ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

情緒不安定な子供 ②

2013-05-24 13:24:48 | ひとの幸福
情緒不安定になるのは子供だけじゃない。

大人も情緒不安定になることはしょっちゅう。私もよくある。

親が子供に対してする行為ばかりじゃなく、

自分が自分の為に行なう行為も目的があることを忘れていることがある。

自覚がないことがある。

なんのためにこうしているのか。

なんでこうしてるのか。

動作や行為にいちいち何のためかなんて考えてないよ~

それも尤もだ。

朝起きて顔を洗うのに何の為にこうするのか、なんて意識してない。

ご飯を食べるときになんでこうしてるのか、なんて意識してない。

頭が痒くなって掻く時、なんでこうしてるのか、なんて意識しない。

痒いから掻くんだよ、なんて言われそう。

でも痒くても掻かない状況もある。

オーケストラの指揮者がタクトを振ってる時に、

頭が痒くなるときもあるかもしれないけど、痒いから掻く、にならないからね~

どんなに痒くても我慢するという、掻くことをしないという行為をするにも、

指揮棒を振る目的がはっきりと自覚されてるからだろう。

掻かないのは我慢だけど、我慢するからストレスになる・・にはならない我慢だ。

自分がこうしたい、これを実現したい、という気持ちが揺るがなかったら、

目的に自覚があったら、

その行為をスッキリと出来る。

我慢だって苦渋だってへっちゃらになるのが人間の面白いところだ。

また頭が痒くなるかもしれないからもう指揮棒は振らない、なんてことにならない。

そんなの当たり前だよ、って言われるかもしれないけど、

自覚しないで生きてるとそういうことはよくある。

自分で経験してるからよくわかるよ。

かといって、気持ちが揺るがないのがいい、ということでもない。

揺らぐ時は揺らぐ。その時は揺らいでいるのがいい。

そう思う。

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情緒不安定な子供

2013-05-24 10:16:53 | ひとの幸福
下の子供が出来て上の子供が情緒不安定になる、ということをよく聞く。

上の子に気がないわけじゃないのに、上の子ときたら、駄々捏ねてばかりで、

もう、いやになる・・それに比べ下の子は無邪気で可愛い・・・

駄々を捏ねたり、乱暴したり、下の子を蹴飛ばしたりする、そういう姿を

どうしても可愛いと思えない・・・

“可愛いと思えない子供に可愛がるという行為ができない”

こんなんじゃいけないと頭ではわかるんだけど・・・と悩む。

そして出来ない自分を責める。

こういうことあるだろうな。そうなるのも無理はない。

上の子供は赤ちゃんが生まれて親の関心がそっちに行き、

それまでは親が自分のことだけ見ていてくれたのに、

赤ん坊の出現で、自分は愛されてない・・というふうになってしまうのだろう。

謂わば、誤解してしまう。

そう感じるので、親の愛を求めるために、駄々を捏ねたり、乱暴したり、

それまでしなかった赤ちゃんがえりのような行動をとる。

赤ちゃんだから構われるなら、自分も赤ちゃんになれば又親の愛を得られる、

となるんだろう。

下の子に乱暴するのも、大人の三角関係と同じで、

夫を寝取った女を憎む・・みたいな感じなんじゃないか。

それが余計に妻への愛情が減ることになるのにも気がつかない妻と同じだ。

でも、夫は妻への愛情が無くなることがあっても、

親は子への愛情はなくならないから、悩んじゃうんだと思う。

そうだ、愛があるから悩む。無ければ悩まない。

みんな悩んで大きくなった♪というコマーシャルが昔あったなぁ・・・脱線。

上の子は自分への愛情が減った、なくなった、と解釈してしまう。

子供がそう捉えてしまうのも仕方がない。だって子供だから。

こう考えると親が悩むのも子が悩むのも無理ない。

いけないことじゃない。

さっき書いたけど、

“可愛いと思えない子供に可愛がるという行為ができない”・・

・・ということなんだけど、

それもわかるけど、可愛がる、という行為の目的は、

子供の乱暴とかの行動を可愛いと思えるか思えないかは関係ない。

可愛くないと思って当然。(可愛いと思っても当然だけど。)

