教団「二次元愛」

リアルワールドに見切りをつけ、二次元に生きる男の生き様 (ニコニコでは「てとろでP」)

シューティングと死のイメージ

2010-09-26 00:03:51 | シューティング
シューティングをやっていると、時折強く死をイメージしてしまうことがある。

シューティングという読んで字のごとく、敵を撃ち殺すということを意味しているのではない。
むしろその正反対の意味だ。
自分が敵に撃ち殺されるという意味だ。

俺は簡単に死ぬ。
俺は特別な存在でない。
シューティングをやった人なら誰でもそう思う。

これは負けが死のイメージには繋がらない格ゲーとは全く違う。
わざと極限プレイをしないかぎり簡単に全滅することはないように設計されているRPGともまた全く違う。
最も簡単に死んでしまいやすいゲーム、それがシューティングだからだ。

シューティングの世界では、自分は単なる一介の兵士として戦場に赴く。
そして極めて高い確率でそこで死を迎える。
運よくクリアできたとして、それはそれでみずからの寿命が尽きたことを暗示させられる。

現代の日本では、病院勤務などでもない限り死は身近ではない。
むしろ死は隠されているというほうが近いかもしれない。
だからこそ普段は死を意識することなどありはしない。

そのことをとって自称良識派のバカはいう。
「ゲームは思春期の子供にとって死を身近にさせ、ついには人間の尊厳を軽んじる役割をしている」
のだと。

それは違う。
ゲームは確かに死を身近にするかもしれない。
しかしそこで我々は死から免れるためには死に者狂いで生きなければならないこともまた肌で実感するのだ。

アーケードのシューティングでは全2周を遊んだところで1時間もかからない。
そこでは寿命いっぱいまで精一杯生きたところで1時間の命なのだ。

だからこそ、プレイが終わり現世に帰還したときに思う。
わたしのこちら側での寿命はまだしばらくある。
残りの時間で何をして遊ぼうか・・・と。

必ず死なすっ!!(エスプガルーダ2)

2010-07-26 00:00:44 | シューティング
「ずっとこの時を待っていた・・・必ず死なすっ!!」

CAVEのシューティング「エスプガルーダ2」のステージ5ボス「セセリ」の登場時のセリフである。
じつは割と有名なセリフらしい。

このセリフ、少なくとも1周目のラスボスまでは到達しないと聞くことができない。
このセリフを、自分の腕前をもってして生で聞いたことがある者が、いったいどれほどいるのだろうか。

CAVEのシューティングにはこういったセリフがいくつか登場する。
たとえば・・・

「貴様らの存在を消してやるぅ!」
 セセリ @ エスプガルーダ

「死 ぬ が よ い」
 シュバルリッツ・ロンゲーナ大佐 @ 怒首領蜂

「おのれ、生かして帰さん」
 ガラ婦人 @ エスプレイド

・・・みたいな感じだ。

こういうのを見るとすぐに
「暴力的どうのこうので青少年への悪影響が(以下略)」
みたいなことを言うヤツが現れる。
よく赤い人がいうことだ。

しかし!
このCAVEのシューティングに限ってはそういう意味はこめられていない。

なぜなら!
これはプレーヤーが敵を攻撃して相手を死に至らしめることを意味したセリフではない。
これは敵がプレーヤーを攻撃して相手を死に至らしめようと待ち構えていることを意味したセリフだからだ。
むしろ殺されるのは我々のほうなのだ。

そしてプレーヤーは
「望むところだ! この俺を殺せるだけの弾幕をバラまいてみせろ!」
と心の中で叫びながら挑むのだ。



実際、これらのセリフには尋常でないすごみがある。
これはプレーヤー本人でないとわからないことだ。

死に物狂いで弾を避けて、瀕死になりつつ潜り抜けた最終面。
さらなる狂気の弾幕がそこにあることを覚悟していどむラスボス。
そこでプレーヤーは死の宣告を受ける。

そのすごみがいったいどれほどのものなのか。
それは自分の腕でたどりついた者でなければ理解できない。

これはアニメとは異なる。
たしかにアニメの敵の大将もそんなセリフを言う。
しかしアニメはたいがい主人公にとって都合がいい。
アニメには一定の安心感が常にあり、そういうモノにはあのすごみは出すことができない。

これはRPGとも異なる。
たしかにRPGのラスボスもそんなセリフを言う。
しかしRPGは多くても何度かやっていれば誰でも倒すことができてしまう。
RPGには必ず倒せるという安心感が常にあり、そういうモノにはあのすごみは出すことができない。

シューティングだけは違う。
自分の腕であの狂気の弾幕を避けきらなければならない。
そう、いともたやすく死の宣告が成就してしまう事くらい、誰であろうと知っている。



最近はニコニコやYouTubeでラスボスの弾幕を見ることができる。
あるいみで良い世の中になったと思う。

あれを見て
「よし、いつかは俺もあそこへと到達したい!」
と思うヤツが1人でも現れてくれればいい。

しかし、あのラスボスの死の宣告は自分で聞かなければ臨場感を理解できない。
ニコニコやYouTubeでうまい人のプレイを見て、それで満足してしまう人が少なからず現れてしまう。
それはそれで不幸なことに思う。



