教団「二次元愛」

リアルワールドに見切りをつけ、二次元に生きる男の生き様 (ニコニコでは「てとろでP」)

束縛と快感

2010-11-30 00:01:15 | 経済/経済/社会
とある顔見知りの女と話をしたときのことだ。

その女の元カレが束縛が強くてどうのこうの・・・という話だった。
元カレが
「○○しなさい」
「○○してはいけない」
そんなのが多すぎてウザくて耐えられなかったらしい。

「なんでそんな男が良いと思ったんだ?」
素直にそう疑問を口にした。

ところが。
「女はね、そうやって束縛を受けるのが気持ちいいのよ。大事にされているんだって思えるから」

・・・はあそうですか。

「俺はまずそうはならんな。『俺は勝手にするからおまえも勝手にせい』って言うな」
と言ったのだが、
「いや~ん、それじゃ付き合ってる意味ないじゃん」
とのこと。

・・・1ppmも理解できません。

そういえばSTAR DRIVER 輝きのタクトでも、サカナちゃんは某が好きだったから束縛されたままでも良かったみたいなこと言ってたね。



話は変わるが、わたしの出身中学の話をしたい。

そこではどんなものでも規則でがんじがらめにするような学校だった。
意味のこれっぽっちも理解できない不可解な規則が山のようにあった。
その不自由さときたら北朝鮮なみである。
ついでに言うと、そこでは日本国憲法が通用しない治外法権のようなムードになっていて、黙秘権が認められないとかそんな生易しい次元では全然なく身体の自由や財産権までもが侵害されていた。
このことからしても北朝鮮なみである。

そんな中、あるとき校長が
「のびのび豊かな教育で生徒の個性を伸ばし(ry」
などと言ったときには
「こいつ真性のバカか。この程度で校長が務まるのか」
と思ったくらいである。
こいつらを手本にすべきではないという信念に関しては大人になった今もってしてそう思う。

だからかもしれないが、わたしは意味のこれっぽっちも理解できない不可解な規則を作るヤツを毛嫌いしてしまう傾向にある。



で。
いま思ったのだが。
女を束縛したい男というのは、そういう規則で人を拘束することに道徳的意義を感じているような、人を束縛すると相手に大切にしている感が伝わると思っているような、そんなアタマのネジを1本ネジ間違えた勘違い野郎なのかもしれない。

束縛したいヤツは男に限らない。
女だってそうだ。
ダンナの残業が多くて家にいないとブチ切れる嫁の話はよく聞く。
そういうめんどうな家庭事情を聞くと心底独身でよかったと思う。

我々のような二次元に住まう者は、大人になればそういう世間の悲喜こもごもからは開放された自由な存在になる。
この件に関してはべつに無闇に盗んだバイクで走り出す必要は全くない。
既に自由を手にしているのだから。

パンツをアニメで見よう

2010-11-29 00:08:10 | オタネタ全般
パンツが素晴らしいアニメは何だろうか?

通称「パンツ」と言われるほどに影響力を持つ “ストライクウィッチーズ” だろうか。
全身カットでパンツが見えないはずがないほどにパンツ尽くしだった “ロザリオとバンパイア” だろうか。
エンディングの空飛ぶパンツ編隊で上級者のパンツァー達をもさえ驚愕させた “そらのおとしもの” だろうか。

いや。
それは違う。

あえてわたしは “おまもりひまり” を推したい。



アニメにおいては、パンツは見えなければパンツの存在意義はない。
したがってパンツを楽しむにはパンツが見えることは必須となる。

では、パンツは見えればそれでよいのか?

否。
我々は闇雲にただパンツを見たいのではない。
むしろ、ただパンツを見せびらかされてもウンザリするだけである。

我々はパンツを見ることで、パンツが見えたこと以外の他の何かを得ているのだ。

他の何かとは。
それはもちろん、感動である。

では、我々がパンツを見て得たい感動とは何か?

