才能はかの人ほどに無き我に神は与えん並並の生
老齢の 母を呼寄せ 啄木忌
(人生はなんだかんだと言っても啄木のようでもありました。)
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4月13日は明治晩期に若くして短歌の名作を残し、わずか26歳で世を去った石川啄木の忌日「啄木忌」。
今も昔も、野心を抱いて上京し、夢を追いかける若者たちは大勢います。
ミュージシャン、お笑い芸人、役者、アイドル…そんな若者たちの、ひりつく希望や挫折を誰よりも先駆けて表現した文学者こそ、石川啄木でした。
石川啄木(本名 石川一/はじめ)は、明治19(1886)年、岩手県南岩手郡日戸(ひのと)村、現在の盛岡市の北部で生を受けました。
父・一禎(いってい)は農家の五男で、幼い頃から養子に出され、長じてからは曹洞宗(禅宗の一派)の寺に預けられたという人物。
一禎は同じ曹洞宗の名僧で、盛岡の龍谷寺の住職の葛原対月(かつらはらたいげつ)を慕い、弟子となり薫陶を受けました。
そして対月の末妹カツと結ばれ、一(のちの啄木。少年期の記述は一で統一)が生まれます。
対月は和書漢籍に通じ、茶道や易学、和歌もたしなんでいた知識人。
少年時代、一は伯父である対月を訪ね、詩歌の手ほどきを受けたといわれ、文学者石川啄木の出発点はここにあったといわれます。
一禎が岩手郡渋民村の宝徳寺の住職に任じられたのを機に、一が一歳のときに一家は渋民村に転居しました。
盛岡中学時代には後に妻となる節子、生涯の友となる金田一京助と出会い、金田一にいざなわれるように、与謝野鉄幹・与謝野晶子夫妻の主催する詩歌雑誌『明星』を耽読、文学にのめりこんでいきました。
当時自身のペンネームを白頻(はくひん)と号し、「血に染めし歌をわが世のなごりにて さすらひここに 野にさけぶ秋」という、現代の某ヴィジュアル系ロックバンドの歌詞かのような短歌を作っています。
文学に夢中になって学業がおろそかとなり、試験のカンニングが発覚してけん責を受けると、「家業上の都合」と、中学を自主退学。
その月に「人生の高調に自己の理想郷を建設せん」との野望を抱いて上京をし、16歳にして新詩社の会合に出席しています。
まさに、「オレが時代を変えてやる!」と大都会に乗り込む、現代のミュージシャン志望や芸人志望の若者そのものです。
このはじめての東京逗留は、結核の発病と生活困窮で四ヶ月で頓挫して、いったんは岩手に戻ります。
そして、病と貧困で痩せ衰えた自身をキツツキ、つまり「啄木鳥」になぞらえ、「啄木」と号するようになりました。
帰郷後、啄木に重大な転機が訪れます。
父・一禎が曹洞宗本局への宗費滞納で、宝徳寺住職の職を罷免されてしまったのです。
啄木の貧困生活はここからはじまりました。それでも翌年、明治38(1905)年には、処女詩集『あこがれ』の発刊にこぎつけます。
序文・上田敏、推薦文・与謝野鉄幹という錚々たる顔ぶれの支援で売り出された詩集で、啄木ならずとも「これは売れる」と確信できるものでした。
が、予想に反し詩集は売れず、啄木は深い挫折感を味わいます。このとき啄木19歳。
父に代わり一家の稼ぎ頭として生活費を得ねばならない立場と、自身の大いなる夢の両立というプレッシャーを担うには、あまりに若過ぎました。
二十歳、父の宝徳寺復帰の請願のために上京、与謝野鉄幹宅に滞在して、蔵書、新刊小説を読み漁り、次のように感じます。
「夏目漱石、島崎藤村の二氏のみ見るべきものがあるが後は全部ダメ。夏目氏は驚くべき文才があるが偉大さはない。
島崎氏も『破戒』は群を抜く出来だが、天才ではない。」また、「夏目の『虞美人草』なら一ヶ月で書ける」とも述懐しています。
