あつたかい ブログ 2

日々思った事、感じた事そして、親神様の御守護を書いて行きたいと思います。

はえでづとめ2 から。。。

2020年04月18日 08時53分25秒 | 気になる言葉

今日は、教祖ご誕生祭である。

教祖おめでとうございます。

昨夜から雨、なんだか教祖の涙のように感じて、これを書いています。

どうか、残念のお心が晴れますように!!

 

さて、昨日ははえでづとめに出かけた事を書いた。

今日は、そのはえでづとめに関係して、「先人の遺した教話3」から、思う事を書いてみたい。

はえでづとめというよりも、肥のさづけなどなど、農事に関するおさづけである。

というのも、今新型コロナで、経済が停まって、倒産するとか、破産するとか、また保証金が、援助金がと騒がれている。

お金よりももっと大事なもの、それは食であろう。この食があってこそ、今の経済がある。

経済は約束でもある。借金もこれが治まるまで待ってくれと言い。それが了承されれば、全く問題ない話のはずである。

そして、借金を待ってもらえるかどうかは、その人の信用。その信用がないがために、保証金としてお金を取り立てたりするはずである。

さて、教祖の残念が晴れるように、親神様の思惑を記したい。(画像をまっすぐにする方法が分かって、気分が良い。また、張り付けた画像が、チャンと治まっている。前回は治まらなかったのに。。。(^^)

肥のさづけは、百姓(農業する人)を助けたい。という思いで、親神様は出されたという事である。田んぼで米を作るためには、たくさんの肥料が必要になる。

田植えをする前に、肥をやり、土を肥やし、そして、ある程度してから、追加の肥を撒くのである。

この肥を仕入れるためには、お金がかかるのである。今では化学肥料から有機肥料へと転換されて、「有機」という文字を沢山見るのであるが、教祖の時代、化学肥料はまだなかった。その代わりに肥溜めに、糞尿をためて肥に使っていた。この糞尿も肥米として米を渡して人々から集めて使っていたという事である。

親神様は、まずこの肥のさづけで、そのお金のかかる肥を少なくしてやりたい。親神様の不思議を見せたいと思われたのである。この肥のさづけも、その人の心によって、半肥のさづけ、丸肥のさづけと分けて渡された。

肥のさづけについては、「稿本天理教教祖伝」p47に

元治元年の春から、教祖は、熱心に信心する人々に、扇のさづけを渡された。これを頂いた者は、5,60人あったが、山中忠七と仲田佐右衛門は、それぞれ扇、御幣、肥まるきりのさづけを頂いた。

とある。

また、「稿本 天理教教祖伝 逸話編」には、

12【肥のさづけ】

 教祖は、山中忠七に、

 「神の道について来るには、百姓すれば十分に肥も置き難くかろう。」

とて、忠七に、肥のさづけをお渡し下され、

 「肥のさづけと言うても、何も法が効くのやない。めんめんの心の誠真実がきくのやで。」

と、お諭しになり、

 「嘘か真か、試してみなされ。」

と、仰せになった。

 忠七は、早速、二枚の田で、一方は十分に肥料を置き、他方は肥のさづけの肥だけをして、その結果を待つ事にした。

 やがて八月が過ぎ九月も終りとなった。肥料を置いた田は、青々と稲穂が茂って、十分、秋の稔りの豊かさを思わしめた。が、これに反して、肥のさづけの肥だけの田の方は、稲穂の背が低く、色も何んだか少々赤味を帯びて、元気がないように見えた。

 忠七は、「やっぱりさづけよりは、肥料の方が効くようだ。」と、疑わざるを得なかった。

 ところが、秋の収穫時になってみると、肥料をした方の田の稲穂には、虫が付いたり空穂があったりしているのに反し、さづけの方の田の稲穂は、背こそ少々低く思われたが、虫穂や空穂は少しもなく、結局実収の上からみれば、確かに、前者よりもすぐれていることが発見された。

とある。

この肥のさづけで、人々はより集い、豊作になって陽気になれると親神様は望まれたのである。

そうした集まった人々の心を澄ませて、その中から、真実の人を見定めて、国の本尊となる人を作り上げたい。と望まれた。

今の私たちは、こうした親神様の親心の上に、今日の豊かな暮らしがある事をしっかりと自覚する事が大切だと思う。

どれだけのお金があっても、買うものがなければ、なんともならないのである。

そして、どれだけ食べる物が山ほど枕元に積んであっても、食べれる体がなければ何ともならないのである。

政治では、法律があるから、法律を改正しなければ出来ないと、言っている。

ルールを決めても、それを守る心がなければ何ともならないのである。

法が大切か。人間の心が大切か。

天理教の人ならば、皆知っているはずの言葉がある。「稿本 天理教教祖伝」p320

さあさあ、月日がありてこの世界あり、世界ありてそれぞれあり、それぞれありて身の内あり、身の内ありて律あり、律ありても心定めが第一やで。

これは、世界の成り立ちの順序を示されている。

この月日とは、親神様の事である。そして、身の内とは、人間の身体、また人間である。律とは、法律である。

つまり、親神様があって、人間がすむ世界がある。世界があって、人間がある。人間があるから法律がある。けれども、法律があっても、人間それぞれの心定めが一番大事な事だと言われている。

これは、警察から親神様が望まれるおつとめを止められて、それに対して法律があるから、おつとめは出来ません。と初代真柱様が教祖に述べられた時のお言葉である。

親神様は、人々の心定め、心の誠を見ておられる。この心の誠を出せるように、心を切り替えていきましょう。

 