女が見せようとして見せたパンツには何の感動もない。
不覚にも「見えてしまった」パンツにこそ感動があるのだ。



いつもパンツを見せている女のパンツが見えたところで、そこに価値など全く無い。
ワカメちゃんのパンチラはあれは意味の無いパンチラである。

パンツに価値が生まれるためには必須条件がある。
普段はパンチラにならない程度にはスカートの丈は長くなければならない。

パンチラはパンツがチラリと見えるからこそパンチラと呼ばれるのであり、ワカメちゃんのごとく常にパンツがガン見えするとしたら、それはパンチラとは言ってはならないものだ。

昨今ではキチガイじみた狂信的フェミニストの言い分をくんでやって鉄壁スカートと呼ばれる絶対防衛兵器まで生み出されるハメになってしまっている。
またその逆に条件を逸脱したものもあり、パンチラが見えすぎてしまうアニメもまた少なくない。

見えすぎる一歩手前のパンチラ。
そう、パンツが見えたことに一喜一憂し、一時停止ボタンを押してしまいそうになるほどのパンチラ。
それこそが真のパンチラである。

果たしてそんな優れた作品はあるのだろうか?

ある。
それが “おまもりひまり” なのだ。



“おまもりひまり” を見よ。

ふだんはパンツが見えないくせに、カメラアングルが変わった瞬間のほんの1秒にも満たない刹那の瞬間だけ、その美しき神秘の園が垣間見える。
しかし無常にも時は進む。
そこにはもう我々の愛したパンチラは存在しない。
我々はヒロインの顔を見て、先のパンチラの思い出を満喫する。

パンチラの扱いにおいて、わたしはこれを超える作品はほとんど無いと断言できる。



なぜ緋鞠や神宮寺のパンツはあれほどまでに素敵なのか。

きっとあなたもそう思うだろう。






追伸:

アニメで映るパンツは可憐である。
しかし、現実世界のパンツは単に汚い。

それ系の店で使用済パンツが売られているのを見たこともあるが、なんだか大変汚いものに見えてカネ出してまで買うような物には見えなかった。
街でうっかりパンチラを見せられてしまった時も感想は同様である。

下着ドロは洗濯して干している下着を盗むのだそうだが、わたしも少なくとも洗濯済でなければ人の下着など触りたくないという意味では彼らと同感だ。

パンツが輝くとしたらアニメやゲームのヒロイン以外に考えられないとは思わないだろうか?

母ちゃんに萌えた(神のみぞ知るセカイ)

2010-11-28 00:08:58 | オタネタ全般
神のみぞ知るセカイ 第8話 Coupling with with with with。
これは予想外に良くできていた。

なんといっても。
桂馬の母ちゃん(桂木 麻里)が可愛すぎるではないか!

攻略可能ヒロインをさしおいて、なんで母ちゃんに萌えなければならんのだwww
他のヒロインでは出てきたこともないくせに、なんで母ちゃんのサービスシーンがあるんだwww



二次元世界の美人母ちゃんの多くには、特別に強力な腕前がそこに隠されていることが少なくない。

桂馬の母ちゃんなら、元暴走族でキレると最強。
CLANNADなら、早苗パンこそ世界最強。
灼眼のシャナなら、アラストールやヴィルヘルミナさえ黙る最強の弁舌。
SPEED GRAPHERなら、天王洲神泉の眼力と統率力。

これらは主人公たちと同級生のヒロインでは絶対出せないすごみがある。

なぜそんなにすごみが出せるのか?

それは歳をとったからに他ならない。



単に可愛くて萌えさすだけのキャラなら何でもいい。
しかし、そんなキャラではつまらない。

愛玩動物的にかわいいだけじゃなく、なにかこう、人として優れた面もあってほしい。
そう、たとえば世界最強として君臨できる凄腕を隠し持っているなんて設定もいい。
そしてそういう属性は年下キャラやロリキャラとは正反対に位置するものだ。

SPEED GRAPHERを見よ。
単にゴタゴタに流され続けて川の流れのように生きるだけの、何の主義主張も発揮しない天王洲神楽。
それに対して絶望の崖の底から這い上がり、その谷の底から強靭な魂を手みやげとして持ち帰ってきた天王洲神泉。