怒首領蜂の2週目ラストに現れる真のラスボス。

ヤツに
「死 ぬ が よ い」
とはじめて言わせたときにはどれだけ武者震いしたことか。

その感動を皆も味わってほしい。

兵器 と 殺す事

2010-07-13 00:10:17 | シューティング
http://hyakuninnissyu267.blog13.fc2.com/blog-entry-18.html

amatukaze氏のblogのとある記事を読ませていただいた。

なかなか興味深い事だ。
そこには、死に対する抵抗感と、戦闘機や戦艦などの兵器に対するあこがれとの矛盾、そういうったものが語られている。
いい機会なので、当blogでもネタにしてみようかと思い至った。



この問題は古くからあるテーマであろう。
世界各国の神話からして、悪いヤツを殺すことが主要テーマになっているからだ。

たしかに戦闘機や戦艦などの兵器に対するあこがれは存在する。

なぜあこがれるのか。
それは単純明快だ。
強いからだ。

いい証拠がある。
強くもない兵器には誰も憧れない。
たとえばパチモンのイージス艦と言われる韓国の世宗大王級に憧れるヤツなど誰一人としていない。

これは何を意味するのか。
本当に、単に人を殺す目的のモノに憧れているだけなのか。

・・・そうかもしれない。

しかし、わたしはそれだけではないと信じたい。
わたしだって、剣と魔法の冒険物語は大好きだし、戦記モノも大好きだし、それが単に殺人衝動の気分的代替とは思いたくないからだ。

では、どう解釈すべきか。

これを解くカギはシューティングにある気がする。

シューティングゲームとは、早い話が読んで字のごとく敵を撃ち殺すゲームであると言えなくも無い。
というか、初めて見た人はまんまその通りにしか見えないだろう。

しかしシューティングの本質はそうではない。
シューティングの本質は弾を避けることにある。

百倍するどころか万倍もする絶望的な戦力差の中、絶対に避けられそうにもないような敵弾を死に物狂いでかいくぐり、そして生きて帰る。
それがシューティングの本質である。

シューターはかっこいい。
それはなぜだろうか。

それはシューティングの自機が強いからではない。
もしそうであれば、どんなヘッポコシューターでもカッコ良く見えるはずだ。

それは敵を倒したからではない。
もしそうであれば、改造して無敵モードでやっているインチキプレイを見てもカッコ良く感じなければおかしい。

シューターのかっこよさ。
それは、絶望的な戦力差の中、生きて帰ってきた事がカッコ良いのだ!



わたしは戦闘機や戦艦などの兵器に対するあこがれもそこにある気がする。

強い兵器はカッコいい。
なぜなら、圧倒的な戦力をもってして攻めてくるかもしれない敵に対し、その敵を前にして生きて帰ってくるだけの実力があるからだ。

ふつうは平時にはそんな事は思いもしない。
しかし戦時下においては、強い兵器は自分たちを理不尽な死から守ってくれる守護神のような存在でもある。

人殺しの道具が守護神だとか言うと反論を思いつく人がいても無理は無い。
しかし、いくら口で平和を唱えたところで、いくら自分が正しいと主張したところで、敵に殺されたら終わりである。
我々の命を守ってくれるあのモノたちに憧憬の念を抱くことが、それがなぜ悪いと言えようか。

七難八苦を与えたまえ・・・って?

2010-07-01 00:14:51 | シューティング
「願わくば我に七難八苦を与えたまえ!」

山中鹿之助のセリフだと言われているものだ。

自己を鍛える。
努力を惜しまない。

一般に、そういった具合の意味に捉えられている。

しかし!

ここで、これとは全然違う解釈を提案したい。
わたし自身がそう思うところがあるからだ。

別にわたしがそういう日々鍛錬だとかいうような自分に厳しいようなヤツなわけではない。
というか、割といいかげんに生きているほうだという気すらする。

でも、
「願わくば我に七難八苦を与えたまえ!」
と思うことが1つだけある。
他ならぬシューティングゲームにおいてだ。



あらかじめ言っておくことがある。

シューティングとは、敵を倒すゲームではない。
シューティングとは、敵の猛攻を避けるゲームである。

シューティングとは、常人では到底避けきれない量の地獄のような弾幕の中にあり、その弾幕を全て避けきることに何かを見出すものだ。

その逆だとどうなるか。
自分がカンタンに避けきれてしまうようなヌルい弾幕が来たらどうなるか。

まあ、ゲームオーバーにはなりはしないから、遊ぶ時間は長くはなる。
でもおもしろくない。
そんなものはやりたいとは思わない。

シューターは自らの生命の危険と共に戦うことを欲している。
いつまでだって遊べるヌルい弾幕などいらない。
カンタンに殺されてしまいそうな狂気の弾幕が欲しい。

1コインクリアくらいなら余裕になったシューティング。
そういうものの序盤ステージはヌルくてタルいと感じることもままある。

だから思う。
そういうときこそ
「願わくば我に七難八苦を与えたまえ!」
と思うのだ。

シューターに七難八苦のステージが与えられたらどうなるか。
シューターはすぐに敵弾に撃墜されるかもしれない。
しかしシューターは狂喜乱舞してプレイしつづける。
七難八苦の弾幕を避けることが楽しくてしかたがないからだ。