親神様、教祖、どうぞ、大難は小難にとお守りください。

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今年のはえでづとめ1

2020年04月17日 09時54分50秒 | 思った事

昨日は、はえでのおつとめがあった。

5年以上前から、娘の事からはえでづとめとおびやづとめに参拝する心定めをして、通わせてもらっている。

はえでづとめは、籾を甘露台に供えて、特別なかぐらづとめと12下りておどりをつとめて、芽がしっかりと出るようにと願うおつとめである。

世の中には、引きこもりの人が多い。

うちの信者さん方にもそういう人がある。

そうした人々の心も殻を、種もみの殻を破ると同じように、破って引き出してもらいたいという思いを込めて始めた。

いつもならば、一人でもおぢばへ連れて帰らせて頂きたいと、周囲に声をかけて、おぢばがえりをするのだが、さすがに今はそんなことをしている時ではない。

ともかく、夫婦だけでこっそりと、人と接触しないように注意しながら、おぢばがえりをした。

今回おぢばへ向かう道中、運転をしていて、あまりにも眠気がさすので、妻と交代した。

そして、助手席で座っていると、首が痛み始めた。車の振動やカーブで曲がる時などに痛みが出て辛くなる。

10年余り前、首の手術後に、がんで入院された方の元へおたすけに通った時の事を思い出した。その時は長距離を運転する自信もなく、妻に運転してもらい、助手で「曲がる時に注意をしてくれ」と頼みながら、ひと月あまり通った。その時の事を思い出して、何だろうと思いながらおぢばについた。

今回の参拝には、もう一つ目的があった。友人に譲った本を購入する事だった。

おぢばに着いたのが、午後4時過ぎで、書店が開いているだろうかとまずは本通りに向かった。閉店ぎりぎりで、目的の本を買う事が出来た。そして、神殿(参拝できるのは南礼拝場のみだが、北礼拝場の障子は開けられていた。)で無事につとめさせて頂けた月次祭の御礼、また新型コロナの収束などを願っておつとめをして、教祖殿、祖霊殿を廻った。すると首の痛みは無くなっていた。

さて、参拝後その他の所要をすませて、南礼拝場で夕づとめをさせて頂き、そのまま結界前で待たせて頂こうと思ったら、境内係が結界を移動させ始めた。尋ねたところ、おつとめ人衆の先生方が座る場所を広くするとの事。そして今回は新型コロナのことから、一般参拝者はまもなく殿内から出て頂くとの事だった。

月次祭、誕生祭ともに一般参拝者を境内地に入れない事を思うと、無理ない事。おつとめ人衆の先生方にコロナがうつってはいけない。と思い、その場で改めてお礼とお願いを申し上げて帰路についた。

そして、帰りはノンストップで自分で運転して帰ることが出来た。

通例ならば今月4月は、このはえでのおつとめと、ご誕生祭、そして月次祭と3回日帰りをするが、今回はご誕生祭・月次祭共に教会から参拝をさせてもらう事にしている。

そして、今日、緊急事態宣言が全国へと拡大されようとしている。

東京からコロナ疎開だと言って、地方へ移動する人々が多い事が報道されていることを考えれば、これも当然と思う。

ここから、はえでづとめの事について、本を引用して書こうと思ったが、時間がないので次回にする。また、今回買ってきた本を元に、書きたいこともある。

自粛の時である。YouTubeでの配信も考えてみたが、編集などの手間が大きすぎる。

改めて勉強しながら、新たな歩みを求めて続けたいと思う。

昨日16日のアクセス数が161回、訪問者103件となった。

見て下さる方、何かの参考になればありがたいです。どうぞよろしくお願いします。

 

親神様、大難は小難にとお守りください。

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今がこの世のはじまり 2

2020年04月16日 06時34分11秒 | 気になる言葉

先日、「今がこの世の始まり」ということから、現在までの事柄を書いてみた。

立教から183年。教祖が現身を隠されてから133年あまりが経つ。

そして、昨日婦人会のおさしづを示して、親神様はおさしづをもって人の心に浮かばせるという事を書いてみた。

これは、浮かぶという言葉を使ったが、悟ると言い換えてもよいと思っている。

人名を悟らせる事だけではなく、様々な事を人間が悟るようにと仕向けているという事を言いたい。

そしてまた、これはおふでさきやおさしづ全般に言える事だと思う。

親神様は直接に良い悪いも指示されずに、それぞれの心に思い浮かばせる。悟らせようとされている。という事も多々ある。

おふでさきの一言で悟り、窮地を脱した経験をされた方々も多い事と思う。それと同じことと考えている。

 

さて、「今がこの世のはじまり」これは、心の建て替えが始まったところという事で話を始めたわけだが、心について知らなければ、感じなければ、いくら話を進めようとしても、理解されない事は分かる事だと思う。

 

現代の日本、世界にどれだけ精神科にかかっている人が多い事だろうか。

うちの近所の心療内科の個人病院では、朝早くから患者さんらしき人が列をなしている事をよく見かける。

 

この心の建て替え、とても重要と思ってもらいたい。

心を病んでから、建て替えるのは、これはとても難しいのである。

この理由も、分かる事だと思う。

まだ、心ではない、身上や事情の障りを頂き、心を変える事の方がどれだけ簡単な事か。

 

今、世界中で見えている、見えないウィルスとのせめぎあい。

この中で、それぞれの心を点検、そして反省、そして心定めて日々を歩むこと。

これが大切だと思う。

 