年齢的にも20歳近く年上の先輩文士で、現代でも文豪中の文豪とされる漱石と藤村を、上から目線で「なかなかだがまだまだだ」と評するのは、まさに向こうっ気の強い若者の傲岸です。
こうして処女作小説『雲は天才である』を皮切りに、明治43(1910)年までの約四年間のうちに、十五編の小説を書き上げ、盛んに出版社に持ちこみますが、ほとんど評価を受けることなく拒絶され続けます。
こうした中、生活の困窮と失望を慰撫するために、短歌を書き始めるのです。
「私は小説を書きたかった。そうしてついに書けなかった。その時、ちょうど夫婦喧嘩をして妻に敗けた夫が、理由もなく子供を叱ったり虐めたりするような一種の快感を、私は勝手気ままに短歌という一つの詩形を虐使することに発見した」短歌と、後に「ローマ字日記」と呼ばれることになった秘密の日記とは、すさんでいく生活と心情を吐露するはけ口となったのです。
今で言えば、インターネットの匿名掲示板やSNSに満ち溢れる呪詛の言葉や自虐・嗜虐・露悪的コメント(つぶやき)の先駆けと言ってもいいものです。
東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる
はたらけど はたらけど猶わが生活(くらし)楽にならざり ぢつと手を見る
たはむれに母を背負ひて そのあまり軽(かろ)きに泣きて 三歩あゆまず
これらの代表歌は、特に文学に明るくない人でも、どこかで聞いたり読んだりしたことがあるでしょう。
有名歌の数で言えば、「柿食えば」の俳句の正岡子規、あるいは「雨ニモマケズ」の同郷岩手の詩人・宮沢賢治よりも多いのです。
近代詩最大の偉人といわれる萩原朔太郎の処女詩集は『月に吠える』。その表題は、
わが泣くを少女等きかば 病犬(やまいぬ)の 月に吠ゆるに似たりといふらむ
啄木のこの短歌から取ったもので、朔太郎は同年齢の啄木を深く敬愛し、著書『詩の原理』では「わが石川啄木」と崇敬の念を込めて賛嘆しています。
評伝劇『泣き虫なまいき石川啄木』の著者・井上ひさしは、「石川啄木は日本文学三本の指に入る日本語の達人」とその技量を大絶賛しています。
どんよりと くもれる空を見てゐしに 人を殺したくなりにけるかな
誰(た)そ我に ピストルにても撃てよかし 伊藤(※註・当時暗殺された日本の宰相・伊藤博文のこと)のごとく死にて見せなむ
一度でも我に頭を下げさせし 人みな死ねと いのりてしこと
他者への害意と社会転覆への暗い情動、自身への嫌悪と絶望。
非常に不穏で過激な内容ですが、逆にこのように言葉にすることでぎりぎりの平衡を保っている、つらい現実が背景にあるのです。
あたらしき背広など着て 旅をせむ しかく今年も思ひ過ぎたる
これなどは、近年の「サラリーマン川柳」にも似た哀愁と諧謔を感じさせます。
己(おの)が名をほのかに呼びて 涙せし 十四の春にかへる術(すべ)なし
これほど恥ずかしげもなく自己憐憫と自愛を謳った歌があるでしょうか。
近年、日本プロレタリア小説の金字塔『蟹工船』(小林多喜二)がブームとなりましたが、その際大江健三郎氏は、閉塞した困難な時代に生きている青年たちに、続けて石川啄木を読んでほしい、と語っています。
傲岸不遜でトラブルを起こしがちな性格や、肺病ゆえであるかもしれない根気のなさなどで仕事を転々としたことなど、啄木の身から出た錆びの部分もあるとはいえ、函館ではせっかく決まって真面目に務めていた新聞社が、函館の大火で退職を余儀なくされるなど、自身ではどうしようもないいくつもの不運にさいなまれた一面も間違いなくありました。
しかし、誰もが思い描いた夢を実現できるとは限らず、むしろ何一つ思うままにならず、熾火(おきび)のように燃えくすぶる諦めきれない気持ちを抱えて、鬱屈した生活を送る人々のほうが多いはずです。