ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

稀勢の里関 ④

2013-05-25 16:07:47 | ひとの幸福
無我の境地で居ることで実力が発揮できるということなんじゃないか・・

と、さっき?昨日?つい書いてしまった。

こんな表現したことなかった気がするよ、ここで。

こうして自分はあるんだから無我なんてあり得ないよ~とか聞くことがあるけど、

無我の境地っていうのはそれほど難しいことでもなく、

結構みんな経験してることなんじゃないか。

さっき書いた稀勢の里関の話で言えば、

相撲をする時に余計なことを考えず、その事以外に意識が行かない状態・・なのかな。

小さな子供が一心に遊んでいる姿もそう。

やることに集中してる状態。雑念がない状態。邪気がない状態。

思いっきりやる、という言葉が表わす状態。

我を忘れる、ともいう。

我はあるんだけど、忘れてる状態。

この話に似てるね~

願いは願ったら、すぐに棚に上げること、横に置くこと、忘れること。

それが願いが叶う方法。

願いを忘れている状態のことを無我の境地ともいうのかも。

願いを持ったままでいるから、それに囚われる。

あ~しなきゃ、こうしなきゃ、というよくある思考もそれだ。

あ~したい、こうしたい、を持ったままでいるから、

それをやるまで「しなきゃ」に囚われる。

仏教では囚われがあるのが無我の境地の反対だというらしいから。


稀勢の里関 ③

2013-05-25 14:58:05 | ひとの幸福
前にカルテットというタイトルだったかで、バイオリン青年のことを書いたことがある。

彼はその曲を美しく弾きたいと強く願っていた。

その青年はそんなふうに弾けなくてずっと苦しんでいて、

あるとき先生が弾いていたのを聴いた時、

「美しく弾こうなんてしなくていいんですね、その曲は既に美しいんですから」と

感動的に気付いたことがあった、という話。

稀勢の里関が「大関としての相撲を取りたい」という願いを持ったのと同じだ。

稀勢の里だったら、

「大関としての相撲を取ろう、なんてしなくていいんですね。

僕は既に大関なんだから(実力があるから大関になれたんだから)」

こういうことなのかと思った。

稀勢の里で在るだけでいい。そのままでいい、ということなのかと。

稀勢の里という状態そのままでいれば稀勢の里の実力が出る。

(そんな願いがあるのなら、いっぱい練習してるんだろうから)

大関としての相撲を取ろう、という意識は、

その状態(身体の実力)に干渉という影響を与えることになる。

観測者効果だ。

その干渉は在るがままの稀勢の里という状態(実力)にマイナーな影響を与える。

自分の意識(無意識的も含めて)は自分の身体に即影響を与えることが出来る。

まぁ考えてみれば、大関としての相撲を取ろうという思いの出発点は

土俵の上のたった今、大関としての相撲を取れてない自分だということだ。

大関としての相撲を取れていたら、そんなこと思わないからね~

自分に向かって~とれてないと宣言してるのと同じようなもんだ。

自分でそう決めているから、自分という身体はその通りになる。


無いと思うから欲しがる。

在ると思えば欲しがらない。

こういうことなのかなと思った。

稀勢の里関 ②

2013-05-25 14:19:43 | ひとの幸福
稀勢の里関が余計なことを考えていた・・と言ったそう。

そのせいで相撲が思いっきり取れなかったということだろう。

自然に「余計なこと」という言葉が出てきたのだろうと思う。

大関としての勝負をしなくちゃいけない、

優勝争いに絡まないといけない、といった考えのこと。

何が何処に余計なのか?

そういう考えが土俵の上では余計ということだよね~

はっけよいのこったと始まる勝負時には無我の境地に居ることが大事。

無我の境地で居ることで実力が発揮できるということなんじゃないか・・

大関として相撲を取りたい、優勝争いに絡みたい・・・

そういう願いは在って当然だ。

けれど、願いは願ったら、すぐに棚に上げること、横に置くこと、忘れること。

それが願いが叶う方法。

コレ、若い女の人向けの本にあった。「願いを忘れることが願いが叶うことです」って。

この、願いを忘れている状態のことを無我の境地ともいうのかも。

願いを持ったままでいる、ということを稀勢の里関は

大関になってからの1年以上ずーっとしていたんだろう。

それに気がついた。そういう自分だったことに気付いた。

今朝の新聞には「一皮向けた」という言葉を使ってそういう稀勢の里関のことが書かれてあった。

脱皮した、という表現も相応しい。

脱皮するというのは成長するということ。

何度も何度も人は脱皮して成長する。

稀勢の里関は今場所前不調だったことが幸いした。

不調はそのキッカケになった。

不調がよくないなんて言えないね~

美しさ

2013-05-25 10:43:42 | ひとの幸福
人はなんで美しいものを求めてしまうんだろう。

今晩のご飯を不味く作ろうなんていう人は居ない。

似合わない服を着ようなんてなる女の人は居ない。

美しく見えないようにしようなんて意識は働かない。

よりよいもの、より美しいものを無意識のうちに求めてしまう。

ひとはそうなっている。

どうして?何故ひとはそうなっているんだろう??

なってるもんはしょうがないよ・・でもさ・・・


批判やら非難やらのその経験を通して、

自分の心や世界を美しいものだけにしたい、という意志が潜んでいるから・・・

・・そういうことなんじゃないか。

もしそうでなかったら、美しくないものを見ても、しても、

気分は変わらない。

美しいものを見てるとき、してるときと一緒だ。

なんとも感じない、思わないはず。

心がいやな感じ、もやーッとした感じ、不機嫌、になるのは

自分の心や世界を美しいものにしたい、という意志があるから。

自分でそれを知らなくっても、在るものは在る。