★★★

昨日は、部内の月次祭。家族と数人の月次祭。(全員マスクを着けて、直会は弁当をお持ち帰りで)

そんな中ですが、後継者が仕事を休んで、中心になって勤めて下さり、皆さんも勇んで勤めて下さいました。

もうコロナでの3回目の月次祭となりました。

うち同様に、初回の月次祭では「おさづけについて」先月は「御供(ごく)さんについて」そして、今月は「おつとめについて」と「周囲へのおたすけについて」と、続けて話をさせて頂くこととなりました。

早く収束していれば、こんなにも続けて話をすることはないだろうなぁ。

辛い事も御守護だなぁ。

と話し合いました。

 

親神様、どうぞ大難は小難にとお守りください。

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親神様は直接は言われない、それぞれの心に思い浮かばせる。

2020年04月15日 08時46分22秒 | 思った事

11日に書きかけた事を記す。

親神様は、ご本席様を通して、色々とおさしづ下さり、導かれたが、特定の人についてさしづされたり、人を登用するなどの時には、その人の名をあげることはなく、人々に浮かぶようにされている。

その2例をあげる。

ひとつは、増井りん先生が別席の取次ぎ人になる時のおさしづである。

No.  :(4巻2932頁7行)
明治31年3月30日朝 
『刻限』
さあ/\悠っくり書き取れ。一字も落さんよう、悠っくり諭そう。筆々を揃え/\。さあ/\刻限々々という、どうもこれまで刻限といえど、話出た処が、あちらちょい/\、こちらちょい/\、ほんの角目々々、角目でもよい。角目はそのまゝ。善い事悪い事、理を改めにゃならん。これまで伝えたる。よう聞き分け。人間の心で曲げて了うて、一二年の間はそも/\の道であったやろ。さあよう聞き分け/\。まあ/\一寸、一年二年の間というものは、間に合う者も間に合わぬ者も、さっぱりどうもならん。道の上の理は一寸も無い。よう/\席を運ぶ、話を聞かす。さづけ/\一つの理。これは十分の働き、先々肥とも言う。これは十分の理に受け取って置こう。その外さっぱり聞かすに聞かされん道を通りて来た。今更後向いても橋は無い。橋が無けりゃ渡られようまい。今までというは、どんな者も、惣やつしで連れて通りた。ならん道を通るから、心胆の理を聞かす事出けなんだ。さあこれより残る処は、真実より残らんと諭したる。このやしきの中婦人多分入り込んで居る。皆働かしたる。皆間に合う/\。よう聞き分け。出ける事と出けん事と見分けるは今日の日、そらと言うたらたすけという。たすけ一条から出た道なら道の理は知らにゃならん。
一寸さづけは出してある。なれど、貰た処が、さづけの元が分からん。何をして居るやら分からん。日々取り扱うて居る者は分かりてあろ。さづけという話の理を十分治めたら、一時一つの理はあろ。さづけさえ貰たらそれでよい、というようではならん。先々では、まあ一人でもたすけさして貰たらという。やしきという元という。世界から見て、あゝあんなんかいなあと言うてはどうであろう。そこで婦人会の事情を始めさした。埋もれて居る者、これも心に運ばにゃならん。心の路銀多分集めにゃならん。それ婦人会の台が出けて来た。世界から出て来る。今日は女の人に席を受けた。ほんに分かりよい。あんな人ぢばにありたかと、一つ理を付ける。今日の刻限、度々出る刻限やない。皆だれ切ってあるから、一寸集めに出た。

No.  :(4巻2934頁7行)
明治31年3月30日 
『前日おさしづの婦人会内の事情に付一同話しの上願』
さあ/\何を聞いて居るのぞ。さしづ裏返して了うたる。さあ/\、詳しい聞かねば分からんで。前々さしづの理にも、男女の隔て無いという理は、重々の理に諭したる。それ/\も聞いて居るやろ。男より未だも治まりて居る人体を、どう取って居るぞ。女でも席をさすとまで言うたる。筆に落ちたのか。心に思い違いしてるのか。さあ今日の日の道具、今日から今日に道具になるか。悪るなったら取り換える道具でも、使え慣れるまで一寸には行こまい。皆同じ道に尽して、一人は遅れ居たか、よう/\席を運ぶようになったやろ。女でも理さえ治まりてあれば、どんな事でも出けるで/\。この道、男だけで、女は世界へ出さんのか。婦人会という、一日の日を以て研究さしてみよ。出けるか出けんかさしてみよ。

増井りんの事で御座りますや
口出したら言うて聞かそ。めん/\皆それ/\同じ道の者であって、すっきり言わにゃ分からん。赤衣の中に皆籠りある。赤衣は俺も貰うて居ると言うやろ。前々危なき処、始め掛けた中の赤衣という中に籠りある。違うや違うと言え。
さあ/\外には沢山ある。枝先にも多分あるわい。この中に何も分からん先から楽しんだ。山坂を越えて、遥々運んだ存命の間に、言い交わしあろ。よう聞き分け。何でも未だ分からん/\のやない。心に分かりありても、人間の義理を思うから違うのや。そこで、一寸刻限以て始め掛けた。三名は稽古さし、三名の中その日といえば、控えとした一人があろ。よう思やんしてみよ。飯炊きや、掃除番と同じ理に、日々諭す理と言えるか。さあ何ぼ年限経って長いといえど、前々よりさしづに及んだる。物によって、三尺の道具要るのに、一寸の道具では間に合うまい。道具と言えば同じ一つの名なれど、三尺の道具と一寸の道具と、同じ一つの用に使われるか。一寸は一寸の用、三尺は三尺の用に使わにゃなろまい。このやしき皆それ/\の理によりて伝わりたる。このやしき、あれは何をして居るのやなあと言うても、理は潰されようまい。伝える理によってだん/\日を送る。一戸の内に諭しても分かるやろ。水も同じ事。汲めば飲める。親があって子という。子は何人あれど皆可愛もの。なれど、どんならにゃならんように片付ける。中に出直す者もある。我が子であってまゝにならん。出すにも出せん、切るにも切られん。あんな者は何処へなっとと思えど、真の理は切れるか。この理から取ってみよ。

