昨日書いたことの詳細な説明をしておかないといけない。実は今朝、四草について考えている内に、いろんな私的発見があったので、覚え書きとして記してみる。
まず、彼の人をはねつける毒舌について。
彼が草若師匠に入門するにあたり、「両親は?」ときかれ、最初「両親は関係ありません」と撥ね付けるが、「それやったら弟子にする訳にはいかんな」と拒否され、逡巡の後、自虐の薄い笑みと共に「いわゆる、妾の子、いうやつです」と屈辱で視線をそらせながら呟く。
この「逡巡の表情」の短い時間に、虎ノ介さんの表情演技は、四草(忍)の子ども時代からの屈辱の歴史を回想場面で繰り広げたかの如く、繊細でドラマチックだった。
陰口を言われ後ろ指を指されるけれど、それがなぜなのか、まだよくわからない子ども時代。でもそれよりプライドの高い彼にとって堪え難かったのは、同情され憐れまれることだったのかも。そんな圧の高い人間関係の中で生きて行くために、周囲の人たちを「頭の悪い(悪そうな)連中」と見ることで、自分の中の均衡を保ってきた。
だから大学を出て勤めた商社を辞めたのは「頭の悪い連中ばかりだったから」、という四草の言葉は、なんだか人間としてなってない連中ばかりだった、と言う風に言っているようにも聞こえた。ピュアな彼にはどちらにしても無理な仕事だったのだと思う。要領のいいようにみえて、実は不器用な人のようにも思うから。
自分ひとりきりの力量で稼ぐ、落語家はすごい。『天狗券\』という会社以上に、落語家は、なんぼかすごい、と言い切る四草(忍)に感嘆する師匠は弟子入りを許すが、当然あの口の悪さから、兄弟子たちに疎ましがられる。
しかしある日、弱り切った九官鳥が迷い込み、「助かるか助からないか、賭けますか?」という四草の挑発に、兄弟子はたしなめるが、師匠は即、「死ぬ方」に賭ける。もしも四草が勝ったら、なんでも欲しいもん、やる、という条件で。ということは、四草は「生きる」方を選ばざるを得ない。
必死で世話をする四草だが、本と首っ引きでエサをやるが、「吐いた・・・」と動転してしまい、兄弟子達が駆けつけ、あれやこれやと助け舟を出す。もちろんこの時、四草はすっかり九官鳥に愛を注いでいたのである(たぶん、自分では気付いていなかったと思うけど)。
兄弟子達もみんな、馬鹿がつくほど心優しい人たちばかりなので、必死に九官鳥を助けるべく、奮闘するのだ。弱い自分を兄弟子達の前で晒すことにより、兄弟弟子としての絆ができる。けっして四草が毒舌を止めたわけでも、兄弟子達が寛容になったわけでもないのに、たぶん彼らの絆は年々深まったのだろう。
すっかり元気になった九官鳥のカゴを横に縁側に座っていた四草のうしろを師匠がとおりかかり、九官鳥を仔細に見て、「お前の勝ちやな。なんでも欲しいもん、ゆーてみい」
そのとき何とも複雑な顔をして「こいつを・・・九官鳥をぼくにください」と絞り出すように言う四草。もしかしたら彼は、生涯で初めて本当に欲しいものを見つけたのかもしれない。
それを聞いた師匠のうれしそうな顔! 「これでいい落語をする(ための人間修行の)ステップをひとつ上がった=人情のキャパを広げた」とでも言いたげな。くしゃくしゃと四草の頭を笑顔でなでて去って行き、残された四草はちょっと小首をかしげて、うれしそうにはにかみつつ微笑むのだ。
実はうまうまと師匠の策略に乗ってしまい、九官鳥の世話をし、与える喜びに目覚めてしまったことに、たぶん気付いたのだと思う。してやられた。けれど、このうれしさは何?