さてどちらがいい女だったか。
そんなもの、ババアのほうに決まっていたではないか。

そのババアは自分がもう若くないことを気に病み、娘の若さに嫉妬するようなところを垣間見せる。
しかし、そんなことをする必要はハナからなかったのだ。



ふつうは女に歳とったなんて言うと男が思う以上に気分を害する。
しかし、ここはあえて言いたい。
歳を重ねた女でないと出せないものもそこにはある。

歳と引き換えにしてそれ以上にいい女になったのなら、それは正しい。
ここはあえてババアであることを褒め称えようではないか。

株を売るタイミング

2010-11-27 00:15:42 | 経済/経済/社会


http://company.nikkei.co.jp/index.aspx?scode=8975



株は買うより売るほうが難しい。

買うときは打算で買ってしまってもいい。
逆張り好きなら底値付近で買えてしまった経験もあるだろう。
それに対して売るというのは利益や損失を確定することなので、打算で売るというのは無いからなおのこと売るタイミングに困る。

何か良い指標はないものかとしばらく考えていた。
そこでふと、ベストに近い売りのタイミングというのを最近見つけたのだ。



日歩でチャートを見ていると、ごく稀に株価がワープしたかのように急騰していることがある。
そういうときは前日の夕方に何らかの良いニュースが出たときだ。

それからニュースを1日遅れで確認してみる。
そこでよほど良いニュースでもないかぎり次の日あたりにさっさと売ってしまう。

運が良ければ株価はジワジワと下がり続け、いずれ元に戻る。

運が悪くても株価は高値をキープするに留まる。
単にキープするだけなのだから別に機会損失を蒙るわけでもない。
そもそも急騰に値しないようなニュースだったら、次の日からしばらく高値をキープするようなことなどない。



株の格言に
「ウワサで買ってニュースで売れ」
というのがある。

ウワサを仕入れてくるのはカンタンではない。
しかしチャートを見ればニュースがあったのは明白なので、実はニュースで売るのはカンタンなのだ。



最近うまくいったのはFCレジデンシャル投資法人(8975)である。

大したニュースには見えないのだが、なぜか2日で30%上げた。
これは本当にちょうど良い天井のタイミングで売れた。
たぶん来週には上げのほとんどを取り返す下げが来る。

いつもこんなにうまくいけば万々歳なんだけど。
そうもいかないんだよなぁ・・・。

マンガの本へのこだわり

2010-11-26 00:00:02 | オタネタ全般
マンガ好きにとって、本そのものへの強いこだわりを持つ人たちは少なくない。
よくあるのは初版をありがたがる風潮だ。

わたしはそこへ異を唱えたい。
初版か初版でないかというのは、最後のページの印刷がちょっと違うだけに過ぎないだけだ。
わたしはそれに強いこだわりを持ってはいない。

しかし!

別の意味でのこだわりは存在する。
旧版と新版で全く違うものにはこだわりたい。



いちばん良い例が天王寺きつね版オルフィーナと天王寺水族館版オルフィーナだろう。
両者は同じ作者で名義が違う。
登場人物も舞台設定もおなじ。
しかし中身は全く違う。
新版のオルフィーナが生まれる前にかつてあった未完成作品、そういうコアなものだ。

旧版はめったにお目にかかれないし、もしあったとしても3000円くらいで取引されている。
ちなみにわたしはブックオフで100円で売られているのを見つけて新版持ってないのに即買いした。

我が家にはそれ以外にも旧版モノはアレコレある。
天野こずえ氏のガンガンコミックス版の「夢空界」。
同、ステンシル版の「AQUA」。
冬目景氏のスコラ版の「ZERO」。
岡田芽武氏の竹書房版の「SHADOW SKILL」。

・・・などなど。

これらは中身のマンガは同じものの出した会社が異なるために表紙絵は完全に別モノで、パッと見には別作品だ。

なかには出した会社が同じでも新旧で違うものもある。

赤松健氏の無印版「A・Iが止まらない」。
これは表紙絵が違うだけでなく、旧版は当時作者がPCオタだったのが色濃く表現された子ネタがいくつか掲載されている。
残念ながらそれは無印版より後のものでは全部削除され、その代わり新しいイラストに一新されている。

