、

ああでもない、こうでもないと思い悩んでいる。

荘子が魚の楽みを知ったようには簡単にいかないが、

いつかは素粒子の心を知ったといえる日が来るだろうと思っている。

しかし、そのためには、今までの常識の枠を破った奇妙な考え方をしなければならないかもしれない。

そういう可能性を、あらかじめ排除するわけにはいかないのである。」以上。

・・実に深いなぁ。

これは昭和41年10月の文章のようだ。

科学の世界のことは殆ど知らないけど、ネットで見ると、

量子力学の量子についての解釈にはいろいろとあるらしい。

意識説もあるという。

でもこれこそがそうだ!というふうにはまだなってないみたい。

湯川博士のいうようにいつかは素粒子の心を知ったと言える日が人類に来るだろうと私も思うなぁ。

そうなったら、世界平和や戦争とかの問題も絶対解決の方向に向かうと思うなぁ。

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「知魚楽」 ②

2013-05-09 14:49:08 | 本を読んで
この問答を読んで若い頃の自分を思い出した。

「~あれこれしたので動物園のペンギンが喜んでいます」なんていうテレビニュースを見て、

ペンギンの気持ちなんかお前にわかるのかよ~、なんてほざいていた。

「黄色い声援が甲子園にこだましています」なんて言葉にも引っかかっていた。

なんで黄色いってわかるのかよ~なんて。

やくざみたいに因縁つけてた。

その気持ちは決していい気分じゃなかった。

いい気分じゃないときは必ず自分の思考がどこか間違ってることがこれでもわかる。

言葉はそれが嘘の気持ちであろうと本当の気持ちであろうと、

認識であって、事実そのものじゃないのだから、

何を言おうと、それを聞く側はあ~そうですか、だけなんだ。

ただ、そのこと、聴くことと行動は別のことだけど。



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期待と甘え

2013-05-09 13:48:41 | 実例体験観察
さっきスーパーに買い物に行った。

一週間分くらいの買い物をしたので荷物は重くなった。

家の前の道路に車を止め、荷物を降ろす。

いつもと言っていいくらい、いつも、夫が玄関の外に出て来てくれて、

重い荷物を台所に運んでくれる・・・が、

今日は出て来なかった。

こんなに重いのに・・なんで出て来ないんだよ~という気持ちになった。

いつも出てくるから、今日も出てくるに違いない、という期待があったんだろう。

軽トラの荷台に荷物は乗せてあるから、そのまま腰をかがまずに台所まで運べるので、

今の腰の状態でもそれほど大変ではなく運べるのである。

実際困るというような状況ではないのである。

出て来て欲しかったら、ちょっと来てと言ったらすぐに来てくれる夫なのである。

普段甘やかされているから、こういうふうな不満感情が出てくることになるんだろうか??

勝手に期待する方が間違っている、というのもあるけど、

いつもそうしてくれていると、そうじゃない時にあれ?っとなるのはしょうがない・・・

・・けども、しょうがない、だけじゃなくて、今日の私は不満に思ったな。

来て当然、があったから。

けど、腰痛がもっと酷かったら、すぐに「来て運んでほしい」と発しただろう。

それを発さなかったのはこれなら自分一人でいけるという意識があったからだ。

自分がそうだったのに、それに自覚がなかったようだ。

考えてみれば、自分でそう踏んで、行動したのに、

出て来て当然なんて、本当に自分勝手だね~

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さかさま人間学 ②

2013-05-09 11:15:44 | 新聞を読んで
この文章、「好き嫌いは理屈じゃない。理屈じゃないものを理屈で説明できるんでしょうか・・」

ううん??となったところなんだけど、

なんでううん?となったのか・・・??

