もこにゃんとばあば

もこにゃん もうすぐ八才(2015年生れ)
登場数は少ないですがヨロシク!にゃん

「リンゴの唄」の日

2021-10-11 04:41:21 | 俳句

蜜入りの林檎オホーツクにやって来た

(毎年蜜入り林檎を送ってくれる友人がおりますが、そろそろ辞退せねばと思う年頃になりました

           

1945(昭和20)年の10月11日、戦後初めて制作・公開された映画『そよかぜ』が封切られた。

並木路子が歌う挿入歌「リンゴの唄」は戦後を象徴する大ヒットとなった。

可憐な少女の思いを赤いリンゴに託して歌う歌詞が、終戦後の焼け跡の風景や戦時の重圧からの解放感とうまく合っていたのと、敗戦の暗い世相に打ちひしがれた人々に明るくさわやかな歌声がしみわたり、空前の大ヒットとなった。

「リンゴの唄」吹き込みの際、万城目正はたびたびダメを出し「もっと明るく歌うように」と指示したが、この注文は当時の並木には酷だった。

並木は戦争で父親と次兄を亡くし、自身も1945年3月10日の東京大空襲で猛烈な火炎に追われ隅田川に逃げ込んで助かったものの母親を亡くしていたのである

さらに大空襲で大勢の人々が死ぬのを目の当たりにし、どうしても明るく歌えない並木に万城目は「君一人が不幸じゃないんだよ」と諭して並木を励まし、あの心躍らせるような明るい歌声が生まれた

映画が封切りされてからレコード吹き込みまでに「そよかぜ」と「リンゴの唄」は再三ラジオで放送されていた。

並木が初めてラジオで「そよかぜ」と「リンゴの唄」を披露したのは1945年12月2日放送のNHK『歌と軽音楽』である

それ以前にも並木は出演していないものの、1945年放送のNH放にて「リンゴの唄」が披露された記録がある

当時、出演する歌手は歌う曲の譜面を放送局に持っていったが、出演者の一人であった霧島昇はその際必ず「リンゴの唄」の譜面を持って行っていた。

「リンゴの唄」のヒットを予感していた霧島は、万城目に直談判し、この曲でデビューが決まっていた並木路子と共に歌わせて欲しいとの要請をしたため、急遽「リンゴの唄」は並木とのデュエットという形になった

また霧島は本人の希望でデュエットという形で参加したものの、並木を売り出したいコロムビア側の意向でステージでは歌わなかったという。

そのため「リンゴの唄」が霧島とのデュエットであったことは、並木によるソロバージョン(後述)の方が最も良く流通している理由もあり、後にあまり知られなくなった。

1949年(昭和24年)には並木のソロ歌唱によるレコードが発売されている

レコード売上には諸説あるが、1947年末までの2年間に12万5000枚を売り上げたという記事があり、レコード業界が非常な苦境にあった当時としては驚異的な大ヒットであったと考えられる

文献によっては発売から2〜3年で約33万枚に達したともされる

この曲の発表当時まだリンゴは貴重品であり、1945年12月10日放送の公開ラジオ番組において並木がこの歌を歌いながら客席に降り、篭からリンゴを配ったところ、会場がリンゴの奪い合いで大騒ぎになったというエピソードもある

その後並木がこの歌を歌う際には、リンゴ投げのパフォーマンスが定番になった

JASRACの公式本によると、リンゴの唄により並木が家を建てたと舶来のウィスキーを持ってサトウのもとに礼を言いに来た際、サトウは俺達は犬小屋も建てられないとして開店休業中だった著作権管理団体を本格的に復活させようと仲間と共に運動を始めた。

本作の著作権は、歌詞が2043年12月31日、曲が2038年12月31日に消滅する。

(曲は旧法においては2018年末に消滅の予定であったが、2018年に法改正が行われ、消滅直前に20年延長となった最初の例の一つとなった)。

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私が生まれる前の戦後初の大ヒット曲に、こんなドラマがあったんですね~。

我々世代以上の人は絶対知っている「リンゴの唄」今でも高齢者のカラオケでは歌いますね。

良い曲はいつまでも歌い続けられるということですね。