紙魚子の小部屋 パート1

節操のない読書、テレビやラジオの感想、お買い物のあれこれ、家族漫才を、ほぼ毎日書いています。

山辺のカフカ

2007-08-31 22:21:54 | ノンジャンル
 今日のブログは夫・H氏のお願いにより書く事にしたが、果たしてどこに着地するのか、さっぱり見えない。だが、がんばってみることにする。

 10年ほど前に、夏休みの旅行として車で伊勢志摩に行った事がある。この頃には、お年寄りの方々は、もう旅行が気晴らしや楽しみでなく、疲労するだけの苦行と化すようになったので、子ども二人と夫婦の4人で出かけた。

 甲賀町、土山町(ともに現・甲賀市)を通り、山の中の鈴鹿を抜け、三重県に入り、伊勢の海に着くという、ドライブとしても格好のルートである。その甲賀市には「鹿深(かふか)の里」という看板があり、H氏とふたりで「カフカやてー! かっこええやん!哲学も文学も不条理もありやで!」とずいぶん盛り上がったものである。そのときに「滋賀県で一番かっこええ地名は鹿深(かふか)や!」と勝手に決定してしまった。

 ところが本日、H氏はその地につくられた温泉(実はスーパー銭湯)の名前を知り、いたくご立腹だったのである。
 「だってな、せっかくかっこいい『鹿深』っていう漢字があるのに、今風のちゃらちゃらした当て字使って『花風香の湯』なんて、許せへんやん? だって『鹿深』は万葉集に記載がある地名なんやで、かっこええやんか!」

 そう。この機会に調べてみたら、どうやら古地名『鹿深(かふか)』が時を経て、『甲賀(こうか)』と云われるようになったらしいのだ。

 「それに地名が『カフカ』やったら、村上春樹がノーベル賞とってみ、世界中から『海辺のカフカ』ゆかりの地や、って誤解した人が、どっとやってきやはるで。世界のカフカやで。もっとも甲賀市は『海辺』やのうて『山辺』やけどな。」

 いつになく(いや、いつもどおり?)話がでかい。そりゃ、甲賀市は忍者の里でもあるから、世界に通用する観光地を目指す事も不可能ではないかもしれない。ホームステイしたアメリカの少年をこの地の忍者屋敷に連れて行ったら、大喜びしていたもんな。

 村上春樹がノーベル賞をとる前に、万葉歌人・山部赤人を凌駕するくらい『山辺のカフカ』キャンペーンを、ワールドワイドにはってみてはいかがでしょうか、甲賀市長様?

BGMはゴジラ

2007-08-30 22:25:48 | ファミリー
 ウイークデイの朝は、H氏はたいてい、やや不機嫌な表情である。仕事にいかなければいけないからである。それが月曜や火曜なら、不機嫌を通り越し悲しげに「月、火、水、木、金・・・5日も仕事にいかなあかんのか・・・」と折った指を見つめて、しょんぼり君なのだ。
 
 今日は木曜だったので、朝からやや軽快な表情をしていた。今日と明日を乗り切れば、その後、2日間の休日が与えられるのだ。
 ここんとこ休日とは名ばかりで、人の良さ全開にして他人に尽くす休日を過ごしていたので、今度の週末こそは、ゆっくりと自分のために時間を使っていただきたい。

 そんなわけで、今朝、仕事に出かけるちょっと前に、珍しく鼻歌が出ていた。

「だだだ、だだだ、だだだだ、だだだだだ♪」 

 字で見ただけで分かる方がいたら素晴らしいが、『ゴジラのデーマ』である。ワンフレーズ歌ったあと、彼は、私の心にクリーンヒットを放つ一言を口走った。

 「これ、災害時の避難訓練のBGMにしたらええと思わへん?」

 「おおお~臨場感たっぷり~! ぴったりやん!」(笑)

 「ついでにゴジラの着ぐるみ着るバイトを10人くらい雇うねん。バイト代なしでも、『ゴジラの着ぐるみに入らしたる!』ゆうたら、きっと来るヤツおるで!」

 「マニアック~!」(笑)

