紙魚子の小部屋 パート1

節操のない読書、テレビやラジオの感想、お買い物のあれこれ、家族漫才を、ほぼ毎日書いています。

四草の過去までも

2008-01-31 00:06:29 | テレビ
 昨日書いたことの詳細な説明をしておかないといけない。実は今朝、四草について考えている内に、いろんな私的発見があったので、覚え書きとして記してみる。

 まず、彼の人をはねつける毒舌について。

 彼が草若師匠に入門するにあたり、「両親は?」ときかれ、最初「両親は関係ありません」と撥ね付けるが、「それやったら弟子にする訳にはいかんな」と拒否され、逡巡の後、自虐の薄い笑みと共に「いわゆる、妾の子、いうやつです」と屈辱で視線をそらせながら呟く。

 この「逡巡の表情」の短い時間に、虎ノ介さんの表情演技は、四草(忍)の子ども時代からの屈辱の歴史を回想場面で繰り広げたかの如く、繊細でドラマチックだった。

 陰口を言われ後ろ指を指されるけれど、それがなぜなのか、まだよくわからない子ども時代。でもそれよりプライドの高い彼にとって堪え難かったのは、同情され憐れまれることだったのかも。そんな圧の高い人間関係の中で生きて行くために、周囲の人たちを「頭の悪い(悪そうな)連中」と見ることで、自分の中の均衡を保ってきた。

 だから大学を出て勤めた商社を辞めたのは「頭の悪い連中ばかりだったから」、という四草の言葉は、なんだか人間としてなってない連中ばかりだった、と言う風に言っているようにも聞こえた。ピュアな彼にはどちらにしても無理な仕事だったのだと思う。要領のいいようにみえて、実は不器用な人のようにも思うから。

 自分ひとりきりの力量で稼ぐ、落語家はすごい。『天狗券\』という会社以上に、落語家は、なんぼかすごい、と言い切る四草(忍)に感嘆する師匠は弟子入りを許すが、当然あの口の悪さから、兄弟子たちに疎ましがられる。

 しかしある日、弱り切った九官鳥が迷い込み、「助かるか助からないか、賭けますか?」という四草の挑発に、兄弟子はたしなめるが、師匠は即、「死ぬ方」に賭ける。もしも四草が勝ったら、なんでも欲しいもん、やる、という条件で。ということは、四草は「生きる」方を選ばざるを得ない。

 必死で世話をする四草だが、本と首っ引きでエサをやるが、「吐いた・・・」と動転してしまい、兄弟子達が駆けつけ、あれやこれやと助け舟を出す。もちろんこの時、四草はすっかり九官鳥に愛を注いでいたのである(たぶん、自分では気付いていなかったと思うけど)。

 兄弟子達もみんな、馬鹿がつくほど心優しい人たちばかりなので、必死に九官鳥を助けるべく、奮闘するのだ。弱い自分を兄弟子達の前で晒すことにより、兄弟弟子としての絆ができる。けっして四草が毒舌を止めたわけでも、兄弟子達が寛容になったわけでもないのに、たぶん彼らの絆は年々深まったのだろう。

 すっかり元気になった九官鳥のカゴを横に縁側に座っていた四草のうしろを師匠がとおりかかり、九官鳥を仔細に見て、「お前の勝ちやな。なんでも欲しいもん、ゆーてみい」
 そのとき何とも複雑な顔をして「こいつを・・・九官鳥をぼくにください」と絞り出すように言う四草。もしかしたら彼は、生涯で初めて本当に欲しいものを見つけたのかもしれない。

 それを聞いた師匠のうれしそうな顔! 「これでいい落語をする(ための人間修行の)ステップをひとつ上がった=人情のキャパを広げた」とでも言いたげな。くしゃくしゃと四草の頭を笑顔でなでて去って行き、残された四草はちょっと小首をかしげて、うれしそうにはにかみつつ微笑むのだ。

 実はうまうまと師匠の策略に乗ってしまい、九官鳥の世話をし、与える喜びに目覚めてしまったことに、たぶん気付いたのだと思う。してやられた。けれど、このうれしさは何?