可愛がるという行為の目的がはっきりしていれば、

そう行為することで何を実現したいのか、に自覚があれば、

それが出来る。

目的が定まってないから迷う。

その行為の目的さえ自分の中で定まっていたら、迷わず行動できる。

子供が愛されていると実感すること。それが目的だ。

(事実愛されているわけで、子供が誤解してるだけなんだから。)

目的が定まったら嘘だってつける。

写真を撮られることで愛されていると実感するなら、

電池切れのカメラで撮る振りをすることだってへっちゃらだ。

親が子供を情緒不安定なままにしておけないというのは情熱ともいえる。

情熱があれば工夫が生まれる。

親は上の子供の情緒が安定して欲しいと願う。

愛されているのだと実感して欲しいと願う。

その願いの実現という目的遂行のために行為がある。

大袈裟な表現か・・でも、

親が子の幸せを願い、そうなるように行為、行動するということは、

この世で一番するべきことなのかと思う。

単なる血縁の親子のことだけじゃなく。

どんな行為も目的を潜ませることができる。

自分の今する行為の目的に意識的になることでそれが出来る。


広辞苑で「行為」はおこない。しわざ。あらゆる動作。

明らかな目的観念または動機を有し、思慮・選択・決心を経て

意識的に行なわれる意志的動作で善悪の判断の対象となるもの。




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よのなか科 体罰・・③

2013-05-22 15:31:17 | 新聞を読んで
最後の方に、

「体罰という言葉には自動的に「やられたほうに非がある」ニュアンスが含まれているから、

使わないようにしたらどうかと考えているんです。

片方に「暴力」があり、もう片方に「指導」がある構造の中で「体罰」という、

どうにでも解釈できる領域をその中間に置いてしまうと、

混乱するだけですから。

暴力と指導のギリギリの線はどこなのかを論じる方が、

焦点がはっきりすると思いませんか?」

・・があるんだけど、私の頭では何を云っているのかわからないな・・

確かに体罰とは罪に対しての罰であり、生徒が罪を犯したという前提がある。

生徒は罪なんか犯してない、とこの藤原さんは云っているのか?

暴力と指導のギリギリの線とはどういうことなんだろう???

指導に暴力はある、という前提がここには感じられる。

悪いことをしたらお尻をたたく・・・のは当然という考えが根強くそこにあるように受け取れる。

こうして私はすぐに分解を始めてしまう・・

悪いことをしたらお尻をたたく・・・

その行為は悪いことなのか・・??

お尻をたたかれたことで子供の心に何が生まれるか・・?

