④「友軍に虐殺された父」は、これまで繰り返し出てくる謝花喜睦氏の子息、謝花恒義氏の証言である。十・十空襲時の村内の被災状況や日本軍部隊の配置、同世代の少年たちの状況、戦時下の生活、米軍が羽地内海から湧川に上陸してくるときの状況、泣きやまない子どもが壕の中で殺されかけたことなど、幅広い内容の証言がなされている。その中では、殺された父親の敵を討とうと手榴弾を持ち歩いたことなど、日本軍への激しい怒りが語られている。
〈今帰仁村で日本軍に最初にやられたのは、平良コウ何とかいう人だったと思います。アメリカ帰りです。スペイン語が話せる人であったです。そのあとが、うちのおやじたちです。わたしはずっとこちら、湧川におりましたから、直接この父親の死に目にあっていないんですよ。わたしはこっちに祖父祖母といました。弟たち、それから妹たちは全部宮崎に疎開していましたから、この連中が疎開から引き揚げてしてくるときにはもう、すべてことが終わっていたわけですよ。わたしはそのとき十六です。父は四十いくつだったでしょうかね〉(536ページ)。
文中に、「弟たち、それから妹たちは全部宮崎に疎開していましたから」とあるが、その妹たちの一人が、私が小学生の頃、教師として今帰仁小学校に在職していた。また、謝花喜睦氏の孫の一人は、私の中学校の同級生である。謝花氏の虐殺は村内でよく知られていて、私も子どもの頃から話を聞いてきた。しかし、平良氏については話を聞いておらず、証言記録にも名前は度々出てくるのだが、詳しい状況が書かれた文章はまだ目にしていない。今帰仁村内での聞き取りを早めに進めなければと考えている。スペイン語が話せたとあるから、アルゼンチンやペルーなど南米に移民に出て、村に帰っていたのだろう。先にも書いたが、外国語が話せる移民帰りの人は、日本軍からスパイ視されて目をつけられていた。
恒義氏は、戦後接した米兵が「友達みたいな感じ」がしたのに比べて、日本軍の方が恐いと語る。そして、平良氏との関係もあるのだろう、父が殺害されたと聞いたあと、すぐに伯父に連絡したことを語っている。
〈むしろ恐いのは日本軍ですね。その頃まだ友軍と言っていましたよ。自分たちの親父連中がやられた後もですね。彼等も、米軍よりは日本軍が恐いんだと。
おやじがそういう目にあったのを知ったのは、亡くなって二、三日もしてからかね。ちょうど渡喜仁あたりの人々全部湧川のたよりを頼って来ておりましてのでね。それから伝え聞いたわけですよ。それで早速、自分は古我知に伯父比嘉善雄がおりますんで、アメリカ帰りですから恐らく伯父はやられるんじゃないかと、すぐ人を使いに出して、これはこうなっているから、伯父の場合もアメリカで教育を受けて来た者であるし、次は危ないぞと。うちのおやじは、あの頃も産業組合していましたね。産業組合関係、役所関係ー人事の関係もみんなやっておりましたんでね。長期戦になるということは予想したんでしょうね、恐らく。だからあっちこっち避難している住民たちに、今のうちに増産しようじゃないかと呼びかけたらしいんですね、確かに。それが結局ウラに出たんじゃないですか。それでやられたと思うんですがね。
あの当時は、日本軍の連中とべったりの女の人もいたようですがね。もしかしたら、その女の人からの密告もあったんだろうということを後で聞かされたわけですがね。この人も実際に今、中部の石川辺にいるということですよ。肝心なことになるとこの人も、わたしに言わないんですよ。この人の話を聞いたという人々もたくさんいるらしいんだがね。そこのところもわたしには、どの程度事実であるかはっきりしないんですよ。うちの親父の場合は、第一にあの頃の村の有志になりますし、農業関係とかそういったものも手広くやっていたし、悪くいうなら、ここら辺一帯ではどちらかというとボス的な存在であったかも知れませんな。そういった面で、うらみだったかどうかはこれわかりませんがね。わたし、この兵隊を大分探し廻りましたよ。あれからですね、日本の軍隊に非常に嫌悪感があるのは。ちょうど十六、十七ですから、手榴弾一コ、二コ必ずわたし持って歩いたんですがね、しばらくは。とうとう、そういったものは、時が解決してくれたんでしょうかね。〉(542ページ)
上記引用のあとに恒義氏は、自衛隊について「やはり一番肉親を亡くした自分たちにいわすれば、こういったものはもうまたとはつくってもらいたくないですね」(542~543ページ)と語っている。
