(・・・前回からの続き)
前回は過激にスーパーアレンジしすぎたので有名なXenoglossiaの如月千早を取り上げたわけだが。
今回はスーパーアレンジしすぎないスーパーアレンジを紹介したい。
(出展 ※1)
右:Idolm@sterの如月千早
中:アイマスクエスト版の如月千早
右:くされ戦記版の如月千早
絵だけで見ると多少違うように見えるかもしれない。
しかし、意外にこれは似ているのだ。
それを端的に示したのは、それら各々についた2つ名であろう。
Idolm@sterの如月千早 → 2つ名は「72」
アイマスクエスト版の如月千早 → 2つ名は「ぺったん姫」
くされ戦記版の如月千早 → 2つ名は「dptn」(「どぺたん」の略)
さあこれで解ったろう。
Xenoglossiaの誰だかわからない千早とは根本的に解釈が異なる。
世の中には手を加えてはならない事がある。
たとえるならば悟空からサイヤ人をとった悟空は悟空ではないように。
とはいえ・・・
アイマスクエストもくされ戦記も、単なるIdolm@sterのデッドコピーではない。
そして単なるIdolm@sterのデッドコピーだったとしたらこれだけの完成度は見なかったに違いない。
では、それぞれ何が違うのか?
まずアイマスクエスト版の如月千早。
ストイックで真摯な印象の強いオリジナルに対し、とっても天真爛漫で自由にのびのびと生きている。
アイマス師匠(※2)はそれを「はっちゃけた」と表現した。
歌唱力や上昇志向に捕らわれすぎない、本来の何不自由なく自由に生きた千早だったら、きっとこんな千早だったろうと、見るものに別の可能性を考えさせる。
この違いはアイマスクエスト内でも言及されている。
本来の如月千早はこういう性格なのだと。
次にくされ戦記版の如月千早。
オリジナルに対し、とってもデレ成分が濃厚に表れる。
犬千早とも表現される。
これは人生の伴侶を見つけ、共に過ごす時を得たときの千早を表現したものかもしれないと、見るものはそう考える。
これは何を表現したかったのだろうか?
「○○だった、もしくは○○ではなかった、あったかもしれない別の世界」を表現しているのかもしれない。
本来、2次創作というものはそういうものかもしれない。
たとえば第n話と第n+1話の間で何かがあったことはわかっているが何があったのかは開かされていない出来事のようなもの。
たとえばすでに第1話の時点で過去になっている出来事のようなもの。
たとえば作風的には語ることのできない舞台裏での人と人との繋がりのようなもの。
ファンは作品を眺めて過ごすだけでは飽きたらず、そういったものをあふれでる想像力の限りを尽くし、ひょっとしたらこんな展開が隠されていたかもしれないというようなストーリーを創作してみる。
それが2次創作というものだ。
2次創作の代表である同人誌なんかもそういう作りになっている。
単なるエッチなだけの同人誌も確かに多い。
2ページ目からもうハダカになっていて、2ページ目以降はキャラを選んだ意味が失せているような同人誌も確かに多い。
しかしながら、少数派ではあるものの、本当に作中に取り上げられていてもおかしくない出来を持つエッチじゃない同人誌も多く実在する。
ARIAなどでもそれが多かったように思う。
この世界はあるいみガンプラにも通じるものがあるかもしれない。
宇宙世紀○○年にはどんな世界になっていて、そのときはどんなモビルスーツがありえて、その背景設定を持つモビルスーツに改造して作ってみた、そんなガンプラの楽しみ方もある。
単に説明書通りに作ってみるレベルから脱却し、背景設定に対する考察も入れ、よりリアルによりオリジナリティーを出しプラモを構築しようとする姿勢、それは2次創作の魂に近いものを感じる。
ホビージャパンに掲載されるような架空の設定のガンプラはこれにかなり近く、作者の熱き魂が灯っている。
逆にヒゲガンダムはガンダムの楽しさを全く知らない部外者によるデザインなので、古参の者には非常にアレに見えた。
2次創作をする者は、その作品が好きで好きでたまらないから2次創作にまで手を染めるのである。
オリジナルのことは隅から隅まで目を通している。
だからオリジナルのアイデンティティーがくつがえるほどの変更を伴うものは多くない。
だから、オリジナルをよく知らないでメディア展開作品を作ると大失敗するし、オリジナルをよく知っている人が同人作品を作ればコアなファンから順に受け入れられる。
Xenoglossiaとアイマスクエストとくされ戦記を見て得られる教訓は1つしかない。
これは誰しも気付いていることだ。
オリジナルが大好きな人が作らなければ別モノが出来上がってしまう、それに尽きる気がする。
ついでにいうと、Xenoglossiaも同姓同名の別人だということで割り切って見さえすれば、それはそれで良くできたアニメだと思うのだけどね(笑)。
【※1 出展】
Xbox360版Idolm@sterゲーム中スクリーンショット
アイマスクエストⅣ 77話 第七章04 オープニング
くされ戦記 45匹目 オープニング
【※2 アイマス師匠】
徒花な日々
http://blog.goo.ne.jp/styui-gdb/
前回は過激にスーパーアレンジしすぎたので有名なXenoglossiaの如月千早を取り上げたわけだが。
今回はスーパーアレンジしすぎないスーパーアレンジを紹介したい。
(出展 ※1)
右:Idolm@sterの如月千早
中:アイマスクエスト版の如月千早
右:くされ戦記版の如月千早
絵だけで見ると多少違うように見えるかもしれない。
しかし、意外にこれは似ているのだ。
それを端的に示したのは、それら各々についた2つ名であろう。
Idolm@sterの如月千早 → 2つ名は「72」
アイマスクエスト版の如月千早 → 2つ名は「ぺったん姫」
くされ戦記版の如月千早 → 2つ名は「dptn」(「どぺたん」の略)
さあこれで解ったろう。
Xenoglossiaの誰だかわからない千早とは根本的に解釈が異なる。
世の中には手を加えてはならない事がある。
たとえるならば悟空からサイヤ人をとった悟空は悟空ではないように。
とはいえ・・・
アイマスクエストもくされ戦記も、単なるIdolm@sterのデッドコピーではない。
そして単なるIdolm@sterのデッドコピーだったとしたらこれだけの完成度は見なかったに違いない。
では、それぞれ何が違うのか?