お尻をたたかれたことで子供がわかることなら、

それ以前に子供はそのことはしない方がいいとわかっているんじゃないか・・

だとしたら、お尻をたたかなくても、その時にもっと相応しい他の行為があるんじゃないか・・・

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よのなか科 体罰・・②

2013-05-22 14:06:19 | 新聞を読んで
「朝まで生テレビ」という番組があるそうで、それの引用があった。

さっきの藤原和博さんがそれに出演していたらしい。その一場面で・・・

体罰についての話しの時にあるお母さんが、

昔先生から受けた体罰にむしろ感謝しているという発言をし、

それに対し、精神科医の香山リカさんが、自分の所には、

体罰を受けて心に傷を負った人が多く来ていると反論した、という文章があった。

番組の構成上、そうした方が面白いから、わざとそういうふうな展開を狙ったのかもしれないけどね。


一つの発言に対し、反論する、という現象は世の中にたくさんある。

昔の先生から受けた体罰にむしろ感謝してる・・とその人は思っている。

その体罰がキッカケで自分の何かに気がついたのかもしれない。

結果としてその体罰は自分にとってよかったということだろうと思う。

その先生には生徒に対する愛情というはっきりとした自覚があったのかもしれない。

それをその人は感じたのだろうと思う。

その発言がされたのは、その人がそう思ったという事実がある、ということで、

だから体罰がよろしい、ということではないだろうし、

「香山ドクターが反論した」という表現から読むと、

反論というからには、

そのお母さんにそういう認識が在るという事実を否定したということだろうし、

そうすると、香山ドクターが幾らうちには体罰で心に傷を負った患者がたくさん来る、と訴えても、

その子らは弱いんだとか、体罰するに至った先生の心が読めないからだ、

とかの反論になって返って来そうな気がする。

反論にはその反論が必ず出て来る。

その場では素人のお母さんより精神科医という地位あるひとの方が発言力が強いから、

そういうことは言わなかったかもしれないけど。

でもこんなふうな反論・反論の討論になると、根本的解決は見出せない。

一人一人考え・経験が違うのは当たり前で、そういう経験の中から、

何がおかしいのか、よくよく分解して探さないといけない。

それには先ず一人一人の考え・経験を、あ~、そういう考え・経験が在るんだと、

反論などせず(そうなると反論が不可能になる)そのまま受け取ることからだ。

吟味はそれから。

でもひとは反論しちゃうんだよね。自分が正しいっ!になってるから。

幾ら話しても、これが外れてからでないと話に“ならない”・・・

んだろうなぁと思う。

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よのなか科 体罰・・

2013-05-22 13:28:47 | 新聞を読んで
今朝の毎日新聞のくらしナビという面に、

「よのなか科」というのがある。

今、キミに考えてほしいこと というサブタイトルのもの。

藤原和博さんという教育改革活動家とかの人が子供向けに書いているようだ。

今日は体罰についてのもの。

これを読んで、考えたい・・というのがむくむくと出てきた。

体罰とは「身体に直接苦痛を与える罰」と広辞苑。

この人が“体罰というどうにでも解釈できる領域・・・”と云っているように、

それは解釈なのだから、形を見るだけではわからない。

その言動が体罰なのか、愛情なのか、単なる腹立ちなのか、

本人自体が自覚のない場合も多いんじゃないかと思うけど、

どう考えても、愛情を自覚しての行為だったら、

相手の身体に傷がつくようなことにはならない。

瞬間的にカッとなって起こす先生の言動は“指導”にもなってない。

体罰とは痛い目に遭わせることで、そのことをもうしないようにさせる、

ということだろうと思うけど、

罰を与えればその人は良く変わる、という無意識的な確信を持っているということだろう。

自分が自らしたことで痛い目に遭うという経験をして、それがよかった、ということはある。

小さな子供がアイロンに触ってしまったというような痛い目に遭って、

それからはアイロンには絶対触らなくなった、というような事は、

痛い目に遭ったという経験が非常に役立ったということかなとは思う。

それはアイロンは熱いものという知恵を得たということだろう。

それにしても小さな子供が居る場所に熱いアイロンを置くような事は大人が避けるべきことで、

わざわざ痛い目に遭わせることでもない。

自分が自らしたことで、何かに失敗するという経験をして、そこから学ぶということはある。

痛い目に遭うというのは自分がした行為の結果を自分が引き受けるということだ。

痛い目に遭う と 他者から痛い目に遭わせられる のは全然別だ。

自分でアイロンを触ったことで得た「アイロンは熱いもの」という知恵は、

その子供にトラウマを背負わせないけれど、

親が子供に痛い目に遭わせてアイロンが熱いことを知らせようと、

わざと熱いアイロンをくっ付けたら、どうだろう?

そんなことを何度もしたら、子供はどうなるだろう??

「アイロンは熱いもの」という知恵が得られるというよりは、

「親は恐いもの」を学習するんじゃないか。

ちょっと論点がずれてる??

どんなことでも自分がしたことは、(他者がそれをなんとかしなくても)

自分に還って来る。心にも身体にも。

やりたいと思って入ったクラブの練習をさぼったら、力がつかないという結果を引き受ければいいんだし、

練習する気がなくなったら休むかやめればいいことで、

他者がどうのこうの言うことじゃない。

ましてや、指導という名前の暴力を振るうなんてしない方がいい。

本人にまかせればいいことだ。委ねるだけだ。

結局、その人のことをその人にまかせられない心情から体罰が起こるんじゃないだろうか。


小さな子に悪いことをするとお尻をたたく、という体罰も、

子供がそういうことをしないような環境を作れなかった大人の罪といえば、罪だろう。

それは罪と言えるものじゃないけど。

単に私たちがまだ未熟だ、ということに尽きる。
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ピキッ!とした痛み