好き嫌いは理屈じゃない。うん、その通り。

いろいろ考えた結果、論理的にニンジンは嫌いということになった、なんてことはない。

ニンジンに限らず、生まれつきの好き嫌いみたいなものはあるような気がする。

なんだかわからないけど、こういう感じの物が好きとか、

なんでこうなったのかわからないけど、こういうことに興味があるとか、

自分でいえば、手芸が好きとか本を読むのが好きとか、

作文が好きだとか、そういうの。

いま、上の行で「なんだかわからないけど」と「なんでこうなったのかわからないけど」という

二つの表現をしたね~

同じような意味合いで書いていた。

なんだかわからない、とは、なんで“こうなったのか”わからない、ということ。

こうなった、とは今こう在る状態になったプロセスがあったということだ。

在るものはなってきたもの。どんなものでもそうだ。

どんなプロセスかはわかりようがないけれど、プロセスがあったことは確かかと思う。

単なる遺伝というだけで片付けられないものは感じる。

池田晶子さんに「どうしても『以前に生きていたことがある』というのが出てくる」とかそんな感じの文章があったけれども、

それもそういう感じなのかと思う。

まぁ、これは好き嫌いの“内容”での話しなんだけど。


「好き嫌いは理屈じゃない。

理屈じゃないものを理屈で説明できるんでしょうか・・」というのが、

彼の問いなのか、そんなことは出来ないという彼の確信的な思いなのか、わからないけども、

何が好きで何が嫌いかということに理屈はないと云っているとしたら、

そうなったプロセスは在るだろうと思われるけれど、

そのプロセスの全容を人間は解明できない、という方が正確なのかと思う。


又、もしかして、人間には好き嫌いが在る、ということは理屈じゃないと云っているのかもしれない。

どうしてそれが在るのか人間にはわからないけれども、

好き嫌いという二元性が人間には在る。

好き嫌いに限らず、そのどちらかを選ぶという選択肢が存在しなければ人間は生きていかれない。

脳のその部分が何故あるのか?と問われても、在るものは在るんだよ、としか言えないと

養老先生は云っているのかな。
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さかさま人間学 ①

2013-05-09 10:01:57 | 新聞を読んで
今朝の毎日新聞の養老先生の欄。「さかさま人間学  からだと働き編」

今日のタイトルは「好ききらいはどうして?」

・・・どうして好き嫌いがあるかというと、その根本は脳にあり、

脳の中には特別な場所があって、そこが好き嫌いを決めている。

そこを壊せば好き嫌いはなくなる。

けれど、なくなっても好き嫌いをする理由がわかるわけじゃない。

脳のその場所が何をすると何がどうなるのか、全部はわからない。

好き嫌いは理屈じゃない。理屈じゃないものを理屈で説明できるんでしょうか・・

子供の頃、ニンジンが嫌いだったけど、ニンジンの漬物は食べられてびっくりした記憶がある。

・・・ざっとこんな内容だった。

養老先生の文章を読むと煙に巻かれる、みたいな感じになるときがある。

だから面白い。ううん?なんだって???みたいに考えたくなる。

脳のその部分を壊せば好き嫌いがなくなる・・とは・・

そこを壊せば、美味しいとか美味しくないとかも感じなくなるんだろうか?

それともなんでも美味しく食べられるようになるんだろうか?

それとも何を食べても無味乾燥みたいになるんだろうか???

よくわからない・・・

脳のその部分を壊すと好き嫌いがなくなる・・とは好き嫌いを選択する機能が無くなるということで、

好き嫌いという選択肢が「在ること」から「無いこと」になるということ?・・

それは食べ物に限らず、他の物も人も現象も好き嫌いの選択肢がなくなるということなんだろうか?

好き嫌いだけじゃなく、美醜の選択肢もなくなるんだろうか?

そうなったら人生はつまらないだろうなぁ。

脳のその部分の働きをなんにも知らないからこんなこと思ってるには違いない。

好き嫌いは変わる。子供の頃食べられなくても今は食べられるとかある。

好き嫌いがあることを養老先生は子供の頃叱られたという。

それは何でも食べられる自由な子になりなさい、という親の願いだったと思うけど、

養老先生も今はニンジンが嫌いじゃないみたいだ。

ニンジンは嫌いだったけど、ニンジンの漬物は食べられた、というのも、

ニンジンの煮物の匂いや味はダメだったけど、漬物になると匂いも味も変わるからだろうな。

自分も変わるしニンジンも変わる。


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