まずアイマスクエスト版の如月千早。
ストイックで真摯な印象の強いオリジナルに対し、とっても天真爛漫で自由にのびのびと生きている。
アイマス師匠(※2)はそれを「はっちゃけた」と表現した。
歌唱力や上昇志向に捕らわれすぎない、本来の何不自由なく自由に生きた千早だったら、きっとこんな千早だったろうと、見るものに別の可能性を考えさせる。
この違いはアイマスクエスト内でも言及されている。
本来の如月千早はこういう性格なのだと。
次にくされ戦記版の如月千早。
オリジナルに対し、とってもデレ成分が濃厚に表れる。
犬千早とも表現される。
これは人生の伴侶を見つけ、共に過ごす時を得たときの千早を表現したものかもしれないと、見るものはそう考える。
これは何を表現したかったのだろうか?
「○○だった、もしくは○○ではなかった、あったかもしれない別の世界」を表現しているのかもしれない。
本来、2次創作というものはそういうものかもしれない。
たとえば第n話と第n+1話の間で何かがあったことはわかっているが何があったのかは開かされていない出来事のようなもの。
たとえばすでに第1話の時点で過去になっている出来事のようなもの。
たとえば作風的には語ることのできない舞台裏での人と人との繋がりのようなもの。
ファンは作品を眺めて過ごすだけでは飽きたらず、そういったものをあふれでる想像力の限りを尽くし、ひょっとしたらこんな展開が隠されていたかもしれないというようなストーリーを創作してみる。
それが2次創作というものだ。
2次創作の代表である同人誌なんかもそういう作りになっている。
単なるエッチなだけの同人誌も確かに多い。
2ページ目からもうハダカになっていて、2ページ目以降はキャラを選んだ意味が失せているような同人誌も確かに多い。
しかしながら、少数派ではあるものの、本当に作中に取り上げられていてもおかしくない出来を持つエッチじゃない同人誌も多く実在する。
ARIAなどでもそれが多かったように思う。
この世界はあるいみガンプラにも通じるものがあるかもしれない。
宇宙世紀○○年にはどんな世界になっていて、そのときはどんなモビルスーツがありえて、その背景設定を持つモビルスーツに改造して作ってみた、そんなガンプラの楽しみ方もある。
単に説明書通りに作ってみるレベルから脱却し、背景設定に対する考察も入れ、よりリアルによりオリジナリティーを出しプラモを構築しようとする姿勢、それは2次創作の魂に近いものを感じる。
ホビージャパンに掲載されるような架空の設定のガンプラはこれにかなり近く、作者の熱き魂が灯っている。
逆にヒゲガンダムはガンダムの楽しさを全く知らない部外者によるデザインなので、古参の者には非常にアレに見えた。
2次創作をする者は、その作品が好きで好きでたまらないから2次創作にまで手を染めるのである。
オリジナルのことは隅から隅まで目を通している。
だからオリジナルのアイデンティティーがくつがえるほどの変更を伴うものは多くない。
だから、オリジナルをよく知らないでメディア展開作品を作ると大失敗するし、オリジナルをよく知っている人が同人作品を作ればコアなファンから順に受け入れられる。
Xenoglossiaとアイマスクエストとくされ戦記を見て得られる教訓は1つしかない。
これは誰しも気付いていることだ。
オリジナルが大好きな人が作らなければ別モノが出来上がってしまう、それに尽きる気がする。
ついでにいうと、Xenoglossiaも同姓同名の別人だということで割り切って見さえすれば、それはそれで良くできたアニメだと思うのだけどね(笑)。
【※1 出展】
Xbox360版Idolm@sterゲーム中スクリーンショット
アイマスクエストⅣ 77話 第七章04 オープニング
くされ戦記 45匹目 オープニング
【※2 アイマス師匠】
徒花な日々
http://blog.goo.ne.jp/styui-gdb/