2013-05-22 08:55:56 | 日々の暮らし・思い出
昨日の夕方排尿時にピキッ!とした痛みがあった。

昼間日帰り温泉の温めの湯に友人とながいこと入っていたとき、

ちょっと汚いな・・という感想を持ったことを思い出し・・・

もしかして・・ばい菌が入って・・わたしの抵抗力が落ちていて・・

膀胱炎になったかと思った。

20年位前に膀胱炎になったことがあり、その時の痛みと同じような感じがあった。

夜、布団に入ってからも時々ピキピキッ!と痛みが走る。

明日になってもこの痛みが消えてなかったら、病院に行くか・・・

薬局で薬を買って飲むか・・・なんて考えてた。

副作用云々・・身体の動的平衡・・なんて思ってるのに、

こういう時すぐに意識が「薬」ってなる自分だなぁ・・・

身体はそれを正常にしようとする働きがあるのに・・

なんて思いながら・・そのうち・・うとうと・・・となり始めた。

段々眠くなってくる・・・

そのとき、膀胱炎になったら水をたくさん飲むこと、というのを思い出した。

けど、眠い・・眠い・・眠い・・・・・ネ・・ム・・イ・・・

いや、寝てる場合じゃないぞ~と、エイヤーっと起き、

台所に行って水をコップ二杯がぶ飲みした。

すると当然夜中にトイレに行きたくなってくる・・で行き、

そこで又水をコップ二杯。

そして又すぐに寝つき・・又目が覚め、トイレとコップ二杯の水。

これを確か、3回か4回やった。夜中の排尿時痛みがどうだったか覚えがない。

ないくらいだから、あまりなかったのかもしれない。

半分寝てる感じだったので覚えがないのかもしれない。

朝起きてトイレ。痛みが見事なくなっていた!


身体自身が身体を正常に戻そうとする働きを元々持っているけど、

その働きを助ける役目としての水飲みだったのかと思った。

水飲みは身体を直接なんとかしようというものではなく、

身体の自然な働きの補助の役割をした、ということなのかと思った。

山岸さんの言葉で補助の役割を果たします・・だっけ、そんな言葉を思い出した。

これを確かめるのに久しぶりに青い本を手に取ったら、

どの頁も彼の伝えたい思いに溢れていた。



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わたしという意識

2013-05-21 07:47:08 | ひとの幸福
昨夜、居間で刺繍をしながら夫と酒場放浪記(テレビ番)を見ていた、そのとき・・

自分の意識に集中した。自分が自覚してる意識が今ここにある、と思った。

それが在ることがわかっている。わたしが観ている。

それしかない。それが在る。

わたしが観てるものはそれだけだ。

この世界に何十億という人がいても、

わたしという意識が観てるのは常に今ここの意識だけ。

酒場放浪記を見て、その音楽を聴いて、気が動く。

この曲何とも言えないね~と前にも言ったことがある言葉を吐く。

そういう自分の意識を観てる。

私に出来るのはこの意識を管理するだけだと深く思う。

ちゃんと管理し、調えて行きたいと思う。
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ベッカム選手引退

2013-05-20 13:38:35 | テレビを見て
サッカーのベッカム氏が引退するそう。昨日かな、今朝かな、テレビでやってた。

「サッカーやってて欲しいものはみんな手に入れた。ありがとう」

確かこういうふうなことを言っていた。

それを見た時、日本人ならこういう発言はしないなぁと思った。

欲しいものはみんな手に入れた、なんて言わないんじゃないか・・

そう思ったとしても言わないんじゃないか・・・

そう思った。

なんでだろう???

日本人は、欲しいものは手に入らない・・て思ってるのか?

欲しいものはみんな手に入れた、なんて言うのは、

手に入れてない人も居るのに悪いとか思うのか?

それを聞いてひとがどう思うかを配慮するからなのか?

けど、欲しいものが手に入るのは嬉しいことだ。

率直な気持ちを表現してるだけだ。


何かの事故で自分は死ななかったけど、

一緒に居た人が死んだとかいう場面で自分が助かったのは嬉しいことだけど、

それを率直に表現しないというのはある。

それは配慮という奴だと思う。

欲しいものはみんな手に入れた、とおおっぴらに表現しないことが配慮なのかどうかもわからない。

ベッカム選手の言動がよくないなんてことは無い。

ストレートでいい。

ただ違和感を感じてしまった私はひねくれてるのか???