 「そやけど、『なんでゴジラが避難訓練に必要なのか?』って云われるやろな」

 「それはもう、意欲的に避難訓練に参加してもらうためやんか、とくに子どもに! これ、大事やで!」

 「ゴジラは地震の避難訓練、台風はモスラやな。堤防決壊の避難訓練のときは、なんやろ?」

 「・・・そら、ガメラしかおらへんやろな」

 久々の夫婦漫才(夫婦のコミュニケーションともいう)である。
 どーも、ありがとございました~。

テレビで一般教養

2007-08-29 23:50:44 | テレビ
 2年程前、大阪府立図書館主催で、天野祐吉氏の講演会に、夫・H氏とふたりで行った事がある。久野収氏の蔵書が寄贈されたので、図書収蔵記念として催された講演会だった。

 そのメインな内容は、きれいに覚えていない。久野収に興味をもっていたのはH氏なのだ。私はどちらかといえば、天野祐吉の講演会というのにウエイトが置かれていた。

 しかしそんな私が必死で脳のシワに刻み込んだ話がある。天野さんが「いまの若いひとは、モノを知らない」という話になった。その具体例として、『清水の次郎長』の話になる。彼の職場の若いひとが『清水の次郎長』を聞き、どうも合点のいかない箇所があるというのだ。

 清水の次郎長の子分で有名なのは、もちろん森の石松である。私はテレビの浪曲を広沢虎造で聞いたが、時代劇のドラマにもなったし、わりと最近では、誰が見るのか!?という時間帯(朝の5時ごろ?)に、アニメ化されたのもちょっと見たことがある。

 森の石松は好漢であるが、清水の次郎長の一の子分ではない。一の子分は大政、二の子分は小政だ。テレビのおかげで、そのへんの一般教養は、子どもの頃、脳みそに沁み込んでいった。それらが下敷きになったいわゆる「パロディ」が盛んだったことも追い風になった。コントもバラエティもCMも、そのような下地があってこそ成り立っていた。

 ほかにもシェイクスピアの劇のアウトラインや、ドンキホーテのキャラや、小泉八雲の怪談など、あらゆる古典や名作は、テレビをみていた子たちなら、アバウトながら、たいていみんな知っていたと思う。昔のテレビマンは未来に夢も希望も持っており、未来を担う子どもに託す番組造りをしていたようにも思える。

 そしてそれらの知識を持っているという前提で、ギャグやCMや人形劇がつくられていた部分がある。現在とは隔世の感がある。下地はどこにいったんだろう?

 さて先の天野さんの話に戻る。

「清水の次郎長の一の子分」を天野さんとこの若い衆は、「お馬さん」といったそうだ。「おおまさ→おうまさん」。そう聴こえないこともないのだが。
「じゃ、二の子分は?」・・・(ちいさい声で)「熊さん・・・」
「おまえ、ギャグで云ってるのか?」と天野さんは思わず問い返したそうである。

 

雑念だらけ

2007-08-28 14:58:58 | ファミリー
(昨日のブログより続く)
というふうに、Kちゃんの家庭教師をたまに請け負うのだが、私たちは揃いも揃って雑念だらけなので、勉強のはかどらないことといったら(笑) 「揃いも揃って」るのは、その部分が遺伝だからしかたない。

 いや、ふたりとも茶化すつもりは、さらさら無いのだが(ほんまか?)、ちょっとした文章の読み間違いなんかに、ひとりが「うっ」と笑い出すと、もういけない。「がはははは~」と転げ回って爆笑大会となり、しばし中断。

 国語の文章題なんかの問題で、質問の後に

( 20字以内で述べよ 

( 10字以内で述べよ 

とかがたまたま2列続き、それが縦書きなので、彼女の多角的な目にはふと )が「閉じた目風」に見えたらしい。
「かわいかったし、口つけてみた」と口の部分にあたるカッコ「)」を鉛筆で書き込む。           
→首を左に曲げて見ると寝て微笑んでる顔に見える人には見えます

