辺見じゅんの『ダモイ遥かに』を今朝電車内で静かに読了。
この中で過酷なシベリアの収容所の生活の中で、主人公が同じ収容所で生活を共にする友人に「ぼくはここにきて、シベリアの空の青さ、その美しさを初めて知った」と心からしみじみと言うシーンがあった。激しい飢えと過酷な労働と厳しい寒さの生活の中で、なにを暢気な、と友人はその時思っていたが、後になり彼は、その意味を知ることになる。自分の生存が極限状態になればなるほど、自然の美しさがリアルに身に染みてくるのだ。
この場面を読んだ時、ふと思い出したのが、もうずいぶん以前の三谷幸喜/作のNHK大河ドラマ『新選組!』の最終回だった。近藤勇が処刑される寸前、時間が停止したような沈黙の中、彼の目には空が、鳥が、池が、虫が映るのだ。それらを映した彼の瞳は、確かに喜びを持って微笑んでいたような。トリハダものの場面だった。
そして最近気になっているのが、『ちりとてちん』の主人公、喜代美と落語との関係である。彼女が落語を愛していたのは確かだけれど、そもそも本当に落語家になりたかったのだろうか? 彼女にとっての落語とは、過酷な、けれど最短距離で人生修行を行った場だったのかもしれない、と今さらながら考えているのだ。
彼女は『ふたりっ子』でプロの棋士になった香子とは違う。自分にとっては将棋は抜き差しならないもの、何をおいても将棋、そして勝負!というのが香子であり、だから子どもを持つことより、夫婦を続けるより、棋士であることを選んだ。
でも喜代美は、まるでハードル競技のように、目の前にせまったハードルを必死で跳んでいる内に、必然的に落語にぶつかり、落語家になることを選択したようにも思える。自分の中から出る必然ではなく、状況と時間の流れの中で産み出された必然。もちろん、そういう生き方も「アリ」、というか、そちらの方がむしろ一般的かもしれないと私は思う。
子どもの頃から「これになる!!」と目標に向かって邁進するより、なんとなくこの道を歩いてたら、これぞという物件に当たってしまい仕事にしている、みたいな人生の方がありがちかもしれない。
という風に終わってしまったドラマのことを、未練がましくあれこれ考えてしまうのである。
この中で過酷なシベリアの収容所の生活の中で、主人公が同じ収容所で生活を共にする友人に「ぼくはここにきて、シベリアの空の青さ、その美しさを初めて知った」と心からしみじみと言うシーンがあった。激しい飢えと過酷な労働と厳しい寒さの生活の中で、なにを暢気な、と友人はその時思っていたが、後になり彼は、その意味を知ることになる。自分の生存が極限状態になればなるほど、自然の美しさがリアルに身に染みてくるのだ。
この場面を読んだ時、ふと思い出したのが、もうずいぶん以前の三谷幸喜/作のNHK大河ドラマ『新選組!』の最終回だった。近藤勇が処刑される寸前、時間が停止したような沈黙の中、彼の目には空が、鳥が、池が、虫が映るのだ。それらを映した彼の瞳は、確かに喜びを持って微笑んでいたような。トリハダものの場面だった。
そして最近気になっているのが、『ちりとてちん』の主人公、喜代美と落語との関係である。彼女が落語を愛していたのは確かだけれど、そもそも本当に落語家になりたかったのだろうか? 彼女にとっての落語とは、過酷な、けれど最短距離で人生修行を行った場だったのかもしれない、と今さらながら考えているのだ。
彼女は『ふたりっ子』でプロの棋士になった香子とは違う。自分にとっては将棋は抜き差しならないもの、何をおいても将棋、そして勝負!というのが香子であり、だから子どもを持つことより、夫婦を続けるより、棋士であることを選んだ。
でも喜代美は、まるでハードル競技のように、目の前にせまったハードルを必死で跳んでいる内に、必然的に落語にぶつかり、落語家になることを選択したようにも思える。自分の中から出る必然ではなく、状況と時間の流れの中で産み出された必然。もちろん、そういう生き方も「アリ」、というか、そちらの方がむしろ一般的かもしれないと私は思う。
子どもの頃から「これになる!!」と目標に向かって邁進するより、なんとなくこの道を歩いてたら、これぞという物件に当たってしまい仕事にしている、みたいな人生の方がありがちかもしれない。
という風に終わってしまったドラマのことを、未練がましくあれこれ考えてしまうのである。