 というような長々しい説明を、虎ノ介さんは数秒の演技で表現してしまえたのでした。ま、以上、あくまで独断の私見ですので。

四さま感謝デー

2008-01-30 23:29:55 | テレビ
 今日はえらくカウンターの上がり具合がアツいなーと不思議だったが、アクセス解析で確認してみると、予想通り『ちりとてちん』がらみ、四草つながりでやってきたビジターの方が多数いらっしゃった。

 ネットをする喜びのひとつに、自分がハマっているモノ、コト、ヒトについて、アツい語りを分かち合いたい!!とき、非常に役に立つ、というのがある。

 私が数年前、NHKの大河ドラマ『新選組!』にどっぷりとハマったとき、周囲の人たちはほぼ『新選組!』を白い目でみたり、無関心だったりして非常に孤独を覚えていた。唯一、娘を籠絡して二人で語り合うことはでき、ひとりぼっちの悲しさからは脱出したものの、「アツく語り合いたい!」という思いは募るばかり。

 そこでネットの海に漕ぎ出せば、なんと糸井重里さんの『ほぼ日』で、これでもかっ!!と1話毎に男達、女達がそれはアツく語り合い、メールで読者のやはりアツいお便りを紹介し、出演者と共に京都で過ごし、脚本を書いている作者、三谷幸喜さんよりメールでの情報提供までいただいているではありませんか! その年は私にとって読書ライフの再起も危ぶまれる程に滅入った年だったけれど、なんとも充実した『新選組!』ライフをおくることによって乗り切れた一面もあるのだ。
 
 そして今日は、巷では「リトル・ヨンさま」とウワサされることもあるクールな毒舌家、四草について、アツく語り合いたい「おねえさまがた」続出!の一日だったはずなのだ。なぜなら四草の入門時のエピソード、本名(倉沢忍)、子ども時代の家庭環境、両親について、九官鳥の「へえべえ」との出会いと深い絆、そこからの彼の成長について、たった15分足らず(いや、もっと少ない時間!)でぐわあっ!と語り尽くしているのだ。それもリトル・ヨンさまファンのツボを心憎いまでに心得たストーリーと設定で。

 また演じる加藤虎ノ介さんの表情の作り込みの繊細でうまいこと! 演技者として完璧に四草をものしているなあ。クールで毒舌なキャラで強固に自分を守っていたから、逆に子どものままの無垢でピュアな部分が、オトナになってもそのまんま彼の心の中に保存されているという、四草の相反する魅力的な部分の表現が素晴らしい。

 しかも草若師匠は弟子を導くためのきっかけを絶対逃さない。草々にも四草にも、もう本能的な勘と機を逃さないタイミングで、彼らが登って行くための足がかりをきっちりと残すのだ。これをほぼ、しぐさと表情だけで演じきる彼らのおかげで、ドラマが膨らむ、膨らむ。

 という本日、四さまファンの皆様に贈る感謝デーな『ちりとてちん』のおかげで、こちらのカウンターも一日で三桁を記録しました。ようこそのお運び、どうもありがとうございました!

和みのルーム

2008-01-29 17:24:27 | おでかけ
 私は「非日常」が結構好きだ。

 おばあちゃんが入院して病院にお見舞いに通うのも、リハビリで車椅子に乗せて病院まで付き添うのも、「非日常」。だから全然苦にならない。不謹慎なようだが、そんな日日が目新しくて、気分的には元気になるくらいだ。

 今回初めて「リハビリルーム」と言う場所を体験することができ、その摩訶不思議な空間にちょっと魅了されつつある。理学療法士という肩書きを持つ人間の動きのしくみを知るスペシャリストが患者一名につきそい、マッサージしたり、体操をしたり、立つ練習、歩く練習、階段を上り下りする練習をしているのだが、なんだかやたら和む。

 彼らは「こうしなさい」という人々ではない。だから受付の方には「先生」と呼ばれてはいるが、ぜんぜん「先生」らしくない。それは「この水準までなるべく早く、患者を引き上げなくちゃ」と自分の計画で患者さんを引っ張り回さないからだ。