                                )
                                  )
                                )


 文章の意味を問う4択問題では、選択肢ひとつひとつについ、じっくりとコメントしてしまう。「そんなこと思たら、失礼やろ~(笑)」「それはほとんど言葉が一緒で意味が別もんの、ダジャレやろ~」「これは強力なひっかけやなー。正解と最後まで競う強力なライバルやなあー」。

 そのようにひとつひとつのコメントに、またふたりで爆笑してしまうので、カタツムリのような歩みの勉強なのだ。私は家庭教師というより、ほとんど「効率よく勉強する」という概念をぶち壊すお邪魔虫である。

 勉強は一生するものだから、いやいやするような態度で臨みたくはない。「勉強は楽しい」「調べるのは面白い」という姿勢さえ身に付けてくれれば、私としては満足である。
 お兄ちゃんは「楽しい勉強しかしない」頑な人であるが、今となってはそれも結果オーライだったかもしれないとも思う。そこから拓けて来る道もある。
 そして雑念だらけながら、やり抜く意志力でKちゃんは夏休みの課題テキストを仕上げた。

 しかし雑念も力なり。私はほぼ雑念だけで、毎日このブログを書いているんだもんな。

かぐや姫に鉄拳

2007-08-27 13:40:58 | ファミリー
 昨日、Kちゃんが「古典と漢文さっぱりわからへんし、教えて~」と来たので、どれどれと問題をみてみた。

 古典も漢文も習った事ないんだもん、そりゃさっぱりわからへんよねえ、といいつつ、古語辞典、広辞苑、電子辞書を親子で駆使して、ひとつひとつつぶしていく。古典の問題の読解問題は、『虫謨ィ語』。平安初期、日本最古の物語である。

 その最後の部分、かぐや姫が月に帰ってしまい、おじいさんやおばあさんは失意のどん底に落とされているところが、出題部分だった。

 ショックだったのは、Kちゃんが「かぐや姫」の物語を知らなかった事だ。幼稚園時代のことはあんまり覚えていない人だからだろうか? こんな基本的な物語のアウトラインを知らんとは。

 しかも彼女は昨年の夏休みに自由研究として、『虫謨ィ語』をパクった紙芝居を作っていたのに、である。おじいさんとおばあさんがいて、窒謔閧ノいけば、光る窒ェあって、おじいさんがその窒リれば、そこに女の子がいた。知っていたのはそれくらい。その続きの話を手短に教えてあげる。

 「かぐや姫は成長して、輝くような美貌のお姫様になったから、そのへんの男が結婚してください~!!ゆうて、山のようにきやはるんや。そやけど、かぐや姫は、結婚する気なんてさらさらないから無理難題を出して、海の底の龍の玉とか、中国のツバメの巣の中の宝物とか、持って来たら、結婚してもいい、っていわはるねん。
 根性のある男がトライするも、ことごとく撃沈して、嘘がバレたり、大けがしたり、死にそうになったりしやはるねんな」

 そのへんから、Kちゃんの顔が一気に険しくなる。

「だいたい虫謔フじいさんとこの子やのに、『姫』なんてちやほやするから、そんなわがままになるねん! じいさんばあさんの「育て」が悪い! 絶対甘やかして育てたんや! せめて『かぐや姫』やのうて、『窒フ子』て名づけたら、こんなことにはならへんかったはずや!」

 うう~ん、そういう解釈の仕方があったのか~。たしかに貧しいおじいさんの養女をいきなり『姫』というのはいかがなものか、とは言える。

 そういえば奇妙な場所から生まれた女の子は、なぜかほとんど『姫』であることに気付く。これはアンデルセンだが「おやゆび姫」は花から、「うりこ姫」は瓜から。桃から生まれた男の子は「桃太郎」なのに、瓜から生まれた女の子は「瓜花子」ではなく「瓜子姫」と一気に高貴なお子様なのだ。

 昔話の新たな謎を発掘してくれたKちゃんであった。