証言の中に密告者の女性について出てくる。実際に密告をしたかどうかは不明なままとなっているが、山に隠れている日本兵が村の状況を直接目にすることはないので、住民の誰かが日本兵に情報を伝えていたのは事実である。それが今帰仁村においてどこまで組織的に行われていたのか、住民の中で誰が情報提供していたのか、具体的には明らかになっていない。
『沖縄大百科事典 中巻』(沖縄タイムス社)には、「国士隊」として次のような説明がある。
「沖縄戦における軍民一体の協力機関として、宣伝・防諜・諜報・謀略を任務とする秘密組織。1945年(昭和20年)3月、本部町で宇土部隊の指導のもとに、各地の有力者を集めて結成される。 …中略… 隊員は、担当地区の一般民心の動向に注意し、とくに①反軍、反官的分子の有無、②外国帰省者の二世三世のなかの反軍、反官的言動をなすものの有無、③反戦、厭戦気運醸成の有無、④敵侵攻にたいする住民の決意の程度、⑤一般住民の不平不満言動の有無などを秘密のうちに調査し報告することを任務としていた。軍の強制力でもって、住民の側から自発的、積極的な戦争協力を引き出すための体制であったが、結果はスパイを創出する空気を助長した」(『沖縄大百科事典 中巻』102ページ)。
文末の表現は少し曖昧だが、スパイの嫌疑をかけられる人を「創出する空気を助長した」ということであろう。このようにして住民の中に監視組織を作ることまで日本軍はやっていたのである。住民虐殺の問題を考えるとき、住民の中にいた日本軍への協力者の問題も押さえなければならない。これは調査の難しい領域であるが、欠かすことのできない重要な問題である。それは戦後、形を変えて米軍の協力者(密告者)の問題になっていくだろう。
話がそれたが、恒義氏は祖父から聞いた話として喜睦氏の虐殺の状況を語り、それが起こった背景を分析している。そして、「友軍」への感情を語っている。
〈うちのおやじ連中のことを、後で祖父から聞かされたわけですが、夜、藷畑に引き出されて行って取り囲んでいた。相手は五、六名だったらしい。何の抵抗したあともなく、バッサリやられたらしいですね。別にそうされるということを全然予期はしていないもんですから。今まで村のために尽くして来た人だし、また応召される方々の見送りとかそういったようなものも、在郷軍人の会長でもあった関係で、みんな一手に引き受けてきた。それはもう村の守護兵であったわけですから、そういったような面でなにか協力要請に来たのじゃないかぐらいに考えたんじゃないですか。まだ四十何歳かですから、まだまだ充分働ける年であったわけですよ。キホウというのは、初に呼び出されて一緒に出ていったらしいんですがね。何名かグループをつくって、あっちこっちリストにもとづいてやっていたんだそうですね。
何の抵抗もできない人々をこういうふうにやったというあの当時の友軍とういものは、憎んでも憎みきれないというんですかね。あの頃の人々の一般的考えからすれば、戦争に負けるといったような考えは毛頭なかったわけですからね。それがあにはからんや戦局はそうじゃないと、実際追いちらされているんだと。そうなるというとこれらの人々の考えにしても、やはり友軍にちょっとこう同情している面もあったと思うんですよ。自分たちも被害者でありながら、そういったようなことは顔にも出さずに、ご苦労さん、ご苦労さんで通したわけですからね。それにそういったような中で、相次いで残虐な行為が起こったもんですから、これはいかんということでもう今から一番こわいのは友軍だといったような考えが出てきた〉(543ページ)
恒義氏は、「友軍」といった言葉が民間で使われ、子どもたちが憧れていった「教育の恐ろしさ」を語っている。沖縄戦とその中で起こった住民虐殺。それが当時の教育と深く結びついていることへの考察がなされている。
〈当時、友軍といったような言葉が民間で使われていた。やっぱり自分たちとしても憧れていましたからね。あの頃の教育の恐ろしさというものですね。どういうふうな方法で、あれだけとけこんできたかですね、また実際に、自分が勉強している学校の中には、軍隊も駐屯しているわけだし〉(543ページ)
〈あの頃の軍隊に憧れる教育、決してあれは急激にやってきておりませんからね。知らず知らずのうちに吹きこんでいったんですね。これはもう、相当の罪悪ですよ〉(544ページ)
昨年の九月二九日、「集団自決」に関する教科書検定について「検定意見撤回」「強制記述の復活」を求める県民大会が開かれた。主催者発表で十一万余の人が集まったあの大会に、なぜあれだけの人が集まったのか。その理由が、恒義氏の言葉の中にある。教育が持つ力の恐ろしさを沖縄県民は身をもって知ったのである。だからこそ、教科書の記述が変えられることに強い反応を示したのだ。