 あくまで主役は患者さん。

 当たり前のことなのだけど、それだけのことが出来ているっていうのを目の当たりにすると、やっぱり驚く。「人に寄り添う」とか「人格を尊重する」べき仕事や場所はあまたあるけれど、やっぱり「自分の都合や立場」という立脚点からでしか「相手の人格を尊重する」ことはできないのだ。それはもちろん「寄り添っ」たり「尊重」したりにはほど遠いことなのだけれど。

 たぶん私たちは、「相手側に自然に寄り添ったり、人格を尊重したりする」のを、ほとんど見たことがないので、そんな方法があることすら知らないんじゃないかとさえ思える。 

 リハビリルームの先生方(5人くらい)は、みんなにこやかに患者さんたち(ほとんどが高齢者)と世間話をしている。リハビリに役立てようという魂胆ではなく、「早く退院して家に帰りたい?」「今の若い人は、おばあちゃんからみたら、どんな風やの?」「ふう~ん、そうなんや~」と水を向けたり、相槌を打ったり。美容師さんのトークとの違いは、ひとことも「自分のことを(まれに得意げに)しゃべらない」こと。ほぼ聴くに徹する。しかもとことんスローペース。

 また流れる時間のゆったりさ加減が、いかにも「まったり」を具体化したような空間なのだ。効率も成績も競争も無関係。「より自分主体な生活をするために、今より少しだけカラダが動くようになるための伴走者」である理学療法士の先生方。そのスローなユルさが患者でない一介の付き添い人ですら、和ませる。

 まったく意外な場所にパラダイスは出現するのである。


ディナーに打ち込む

2008-01-28 23:36:55 | ファミリー
 今日も午前中はおばあちゃんのリハビリ。もう駐車場整理のおっちゃんにも顔をおぼえてもらったらしく、病院の駐車場ではとても丁寧かつ温かい対応で障害者用のPに誘導していただく。機械でリバビリの受付をして、病院の車椅子を借りて、はらはらしつつも車から車椅子に移動。今日は杖と片手介助で10メートルの歩行を敢行でき、大幅に進歩。

 おばあちゃんに晩ご飯のリクエストを聞くと、大羽イワシの煮付けを食べたいとのこと。初めて聞く(見たことすらない)メニューに、果たして作れるか心もとなく思いつつスーパーに行くも、イワシは影も形もなし。ああ、そうだった、節分前だからイワシはプールされているんだ。

 それでも「若狭でとれたて直送鮮魚」の一群にサバが魚皮を光らせて、4、5本、にこやかに(サバってなぜか笑顔に見える)横たわっていたので、服に匂いがつかないよう注意深くビニール袋に1本入れる。特売品なのでパック詰めはしていないのだ。ほかにもハタハタや白子のちいさいパックを購入。

 まず5時頃からふろふき大根の用意をし、薪ストーブの上に載せスタンバイする。6時前には先日購入したりっぱなタラコをたっぷり使って、贅沢なタラコスパゲティをつくりKちゃんの夕食にする。アルデンテ具合もばっちりで、多分彼女がいままでで一番美味しかったタラコスパではないかというくらいの出来映え。

 次いでがんもどき(百合根入り)と野菜(人参とかタケノコとかキノコ)の煮物をつくり、お兄ちゃんのリクエストで親子丼をつくり、ホウレンソウを茹で、おばあちゃん用にサバの味噌煮をつくる。それからまるまるのナマコを塩揉みしてスライスし、大根おろしを添える。

 5時からあれこれ(集金、電話、お風呂の用意)と別件の用事をこなしながらも、3時間かけてお料理をした。品数的にはたいしたことないけれど、いずれもおいしくできたのがうれしい。会心の作品群であった。ハタハタと白子は明日にまた。

ブラボー!ヘンな酋長

2008-01-27 23:38:32 | 読書
 久々になんとなく「これは読まないとあかんのでは?」という勘がはたらき、職場のお昼休みに『件p新潮』2月号を手にする。特集は源氏物語だったが、それはスルーして。

 目的は4pのちいさな記事。『松浦弥太郎編集長「暮らしの手帖」の喜怒哀楽』、これである。彼については、ほぼ先入観も知識もなくて、でも妙に気になった見出しだったのだ。で、大当たりだったのである。