さて、山中鹿之助。
ヤツはどう思って先の言葉を口にしたのだろう。

美談的な意味もあるかもしれない。
しかし、それだけではないかもしれない。

カンタンに殺されてしまいそうな狂気の戦場の中心に赴いて、そこから生きて帰る。
その事に換えがたい快感を見出したのかもしれない。

シューターはあの言葉をそう解釈できてしまうのだ。



戦闘民族サイヤ人として生まれた孫悟空。
ヤツもヤツが現れると決まって、
「オラ、ワクワクしてきた」
と言っていた。

孫悟空の目にも、山中鹿之助や我々シューターが見ている同じ何かが映っていたのかもしれない。

怒首領蜂の強敵(友)たち

2010-06-15 00:00:21 | シューティング
わりと今さら感もあるのだが、怒首領蜂大復活で隠し中ボスがあるらしいのを知った。

1面開始すぐのところで、大戦車に踏まれて壊される大タンクを3つとも自分で破壊すれば隠し中ボスになるようだ。
あと、4面クリア時までノーミスなら5面まで隠し中ボスになるようだ。



隠し中ボスの面々、じつに懐かしい人たちばかりいらっしゃる。
初代の怒首領蜂のボスたちだ。

はじめて怒首領蜂をプレイしたとき、
わたしは1面ボスまで辛うじていけた程度でしかなかったと記憶している。
何気なくプレイしてみた時のことだった。

わたしの戦いの日々はその時から始まった。
そしてゲーセン通いが始まった。
周りは格ゲーや音ゲーばかりだったのに、わたしはそれには目もくれず、シューティングばかりやっていた。

何度も何度も何度も叩きのめされた。
でも、何度も何度も何度も戦った。

そして、いつの間にか(難易度の高い)Aタイプで火蜂(2週目の真のラスボス)まで到達するまでに巧くなっていた。
結局クリアし損ねたが、実に懐かしく輝くわたしの青春の1ページである。



そしてその、「強敵」と書いて「友」と呼びたいあの怒首領蜂のボスたち。
わたしを何度も何度も何度も殺した、そしてわたしを何度も何度も何度も強くしてくれた、あの友たち。

ヤツらが怒首領蜂大復活で隠し中ボスとしてそこに居るではないか!

何ともはや懐かしい。
この演出は初代の怒首領蜂をやりこんだ経験を持つジジイ向けなものだろう。
この演出をリアルタイムに知る者が、いまのシューターの中にいったいどれほどいるだろう。

それでも登場したヤツら。
それでも登場させたケイブ。
わたしは彼らに向けて賛辞を送る。



わたしはまだまだ引退しはしない。
ゲーセンにあるどんなゲームよりも楽しいものがシューティングだと知っているからだ。
絶滅危惧種シューティングがゲーセンから完全に絶滅するその日まではプレイしつづけよう。

シューティングと物量と戦争

2010-05-29 00:05:50 | シューティング
シューティングとは。
すなわち一騎当千である。

千倍する敵を前にして戦わなければならない。
しかも自機はたった1発の被弾で撃墜してしまう。

しかし!

与えられた機体は、性能をフルに発揮しさえすれば、敵軍の巨大戦艦と戦えるだけの実力を持つ極めて高性能なものである。

なぜ最初から敵と同じように千倍の味方をあつめて戦おうとしないのか?

大概の場合、そういうことができない事情になっているからだ。

なぜそうなっているのか?

物語の背景で決まっているものだ。

宇宙人に侵略された地球において、たった1機だけ残された高性能な開発試作機。
世界で唯一残された秘宝を組み込んだ、世界で唯一実用化した戦闘機。
脱走した兵器開発主任が自分の過ちを正すために創りあげた1品モノの最高傑作。

だいたいそういう具合にできているものだ。

つまるところ、それは何を意味するか?

量で圧倒する敵を、質で勝ることで解決を図るという意味だ。

これと同じものをどこかで見たことはないだろうか?

大日本帝国軍と同じではなかろうか。
たとえばゼロ戦だ。

ゼロ戦はなぜ強かったのか?

米軍の戦闘機は量産性を重要視していた。
だから無闇に品種を増やさなかったし、物量で敵を圧倒するために生産に手間がかかる構造は採用しなかった。

ゼロ戦は違う。
生産にはえらく手間がかかってしまう曲面を多用した。
しかし空気抵抗を最小にできた。
エンジン出力がかなり劣るにもかかわらず互角以上に渡り合うことができた。

米軍の戦闘機はパイロットの安全性にも配慮していた。
たかが1発被弾したくらいで墜落しないように設計が配慮していた。

ゼロ戦は違う。
パイロットの安全性はパイロットの腕前でカバーするものだった。
たかが1発被弾したくらいで墜落してしまう事もあった。
しかし安全性を犠牲にしたため極限まで旋回性能を上げることができた。
腕前のあるパイロットが操るゼロ戦は被弾しなかったのだ。

このやり方は正しかったのだろうか?

わたしにはわからない。
アメリカは物量で圧倒することを最も得意としている。
日本は物量で圧倒することが最も苦手だったし、熟練工を確保できたため、僅かに性能を上げるだけでも手間をかけることが許された。
それで良かったのかどうかはわからないが、自分たちの最も得意とする方法で挑んだという意味においては間違いはない。

これは大日本帝国軍だけの話ではない。
ドイツ第三帝国もそうだった。
ジオン公国もそうだった。
物量に劣る国はどこもそうなのだ。

この彼我の差を見てどうだろう。
先のシューティングにおける敵軍と自陣営の差にソックリだと思わないだろうか。

国民性というかなんというか、日本人はそういうモノが元来大好きなのだ。
単なる安いだけの量産品は好きではないのだ。

シューティングにおいてはこうだ。
千倍する敵を前にして一騎当千の機体を操り、1発の被弾で撃墜してしまう恐怖と隣り合わせで戦うのだ。

シューティングをするとある種の共感を感じる。
物量に劣る国が戦争せざるを得なくなったときは恐らくそういうモノを感じながら突入していったのではかろうかと。

虫姫さまふたり1コインクリア

2010-04-21 00:01:41 | シューティング




虫姫さまふたり(初期型:オリジナルモード)の1コインクリア達成!

