神無月の頃、栗栖野(くるすの)といふ所を過ぎて、ある山里にたづね入る事侍りしに、遥(はる)かなる苔の細道をふみわけて、心細く住みなしたる庵(いほり)あり。木の葉に埋(うづ)もるる懸樋(かけひ)の雫(しずく)ならでは、つゆおとなふものなし。閼伽棚(あかだな)に菊・紅葉など折り散らしたる、さすがに住む人のあればなるべし。 かくてもあられけるよと、あはれに見るほどに、かなたの庭に大きなる柑子(かうじ)の木の、枝もたわわになりたるが、まはりをきびしく囲ひたりしこそ、少しことさめて、この木なからましかばと覚えしか。
(現代語訳) 十月の頃、栗栖野という所を通り過ぎて、ある山里にたずね入ることがあり、はるかに続く苔むした細道を踏み分けていくと、ひっそりと人が住んでいる草庵があった。木の葉に埋もれている懸樋から落ちる水のしずくの音のほかに音を立てるものはない。閼伽棚には菊や紅葉などを折って散らし置いてあるのは、それでもやはり住む人があるからなのだろう。 こんなさびしいところでも住むことができるのかと、しみじみ思って見ているうちに、向こうの庭に、大きなみかんの木で、枝もしなうほどたわわに実がなっているのがあり、人に盗まれないように周囲を厳重に囲ってあるのは、少し興ざめがして、この木がなければどんなによかったかと思ったことだ。
高校の古典で習ったこの一節が好きで忘れられず、一字一句とは云いませんが空で覚えていました。でも、徒然草だとは知りませんでしたし(^0^;) たわわに実っていたのは柿だと思っていました(..;)
この季節になるとこの一節を思い、したり顔で~神無月の頃栗栖野といふところを過ぎて~と悦に入っていたのであります。
ナナカマドはいよいよ鮮明な朱となり、長くのびたススキの穂は夕暮れに映え、秋が深まっていきます。
神無月の頃・・・長い夜は嫌いなんですよね。