あとは木城ゆきと氏の大版でないほうの「銃夢」。
そのさらに初期あたりの版では7巻まで裏にバーコードがついておらず、その代わり白一色でなくちゃんとイラストが描かれている。



これらは中身のマンガは同じなのだから単なる自己満足に過ぎない。
しかし、単なる「第1版」と書いてあるかどうか「だけ」違うものよりも、もっとこだわるに価する違いがあるものではなかろうか。

まあ、わたしの趣味を押し付ける気はないし、人の趣味を否定したいわけでもないのだが。






追伸:

木城ゆきと氏は銃夢事件で評判を落としたことがあるのだが今はどうなんだろうか。
いつの間にやらイチャモンつけられた側の公式サイト(いわゆる被害者の会的なもの)が消えてなくなっていた。
でも、いつの間にやらwikipediaの記事が書かれていたのも見つけた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%83%E5%A4%A2%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AB%E4%BA%8B%E4%BB%B6

反日と嫌中と嫌韓の違い

2010-11-25 00:07:43 | 経済/経済/社会




反日と嫌中と嫌韓。

これらは一見似ているようでいて、実はこのなかで根本的に違う種類のものが1つだけある。
それは嫌韓である。



日本人による嫌中。
中国人による反日。

これらには1つ共通点がある。
おたがいに相手を良く思っていないが、しかし相手の文化への敬意はある。

しかし。

日本人による嫌韓。
中国人による嫌韓。

これらにはその逆の共通点がある。
日本人からも中国人からも、韓国の文化への敬意は全く存在しない。
本当に単に嫌悪感や嘲笑があるだけでしかなく、それ以外に何もない。

それはなぜか?

それは韓国人自身の行いによるものだ。



韓国人はどんなものでも韓国起源認定したがる。

たとえば日本のものでは、剣道、柔道、折り紙、侍、マンガ、芸能人やスポーツ選手全般、その他ありとあらゆる文化全般。
たとえば中国のものでは、古代中華文明全般、孔子や孫氏のような古代の偉人全般。

これら韓国起源認定は一部の日本人や中国人を著しく不愉快にさせた。
そして彼らは韓国に起源があるかどうかを独自に調査しはじめた。

そしてわかったこと。

それは、彼らが自称するところの韓国起源と呼べる文化はせいぜいキムチくらいしか存在しないという爆笑に値する事実だったのだ。
それがバレて世間に周知されてしまったのは悲劇というしかないだろう(笑)。
わざわざ人の文化を横領して韓国起源を声高に叫んでなければバレなかったものを…と、相手が韓国人ほどクズでなかったとしたら同情してやっても良いくらいである。



日本は千数百年前に中国の文化から袂をわかったが、しかし嫌中の日本人でも中国の影響を強く受けたことは認めている。
たとえ反日の中国人でも近代日本の社会システムや文化に一目置いてくれていることは嫌中の日本人でも感じないことはない。
おたがいに相手を良く思っていないがしかし相手の文化への敬意はあると先に述べたのはそういうところにある。

しかし韓国には、日本人から見ても中国人から見てもそれがない。
にもかかわらず、韓国は日本人よりも中国人よりも相手に認めてもらいたがっていて相手と同等の地位や文化を欲している。
それで生まれた産物が韓国起源認定なのだ。

そしてそれが日本人や中国人をより不愉快にさせるのだ。



きつい言い方をすると、韓国の文化は古代中国と近代日本の劣化コピーでしかない単なるまがいものが大半だ。
しかし韓国人気質だけは、そのまがいものと蔑むレベルをもさらに下回る。
韓国起源認定して人のふんどしで相撲を取ろうとする韓国人は世界で最も異質な得体の知れない不気味極まるものなのだ。

小さいのは好きか?(サムライガールズ)

2010-11-24 00:00:07 | オタネタ全般


http://hyakka-ryoran.net/chara.php



> (おっぱいが)小さいのは嫌いか?