いや~、初期型の1コインクリアは時間かかったよ~。
初代虫姫さまでならマニアックモードすら1コインクリアできるにもかかわらず、虫姫さまふたり(初期型)はオリジナルモードすら今まで1コインクリアできなかった。

ちなみに初期型でなければ実は比較的簡単なのだ。
初期型は最初のほうはヌルすぎて集中できずにケアレスミスで被弾してしまうほどカンタンだ。
しかし最後のほうは初代のマニアックモード以上に難しい。
それに対しVer.1.5とブラックレーベルは全体的に難しさが平準化されている。
おかげで早々に1コインクリア達成できた。
これらは似てはいるものの事情は全く違うものだ。



こうやってゲーセンでシューティングを1コインクリアすると実に気分がいい。
1コインクリアできた自分を誇らしくすら思う。
(シューターから見れば別段うまいというほどのものでもないけどね)

考えてみると言いえて妙なものだ。
いまどきゲーセンでシューティングやってるヤツなどほとんどいない。
にもかかわらずシューティングの1コインクリアというものは、ゲーセンを徘徊する男にとって最も高い意味をもつものの1つでもある。
格ゲーの1コインクリアとは全く意味が違うのだ。

シューティングだけは格別の意味をもつ。
だからシューターは誇り高いのだ。

シューティングといえど、たかがゲーム。
しかし、たかがゲームで遊ぶ自分に誇りを感じるものは他にいったい何があろうか!

観客シューター

2010-04-15 00:05:39 | シューティング
地方にはほとんどいないのに、東京都心部の特定のゲーセンにだけいる特別なシューター。
ただ見ているだけの人たちだ。
仮にここでは観客シューターとでも呼ぼうか。

たとえば秋葉原のHEYの2階とかに観客シューターいる。
彼らは何をしているのか。
本当にただ人のシューティングのプレイを見ているだけだ。

彼らは何をしようとしているのか。

まず考えられるのが、お小遣い制でやっている高校生とか、サイフに余裕のない人たち。
なまじプレイしたくてもそうそうプレイできないということは十分考えられる。
しかし、年齢層からいってそれはなさそうな気がする。
もうちょい年上な人たちがそこにいるからだ。

次に考えられるのが、スコアラーの人たち。
うまい人のプレイを見て、その人の編み出したパターンを盗もうとしているということは十分考えられる。
しかし、見られている人の腕前からいってそれはなさそうな気がする。
スコアラーともなるとシューティングやっているわたしが見てもニュータイプに見えるほどの腕前でなければ成り立たないのだが、そこまでのニュータイプがそうそうゴロゴロしているわけでもないからだ。



では、いったい何なんだろうか。

1つ仮説をたててみた。

ゲーセンでシューティングをプレイするということは、自分の財を投じ、そして命がけで戦うことである。
自分の命を守れる者は自分だけだ。
だから熱い。
だからシューティングには熱狂がある。

しかし!
シューティングの熱狂を味わうためには、それなりの腕前が要求される。

とはいえ。
その熱狂は傍から見ているだけでも少しばかりは伝わってくるものだ。

そこで人類は悲しくも2種類の人種に分けられてしまう。

1つは、その熱狂とそのスーパープレイに感動し、いつかは自分もそこへ到達したいと心動かされる者。
もう1つは、その熱狂は伝わりこそすれどスーパープレイを見てヘコまされ、とても自分はそこへは到達できそうにもないと心動く機会を失くしてしまう者。

前者の人々。
彼らは私財を投じてゲーセンでシューティングをプレイし続け、ときには自分の腕前のなさに涙しつつ、ときには自分の腕前以上のところへと到達して狂喜乱舞し、そしていつの間にやら巧くなってゆく。
これは大変望ましい好循環である。

そして後者の人々。
彼らの一方は絶望してシューティングからは距離を置き、また一方は人のプレイを傍から見るだけに徹して人の熱狂のおすそ分けをもらい満足する。

これはもったいない。
わたしはそう思えてしかたがない。

彼らはそこに熱狂があることを知っているにもかかわらず、そこへ踏み込もうともしない。
これをもったいないと言わず何と言おう!

観客シューターよ、戦うべきだ。
我々シューターは君たちが参戦してくるのを待っている。
そして風前の灯火ともいえるシューティング界を共に盛り上げていこうではないか。


スターブレードの思い出

2009-12-23 00:05:49 | シューティング
こんなことを書くとジジイなのがバレてしまうわけだが・・・
記憶に残っている中でわたしがリアルタイムにゲーセンでプレイした最古のゲームはギャラガである。

少しだけ言い訳しておく。
わたしは幼稚園のころからゲーセンに出入りしていたので、ゲーセンに関しては歳不相応に古い記憶がある。
本来ギャラガのリアルタイム世代というと現在40歳くらいだと思うが、わたしはそこまで歳ではない。
それはいいとして。

その頃はデパートの屋上にいけば(ビデオゲームよりさらに古い時代の産物である)エレメカのゲームもまだ残存していてよくプレイしたものだった。
ゲーセンでもスペースインベーダーこそ既にほとんど見なかったものの、ギャラクシアンなどはまだ十分に残存していた。

