湯川博士の「創造への飛躍」を読んでたらこういうのが載ってた。
湯川博士が色紙を書いてと頼まれた時に、
この言葉「知魚楽」を書いていた時期があるらしい。
「知魚楽」というのは「荘子」の第17篇「秋水」の最後の章からとった文句だそうで、
荘子と恵子(恵施ともいうらしい)の問答の一つでこういうのがあるらしい。
荘子と恵子(ものしりで議論好き)が橋の上を歩いている時に荘子が
「魚が水面に出て、ゆうゆうと泳いでいる。あれが魚の楽みというものだ」と言うと、
恵子はたちまち反論した。
「君は魚じゃない。魚の楽みがわかるはずがないじゃないか」
荘子が言うには、
「君は僕じゃない。僕に魚の楽みがわからないということが、どうしてわかるのか」
恵子はここぞと言った。
「僕は君ではない。だから、もちろん君のことはわからない。
君は魚でない。だから君には魚の楽みがわからない。
どうだ、僕の論法は完全無欠だろう」
そこで荘子は答えた。
「一つ、議論の根元にたちもどって見ようじゃないか。
君が僕に『君にどうして魚の楽みがわかるか』と聞いた時には、
すでに君は僕に魚の楽みがわかるかどうか知っていた。
僕は橋の上で魚の楽みがわかったのだ」と。
・・こういう問答。実に面白い。
荘子の「既に君は僕に魚の楽みがわかるかどうか知っていた」何故そう言えるか・・
最初、恵子に「君は魚じゃない。魚の楽みがわかるはずがないじゃないか」という発言があるけど、
この発言は、自分ではない荘子の気持ちが既にわかっていることを示している。
荘子は魚の楽みがわからない、と恵子はわかっていることがこの言葉遣いでわかる。
それなのに、恵子のその後の発言では、もちろん君のことはわからない、と言っている。
矛盾してる。
荘子の「君は僕じゃない。僕に魚の楽みがわからないということが、どうしてわかるのか」
その通りだ。そしてこれ。「僕は橋の上で魚の楽みがわかったのだ」と。
小気味いいね~
荘子はわかったと思ったのだ。
言葉は何処まで行っても言葉だ。認識で在ることから逃れられない。
これではちょっと思索不足。
荘子は橋の上で、僕である荘子の気持ちをわかったのだ。
湯川博士が色紙を書いてと頼まれた時に、
この言葉「知魚楽」を書いていた時期があるらしい。
「知魚楽」というのは「荘子」の第17篇「秋水」の最後の章からとった文句だそうで、
荘子と恵子(恵施ともいうらしい)の問答の一つでこういうのがあるらしい。
荘子と恵子(ものしりで議論好き)が橋の上を歩いている時に荘子が
「魚が水面に出て、ゆうゆうと泳いでいる。あれが魚の楽みというものだ」と言うと、
恵子はたちまち反論した。
「君は魚じゃない。魚の楽みがわかるはずがないじゃないか」
荘子が言うには、
「君は僕じゃない。僕に魚の楽みがわからないということが、どうしてわかるのか」
恵子はここぞと言った。
「僕は君ではない。だから、もちろん君のことはわからない。
君は魚でない。だから君には魚の楽みがわからない。
どうだ、僕の論法は完全無欠だろう」
そこで荘子は答えた。
「一つ、議論の根元にたちもどって見ようじゃないか。
君が僕に『君にどうして魚の楽みがわかるか』と聞いた時には、
すでに君は僕に魚の楽みがわかるかどうか知っていた。
僕は橋の上で魚の楽みがわかったのだ」と。
・・こういう問答。実に面白い。
荘子の「既に君は僕に魚の楽みがわかるかどうか知っていた」何故そう言えるか・・
最初、恵子に「君は魚じゃない。魚の楽みがわかるはずがないじゃないか」という発言があるけど、
この発言は、自分ではない荘子の気持ちが既にわかっていることを示している。
荘子は魚の楽みがわからない、と恵子はわかっていることがこの言葉遣いでわかる。
それなのに、恵子のその後の発言では、もちろん君のことはわからない、と言っている。
矛盾してる。
荘子の「君は僕じゃない。僕に魚の楽みがわからないということが、どうしてわかるのか」
その通りだ。そしてこれ。「僕は橋の上で魚の楽みがわかったのだ」と。
小気味いいね~
荘子はわかったと思ったのだ。
言葉は何処まで行っても言葉だ。認識で在ることから逃れられない。
これではちょっと思索不足。
荘子は橋の上で、僕である荘子の気持ちをわかったのだ。