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テレビ体操

2013-05-20 10:38:02 | 日々の暮らし・思い出
その時間に起きている朝は6時25分からのNHKのテレビ体操をしてる。

指導の先生が身体を動かす時に何処をどうしようとしてるか、

意識することで運動効果が違って来ると云っている。

他の考え事なんかしながらやっているより、

意識してやると運動効果が高いということなんだろうな。

先生のいうことをよく聞いてその通りやろうとしてやっているとかなりな運動になる。

この季節汗ばむ。

同じように身体を動かしても上の空だと効果が少ない・・・ということは

どういうことなんだろうか・・・?

筋肉の細胞は顕在意識の思いをちゃんと聴いているのか。

聴いてそうなるように計らってくれるのか・・


『通販生活』の本に出てる運動マシーンで自分で脚を上下に動かさなくても、

機械の方で上下に動いてくれて、脚の上下運動、歩き運動?が出来るというものがある。

それを見た時に自分で上下に動かそうとしないで、

機械が動くからそこに乗せてる脚もついでに動いてしまうようなことで運動になるんだろうかという疑問が湧いたんだけど、

本にはちゃんと自分で動かそうとして動く場合と運動効果は変わらないとあった。

ものぐさな私にこりゃいいなぁと思ったけど、かなり高いので諦めたけどね。

その機械に乗って自動的に脚が動いている時に、

今、この動きはドコソコの筋肉をこうしようとしてるんだとか、

意識してたらいいわけか・・

考えてみれば、歩くときに一歩ずつ自分で動かそうなんて意識してることはない。

動かそう、歩こう、と顕在意識で思うのは最初に歩き出す時だけだ。

あとは勝手に脚が動いてくれる。いわば、潜在意識のおかげだから、

さぁ、機械に乗ろうと思って乗るわけだからそれと同じなんだね、きっと。


速足で歩くぞと意識して歩く、

尻の穴をつぼめ、腹をへこませて歩くぞと意識して歩く、

・・・こういうことを意識して歩こうと思ってるんだけど、

歩いているといつの間にかそれを忘れてしまう事はしょっちゅう。

ホントいつの間にか、別のことを思ってる。


えーっと、そう、筋肉の細胞は顕在意識を聴いているのか??

それについて考えたかったんだった・・

右手を挙げようと思ってそうすると右手が挙がる・・のも、

身体の細胞が「こうしよう」ということを聴いて、

その通りしてくれてるからなのか。

「こうしよう」と思ってもそれがそうならない時は身体がその部分故障しているか、

いくらこうしよう、こう行動しようと顕在意識で思っても、

(そうするのがいいという考えかなんかで)

なんか凄いトラウマがあって、身体自体は故障中じゃないのに、

身体が動かないということもある。これは、

こう行動したら辛い目に遭う、というような強力な潜在意識があるので、

そうなるというような場合もあるんじゃないかと思う。

その時の顕在意識と潜在意識のプログラムが一致してないということ。

その時の「こう行動しよう」という顕在意識自体に無理があるということじゃないか。

・・と、考えてくると・・

意識して運動すると効果が高いというのは、

細胞が元々持ってる力が自然に出るような顕在意識の思いなら、

細胞がそうなるということか・・


細胞が元々持っている力が不自然に出るような顕在意識の思い、というのはあるんだろうか???