まあ、ゲーセン黎明期からではないにしろそれに近い頃から、ファミコンが発売されるより前からTVゲームに触れていた。

ギャラガから待つこと2年、ゼビウスが発売された。
これには幼心にも驚かされた。
ゼビウスは今日の趣旨ではないので細かいところは省略しよう。

時代はそれから8年後の1991年に飛ぶ。
わたしがシューティング至上最も度肝を抜かされるゲームが設置された。
スターブレードである。
わたしがフルポリゴンのフル3Dのゲームに始めて触れたゲームである。

> ナムコ スターブレード (AC)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2092277

既にフルポリゴンのフル3Dのゲームは他にもあった。
ギャラクシアン3があった。
しかしフツーのゲーセンで設置可能な6人筐体が出たのはスターブレードよりさらに後の時代まで待たねばならない。
フルポリゴンのフル3Dのシューティングにフツーに触れることができるようになったのはスターブレードが最初だろう。(※1)

今やっても大したことはないだろうが、当時スターブレードはすごかった。
何たってドット絵のシューティングがフルポリゴンになったのだ。

さらに。
スターブレードは特殊な画面を用いた大型筐体だった。
たしか凹面のスクリーンに投影する仕組みになっていた。
この凹面スクリーンは良くできていた。
やってみるとわかるのだが、奥行き方向の空気感がすごく出る。
宇宙空間で戦うシューティングというスタイルに恐ろしくマッチしていた。

今ニコニコで見てみたところで残念ながらこの空気感までは再生されない。
これは当時あのコックピットに座ったことのある者のみの知る特権だ。
ちなみに現在のゲーセンの大型筐体でこういうしくみを使っているものがあるのかどうかまでは知らん。
いまゲーセンに行っても大型筐体でシューティングなどありはしないので、シューティングしかしないわたしには大型筐体の事情など全くわからん。

このゲームは難しかった。
同じフルポリゴンシューティングのギャラクシアン3が1人プレイだとカンタンにクリアできるのに比べたらかなり難しかった。(※2)
プレイ開始でけっこうあっさりゲームオーバーになった。

それでもプレイしたときには鼻血が出そうなほど心躍らされた。
シューティングで初めてやってここまで魂を魅入られたのはスターブレード以外にはない。

その後、XEXEXやレイフォースやビューポイントなどフツーのビデオゲームでもポリゴン的なデザインのものも少しづつ増え、そしてバーチャレーシングやバーチャファイターにてポリゴンが一躍有名になり市民権を得る時代となった。

ゲーセンでシューティングをやるというのは幼稚園の頃から続いている息の長い趣味なのだが、もう長いことスターブレードを上回る衝撃は受けてはいない。
最近はある程度やりこんでデザイナーの意図を理解してはじめて味を知る類のものになっている。
シューティングは細々とながらも常に進化しつづけているが、既にハード性能に依存する方向への進化は頭打ちになっているような気がする。
だから初プレイで受ける衝撃というのも最近は当てにすることができない。
少し寂しいような気もするが。

ポリゴンのゲームの歴史を紐解いてもだれもスターブレードを振り返ることなど無いのも残念でしかたがない。
バーチャレーシングやバーチャファイターを思い出す前に、たまにはスターブレードも思い出してやってほしい。



【※1】
補足。
フルポリゴンシューティングはPC8801版のシルフィードのほうが時期が早い。
しかしこれはフル3Dという感じではなく平面をナナメから見たという仕様になっているし、背景もほぼ黒ベタに近いものだったような気がする。
これはこれですごかったしメガCD版も驚かされたが、心躍らされたという意味では個人的にはスターブレードに軍配が上がる。
他にもワイヤーフレームのシューティングも何かあったはずなんだが、タイトルは1つたりとも憶えていない。

【※2】
補足。
当時ヘタだったわたしの腕前ではたしか・・・
スターブレードは1回100円だとしてコンティニューで1000円分投入すればクリアできるくらいの難易度。
ギャラクシアン3は1人プレイなら1コインクリアは余裕。
2人プレイでもまだ何とかなる。
3人プレイになるとそこそこゲームをやってるヤツを入れないとクリアできない。
4~6人プレイではクリアの望みは捨てる。

デススマイルズ と 撃ち返し弾の美しさ

2009-12-17 00:01:57 | シューティング
ちょい前に書いたように、さいきん近くのゲーセンに置いてあるのを見つけたデススマイルズというシューティングをやっている。
もうわりと慣れてきたので、一番カンタンなルートなら余裕で1コインクリアできるようになった。

しかし!

このデススマイルズ、1コインクリアできるようになった後のほうが実はおもしろい事に最近気がついた。



まずこのシューティングのシステムを簡単に説明しよう。

前半6ステージ+後半1or2ステージの構成になっている。
前半6ステージでは難易度を選択でき、ステージごとにレベル1, 2, 3のどれかから選択する。
ただしレベル1, 2は2回づつしか選択できない。
つまるところ、前半6ステージをカンタンな順にクリアしようとすると、レベル1,1,2,2,3,3の順番にすれば良い。

だんだん慣れてくるとレベル1では歯ごたえが無さすぎると感じるようになる。
そうすれば最初っからレベル3だけを選択することができる。

さらに。
レベル3を4回選択すると、それより後のステージでは敵が撃ち返し弾を吐き出すようになる。
それ以降のステージでは難易度が激増するのだ。



Wikipediaを参照すると、撃ち返し弾とは

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%92%83%E3%81%A1%E8%BF%94%E3%81%97
> 撃ち返し (うちかえし)とは、コンピュータゲーム、特にシューティングゲームにおいて敵キャラクターを破壊した際に、そのキャラクターが敵弾に変化することである。また、この「撃ち返し」によって発生した弾を「撃ち返し弾」と言う。

と書かれている。

わたしはシューティングが大好きだ。
しかしながら、撃ち返し弾のあつかいにだけはかなり否定的に見ている。

なぜなら!