No.  :(4巻2939頁6行)
明治31年3月31日 
増井りん腹痛に付願(別席始めのおさしづなり)
さあ/\尋ねる事情/\、さあ身上心に/\長い/\長い。日柄々々、長い日柄や。さあ/\見える/\。さあ/\身の処案ぜる事要らん。皆々取次より万事事情、時時諭したる処早く明らか、心明らか事情、さあ/\と、やれ/\/\/\。

もう一つは、

もう一つは、婦人会設立についてのおさしづである。婦人会の事だからと安易に考えていないだろうか。人選、理、義理について話をされているように思う。

No.  :(4巻2913頁11行)
明治31年3月25日 
『増野いと身上願』
さあ/\尋ねる事情/\、尋ねる事情は身上、さあまあこの中良きかと思えば又身上に心得ん事情掛かり、善き事なら思う事無い。身上もう一時ならん迫る事情尋ねるから、事情にはこれまでいろ/\諭したる。どんな事にも諭し掛けたる。いかなる事情にも諭したる。そんならめん/\身上、心にどうと又あろ。諭に、幾重諭したる。何処へ掛かるとも分からん。事情はさあ女の道がある。皆惣計女の道あるなれど、女の道に男女とは言わん。この道どうも分からん。そこでよう聞き分け。惣計の中談示の台に出す。よう聞き分け。数々中ある。数々中ありて日々働いて居る。この中一つ理という。道によって古い新しの理がある。新しい中にも古い中にも、どういう理もある。又古いだん/\の理もある。一時女、婦人会として初め掛け。これ人間が始め掛けたのやない。神が始めさしたのや。これは古い道にこういう理がある、こういう事があると、互い/\研究始めたら、いかな理ある、どんな理もある。元々一人から艱難苦労の道通り、又中に道始まる理に繋ぎ、事情から始め通りたる者ある。たゞ年限ありて心にこう無くば古いとは言えようまい。こうのう無くば、まあそうかいなあというようなもの。よう聞き分けて内々迫れば、相談の芯という。芯から始めたら心分かる。女研究、何ぼでもぢばという中に、これまでにも治まる理無くばどうもならん。刻限でも諭し、諭にもよう/\という。婦人会始め掛け。始め掛けたらよう思やんせにゃならん。道に艱難の道という、通りたる事情、婦人会というは何のためにするのや。義理でするやない。又人間の体裁でするやない。又世上に対してするやなし。婦人会というは、道始めて互い/\の諭し合いの道治めてやれ。今日入ったも女、古い理も女、艱難苦労通りたか通らんか分かる。入りた道ある。遠い所から来てる者もある。又近い所から来てる者もある。どうやろなあというような道から、へばり付いたような者もあれば、又運んだ道もあれば、道に染まりて入りた者あれば、今日入った者もある。婦人会という道聞き分けて、今日は一つ、埋もれ/\切ってあるという。

『押して』
さあ/\会議というて話し掛けた処、そんなら神の話、思う一条の話、十人なら十人出ける話とは言わん。数々中に突き合わせ、世上男女言わん。何程女でも道のため運んだこの事情聞き分けにゃならん。これ聞き分けにゃならんで。そこで尋ねても、道だけ筋立てば同等のもの。よう聞き分けて通さにゃならん。互い/\道はどういう処から取りて居る。

『押して、皆相談しましてと願』
さあ/\よう思やんして、皆それ/\身上迫れば心治まらん/\。世界明るく、道にほこりありては、元ぢばと言えん。女であれど、元々尽したこうのうという。元元女でもあれだけのこうのうあるか、と、知らさにゃならん。

 