> え?

> わらわは、千姫や十兵衛のように大きくない

> 幸村・・・

> 今までは小さくてもかまわぬと思っておった
> わらわは、軍師
> 知恵を武器に戦うもの
> 大きさなど関係ないと
> でも、でも・・・



百花繚乱 サムライガールズ 第5話「愛の戦士、登場」からの引用である。

こういうのはどう答えれば良いのだろうか?

本当は
「俺は巨乳が好きだー!!!」
と思っていたとしても、テンプレ的な答えとして
「そんなことないよ、君は十分魅力的じゃないか」
と言ってやるのがいいとこかもしれない。

別のテンプレとして、この作品のように
「身長のことだろ?」
と鈍感で勘違いしてしまうのもよくある。

しかし!

わたしならこう言う。
「ウソ偽りなく、正直に言おう。俺は幸村のような小さなおっぱいのほうが好きだー!!!」
と。

これじゃあどう見ても変態じゃないかwww

どうせ
「うるさいこのド変態め!」
と足蹴にされるのは目に見えている。
いったいどう答えれば良いのやら・・・。

・・・いや。
足蹴にされるのも、それはそれで捨てがたいかも。
まあそれはいいとして。

しかしこの真田幸村、みずから軍師と名乗るだけあってなかなかの策士である。
第6話「襲い来る、海の怪物」を見てみよう。



> 水着がよくお似合いです

> うむ

> おーっ、ほっ、ほっ、ほっ

> む?

> さすがの天才軍師もあの幼児体型をカバーする術は見つからなかったようねぇ
> どこからどう見ても千の圧勝www

(中略)

> 愚か者め

> うぐっ

> 徳川千、破れたり!

> なっ、なんですって!?

> お主の水着は確かに流行の最先端
> しかーし、男子という生き物は女子の世界の流行り廃りなど全く興味を持たぬボンクラなのじゃ!
> つまり
> ブランド物に身を包んだ金髪アゲ嬢と、黒髪白ワンピの清楚な少女
> 男子が女子に求めるものは流行にあらず!

> えええ!?

> 絶対普遍の女の子っぽさ
> それこそが最強!
> すなわち言い換えれば
> スクミズ最強!!!
> うわっははは



みずからの幼児体型を分析し、幼児体型が強調されてしまうがしかしその長所を最もいかせるスクール水着をあえてチョイスする、その策士っぷり。
加えていえば、変身コスチュームまで雅な羽織りものの下に白スク水という、カンペキなまでの着こなしとチョイスの徹底さ。
さすが軍師である。

世の中では、変身するとおっぱいがデカくなるというモノは非常に多い。
あえて例を出すまでもなく大概はそうなっている。
それはまるで、おっぱいが大きいほうが人種として優れているかのような差別的扱いだ。

しかし!

サムライガールズの真田幸村だけはそうではない。
ぺったんこなおっぱいは変身してもやっぱりぺったんこなのだ。

貧乳派の大勝利!
そうと言わずこれを何と言おう!!



ウシチチばかりが跳梁跋扈するサムライガールズの世界において唯一異彩を放つそのロリボディー。
その圧倒的不利をみずから挽回しうるその真田幸村に我々は注目しようではないか。

アニソンの歌声の資質

2010-11-23 00:00:02 | オタネタ全般

http://www.star-driver.net/character/kitanomiko.html



2010年において自分の心に最も浸透したアニソンは何だろうか?

もちろん各人いろいろあるだろう。
わたしはAngel Beats!OPテーマ「My Soul, Your Beats!」を挙げたい。
かなりベタなので、あえて取り上げるほどのものでもないかもしれない。

しかし!

ベタではないものでもう1つ挙げたいものがある。
STAR DRIVER 輝きのタクトのプレ戦闘シーンで使われるサカナちゃんの歌「モノクローム」(戸松遥 氏)である。



モノクロームは一風変わっている。
戦闘シーンへの導入にもかかわらず、実に穏やかな神々しさを伴った歌となっている。
それはまるで、ファンタジー系RPGにおいてラスボスの真の姿が神だったと判明したときの、戦闘の熱狂をその神々しさが打ち勝ったときに流れるBGMさながらである。
そういった曲はまさに神曲と呼ばれるにふさわしいものがある。

なぜそのような穏やかな神々しさを伴っているのか?