 かつて花森安治という名編集長がいた『暮らしの手帖』は、しかし30年前に彼を失い、少し前までは低迷と没落を更新していた。

 そこで外部より人を招いての思い切った立て直しを決断し、「暮らしの手帖社」社長・横山さんは松浦さんに「編集長就任」を要請した。

 なぜ僕に?というのが、松浦さんのとまどいだった。商業誌の編集経験もなく、組織に属したことさえない松浦さん。子どもの頃から本好きで、古本屋の行商、トラックでの移動書店を経て自分の店を持つ傍ら、文筆家としても活躍していた彼が、悩み抜いた末にたどり着いた結論は。

「自分の安全圏のなかでちやほやされていただけ。そんな業界人っぽい人がいちばん嫌いだったのに、そのいやな大人に自分はなっていると気付いたんです。やり直すなら、いましかない」そして編集長に就任。
おお~、カッコいい!! 潔いし、冷静に自分を批評出来る人ではないですか。こんな人はめったにいない。

 しかし彼のカッコ良さはそれだけではない。

初の社会人となり、9時15分に出社、5時半に帰宅という規則正しい毎日を送るのだ。これにエッ??と怪訝に思った方も多いだろう。彼は雑誌の進行を一から見直し、作業の効率化をはかり、深夜残業を許さず、編集部員には「とにかく自分の時間を大切にしてください」とお願いする。
「『暮らしの手帖』をやっていて自分の暮らしがないなんて、そんな読者への裏切りはないと思うんです」

 出版関係で定時に帰宅するなんて、無謀な話なのは素人にも明白なのだけど、そこに鮮やかでまっとうな理念を持ち込み実現にむけて全力で努力するなんて、やっぱりカッコいいじゃないですか。

 もっともリニューアルには批判がつきまとう。2号目までは、電話が鳴り手紙が山をなし、そのひとつひとつがまたヘヴィーな批判と反発で、松浦さんも相当こたえたらしい。が、それも3号目からは批判が減り、逆に励ましが増えて来るようになる。

 彼が読んだ花森編集長の『暮らしの手帖』には、「人格」があったという。好き嫌いもあれば、笑ったり泣いたり怒ったりもする。いつもは襟を正した人なのに、ときどきへんなところがあって、人間的でユニークな雑誌というのが、彼にとっての『暮らしの手帖』だった。それ(「人格」)をメインに受け継ぐとすれば、今後は松浦カラー全開になる。

だから
「『暮らしの手帖』は1年に6冊、友だちから届く手紙みたいな形になるといいなと思うんですよ。人間だからたまにはヘンなことを言ってみたり、弱気になってみたり、威張ってみたりということがあると思う。でもそれも一友人の言っていることと受け取ってくれたらうれしい。そのかわり、うそはつかないし、裏切ることもしないし、失礼なことも乱暴なこともするつもりはないので」

 なんだかこれと同じスタンスを、どこかで感じたことがあるな。とふと思う。これを書き始めて、ああ、村上春樹の誠実さに似ているんだ、と気付く。

 でも松浦さんは花森編集長のようにワンマンではない。編集部に対しても松浦さんの精神さえちゃんとスタッフに伝われば、それを手だてにたとえ自分がいなくても編集部は自立できると経験上、信じている。

 現在『暮らしの手帖』で彼がはじめて提案した連載が大きな反響を呼んでいるらしい。「暮らしのヒント集」という短い言葉が20ばかり書き連ねたもの。彼がいうには「子どものころにいわれたような小さなこと」なのだが。

「朝起きたら、深呼吸して大きく背伸びをしてみましょう。すっきりと目が覚めます。おはようと声にするのも大切です」なんていう言葉である。

そのあまりの反響の大きさに驚く松浦編集長だが、
「みんな目に見えるものではなくて、ささやかだけど日々のちからになる心持ちを求めている」のだと知るのだ。

 松浦さんは自分の人格と同様に編集部員の人格も尊ぶ。
「修道院みたいに内向的になっていた編集部員に言い続けたことは、新しいことにチャレンジすること、やりたいと思ったら自分の責任でやっていいんだよということ」なのだ。こんな素敵な「ヘンな酋長」(敬愛をこめて勝手に命名)こと松浦編集長のもとで働くのは、やりがいがあって楽しいだろうなあ。