もこにゃんとばあば

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芭蕉忌

2021-10-12 05:13:27 | 俳句

病み心空に飛ばそう芭蕉の忌

(この齢になると体の不具合が出てくるものですね~

              

俳諧師として多くの俳句を世に遺した松尾芭蕉が、1694年(元禄7年)10月12日に永眠したことを偲び、その功績を讃えて制定された記念日。

新暦1694年11月28日松尾芭蕉が時雨の句をよく詠んでいたことと、時雨月なことから、同氏の忌日は時雨忌と呼ばれている他、当時の平均寿命が約50歳前後とされる中、俳諧の旅を始めたのが45歳からだったこと等から、翁忌とも呼ばれております。
 
おくのほそ道:西行500回忌に当たる元禄2年(1689年)の3月27日、弟子の曾良を伴い芭蕉は『おくのほそ道』の旅に出た。
 
下野・陸奥・出羽・越後・加賀・越前など、彼にとって未知の国々を巡る旅は、西行等の歌枕や名所旧跡を辿る目的を持っており、多くの名句が詠まれた
 
夏草や兵どもが夢の跡 :岩手県平泉町

閑さや岩に染み入る蝉の声 :山形県立石寺

五月雨をあつめて早し最上川 :山形県大石田町

荒海や佐渡によこたふ天河 :新潟県出雲崎町

この旅で、芭蕉は各地に多くの門人を獲得した。

また、歌枕の地に実際に触れ、変わらない本質と流れ行く変化の両面を実感する事から「不易流行」に繋がる思考の基礎を我が物とした

芭蕉の俳諧の理念として有名なのが「不易流行」です。

「不易」は時を越えて変わらない真理。

「流行」は時代や環境に即して変えていかなければならないという法則。

良い俳句を作るためにはこの二つが大切だとしています。

つまり、普遍的な真理である基礎をまずしっかり学び、その上で時代の変化にあった新しさも常に取り入れないと平凡な句になってしまいますよ。

根本に「風雅の誠」がなければ良い俳句になりませんよ、と言っています。

つまり美の本質を持っている伝統で、中国の杜甫や李白の詩、日本の和歌、芭蕉は特に西行に傾倒していました。

このような伝統的な美に根ざすことで、滑稽になり過ぎていた「俳諧」を「芸術」に高めたのです。

芭蕉の俳句が描く世界は情景、音、匂、色表情がとても豊かで、自ら打ち立てた理論に則って常に推敲を怠らなかったそうです。徹底した努力の人でもあったことがわかります。

日常のことばで自然や人生を探求し、たった17音に、誰もがわかる俳句をつくる芭蕉。これからも永遠に読み継がれ輝くことでしょう。

死去:元禄7年(1694年)5月、芭蕉は江戸を発ち、伊賀上野へ向かい、5月28日には到着した。

その後湖南や京都へ行き、7月には伊賀上野へ戻り、9月に奈良そして大坂へ赴いた

大坂行きの目的は、門人の二人が不仲となり、当初は若い珍碩の家に留まり諭したが、彼は受け入れず失踪してしまった。

この心労が健康に障ったとも言われ、体調を崩した芭蕉は之道の家に移ったものの10日夜に発熱と頭痛を訴えた。

20日には回復して俳席にも現れたが、29日夜に下痢が酷くなって伏し、容態は悪化の一途を辿った。

10月5日に花屋仁左衛門の貸座敷に移り、門人たちの看病を受けた

8日、「病中吟」と称して「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」を詠んだ

この句が事実上最後の俳諧となるが、病の床で芭蕉は推敲し「なほかけ廻る夢心」や「枯野を廻るゆめ心」とすべきかと思案した。10日には遺書を書いた。

そして12日申の刻(午後4時頃)、芭蕉は息を引き取った

13日、遺骸は陸路で近江(滋賀県)の義仲寺に運ばれ、翌日には遺言に従って木曽義仲の墓の隣に葬られた。

焼香に駆けつけた門人は80名、300余名が会葬に来たという

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旅の日 - もこにゃんとばあば (goo.ne.jp)

松尾芭蕉の旅は吟行そのもので、日常のことばで自然や人生を探求し、たった17音に、誰もがわかる俳句をつくりました、これからも永遠に読み継がれ輝くことでしょう。

私も俳句・短歌詠む一人として芭蕉をお手本にしていきたいと思っております。