無我の境地で居ることで実力が発揮できるということなんじゃないか・・
と、さっき?昨日?つい書いてしまった。
こんな表現したことなかった気がするよ、ここで。
こうして自分はあるんだから無我なんてあり得ないよ~とか聞くことがあるけど、
無我の境地っていうのはそれほど難しいことでもなく、
結構みんな経験してることなんじゃないか。
さっき書いた稀勢の里関の話で言えば、
相撲をする時に余計なことを考えず、その事以外に意識が行かない状態・・なのかな。
小さな子供が一心に遊んでいる姿もそう。
やることに集中してる状態。雑念がない状態。邪気がない状態。
思いっきりやる、という言葉が表わす状態。
我を忘れる、ともいう。
我はあるんだけど、忘れてる状態。
この話に似てるね~
願いは願ったら、すぐに棚に上げること、横に置くこと、忘れること。
それが願いが叶う方法。
願いを忘れている状態のことを無我の境地ともいうのかも。
願いを持ったままでいるから、それに囚われる。
あ~しなきゃ、こうしなきゃ、というよくある思考もそれだ。
あ~したい、こうしたい、を持ったままでいるから、
それをやるまで「しなきゃ」に囚われる。
仏教では囚われがあるのが無我の境地の反対だというらしいから。
と、さっき?昨日?つい書いてしまった。
こんな表現したことなかった気がするよ、ここで。
こうして自分はあるんだから無我なんてあり得ないよ~とか聞くことがあるけど、
無我の境地っていうのはそれほど難しいことでもなく、
結構みんな経験してることなんじゃないか。
さっき書いた稀勢の里関の話で言えば、
相撲をする時に余計なことを考えず、その事以外に意識が行かない状態・・なのかな。
小さな子供が一心に遊んでいる姿もそう。
やることに集中してる状態。雑念がない状態。邪気がない状態。
思いっきりやる、という言葉が表わす状態。
我を忘れる、ともいう。
我はあるんだけど、忘れてる状態。
この話に似てるね~
願いは願ったら、すぐに棚に上げること、横に置くこと、忘れること。
それが願いが叶う方法。
願いを忘れている状態のことを無我の境地ともいうのかも。
願いを持ったままでいるから、それに囚われる。
あ~しなきゃ、こうしなきゃ、というよくある思考もそれだ。
あ~したい、こうしたい、を持ったままでいるから、
それをやるまで「しなきゃ」に囚われる。
仏教では囚われがあるのが無我の境地の反対だというらしいから。