紙魚子の小部屋 パート1

節操のない読書、テレビやラジオの感想、お買い物のあれこれ、家族漫才を、ほぼ毎日書いています。

京都丸善の思い出

2006-11-30 22:37:23 | お買いもの
 京都の書店「丸善 四条河原町店」が閉店したのは去年の10月だった。高校・大学生の20代前後には、よく出かけた場所だったが、結婚後はすっかり足が遠のき、出かけたのは数回だったかもしれない。閉店したのは残念だが、行かなかったのだから文句は言えない。客としてバックアップしてないもんな。

 梶井基次郎の「檸檬」でおなじみの書店だが、そういう感慨はあまり持っていない。
 丸善では、洋書売り場をさまよった記憶が濃厚だ。好きが高じて高校生の頃、ブラッドベリをペーパーバックで買った。しかもそれを読んで感動すらしてしまった。と同時に、ペーパーバックを読んで感動出来る自分に対してもたいへん感動した。感動の2乗である。それなのに、読了はできなかった。短編集だったのである。2、3編も読めば、納得してしまったのだろう。根性のなかった高校生だった。

 しかし丸善の魅力は何と言っても輸入文具のコーナーだ。

 とくに私を魅了したのは、つけペン(Gペン)と、各色揃ったガラスの小さなインキ壺だった。色ごとにインクの色をメインに使った瀟酒なイラストが描かれていて、丸善に行くたびにため息をつきながら眺めていた。

 そしてついにある日、マリンブルーのインクをひと壜お買い上げしてしまった。マリンな帽子をかぶったマリンブルーの服を着た少年が、海辺で佇んでいるか、船の玩具で遊んでいるか、そんなイラストのラベルがついていた。

 丸善の文具は、私にとってはインメ[トでも輸入品でもなく「舶来の香り」のするもの、ワンランク上の贅沢な逸品、上品でエレガントかつロマンチックな品だったのである。

 そんな憧れの書店だったが、年に1回だったか、外国の絵本大集合!ともいうべきイベントが催され、私は「ご自由におとりください」という絵本フェアの絵葉書目当てに!(外国の絵本の絵が使ってある絵葉書なのである) そしてもちろん絵本を「見に」行く目的で(買う、といえないところが悲しい)出かけたりもした。
 そこでとんでもないものを発見して購入してしまうのだが・・・

 ちょうど時間となりましたので(ウソやろ?)、続きは明日(みょうにち)に持ち越します。

道の駅、そしてH氏

2006-11-29 23:23:58 | ファミリー
 秋も深まり、京都では紅葉が見頃を迎えているそうである。

 日曜日にKちゃんと出かけた国道沿いの「道の駅」は開駅3周年のイベントをしていて、大変な混雑だった。駐車場も臨時の少し離れた場所に停める事になった。古いレース工場の跡地で、寂れた街灯と紅葉する山とのコントラストがなんともいえない。



 そこで「季節限定栗入り丁稚羊羹」や「あわび茸(あわびのようにコリコリした食感のこの地の最近の特産品)炊き込みご飯」などを購入。
 ほんとは「オリエンタルカレー復刻版」のレトルトカレーなどにも魅力を感じ、しばし立ち止まっていたのだが、「おかーさん、無駄遣いしないように」と娘にクギをさされ、あきらめる。

 イチョウも紅葉も見頃で、南天の実も赤く色付いてきたのに、一方ではセキチクが蕾をつけ、金魚草が咲き、緑の頭の土筆が伸びるという異常な事態も発生している。

 最近のH氏の話題を少し。

 先日水槽で飼っているワカサギが、青虫を「一本うどん食い」した話をブログにあげた。それを読んだH氏は、どうしてもワカサギの「一本うどん食い」を見たかったらしく、翌日朝から畑で青虫駆除をし、水槽にすこしばかり放って必死で眺めていた姿を私は目撃してしまったのである。そう簡単に目にすることはできないのだよ、明智くん。