No.  :(4巻2916頁8行)
明治31年3月26日 
『前日増野いとのおさしづより、婦人会の事に付おさしづありしにより、以後の道筋心得事情申し立て願』
さあ/\尋ね掛ける処/\、これまでというものはどうもならん。教は一つ理でありて、諭し一つ事情、これまで決まり有りて決まり無い。幾度も事情に差し詰まる理出ける。これまで何度諭したる。又刻限にも諭したる。取りよう聞きようで分かり難ない。応法と言うて居て、心胆諭す理に無い。元は元だけのこう無くばなろうまい。長らくそら尽して居る。尽して居りゃこそ、世界台となりて居る。中に間違いどうもならん。何ぼう言うても心に間違えばどうもなろうまい。成りてからどうもならん。そこで刻限というこの理諭したる。取り締まったる今日の日、これ聞き分けて万事先々いつ/\までも諭さにゃならん。この道前生から今の世、又生まれ更わりまで諭す理である。すれば、元々始めたぢばという。皆んな治めにゃならん。めん/\だけ治めて居ればよいというような事ではならん。これは皆んな心に無いという。心が感じにゃなろうまい。男女の隔て無く、一時に心澄み切りて通れば、男女の区別は無い。何名何人、こらどうもならん。道具に譬えて話する。粗い事するものもあれば、細かい事するものもある。又中程するものもある。この道理分からねばどうもならん。よう聞き分け。道急ぐ。早く事情、遠い所から寄り集まる処、ほこりという。めん/\さえ無くばよいではどうもならん。これから話、男女の隔て無い。よう始めた道聞き分け。この道始めたは男か女か。これから悟ればどんな事も分かる。皆一つという。そらそうはいかん。道具に譬えての話、細かいという、又中程という、又粗いという。彼はどうせいこうせい、一時伝えてないから分からん。諭す事情これまでの事、もう/\始めるか始まらんか、もう出すか出さんか、思い/\日が経つ。ほんのあらまし誰と彼とこうや、彼と誰とこうや。人間心の理である。これを聞き分け。人間心は何程どうやこうや、今日までどうするとこうすると見許したる。見許したる処から話し掛ける。最初掛かり、今日の日最初、中程この理ちょい/\すれど、取り集めた事はない。これ聞き分け。入り込み大切々々教の台とする。不当の扱いは台と出けん。そんなら不当せんと言う。純粋通りてという中に、これも/\放ったる。どれも放ったる。めん/\肝心の理から分かりあろう。年限の内には粗い細かい中程と言うて諭したる。細かいはどういうもの、中程どういうもの、又粗いというはどういうもの、銘々事情に理持って、世界諭して居る。中程というは、あちらもこちらも繰り上げ、皆伝えて理運び掛けたる。なれど、運び落ちある。そこで、婦人会の台から、又話々、いつ/\待って居た処がならん。心に浮かまん。これ初め望む処、この中三つ事情、男の中にどんな理もある。女の中にどんな理もある。これ聞き分け。忘れ落ちありてはならん。婦人会たすけ一条の道、通りた道、万事見分けたら、感じは皆んなの心に湧くであろ。

『暫くして』
さあ/\分かりありたらそら宜し。分からんというは尋ね返やし、分かる分からんの理から尋ねば、早く分かる。又、見遁し/\、又今度の回りと言うは、何度でも同じ事、くどう/\の話、何ぼうしたとて何もならせん。

『押して、元々艱難した者婦人会の中に古い者洩れ落ち有るか無いかという処話する処へ
さあ/\誰が洩れ落ち、彼が洩れ落ちは言うまで。又他には言うまで。このやしきの中暮らす中、出入りという。道具は言うまで。あちら働きこちら働き、理は一つなれど、研究寄りたる中に、どうか鮮やか明らか、ほんに成程と、皆心に感じるであろう。

『又暫くして』
何人幾人、男何人、幾人女、皆ある中聞き分け。男の中にも下に居る、又中程にいるなれど、女というは、下に埋れ/\てある中に、成程という処分かるやろ。

『又続いて』
さあ話して置く。とんと分からん。皆とんと忘れて了てる。忘れて居るから分からん。皆下々と言うて下に働く。今日は煮炊き事情、掃除場、上も下も一つに成りたら、中に同等の者もある。

『又続いて』
それ研究と言うたるで/\。どうもならん。飯炊き掃除場から、世上に繋ぎ、飯炊き掃除場から、互い/\まで尽して通りて、これ一つ聞き難い、見難い。

『又暫くして』
さあ/\まあ悠っくり話する。とっくり見分け/\、とっくり聞き分け。つとめ事情、鳴物事情/\掛かりという。鳴物掛かりという。何年数えて年を見よ。先の学びから始め。三人々々又控え、一人掛け替い、赤衣一つ着せて始め掛け。そういう処から聞き分けてみよ。これもそうかえ、あれもそうかえ。話してない。それから聞き分け。聞き分けたら成程分かるやろ

『又暫くして』
さあどうもならん。理が分からねばどうもならん。よう聞き分け/\。最初学び始めの日あろ。赤衣着せて出た事ある。ほんにそうか/\と分かる。

『上田ナライトの事でありますや』
さあ/\これ/\/\分からん分からん。もうどうでもこれから、これで措いたら何も分からん。元赤衣着せて学び三人、控え一人四人出したる。この台日々の処、結構中、道の中にどうもならん。同じ一つの飯炊き掃除には、隔て無きと言うたる。どうせいこうせい、幾度のさしづに諭したる事はないならこそ、今に分からんのである。

『押して、おこと、おいゑの事でありますや』
違う/\ころりと違う。赤衣頂いた者やない。赤衣着せた者、人衆々々学びしたる/\。

『永尾よしゑなどの事でありますやろと話するうちに』
分かりた/\、道の理/\、分かりた/\。

『一寸してから』
もうそれ分かりたら後々分かる。さあ/\引き取ろ/\。

 

こうしたおさしづを読んでみて、何が心に浮かぶだろうか?

親神様、どうぞ大難は小難にとお守りください。

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「今がこの世の始まりと」 の出展

2020年04月14日 11時11分40秒 | 気になる言葉

先の記事で、「今がこの世の始まりと」と書いて、出展が気になって記憶をたどった。

今がこの世のはじまりと いうていながらなんのことやら

と頭に浮かぶ。

この口調は、「おふでさき」かなぁとおふでさきを検索してみたら、あった!