撃ち返し弾というのは、安易に難易度を上げるための、だれでも設計できる安直すぎる解決策でしかないからだ。

実際、オマケ的な要素の濃い2周目において、撃ち返し弾を追加することにより難易度を上げるという方策を非常によく見る。
単に撃ち返し弾によって弾が増えたシューティングというのは、弾幕の密度のバランスが悪いというか、弾がてんでバラバラに飛んできて美しくないというか、何というかイマイチ弾避けが楽しくない。
それに、おのれの集中力と反射神経によって弾幕をくぐり抜けるその快感よりも、どちらかというと戦略を立てて撃ち返し弾をバラまかせるのに都合のいい方向を憶えて対処するみたいな暗記ゲー的な要素も強くなってくる。

だから撃ち返し弾ばかり使うシューティングは好きにはなれなかった。

先に書いたように、デススマイルズも条件次第では撃ち返し弾が発生する。
最初に見たときにはガッカリしかけた。



しかし!

デススマイルズはおもしろい。
デススマイルズの撃ち返し弾は美しい。
こんな心躍らされる撃ち返し弾ははじめて見たといっても過言ではない。

デススマイルズでの撃ち返し弾の発生方法は、敵を破壊したときに弾に変わるという点においてセオリーどおりになっている。
しかし、撃ち返し弾の対処方法が全く異なる。

ショット押しっぱなしにした時だけオプションが撃ち返し弾を消滅させる能力を備えている。
したがって、必ずしも撃ち返し弾を避けて逃げるだけが対処ではない。

いやむしろ、避けて逃げるだけでは到底逃げ切れない。
後半ステージにもなると、背景が埋まって見えないほどの異常に濃い撃ち返し弾が降り注ぐ。
それは逃げるだけではダメなのだ。

プレーヤーは砂をバラまかれたかのような異常な密度の撃ち返し弾に対してオプションを向ける。
そうするとオプションが触れた弾だけ消滅する。
プレーヤーはオプションが空けてくれた針の穴ほどのスキマを縫うようにして避けていく。



これは新しい!

絶対に避けられない弾幕が降り注ぎ、その弾幕を自分で掘って避け道をつくるのだ。
実際やってみるとよくわかるが、これをやっていると死と隣りあわせでグリグリ避けている感じがして実に楽しい。

撃ち返し弾が出てくるのを初めて見てガッカリしそうになったのは杞憂に終わった。
いやむしろ、デススマイルズの本領はこの撃ち返し弾を避けることにあるとすら思う。

腕に覚えのある者は挑戦してみてはいかがだろうか。
きっとあなたもわたしと同じように
「この撃ち返し弾を避ける美しさは他の何にも変えがたいものがある」
と感じる事だと思う。



追伸:

現在のところ、前半6ステージ全部レベル3かつ後半1ステージという条件では1コインクリア達成することができた。
ついに全てレベル3かつ後半2ステージの最難関条件へと挑戦するときが来たようだ。

いつかは最難関クリアできることを祈って。

シューティング と 孤独なる戦い

2009-10-07 00:02:14 | シューティング
シューティングとは孤独と戦うものでもある。
ゲームにおける数あるジャンルのうちで最も孤独なる戦いを強いられるものの1つである。

例えばロープレ。
主人公は頼れる仲間とともに巨悪と戦いに挑む。
決して主人公は孤独ではない。

例えば格闘。
主人公は世界最強の座を賭けて相手に挑む。
主人公は1人で戦うのではあるが、フィールドでは決して1人だけではない。

例えば恋愛シミュレーション。
これは孤独と戦うものとは正反対に位置するものであることは明白だ。

シューティングだけは違う。
シューティングだけはこれらのモノとは根本的に違う性質を備えている。

シューティングの背景は千差万別だ。

ある者は決して帰ることのできない深宇宙へと地球最後の希望の星としてたった1人で戦いに赴く者であるかもしれない。
ある者は祖国を焼かれたたった1人の生き残りとして敵に復讐を誓った者であるかもしれない。
ある者は敵の文明に地球を破壊され偶然たった1人生き残ってしまった死に場所を失った者であるかもしれない。

たよれるのは自分だけ。
そこに居るものも自分だけ。
たった1人で、百倍する、いや万倍する武力を誇る敵軍へ絶望的な戦いを挑む。

それがシューティングというものだ。



これをして
「たかがゲーム…」
そう割り切るものもいるかもしれない。

しかし!