 いつもPCに向かうとなかなかお風呂に入らないH氏なので、おばあちゃんが「子どもらがつかえてるから、Hが入ってるか見て来て」と言われ、お風呂を覗くストーカーな私。

 たちまち「あんたなー、また戸が開けっ放しやったで!」と説教が始まるが、その説得力のないことったら(笑)
 「なに笑ってるの?」「ひとの言う事全然聞いてへんやろ~」「何やの~一体?」笑い転げる私に、風呂場で怪訝な表情のH氏。

 だって、だって・・・全裸で説教されても、ねえ。説得力、なさすぎ。

ぼくはくま

2006-11-28 23:13:33 | 音楽
 いまカウンターを見たら、9666になっていた。6が三つなんて悪魔の数字じゃない。いいねー。これ踏んだ人にはダミアン賞を差し上げたい。賞品を付けるならはテディベアでしょうね。「あ、くま」

 うちの高3男子はNHKの「みんなのうた」をよく見ている。私も昔から大好きで、子どもの頃は欠かさず見ていた(聴いていた)。この10、11月の中の1曲が、最近の我が家での大ヒット曲で、宇多田ヒカル(作詞/作曲/唄)の「ぼくはくま」

 まず、可愛いもの好きのお兄ちゃんが、次いで私と妹Kちゃんが「くま」の不思議世界に引き込まれてしまった。今では多分私が一番虜ですね、放送が始まると子ども達に「おかーさん、くまー!」と呼んでもらい、台所から「くま」を見たいがためにリビングに駆けつけ、夕食の準備も中断になる。

 人形アニメがキュートな上、つっこみどころ満載で、しかもあれこれと「くま」のサイドストーリーまで想像を広げていけて、飽きないこと。単調なリズムと不思議な歌詞とキュートな「くま」にぞっこん。これぞ真打ちの癒し系。
 
 しかし「くまにぞっこん」なのは何も私だけではない。昨日の夜、ラジオをかけたらJ ̄OPのリクエスト番組で、偶然「ぼくはくま」が流れ出し狂喜乱舞。NHKでは、本流になった「くま人気」に便乗して、あれこれ商売を目論んでいる模様である。おかげで12月、1月にも「ぼくはくま」が「みんなのうた」で聴けるようになるらしい。あな、うれしや。

 お兄ちゃんのTくん曰く、「この歌は画像がないと良さが半減する。絶対DVDで画像付きでみないと!」。 ほんとにそう。この人形アニメの出来は素晴らしい。「愛くるしい」という言葉がぴったりくる。それくらい「くま」の動きの可愛い事ったら! 手放しでデレデレである。

 でも繰り返すフレーズ「♪ぼくはくま、くま、くま、くま~♪」はうっかりすると「ぼくアクマ、」と聞こえないともかぎらないので、お間違えなきよう。

ネットで古本

2006-11-27 23:32:16 | お買いもの
 数年前、ネットでメール配信される古本購入(リスト)にはまった時期があった。

 いまや「楽天フリマ」になってしまったが、以前は「EASY SEEK」というところでとりまとめ、全国の古本屋さん&古本を売りたい個人さんの本の情報を毎日メール配信してくれるサービスがあった。本のタイトル、著者名、出版社、売値など書誌情報の一覧を見るのは、なかなか楽しいものだった。

 たまに一つのカテゴリーの本がどっと放出されるときもあり、「きっとお亡くなりになった方の蔵書なんやろね」と夫婦でウワサした。

 語学の辞書のタイトルがずらりと並んだ時に、夫・H氏は
「これ、ええなあ! こんな誰も知らんような言葉の辞書並んでたら、かっこええやん!」 きたー!
「あかん、そんなん、いらんいらん! 並べてかっこええだけなんか、あかんで」と強硬に却下する。 断固阻止、の私の構えを見て取るや、小さい声で「せめて『パプア・ニューギニア語辞典』だけでもー」「あかん!」

 そんな「みてるだけ」な客であり、難攻不落かに見えた私を、脆くもあっさりと崩し去ったカテゴリーがある。児童書にも弱いがまだしも分別は持っている。
 カミングアウトしてしまうが、私のアキレス腱は「かるた」なのだ。「かるた」ものには問答無用、天地無用というくらいに超弱い。