それには理由がある。
この歌は無伴奏かつ独唱なのだ。
(たしかこういうのをアカペラって言うんだっけ?)



無伴奏独唱の歌を成功させるのはかなり難しかろう。
それもそのはずJ-POPでそんなものがもてはやされたためしは恐らく一度もない。
ちょっと考えればすぐわかることだが、J-POPのほとんどはBGMがうるさいほどにぎやかでなければ売り物にしてはならないかのような作りになっているではないか。

それに比べればクラシックのほうがだいぶマシだ。
クラシックなら独奏は決して少なくはない。

なぜこのような違いが生まれるのか?

1つ仮定がある。
それは、人間の声というものの楽器としての資質が、楽器の音色に劣るからではなかろうか。

紅白歌合戦でも見てみればいい。
紅白では歌い手のBGMはCDに録音されている歌よりもずっと音量を抑えている。
したがって歌い手の資質の優劣が出てしまいやすい。
中には思いのほかガッカリするほどヘタなヤツらがいるのに気付くだろう。
こうなってしまう理由はBGMがうるさいのでごまかしているからに他ならない。

ごまかしを拭い去り、真の歌い手の実力を測るにはどうすれば良いのか?

その1つはもちろん、アカペラであろう。



アカペラが似合う歌い手は少ない。
たしかに歌う上での技巧的な意味合いにおいてのうまいヘタが直に現れてしまうからという理由もある。

しかし!

最も重要なのは、声の楽器としての資質ではなかろうか?
ただ声を聞くだけで心地よくなるような、そんな優れた声が必要なのではなかろうか?

たとえばアイドルマスターというギャルゲーを見てみよう。
アイマスはキャラの歌声が売りの1つである。

しかしその中にあって、アカペラでもうまくいく者は全員ではない。
どんなに歌がうまくても、先天的に声の資質が別格でなければそれは成功させることはできないのだ。



これは楽器に例えればすぐわかる。

学校で配られるプラスチック製のリコーダーはプロが吹いてもまともな音色など出やしない。
木製リコーダーとの音色の違いは天と地ほどの開きがある。
プラスチック製のリコーダーの音色を聞いてそれで感動してプロを目指すなんて言うヤツは絶対いないはずだ。

本格オーディオのスピーカーでもそうだ。
スピーカーをどんなに頑丈に作っても絶対に振動は排除しきれない。
ならばエンクロージャーは響きの良い材料で作るしかない。
響きの良い材料というと木材以外に考えられない。
だから木材で作ったスピーカーとそうではないものの音色の美しさの間には大きな隔たりが常にある。

楽器やオーディオ製品でさえこれだけ大きな違いが現れるのだから、声で違いが出ないはずがなかろう!



2010年においてそれを聞けるアニメはわたしの知る限り1つしかない。
STAR DRIVER 輝きのタクトのサカナちゃんの歌「モノクローム」だけである。
意外にそれを知られていないのは残念だ。



追伸:

そういえば第8話でサカナちゃん脱走したような。
さすがに第9話以降は出てこないなんてことは・・・。

都青少年健全育成条例改正案に反対

2010-11-22 23:01:51 | 経済/経済/社会
当blogは都青少年健全育成条例改正案に対し、明確に反対の立場を表明する。



解釈しだいでどうにでも逮捕できそうな本条例に反対する。

実写のドラマなどをさしおいてアニメやマンガばかりを害悪と決め付けるその敵意ある穿った姿勢に反対する。(「実写を除く。」と明記されている)

なぜ18歳未満禁止ではなく全面禁止なのかだとか、なぜ実写はよくて絵に描いたものはダメなのかだとか、対象物と犯罪との因果関係が全く不明なままだとか、あまりにもツッコミどころが多すぎるままに先入観だけで突っ走ろうとする本条例に反対する。