恒義氏は最後に、父親のほかに叔父二人が戦死した様子を語って証言を終えている。
〈今帰仁村で日本軍に最初にやられたのは、平良コウ何とかいう人だったと思います。アメリカ帰りです。スペイン語が話せる人であったです。そのあとが、うちのおやじたちです。わたしはずっとこちら、湧川におりましたから、直接この父親の死に目にあっていないんですよ。わたしはこっちに祖父祖母といました。弟たち、それから妹たちは全部宮崎に疎開していましたから、この連中が疎開から引き揚げてしてくるときにはもう、すべてことが終わっていたわけですよ。わたしはそのとき十六です。父は四十いくつだったでしょうかね〉(536ページ)。
文中に、「弟たち、それから妹たちは全部宮崎に疎開していましたから」とあるが、その妹たちの一人が、私が小学生の頃、教師として今帰仁小学校に在職していた。また、謝花喜睦氏の孫の一人は、私の中学校の同級生である。謝花氏の虐殺は村内でよく知られていて、私も子どもの頃から話を聞いてきた。しかし、平良氏については話を聞いておらず、証言記録にも名前は度々出てくるのだが、詳しい状況が書かれた文章はまだ目にしていない。今帰仁村内での聞き取りを早めに進めなければと考えている。スペイン語が話せたとあるから、アルゼンチンやペルーなど南米に移民に出て、村に帰っていたのだろう。先にも書いたが、外国語が話せる移民帰りの人は、日本軍からスパイ視されて目をつけられていた。
恒義氏は、戦後接した米兵が「友達みたいな感じ」がしたのに比べて、日本軍の方が恐いと語る。そして、平良氏との関係もあるのだろう、父が殺害されたと聞いたあと、すぐに伯父に連絡したことを語っている。
〈むしろ恐いのは日本軍ですね。その頃まだ友軍と言っていましたよ。自分たちの親父連中がやられた後もですね。彼等も、米軍よりは日本軍が恐いんだと。
おやじがそういう目にあったのを知ったのは、亡くなって二、三日もしてからかね。ちょうど渡喜仁あたりの人々全部湧川のたよりを頼って来ておりましてのでね。それから伝え聞いたわけですよ。それで早速、自分は古我知に伯父比嘉善雄がおりますんで、アメリカ帰りですから恐らく伯父はやられるんじゃないかと、すぐ人を使いに出して、これはこうなっているから、伯父の場合もアメリカで教育を受けて来た者であるし、次は危ないぞと。うちのおやじは、あの頃も産業組合していましたね。産業組合関係、役所関係ー人事の関係もみんなやっておりましたんでね。長期戦になるということは予想したんでしょうね、恐らく。だからあっちこっち避難している住民たちに、今のうちに増産しようじゃないかと呼びかけたらしいんですね、確かに。それが結局ウラに出たんじゃないですか。それでやられたと思うんですがね。
あの当時は、日本軍の連中とべったりの女の人もいたようですがね。もしかしたら、その女の人からの密告もあったんだろうということを後で聞かされたわけですがね。この人も実際に今、中部の石川辺にいるということですよ。肝心なことになるとこの人も、わたしに言わないんですよ。この人の話を聞いたという人々もたくさんいるらしいんだがね。そこのところもわたしには、どの程度事実であるかはっきりしないんですよ。うちの親父の場合は、第一にあの頃の村の有志になりますし、農業関係とかそういったものも手広くやっていたし、悪くいうなら、ここら辺一帯ではどちらかというとボス的な存在であったかも知れませんな。そういった面で、うらみだったかどうかはこれわかりませんがね。わたし、この兵隊を大分探し廻りましたよ。あれからですね、日本の軍隊に非常に嫌悪感があるのは。ちょうど十六、十七ですから、手榴弾一コ、二コ必ずわたし持って歩いたんですがね、しばらくは。とうとう、そういったものは、時が解決してくれたんでしょうかね。〉(542ページ)
上記引用のあとに恒義氏は、自衛隊について「やはり一番肉親を亡くした自分たちにいわすれば、こういったものはもうまたとはつくってもらいたくないですね」(542~543ページ)と語っている。
証言の中に密告者の女性について出てくる。実際に密告をしたかどうかは不明なままとなっているが、山に隠れている日本兵が村の状況を直接目にすることはないので、住民の誰かが日本兵に情報を伝えていたのは事実である。それが今帰仁村においてどこまで組織的に行われていたのか、住民の中で誰が情報提供していたのか、具体的には明らかになっていない。