 その私のアキレス腱を直撃する「かるた」が、なぜかネット上に、どどっと出回ってしまったことがあったのだ。当然私はパニック!!である。この「かるた」の山の中から、2点までには絞らないと(汗)

 他にもきっと欲しいかるたはあったはずである。それらを泣く泣く見送ってセレクトした内のひとつが『中原淳一の啄木かるた』だ。石川啄木の短歌を読み札にし、中原淳一の描く少女の絵を取り札にする乙女なかるたなのだ。雑誌「少女の友」昭和14年1月号の付録として、少女達に大人気を博したらしい。国書刊行会の平成13年の復刻版である。札にはまだビニールの帯が巻かれたままなので、新品なのかも。

 その頃は中原淳一にも石川啄木にもさほど興味がなかったのに、私にとって啄木イヤーともいうべき今年を予言するようなセレクトだった。不思議なご縁としか言いようがない。

 そしてもうひとつのかるた、それは『長嶋語録かるた』(本間康司/作 日本テレビ/発売元)である。こちらはまだパッキングされたビニール包装がかかったままで、封もきられていない新品同様の品である。もったいなくて、私もまだ封を切っていないのだ。いつの日かお正月に『長嶋語録かるた』で遊べる日はやって来るのだろうか。

なんとミスマッチな二種であることよ。

コットンフィールズの東北弁

2006-11-26 21:30:12 | 読書
 子どもの頃、ストウ夫人の「アンクル・トムの小屋」のダイジェスト版/児童書を繰り返し読み、随分義憤に駆られた。アメリカの奴隷制度という社会問題に目が向いた第1歩だったかもしれない。

 それとともに「だんなさま、わしは知らねえですだ」と、まだ奴隷制度の枠内にいたアンクル・トムが、東北弁をしゃべっている事も無条件に刷り込まれてしまった。

 だから長じて大学生になり、フォークナーや南部の作家達が描く黒人たちが、揃いも揃って東北弁をしゃべることに、なんら違和感を抱かなかったのである。

 そこに一石を投じた末ニがいた。青山南さんである。彼のエッセイ『ピーターとペーターの狭間で』(ちくま文庫)の中の「南部の東北弁」という一文を読み、初めて疑問に思った。
 なんでコットンフィールズで奴隷として働く、しかも南部の黒人が雪深く農作物の栽狽ノも苦労する寒冷地の東北弁を使うのか? 
 言われてみれば、そのとおりなのだ。訛りを使いたいのなら、青山さんの言う通り「ばってん」とか「ごわす」とか西郷さんような薩摩弁を使った方が、少なくとも地理的には正解だと思う。

 しかも井上ひさしさんによると、末{に登場する東北弁は東北地方のどこにも使われていない架空の東北弁らしいのである。ドラマでよくある方言指導みたいな方言監修も、末キるときに必要なのかも。

 実際青山さんはカリブ海の海亀漁の話を末キる時、語感のニュアンスを出すために小川国夫さんを通して、藤枝の漁師さんに言葉のチェックをしていただいたそうである。末フ奥深さと心血を注ぐ仕事ぶりに恐れ入った次第である。

 ところで、考えてみたら私は「南部の黒人」だけじゃなく、他にもアメリカで東北弁を話す人達を、子どもの頃しょっちゅうテレビで観ていたのだった。

 アメリカの山奥で暮らしていた一家が、猟のため鉄砲を発砲する。獲物には当たらなかったものの、なんと逸れた鉄砲の弾が当たった場所から石油が湧き出し、一家はたちまち億万長者になり、ビバリーヒルズの豪邸に引っ越し、てんやわんやの大騒動を繰り広げるアメリカのコメディドラマである。この一家が、そろって東北弁なのだ。そう、タイトルは「ジャジャ馬億万長者」なのである。『ビバリーヒル・ビリーズ』のタイトルで映画化もされている。

 しかし日本の田舎モンは東北の人々だけではないのに、考えてみればおかしな話なのだ。日本の西や南を「田舎」と認識しないのは、もしかすると明治から続く、薩摩/長州の差し金かも??