時超へて 時代祭りの 華やげり
(1200年前の一般人はどんな暮らしをしていたのでしょう)
旧暦にあたる延暦13年10月22日、時の桓武天皇がそれまでの長岡京から京都の山背国葛野郡へ遷都を行ったことにちなんで制定された記念日。
また、後日新たな新京を平安京と命名しております。
ちなみに、平安遷都1,100年を記念して創建された平安神宮の時代祭は、京都三大祭にも数えられており、例年10月22日に開催されております。
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また、蝦夷を服属させ東北地方を平定するため、3度にわたる蝦夷討伐を敢行、延暦8年に最初の軍は惨敗したが、延暦13年の2度目の遠征で坂上田村麻呂を抜擢して、延暦20年の3度目の遠征で彼を征夷大将軍とする軍を送り、田村麻呂がアテルイら500人の蝦夷を京都へ護送した延暦21年に蝦夷の脅威は減退、翌22年に田村麻呂が志波城を築いた時点でほぼ平定された。
しかし晩年の延暦24年には、平安京の造作と東北への軍事遠征がともに百姓を苦しめているとの建言を容れて、いずれも中断している。
また、軍隊に対する差別意識と農民救済の意識から、百姓らの兵役の負担は解消されたが、この制度も間もなく機能しなくなり、9世紀を通じて朝廷は軍事力がない状態になった。
その結果として、9世紀の日本列島は無政府状態となり、有力な農民が自衛のために武装して、武士へと成長することとなった。
文化面では『続日本紀』の編纂を発案したとされる。
また最澄を短期留学生として唐で天台宗を学ばせ、日本の仏教に新たな動きをもたらしたのも桓武天皇治下で、既存仏教に対しては封戸の没収など圧迫を加えている。
また後宮の紊乱ぶりも言われており、それが後の薬子の変へとつながる温床となったともされる。
その他、即位前の宝亀3年には内親王や親王の、在位中の延暦4年には早良親王の不自然な薨去といった暗い事件が多々あった。
治世中は2度の遷都や東北への軍事遠征を主導し、歴代天皇の中でもまれに見る積極的であったが、青年期に官僚としての教育を受けていたことや壮年期に達してからの即位がこれらの大規模な政策の実行を可能にしたと思われる。
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桓武天皇は実家の成り立ちとも関連があり、興味深い天皇でもあります。
とは言え、1200年前の話になります。