いまゝでも今がこのよのはじまりと
ゆうてあれどもなんの事やら (7-35)

「今が」の前に「いままでも」があって、なかなか探すのに苦労した。

さて、

このお歌について、おふでさき注釈を書いてみる。

35、36 今までからも、今がこの世の初まりと、度々説いてはいるが、人間は、それが何の事やら分からずにいたけれども、このたび現れた親神の自由自在の働きを見て、その意味をよく悟れ。銘々の心の入れ替えによって、どんな自由も得られるというこの珍しい守護を今までだれも知らなかったであろう。

註 今がこのよのはじまりとは、親神様がこのだめの教えによって、一列人間の心身の更生に着手下さる事を仰せられたのである。

とある。

この天理教という教えが、この世にあらわされたのは、これまでの様々な宗教、医学、哲学などなどの教えを踏まえて、人々の心の入れ替えを示唆する教えだということなのであるが、それは時がたって、歴代の真柱様方が教えをまとめて、ようやくわかってきたことである。

この教祖の時代に、すでにこの世は始まっていて、現在われわれ人間は生活をしているのに、「今がこの世のはじまり」と言われること事態、人間には理解しずらい事と思う。だから、「ゆうてあれどもなんのことやら」と言われることも理解できると思う。

教祖は、このおふでさきを書かれるまでにも、「今がこの世の始り」と言っておられたことが、「今までも」の言葉から分かる。

そうした中に、

このたびのぢうよぢざいでとくしんせ
いまゝでこんな事ハしろまい (7-36)

月日よりたいないよりも入こんで
ぢうよぢざいをみなしてみせる (7-37)

こらほどのぢうよぢざいのしんぢつを
はなしするのハいまはじめやで (7-38)

と、

親神様の不思議な働きを目の当たりにさせて、理解はできなくても、得心をせよ。何とか得心をさせたい。とわれわれ人間に求められている。

 

「心の入れ替え」。これが、これから人間がしなければならないことである。

何度も書くが、こうした思いを親神様は思われて、段取りをされても、人々は聞き入れず、甘露台も完成することができず、模様替えとなった。

よく、この教えは「拝み信心ではない」と言われる人がある。

それは、「おがみきとうでいくでなし 伺い立てていくでなけれど」というおふでさきを引用して、言われる。まさしく、親神様が願う誠真実を受け取ってくだされば、どんな不思議もあらわして下さる。けれども、そこまでの誠真実が出せる人々はそうそうない。

そうした中に、誠真実を出せる人におさづけを渡し、教祖の代わりに不思議を見せて、「拝み信心を求める」人々を集められた。これがこれまでのお道の歩みだと思う。

この歩みがあって、今の姿がある。

時間がないので、またの機会に書こうと思う。

親神様、大難は小難にお守りくださいませ。

 

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様々な思い。

2020年04月14日 06時13分49秒 | 思った事

新型コロナで、7日に緊急事態宣言が出て、早くも一週間になろうとしている。

娘がつとめるデーパートも昨日はほとんど人がいなかったそうである。

 

先月の26日、本部の月次祭はとても良い天気だった。

それが終わって次の日から、雨が続いた。

うちの月次祭12日は、ほとんど雨は降らない。それが、終わりがけからパラついて、皆さんが帰られたら本格的な雨になった、そして昨日は一日中雨。

こうした天気にも親神様の思いがある気がする。

真の陽気ぐらしになったら、昼間は良い天気で、夜に雨が降ると聞いている。

 

丁度、12日は日曜日で、フランスの出張所でも月次祭だった。

弟から、ラインでこそっとライブ配信をすると聞いて、見させてもらった。(時差のお陰で、日本時間では午後5時半で、見ることが出来た。)

40人ほどが見ていた。見ていたというよりも、チャットをみれば、参拝をされていたのが良く分かる。

所長の挨拶。日本語とフランス語交互にしゃべりながらしている様子。すごいなぁと思った。

また、若い所員たちが、真摯に、元気で勤めてくれる姿。本当に頼もしかったし、安心をした。

 

こんな事が簡単に出来る世の中に、親神様は導いて下さった。本当にありがたいと思う。

私は祭文で、つねに「虫鳥畜類と八千八度の生まれ変わりをさせて、知恵文字のお仕込みにより結構なる暮らしをお与え下されて」とお礼を申し上げている。

教祖が元の理をお教え下さるのは、現在のようにまとまった話をされたのではない。

「こうきをつくれ」と言われた言葉から、それまでに聞いた話をまとめたものが作られて、それが元となって、今日の元に理の話がある。

 

この中で、「知恵文字を仕込み」がとてもありがたい。

それによって、今の文明があり、こうした技術のお陰で、世界中の人々の暮らし、また考えも知ることが出来るのだから。

そうした様々な考え、思いをどうしたら、世界中の人々が望む、幸せにとなるのだろうか。

それを真剣に思案するのが、これからだと思う。

「元の理」では泥海からすべてが始まっている。天も地も分かれていない、混とんとした中から、この人間の姿が年限をかけて作られて、今日である。

旬刻限の到来によって、教祖が月日のやしろになって、この教えが始まったが、この時に、「今がこの世の始まり」という言葉を使われていたように記憶をしている。(出展が分かる方があれば教えて下さい。)

それから、100年余りたって、この日本は戦争を終えて、本当に自由に考えて行動が出来る世の中となった。

しかし、自由だからこそ、人々の考え方は混とんとして、親が子供に伝えるにしても、「あなたの好きなように」という言葉から、自分中心の考えの人々も多く表れて、それから今日、様々な考えで日本は混とんとしている。