「たかがゲーム…」
そう割り切るものは、絶望的な戦力さを誇る敵軍を前にして、決してそれに対峙し続けていることすらできはしない。

ゲーセンでコインを投入する。
筐体よりクレジットを認識した旨の効果音が響く。
1Pのスタートボタンを押し、自ら望んで戦いの幕をあける。

そこから先は、たかがゲームと割り切ることのできない者たちだけが集うことを許された戦場だ。
たかがコイン1枚。
しかしそれに命を賭けて戦う。

人類の脳の処理能力を遥かに凌駕するように思える狂気の弾幕が降り注ぐ。
脳のてっぺんから指の先まで全神経を集中させ、死に物狂いで弾幕を避ける。

死に物狂いにならない者は決して弾幕を避ける事などできはしない。
たかがゲームとあざ笑う者は決して弾幕を避ける事などできはしない。
所詮コイン1枚などと安く見る者は決して弾幕を避ける事などできはしない。
そして、たかがゲームたかがコイン1枚に命を賭けて死に物狂いで避けようとする者だけが、狂気の弾幕を全て避けきり、その向こう側にある神の領域のほんのひとかけらを目にすることができるのだ。

ここでいう神の領域とは、宗教的な意味での極楽浄土を意味するものではない。
自己の能力の限界を試され、それにほんの僅かの差でそれを上回り、人類の能力の限界をも超えた何かがさらにその先にあることを意味している。

「たかがゲーム…」
そう割り切ることのできないものだけが、唯一その領域の鱗片をわずかに垣間見る事ができるのだ。

自分が肌で感じたその領域の鱗片、それは決して他の人と感情を共有することなどできはしない。
孤独に屈せず、狂気の弾幕に何度も何度も撃墜されつつも悔し涙をふいてまた1人戦場にに赴き、そしてようやく1人でだけ手に入れることができるものだ。
シューティングは孤独な戦いである。
いったいどこのだれとその領域に踏み込んだ感動を分かち合えるだろうか!?



実際、ゲーセンで自分が弾を避けるのと、家でポテチでも食いながらYouTubeだかニコニコだかのスーパープレイの弾幕避けを見るのとでは、それは天と地ほどの違いがある。

この違いはたとえば・・・
自分が戦国時代に生まれ、足軽として合戦に参戦し、敵兵に殺されかけながら死に物狂いで敵兵を殺すその熱病と恐怖。
そしてそれをエアコンの効いた自宅でポテチでも食いながら大河ドラマで見る人。
これはそれくらいモノが違う。

戦場で死に物狂いにならない者は生き残れない。
ようはシューティングとはそういうものだ。



昨今ではシューティングをやろうという者がめっきり減った。

たかがゲームに死に物狂いになる意味もない。
そして死に物狂いにならないと得られないその先にある何か、たかがゲームと言っているうちは決してそれが存在することにすら気付くことができない。
これは絶対に人と分かち合うことはできない孤独に戦った者だけが得られる代物だ。
だからシューティングのおもしろさは人には理解されない。

それはとっても悲しいことだと思う今日このごろである。

左右にペンダコを持つ男

2009-09-03 00:00:29 | シューティング
世の中にはフシギなことに、なぜか左右どちらの手の指にもペンダコがある男がいる。
ちなみにわたしがそうなのだが(笑)。

もちろん鉛筆の両刀使いというわけではない。
なぜかわかるだろうか?



右手のペンダコはフツーのペンダコである。

左手のペンダコはというと・・・
実はこれはゲーセンでついたのだ(笑)。

ゲーセンのコントローラーを見てみよう。
ジョイスティックのレバーボールをつまんで十字キーを操作する。

このつまみかたにはイロイロと流派があるが、たとえばわたしだと、
手を上からかぶせるようにし、
親指の腹で右下側をさわり、
人差指の腹で上側をさわり、
中指の第一関節のヨコで左側をさわり、
その3点で接触をとる。

親指と人差指はやわらかい指の腹でさわる。
中指はかたい第一関節のヨコでさわる。

そうすると、中指だけ接触面積が小さいものだから接圧が増えてしまい、結果的にペンダコみたいなのができやすくなる。

これは人体の構造上の欠点だろうか?

かならずしもそうでもない。

親指と人差指はやわらかい指の腹でさわる手前、腹がへこむ分だけ遊びが増える。
中指はかたいとこでさわるので、遊びが非常に少ない。

そうするとどうなるかというと・・・
遊びがある指が押して動かす方向へは、クイックかつ正確なコントロールが難しいことを意味する。
つまり、[↑]と[↓]と[←]は正確なコントロールが難しく、[→]は最も正確にコントロールしやすいことを意味する。
そうは言っても、所詮こんなのはほんのちょっとの差でしかない。

しかし!

0.1秒の単位で戦い、ドットの単位で避けるシューティング、この世界ではそのほんのちょっとの差があるかないかが命にかかわるのだ。

完全に遊びが無くなるようにギュッとつまんだら、クイックな動作はできるが正確なコントロールがますますできなくなる。
これは全部を指の硬いところでつまんでも同じことだ。
だから完全に遊びを排除するのはやめたほうがいいような気がする。
かといって全部の接点に遊びがあると、ほんの僅かだが致命的な反応速度の低下につながる。
[→]だけ遊びが少ないというのは、ある意味で理にかなっているだろう。

実際、瞬間的に超シビアな弾避けをしなければならないとき、わたしは右に動いて回避することのほうが多い気がする。
もしジョイスティックレバーと押しボタンが左右逆についていたとしたら、瞬間的な超シビアな弾避けは左で避けていたかもしれない。

そしてそういった超シビアな弾避けを重ねたとき、左手のペンダコという名誉の負傷をいただくのだ。

シューティングはノーボムから

2009-07-29 00:01:33 | シューティング
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1210108687


> 野球は2アウトからってよく言いますが、あれって、ここでヒット打たないとっていう気持ちからそういうようになったんですか??


> 攻撃側も守備側もどちらにも当てはまる言葉だと思いますね。
> 野球は9回2アウトからでも、10点差をひっくり返すまたはひっくり返される可能性はあるのですから、打者は諦めず、守備側は気を抜かずといったところから産まれた言葉ではないでしょうか。



わたしは野球はやりもしないし見もしないのでこれがホントかどうかは知らん。
そもそもわたしはインドア派であるからして、知る由も無い。

しかし!

