朝焼けを見るために

神様からの贈り物。一瞬の時。

新年度

2010-04-01 00:45:34 | Weblog
気がつけば4月、年度が変わっていた。
4月1日は、上の娘が1歳の時に亡くなった、私の祖父の誕生日。
優しいおじいちゃんだった。
弟達が遊びの途中でおなかがすけば、いつも祖父のところ(同じ町内で、たばこや←祖母が去年の夏に亡くなって以来叔父がやっている)でいつも味の素のきいたおおきな塩にぎりとつくってもらっては食し、また遊びにと戻っていた。
元銀行員だった祖父は、いつもネクタイを締めて背広を着込み、出かけるときは中折れ帽をかぶっていた。
「るなが結婚して、子供をみるまでは・・・1」と言っていた祖父。
娘が生まれたときは、それは大喜びで私が実家にいる間中、毎夜晩酌がおわれば自転車で現れては娘の顔をのぞいていた。
しばらくして歳も年(92歳でなくなった)だったのだが、倒れ一年自宅で介護されてなくなった。
私にとっては、やさしいいいおじいちゃまだった。

去年夏なくなった祖母とは、一回りももっとも年のはなれていた祖父。さまざまな話を耳にはしたが、子供の私には理解できずどうでもいい話ばかりだった。
亡くなるどのくらい前だろうか?祖母が私に、
「おじいちゃんがなくなって、この20年本当に私は幸せだった。おじいちゃんは性根も悪い人で、本当につらいことが多くて、子供がいたばかり(父は4人兄弟)に我慢して過ごしてしまったけれど、おじいちゃんがなくなってからは、本当にみんなに大事にしてもらい、好きなことができて心から幸せな人生だわ。」
と言った。
いろいろな話が、わたしの中で融合されて一揆に理解したが、祖母がそれほどまでに思ってくらしていたことに、衝撃をうけたことがあった。
長い結婚生活の中で、さまざまなことがあっただろうが、晩年になり祖母がそう私に言った(たぶん私だけに言って、叔母にすらも言ったことはないだろう)ことは祖母のついいつの本音と告白だったような気がする。
祖母は男ばかりの兄弟の末っ子で、唯一の女の子。
町内では名家の出で、湾内に水上飛行機を所有したり、学校に通うには毎日人力車の送り迎えだったという(そんな時代のあとかたもなかったが)育ち方をした人だった。
弱音をはくこともなく、いつも凛と小さい小太りの体でありながら背筋をまっすぐにのばして、大きく立っている人だった。

そんな血が私のなかに流れている。。。はず。


さて、新年度。
中国へ行っている下の娘はすでに前倒しではじまっているが、上の娘は5日の入学式からまた新たな生活がはじまる。
自分の中にしっかりとしたものを植え付けてほしい。

私の持論として、いつも思いそして娘たちに伝えてきたことは、
『お金や物は、その価値観が時として変わり、いつまでも持っていることができるものではない。だから自分の身につけた知識や教養だけを信じなさい。そのためには、できる限りのことをしてあげるから。」
と。
実際、私自身が大人になるにつれ何を一番に信じ、何が大切なのかということを実感していくなかで、確かにお金は大事で、ある程度の幸せすらお金で買える。
しかし、それがすべてではなく、自分が出逢いふれあい、感じあっていける本当の意味での信頼のできる数少ない人が財産であり、
自分が身につけた知識と教養だけはどんなに世の中が変わろうとも変わることのないものだということ。
それをいつも娘たちに伝えてきた。

私は、使ってしまったお金には未練も何もなく、そのことについて金勘定もしない。
バブルっ子と呼ばれる時代に育ったが、ブランドものにも何も興味のかけらもない。実際ブランド物は一切持っていず買った記憶もない。
確かなものは好きだが、それも金額ではなく自分の価値観にあったもの。
たとえ1円のものであれ、それが自分にとって大切なものであればいつまでも大事にする。が、高価なものでも自分にとって必要のないものは見向きすらしない。
そんな私が育てた娘たちは、学園時代も周りのお友達が、年不相応なものを所持していても、一緒にお買いものにいって高価なお洋服を買ったとしても、それをうらやましがることはなかった。もちろん今でも。

上の娘がさらに上の学校に進みたいと、努力を重ねてた日々、私にできることはそれを理解することができない私の父や亭主と、やんわりと説得し続けることと、娘のそういう環境を整えてあげることだけだった。
おしゃれをするわけでもなく、彼を作って遊び呆けるわけでもなく、ただ自分の進むべき道を模索しながら黙々と努力を(人の三倍時間のかかる子ですが)重ねて、そこに向かっていく娘を、苦笑しながらもサポートしできることが私の喜びだった。
好き勝手なことを口する(私に対しては、あまえているのだろうが)娘に、時としはイライラすることもあったが、自分ができなかった(時代もあるが父の言いなりの人生をすごしてきた)ことを、娘が替わりに歩んでくれているようなそんな思いがある。
「ママの望みどおりの学部に受かった。」
とまで言われてしまったが・・・(それもどうよ!)


この先娘たちがどんな道を歩いていくのかはわからないが、親としてできることはいつまでもしてあげたい。
そう思う、親バカな新年度の始まりである。

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