今はここで止めとこう。また・・







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わからないこと ②

2013-05-19 15:12:26 | ひとの幸福
年をとってから、あの時母が言ったことは尤もだなと思うことがある。

若い頃は母の言うことをわかってなかったし、

自分がわかってないことを知らなかった。

反発できるということは、“その事が何なのかわかっている”という前提があるということで、

わかってなければ反発できないはず。

でも、“わかってなかった”。

・・・これさっき書いた文章なんだけど、

反発できるのは、その事が何なのかわかっている・・というのは・・

親から意見された若い頃の自分の行為行動のわけは自分でわかっている、ということ。

そういう行動をとるにはとるだけのわけがあるからそうしている。

そうしてるということがその時の意志。

そういう意味のことで、何がわかってなかったのかといえば・・

親がそのことをあーだこうだ言うのは、

そのことをするわけ・その事にたいする解釈が子供と違うからだ。

親のそのわけは子供にわからない、ということ。

そのわけがわからない子供に言葉であーだこーだ意見しても、

それまでにわかったことがないことはわからない。

親のわけがわからない子供が親の意見、言葉を聞いて、

何がわかるのかといえば、

自分に関心を持ってくれている、というのがわかれば上等だ。

大きなお世話がわかる、という事の方が多いんじゃないか。

自分の体験ではそんな感じ。

やってみなけりゃわからない。

やってみてもそれに無自覚だとやってないのと同じでわからない・・





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わからないこと

2013-05-19 14:12:33 | ひとの幸福
若い頃、親にいろいろと意見されてそれに反発する。

結構誰にでもあることかもしれない。

私の父は私に何の意見もしなかったから寂しく思ったことがある。

関心を持たれてなかったのだと感じた。

まぁ、この話は脱線で。

年をとってから、あの時母が言ったことは尤もだなと思うことがある。

若い頃は母の言うことをわかってなかったし、

自分がわかってないことを知らなかった。

反発できるということは、その事が何なのかわかっているという前提があるということで、

わかってなければ反発できないはず。

でも、わかってなかった。

(わからない)とわかることが無知の知だと思うけど、

無知の知が真の知にいたる出発点であるとソクラテスが言ったらしいけど、

ホント出発点なんだよね~

出発点に立たなきゃ、スタートできない。スタートできなきゃ始まらない。

けど、大人がわかってない子供に、「教えりゃわかる」と思うのは、

教えたってわからないということを、

大人が知らない・わかってない、ということなんだろうな。

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「宇宙は・・・」②

2013-05-19 13:48:16 | 本を読んで
この本で面白いと思ったのはもう一つ。

物理学で、何かわからないことを探って探って研究して、

それを「わかった!」となったとき、

又、つぎに新たに「わからない」ことが出て来る、という話。

常にそうだという。

何かわかると、わからないことが出て来る。

そのわからないことって、それ以前からわからなかったということだと思うけど、

それがわからない、ということを人間は知らなかったわけだ。

わからないこと が 在る ことを 知らなかった。

これも山奥の金塊と同じだね~

在っても、それを知らなければ、人間にとってそれが無いかのような行動をとらせる。

(人間にわからないこと)は星の数ほど在る・・

(この表現より、暗黒物質の数ほど在る、の方が相応しいのかもしれない。

暗黒物質より星の方がずっと少ないそうだから。)脱線。

人間にわからないことは無限大?に在る。

わからないことが在る、ということがわかる人を謙虚とかいうけど、

謙虚なのが当たり前という気がするね~

謙虚の反対語が傲慢だとしたら、

傲慢なのは異常ということになるのかな。



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「宇宙は何でできているのか」

2013-05-19 13:28:17 | 本を読んで
村山 斉さんという科学者が書いた、「宇宙は何でできているのか」という新書を読んだ。

かなり真面目に(飛ばし読みをせずに)読んだけど、

へ~そうか、へ~そうか、と思ったけど、わかって、へ~そうか、じゃないのは勿論。

物理的な話はほとんどわからない。

けど、こんな話は面白かった。

どんな物理現象も、左右を逆にしたときに法則が変わることはないはずで、

そこには左右という概念がないので、空間を反転させても物理法則は変わらないはず。

・・・なんだけど、ナンタラさんの研究・実験でわかったのが、

“弱い力”(素粒子物理学の専門用語で物質間に働く4つの力のうち)に反応するのは

「左巻き」の粒子だけだという結論が出たらしい。

【“強い力”“弱い力”は、強い相互作用、弱い相互作用とも訳すらしい】