というような長々しい説明を、虎ノ介さんは数秒の演技で表現してしまえたのでした。ま、以上、あくまで独断の私見ですので。
まず、彼の人をはねつける毒舌について。
彼が草若師匠に入門するにあたり、「両親は?」ときかれ、最初「両親は関係ありません」と撥ね付けるが、「それやったら弟子にする訳にはいかんな」と拒否され、逡巡の後、自虐の薄い笑みと共に「いわゆる、妾の子、いうやつです」と屈辱で視線をそらせながら呟く。
この「逡巡の表情」の短い時間に、虎ノ介さんの表情演技は、四草(忍)の子ども時代からの屈辱の歴史を回想場面で繰り広げたかの如く、繊細でドラマチックだった。
陰口を言われ後ろ指を指されるけれど、それがなぜなのか、まだよくわからない子ども時代。でもそれよりプライドの高い彼にとって堪え難かったのは、同情され憐れまれることだったのかも。そんな圧の高い人間関係の中で生きて行くために、周囲の人たちを「頭の悪い(悪そうな)連中」と見ることで、自分の中の均衡を保ってきた。
だから大学を出て勤めた商社を辞めたのは「頭の悪い連中ばかりだったから」、という四草の言葉は、なんだか人間としてなってない連中ばかりだった、と言う風に言っているようにも聞こえた。ピュアな彼にはどちらにしても無理な仕事だったのだと思う。要領のいいようにみえて、実は不器用な人のようにも思うから。
自分ひとりきりの力量で稼ぐ、落語家はすごい。『天狗券\』という会社以上に、落語家は、なんぼかすごい、と言い切る四草(忍)に感嘆する師匠は弟子入りを許すが、当然あの口の悪さから、兄弟子たちに疎ましがられる。
しかしある日、弱り切った九官鳥が迷い込み、「助かるか助からないか、賭けますか?」という四草の挑発に、兄弟子はたしなめるが、師匠は即、「死ぬ方」に賭ける。もしも四草が勝ったら、なんでも欲しいもん、やる、という条件で。ということは、四草は「生きる」方を選ばざるを得ない。
必死で世話をする四草だが、本と首っ引きでエサをやるが、「吐いた・・・」と動転してしまい、兄弟子達が駆けつけ、あれやこれやと助け舟を出す。もちろんこの時、四草はすっかり九官鳥に愛を注いでいたのである(たぶん、自分では気付いていなかったと思うけど)。
兄弟子達もみんな、馬鹿がつくほど心優しい人たちばかりなので、必死に九官鳥を助けるべく、奮闘するのだ。弱い自分を兄弟子達の前で晒すことにより、兄弟弟子としての絆ができる。けっして四草が毒舌を止めたわけでも、兄弟子達が寛容になったわけでもないのに、たぶん彼らの絆は年々深まったのだろう。
すっかり元気になった九官鳥のカゴを横に縁側に座っていた四草のうしろを師匠がとおりかかり、九官鳥を仔細に見て、「お前の勝ちやな。なんでも欲しいもん、ゆーてみい」
そのとき何とも複雑な顔をして「こいつを・・・九官鳥をぼくにください」と絞り出すように言う四草。もしかしたら彼は、生涯で初めて本当に欲しいものを見つけたのかもしれない。
それを聞いた師匠のうれしそうな顔! 「これでいい落語をする(ための人間修行の)ステップをひとつ上がった=人情のキャパを広げた」とでも言いたげな。くしゃくしゃと四草の頭を笑顔でなでて去って行き、残された四草はちょっと小首をかしげて、うれしそうにはにかみつつ微笑むのだ。
実はうまうまと師匠の策略に乗ってしまい、九官鳥の世話をし、与える喜びに目覚めてしまったことに、たぶん気付いたのだと思う。してやられた。けれど、このうれしさは何?
というような長々しい説明を、虎ノ介さんは数秒の演技で表現してしまえたのでした。ま、以上、あくまで独断の私見ですので。