それをまとめる政治が、苦労しているように思える。

人を批判し攻撃するのではなく、人の意見を尊重して、自分で切り替えていく。

そうした考えが出来れば良いのになぁと思う。

親神様、どうぞ大難は小難にとお守りください。

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無事に、4月の月次祭終わりました。

2020年04月12日 21時55分42秒 | 思った事

無事に月次祭終われました。

うちの家族6人と信者さん5人。いつもの人数で勤めました。

日曜日でしたので、仕事を休みの人が、月次祭開始前に参拝だけに来てくれました。

うちの教会では、信者さんも少ないですが、このコロナの時ですので、自分の体調を考えて参拝に来る方は、コロナ対策をしてお越しくださいと、先月の会報に書いて、連絡をしている。

その中でのこの人数でした。

どんなことも、親神様のお導きによるものと受け止めて、つとめさせてもらいました。

また、出来るだけマスクをしながらおつとめをつとめ、また直会は無しにして、妻が作った食事を折に詰めて持って帰って頂きました。

以前のブログで書いたように、11月の団参で不思議を見せて頂いて、今日来てくださった方々は、親神様のお導きをしっかりと思って、日々を通って下さっている方々ばかり。

そして、今日はそうした方々に、信仰をしていない人たちに少しでも助かってもらうためには、今政府や県が行っている「3蜜」やマスクの着用などを啓もうすることが大切だという事を話した。

また、信仰をしている中には、「私は信仰をしているので、コロナにはかかりませんなどという人もないわけではない。」そして、私は、信仰をいているからと、そんな風に言う時点で「それは怪しい」と思ってしまう。

親神様は、良い人でも、周囲の人を成人させるために、身上にさせたりする。その一番は、教祖であったり、秀司様であったりすることを考えれば、良く分かるはずである。だから上記のように思う。

だから、私は信仰しているからと、マスクなどをせずに人と会ったりしないようにと、話した。

また、このコロナから、家族の些細な言い争いから事件になった話などをして、コロナにかかることもそうだが、心の持ち方に気を付ける事も話した。

親神様は、すべての人の心を見ている。

そして天の定規は、人間が思うのとは違う。自分は絶対に間違いないと思う事も、自分は全く駄目だと思う事も、それは自分の定規であり、どちらも神様の目から違うと考えることが大切だと思う。

我々は、善と悪との中にあり、こうした非常事態にこそ、善悪がはっきりと見えてくるものである。

どうか親神様、大難は小難にとお守りくださいませ。

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4月の月次祭

2020年04月11日 17時46分05秒 | 思った事

今日は大教会の4月の月次祭でした。

3月同様に、役員と直属教会長夫妻でのおつとめでした。

先月と違ったのは、警戒宣言が出されて、感染ルート不明が続出する中ですので、全員がマスク着用でのおつとめとなりました。

これは、だれが指示したのでもなく、みなそれぞれがマスクを用意していて、もし自分が感染していても人に移さないように、飛まつを飛ばさないようにと心掛けていました。

さすがに、マスクをしながらお地方を歌うのは大変でした。

本来ならば、先月卒団式を行うはずでしたが、卒団者を寄せる事は出来ませんでしたので、本日、団長が代表で卒団証書を大教会長さんから受け取り、各直属の会長さんに渡しました。

また、昼食はおにぎりを渡して、1時から創立130週周年の会議を行いました。広い大広間に間隔をあけて、マスクをして座って、相談をしました。130周年の会議ではありましたが、丁度全直属の会長が揃っていましたので、3月27日に発表があった、教会の統合について、大教会長さんから説明があり、質疑応答も出来、大変有意義だったと思います。

ともかく、皆が喜べるように、心を尽くす。今できる最善の方法で、心を合わせていく。

そうした中に、不思議な御守護。新型コロナウイルスに対する抗体獲得の御守護を頂きたいと思います。

うちは明日が月次祭。

家族と数人の信者さんでの本当に小さな小さな月次祭ですが、全員マスクをして、御守護を願って、おつとめをしたいと思います。

さあ、これから会報を作ります。

親神様、大難は小難にとお守りくださいませ。

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愛知県で独自の緊急事態宣言。から。。。。

2020年04月10日 07時37分27秒 | 気になる言葉

今朝朝刊を見て、愛知県が10日に独自の緊急事態宣言を発令したことを知った。

昨日からネットのyahooニュースに注意をいたが、このニュースについては目にしなかった。また今朝見ても見当たらなかったので、検索をかけて見た。

すると、

以下のニュースが引っかかった。以下、コピペする。

・・・・・・・・・・・・

緊急事態宣言“追加指定”に 愛知・京都が政府に要請へ

4/10(金) 6:30配信

FNNプライムオンライン

愛知県は、「緊急事態宣言」の対象地域に愛知県を追加で指定することで政府と調整に入り、京都府も、対象地域に加えるよう国に要請する方針を固めた。

愛知県では、感染経路がわからない感染者が2割程と、東京や大阪に比べ低いことなどから、緊急事態宣言の対象地域から外れていたが、4月7日から2日続けて感染者数が20人を超えたことなどを受け、追加指定への要請に踏み切った。

ほかにも、県独自の「緊急事態宣言」を10日に発令し、県民への外出自粛などを求めるほか、県独自の緊急経済対策を行う方針。

また、京都府も緊急事態宣言の対象地域に京都府を加えるよう国に要請する方針で、西脇京都府知事と門川京都市長が共同会見を開き、表明するという。

京都府では、これまでに165人が感染しているほか、9日に60代の男性が死亡し、府内で初めてコロナウイルスによる死者が確認されている。

(東海テレビ)
(関西テレビ)
・・・・・・・・・
いよいよ、身近に迫ってきた。
 
医学の専門家の話、(YouTubeなどで、独自に専門家にインタビューしているもの)を見ても、現在の医学では、特効薬はなく、それが発見されても製造するのに時間がかかり、人間全体(約八割)に抗体が出来て自然収束をするにも時間がかかると聞いた。
 