この“力”は自然界の法則が右左を区別する、

つまり右と左には本質的な違いがあるということを意味しているらしい。

“弱い力”が働く方が「左」。それが宇宙のルールなのです、ということらしい。

物理学界でこれは衝撃的なことだったようで、

物理学者は自然界の秩序をシンプルな法則で説明したいと願っているので、

是非とも対称性は保存されて欲しいので、

次々と、いや、これこれで対称性はある、と言って、

別の秩序を見出さないとならないよう。

それがわかってからもいろんな研究がなされているようで、

日本人の小林さん益川さんがノーベル賞をとったのも、

ナンタラ対称性の破れを説明したものらしい。


難しくてよくはわからないけれども、この話は面白く感じた。

私たちも宇宙の星屑から出来たもので、そのことも私なりに納得してるんだけど、

だから、私たちの身体も宇宙の法則に則って在るわけだから、

利き手やら、腕組みや両手を組むときに左が上になるのがしっくりするとか、

右が上の方が自然な感じになるとか・・そういうことが歴然とある。

脚でケンケンをするとき(片足で石蹴りをするときなんかに)に立つ方の脚も

そんな感じがあるように思う。

私は右利きだけど左足でケンケンする方が自然。

好みの問題じゃない。こういうのって本当に興味深い。

対称性が破れてるように“なっている”・・という表現をしてもいいのかな。

対称性を超えているものがこの宇宙には在る、ということなのかな。

この話と関係ないけど、日本の生け花は非対称的に活けるけど、

西洋の生け花は左右対称だ。

日本人は左右が対称的じゃない方に美しさを感じるのかなぁ。

それって日本人は西洋人より自然と共にという生き方をする、

という話と共通することなんだろうか・・・??

多分きっと関係ないね。

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仲畑流万能川柳

2013-05-18 13:53:04 | 新聞を読んで
毎朝、新聞はこの欄から読む。この欄しか見ないこともよくある。

今日のをちょっと紹介。・・

「あの世でもあるのだろうか死ぬ思い」 秀丸氏 作。

それがあったら、あの世で、「もう死にたい」ってなっても、

既に死んでるんだから死ねない。不可能なのかな~

だとすると、この世は死ねるからいいね~

もう幾つか紹介。

「一を聞きいきなり十をするタイプ」面白いね~

こういうタイプいるいるって思う人あるから、

こうやって活字化されるんだろうなぁ。

「生まれた地違っただけで敵味方」これも頷いちゃう。

川柳とか俳句や短歌なんかで思いを形にする作業というのは、

物事を客観化しないと書けないのかと思うんだけど、

だからこそ面白いんだろうな。

腹立ちなんかをそのままストレートに出してもちっとも面白くないもんだし。

謂わば、思いを放すという作業を経たものが川柳やいろんな歌なんだろう。

よく短歌とか書いている人は呆けないという。

実際そうなのかどうかは知らないけど、そんなふうな話があるということは、

それなりに何かわけがあるのだろうと思う。

自分のことやひとの事を当事者目線ではなく、見られるのは、

その物事に対してよいとか悪いとかの判断を棚に上げるか、横に置くか、

その判断自体が無いか、しないと出来ない。

当事者目線ではないということは天から目線だ。

それって観察。善悪の判断抜きの観察。

川柳を読むと結構みんなそうだ。

「病院行くより元気になる女子会」「パンダって展示をされるものなのね」

「常連と会うデパ地下の試飲会」「定年後望遠鏡を買った人」

「どう似合う?夫に聞けばいくらした」

「川柳をやってて標語頼まれる」等など・・

なかにはこんなのもある。「反抗期返事をしないのが返事」

しばてんさんという人が書いたものだけど、

しばてんさんが反抗期の子供の親なのか、そうじゃないのか全くわからないけど、

もし反抗期の子供の親なら、その子供は早くに反抗期から抜け出せるかなと思ったよ。



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記念日

2013-05-18 10:34:48 | 日々の暮らし・思い出
今日は夫との結婚記念日。17回目である。

昨夜、なんとなく思い出した。

ここ何年も、その日に思い出すことなんかなかったのに。

前の夫とも17年くらい一緒に暮らしたんだけど、

それと同じ年月が経ったのかと感慨深い。

前夫との17年と比べると凄く短く感じる。どうしてなんだろう・・・

若い頃は出産したり子供の面倒見たり、そんなふうな出来事がいろいろあったからだろうか・・・

今の夫とは育児をするとかそんなことがないし、

似たような暮らしが続いているからなのかな・・

わからないね~ なんだかは。

これと同じ年月をこれからの人生で経験するかね~なんて昨夜話した。

その時生きていたら、

何処で何を思い何をしている17年後だろうか・・・

世の中、世界はどうなっているだろうか・・

そんなふうに夫と話した。なんだか楽しみだ。

まぁ、それを経験する前に死ぬこともあるかもしれないけど、それもよしって思った。

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