シューティングにおいて、これと同等といってもいい意味がある。

「シューティングはノーボムから」

わたしはこの言葉を提唱したい。
のこり1ミスで全てのチャンスを失う2アウト、それはシューティングにおけるボムを全て消費しつくしたノーボム状態に等しいのだ。

まずボムとは何を意味するか?

ボムを使えば全ての敵弾が消え、たいがいは一定時間無敵になれる。
つまり、ボムとは緊急回避を意味する。
あたりまえか。

もうちょっと濃ゆいとこまで意味を考えてみよう。

本来ならばどんなに弾幕が激しくても、プレーヤーは弾幕をすりぬけて生き延びなければならない。

しかし、そんなものはタダの理想論だ!

実際問題としてノーミス・ノーボムでクリアできる者がいたとしたら達人級だ。
どうやったってボムは使わざるを得ない。

では、ボムを使わざるを得ないときとは何か?

自分の腕前では避けられそうにない鬼畜の弾幕が降り注いだときである。
そう、ひとは自分の腕前に対して敗北を認めたとき、はじめてボムを使うのである。

しかし、ボムは有限の資源である。
残機のつぎに大切な資源である。
ボムが尽きたとき、人はどうするか?

自分の腕前では避けられそうにない鬼畜の弾幕に対し、自己の持つ心眼をもってして鬼畜の弾幕を凌駕する驚異的な回避能力を発揮しようと欲する。

人はノーボムになったとき覚悟を決める。
そして、そのときこそ、自己の真価を発揮するときなのだ!

実際シューティングをやるものは、死なないように安全策をもってボムを使いボムが尽きて早死にして後悔するという悲観主義と、自己の腕前を信じて弾幕に飛び込みボムを余して早死にして後悔するという楽観主義と、常にそのはざまを行き来し、そしていつの間にか今まで到達できなかった深淵へとたどり着くものだ。

シューティングで1コインクリアするためにはボムは無くてはならないアイテムだ。
だが、ボムが尽きてなお戦うその時がなければ、決して自己の腕前は上達しない。
そして自己の腕前を超える驚異の弾避けを実現したとき、シューティングのおもしろさの深みにさらにハマっていくのだ。



「野球は2アウトから」
なのかどうかは知らん。
しかし、
「シューティングはノーボムから」
なのは間違いないであろう。

ゲーセンは金かかるのか?

2009-07-07 00:01:13 | シューティング
いまはそれほどでもないが、高校生や大学生のころにゲーセンに毎日に近いくらい行っていた時期もあった。

そして人にそんな話をすると、きまって
「よくそんなにカネあるな?」
とよく言われたものだ。

わたしは金持ちだったのか?

そんなバカな(笑)。
ゲーセンは案外カネかからないのだ。
今日はそのカラクリについて記す。

時折しかゲーセンに行かないひとたちにとって、ゲーセンに行くということは、2000~3000円くらい速攻でスッてしまうものだという印象があるらしい。
それを毎日通っていたら、それこそ高校生や大学生では耐え切らんほどカネがいる。
まあ、これはあながち間違いではない。

わたしが高校生や大学生のころ、格ゲー, 音ゲー, クレーンなどが大流行していた時期と順番に重なっている。
たしかに格ゲーの対戦台などは期待値50%にて2分で1コインをスッてしまう。
クレーンも2分くらいだろう。
音ゲーはもうちょいは遊べるかな?
プリクラはゲームではないからちょいと除外しようか。
最近はゲーセンでもオンラインのカードゲームとかネトゲがいくつかあるみたいだが、そっちはノータッチなのでよく知らん。

わたしがやっているのは、これらのうちのどれでもない。
わたしはシューティングしかやらない男だ。

シューティングは巧くないと、たしかに格ゲーの対戦台よろしく2分くらいしか遊べない。
ところが、あるていど巧くなるとそこそこ長時間遊べるようになる。
まあそれでも、格ゲー1人プレイや音ゲーの巧いひとのプレイ時間とそんなに変わらないかもしれない。

しかし事の本質はそこには無い!

シューティングとは、常に生命の危機に陥りつつ鬼のように降りそそぐ狂気の弾幕を避け続けるゲームである。
シューティングにおけるプレイ中では、生命の危機に陥った身体を守ろうとして脳がフル回転し自己に走馬灯を見せるかのごとく、まさに脳がフル回転しているさなかにある。
シューティングをプレイしているときのわたしは人生における最も脳が集中した時間を過ごしているのである。
だからプレイ中は明らかに時の流れが遅い。

そんな時を何十分もすごしたらどうなるか?

集中力が尽きてクタクタに遊び疲れる。
アドレナリンが過剰分泌されて異様にキモチ良くなる。
もう息も絶え絶えに、席からたって歩くのもダルくなって、しばらくボーッとしていたいほどになる。
ときおり麻薬うったらこんな感じになるんじゃあるまいかと思うこともあるくらいだ。

これは1コインで目的を達成することもあるし、いくら多くても4~5枚も使えばフラフラになってもういいというくらい遊べる。
いつもは1~3枚くらいしか使っていない。

これだったら毎日通っていても案外平気な範囲におさまる。
ゲーセン通いとはそういうカラクリでも成り立つのだ。



追伸:

ゲーセンは風営法の適用対象であり、じつは法律上は風俗である。
ということは、わたしは高校以前から風俗入りびたりということになるのだが・・・、どうしましょ(笑)。