抗体が出来るという事は、新型コロナにかかって、自然治癒するという事である。
 
自然治癒とは、何か、神様の働きしかない。
 
すでに、14号のおふでさきを訳して、神様のざんねんの現れと話をした。
このざんねんが晴れたならば、親神様は守護するといわれる。
そのざんねんを晴らすために、親神の心を分かってくれと言われる。
親神の心は、陽気ぐらしである。
陽気ぐらしとは、互いに助け合う事。それも、人間同士だけではなく、親神様とも助け合う事である。
親神様は、おつとめをつとめてくれと言われた。
それによって、心のほこりを払い、心を澄ましたいといわれる。
 
いくら、神様の話を聞いても、心がすんでいなければ、この陽気ぐらしの心になれない。
だから、一人でも多くの人の心を澄ませたい。というのが、そのための親神様の思い。
 
また、このおつとめをつとめるだけではなく。
陽気ぐらしをさせたいという思いを納得させるために、「元始まりの話」を教えられた。
この真実を教えたいから、不思議を見せているともいわれる。
 
しかし、人間は不思議のみを求めて、その先にある、親神様の思いを汲み取ろうとせずに今日まで来ている。
一部の人には、この思いが分かっていると思うが、大半の人は、先にものべた病気の治癒や不思議、そして宗教が大きくなること、教団が大きくなることばかりにとらわれて、そこから先へ思案が行かなくなっている。
 
この事は、すべての宗教に言える。宗教の歴史を考えると、不思議が現れて、人が集うようになると、権力を持った人々が、その集う人々に圧力をかけて、自分の意に添うようにと扇動をするようになる。
そして、その扇動には宗教家たちはあらがう事が出来ずに、それを受け入れつつ、神の話も伝えるようになる。
 
これが、初期のころは、神の話が生きているが、代を重ねていくと、神の話がすり替わっていく。
そして、神の真意とは違う話で民衆を育成して、世界が出来て来る。
これがとても神様にはざんねんで仕方がない。
 
そこで、人間の力では何ともならない、事態を見せて、それぞれ人間、個々の心に応じた守護を表す。
おふでさきには、神と上という言葉(文字)が出てくる。
「かみ」と同じように読むのに、わざわざ書かれてあるのである。
ココがとても重要。
 
上は人間全体の上に立つ人々、その人々の意思、方針、教育によって、それに連なる人々の意識、知識、思案も作られていくのである。
 
この事は、世界の国々の歴史や、考え方を分析すればわかる事。もっと身近に言えば、それぞれが所属する会社や家庭の考え方も同じである。
 
親神様の力からすれば、すべてをなくして、一から始める事もたやすい。
だか、それではならないと、懸命に頑張っておられる。
 
悟ってくれ、悟る人が一人でも増えて、多くの人を良い方へと導いてくれるようにと。
 
 
親神様どうぞ、大難は小難にとお導き下さいませ。
 
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教祖が現身を隠される前の様子から

2020年04月09日 08時18分25秒 | 思った事
4月6日に、教理の勉強の一端にでもなればと、「先人の遺した教話3」から、一部を紹介した。
これまで最高の閲覧者数55名が、翌日7日には一気に86名となり、閲覧数は149を数えた。
関心のある方が多いと感じた。
 
さて、先の時に紹介したのは、最後のご苦労後の教祖の様子だったが、そのあとのページには、その様子の理由が書かれている。
今回は、訳まで載せておいたので、思案しやすいかと思う。
もし、この本が全部読みたいと思う方は、道友社へ問い合わせて頂ければ良いかと思います。
 
86頁から添付してみます。明治19年5月3日 旧暦4月3日 のお言葉です。
 
 
監獄所から出られて、教祖はおつとめを急き込まれますが、皆はまた監獄所へ連れていかれでもしたらと、おつとめに踏み出せなかった。また、今度は教祖ではなく、5月25日には、初代真柱様が警察署の取り調べを受けるようになってきます。
その中、7月21日(旧暦6月20日)「四方暗く成りて分かりなき様になる、其のときつとめの手、曖昧なることにはならんから、つとめの手、稽古せよ」と仰せられます。(「改訂 天理教事典」年表より)
 
 
この後、明治20年1月1日(旧12月8日)に教祖はお風呂からお出ましの時に、ふとよろめかれて、「これは、世界の動くしるしや」と仰せられて、この後御気分が悪くなられた。と「稿本天理教教祖伝」に記されています。
 
ということは、この5月あたりでは、寝ておられたのが、うちに対して指示されたおつとめの稽古も行われて、御気分が良くなって来ておられたという事と思います。
これから後の事は、「稿本天理教教祖伝」10章扉開いての部分となります。
 
 
さて、今回私が話題にしたかったのは、教祖が目も見えず、耳も聞こえずという状態は、親神様が仕事をされていた、扉をしめて外に出て、世界の上に働いておられたのが理由だと、確信したのです。
 
私たちは、目に見える事で、色々と思案します。
今現在であれば、コロナウィルスの蔓延で、そのコロナをどうにかする事ばかりに思案が行きがちです。
しかし、親神様は、そうしたコロナを通して、私たち内の者にも、世界の人の上にもメッセージを与え、その裏側で働いていて下さっていると思うのです。
 
 
どうぞ、親神様、大難は小難にお守りくださいませ。
 
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