『沖縄大百科事典 中巻』(沖縄タイムス社)には、「国士隊」として次のような説明がある。
「沖縄戦における軍民一体の協力機関として、宣伝・防諜・諜報・謀略を任務とする秘密組織。1945年(昭和20年)3月、本部町で宇土部隊の指導のもとに、各地の有力者を集めて結成される。 …中略… 隊員は、担当地区の一般民心の動向に注意し、とくに①反軍、反官的分子の有無、②外国帰省者の二世三世のなかの反軍、反官的言動をなすものの有無、③反戦、厭戦気運醸成の有無、④敵侵攻にたいする住民の決意の程度、⑤一般住民の不平不満言動の有無などを秘密のうちに調査し報告することを任務としていた。軍の強制力でもって、住民の側から自発的、積極的な戦争協力を引き出すための体制であったが、結果はスパイを創出する空気を助長した」(『沖縄大百科事典 中巻』102ページ)。
文末の表現は少し曖昧だが、スパイの嫌疑をかけられる人を「創出する空気を助長した」ということであろう。このようにして住民の中に監視組織を作ることまで日本軍はやっていたのである。住民虐殺の問題を考えるとき、住民の中にいた日本軍への協力者の問題も押さえなければならない。これは調査の難しい領域であるが、欠かすことのできない重要な問題である。それは戦後、形を変えて米軍の協力者(密告者)の問題になっていくだろう。
話がそれたが、恒義氏は祖父から聞いた話として喜睦氏の虐殺の状況を語り、それが起こった背景を分析している。そして、「友軍」への感情を語っている。
〈うちのおやじ連中のことを、後で祖父から聞かされたわけですが、夜、藷畑に引き出されて行って取り囲んでいた。相手は五、六名だったらしい。何の抵抗したあともなく、バッサリやられたらしいですね。別にそうされるということを全然予期はしていないもんですから。今まで村のために尽くして来た人だし、また応召される方々の見送りとかそういったようなものも、在郷軍人の会長でもあった関係で、みんな一手に引き受けてきた。それはもう村の守護兵であったわけですから、そういったような面でなにか協力要請に来たのじゃないかぐらいに考えたんじゃないですか。まだ四十何歳かですから、まだまだ充分働ける年であったわけですよ。キホウというのは、初に呼び出されて一緒に出ていったらしいんですがね。何名かグループをつくって、あっちこっちリストにもとづいてやっていたんだそうですね。
何の抵抗もできない人々をこういうふうにやったというあの当時の友軍とういものは、憎んでも憎みきれないというんですかね。あの頃の人々の一般的考えからすれば、戦争に負けるといったような考えは毛頭なかったわけですからね。それがあにはからんや戦局はそうじゃないと、実際追いちらされているんだと。そうなるというとこれらの人々の考えにしても、やはり友軍にちょっとこう同情している面もあったと思うんですよ。自分たちも被害者でありながら、そういったようなことは顔にも出さずに、ご苦労さん、ご苦労さんで通したわけですからね。それにそういったような中で、相次いで残虐な行為が起こったもんですから、これはいかんということでもう今から一番こわいのは友軍だといったような考えが出てきた〉(543ページ)
恒義氏は、「友軍」といった言葉が民間で使われ、子どもたちが憧れていった「教育の恐ろしさ」を語っている。沖縄戦とその中で起こった住民虐殺。それが当時の教育と深く結びついていることへの考察がなされている。
〈当時、友軍といったような言葉が民間で使われていた。やっぱり自分たちとしても憧れていましたからね。あの頃の教育の恐ろしさというものですね。どういうふうな方法で、あれだけとけこんできたかですね、また実際に、自分が勉強している学校の中には、軍隊も駐屯しているわけだし〉(543ページ)
〈あの頃の軍隊に憧れる教育、決してあれは急激にやってきておりませんからね。知らず知らずのうちに吹きこんでいったんですね。これはもう、相当の罪悪ですよ〉(544ページ)
昨年の九月二九日、「集団自決」に関する教科書検定について「検定意見撤回」「強制記述の復活」を求める県民大会が開かれた。主催者発表で十一万余の人が集まったあの大会に、なぜあれだけの人が集まったのか。その理由が、恒義氏の言葉の中にある。教育が持つ力の恐ろしさを沖縄県民は身をもって知ったのである。だからこそ、教科書の記述が変えられることに強い反応を示したのだ。
恒義氏は最後に、父親のほかに叔父二人が戦死した様子を語って証言を終えている。