非実在青少年の人権を守るとかぬかすようなクソバカを増長させてしまう本条例に反対する。

条例本来の趣旨からすればカンペキに発禁処分が当然となるはずの石原慎太郎都知事の著作「完全な遊戯」が適用対象から外されるような、そんな御都合主義的で政治色の強い規制に反対する。



詳しくは以下のサイトを参照願う。



■ 東京都青少年健全育成条例改正問題のまとめサイト ■
http://mitb.bufsiz.jp/

欧州株のすすめ

2010-11-22 02:05:42 | 経済/経済/社会
株式投資というと、大まかにわけて3通りある。

日本株。
日本を除く先進国、いわゆる欧米の株。
中国やブラジルなどの新興国の株。

さて。
これらのうちで最もおもしろいのはどれだろうか?
(このさいリスクやリターンは問わないことにする)

答えは欧州株だとわたしは思う。



日本株の場合、平日の日中に取引が行われる。
おまけに昼休みは取引が行われないため、ふつうに会社勤めしていたら取引できる時間にはリアルタイムに確認できない。

しかし!

欧州株はそうではない。

定時に会社をあがって速攻で家に帰ったころに、ちょうど始まってすぐくらいになる。
自分が寝る時間になってちょうど閉まるころになる。
平日の家でプラプラしている夜の時間にリアルタイムに取引が行われているのだ。

日本の証券会社で欧州株をネット注文できるところはたぶん無い。
だからリアルタイムに自分が注文を出すまでやろうとするのはかなり難しい。

しかし、株価の動きはリアルタイムに体験できる。

ただ見るだけなのだが、これがなかなか楽しい。
ヒマなときに株価がリアルタイムに上がったり下がったりしているのを見て、一喜一憂して楽しむのだ。



勝っても負けてもどーでもいいくらいの金額では楽しくない。
かといって、大損こいたら立ち直れないくらいヘコむほど大金を張っているのも心臓に悪すぎて楽しくない。
損しても笑ってられるくらい肝がすわってないと楽しくない。

そのどれもをクリアした者だけが、そのリアルタイムの一喜一憂を楽しめる資格がある。

我こそはと思う者はやってみるといい。
そこには日本株にないものがあるからこそだ。

魂の重さを計算してみた

2010-11-21 00:05:29 | 科学
先日、情報からエネルギーへの変換の実験に成功したというニュース(※1)があり、当blogでもとりあげた。

世間では多くの人は
「魂には重さがある」
とコメントしている。

そこで!

魂の重さを計算してみようではないかと思ったわけだ。



魂とは何かと定義するのは現在の人類のテクノロジーではできないが、とりあえずシナプスの数と仮定する。
人間の脳にはシナプスが数百兆くらいあると言われている。
シナプス1個が0/1の2値を持つとすると全体では数百テラbitってぇことですな。
とりあえずn = 500×10^12 bitとしてみる。

情報からエネルギーへの変換式。
これの証明はちゃんと見てないが、wikipediaによると
1ビットあたりkT ln2[J]だと書いてあった。(※2)
kはボルツマン定数で1.38×10^-23 J K^-1。
Tは脳の絶対温度とすると、273+36 K。

エネルギーから質量への変換式。
これはアインシュタインのE = mc^2でいい。
cは光速で3×10^8 m/s。

計算するとkgで表すと桁が小さくなりすぎる。
そこで原子質量単位で正規化しよう。
1原子質量単位はu = 1.66×10^-27 kg。



kT ln2×n÷c^2÷u
= (1.38×10^-23)×(273+36)×0.69×(300×10^12)÷(3×10^8)^2÷(1.66×10^-27)
≒10000

人間の魂は水素原子1万個分くらいの重さがあるらしい。
ちなみにこれ、でんぷん分子1個よりも軽い。
それがすごいんだかすごくないんだかはよくわからんが。

まあ少なくとも、オカルト屋さんが人の死ぬ前後の体重を実測して有意な結果が得られるような桁ではないな。






【※1 情報からエネルギーへの変換の実験に成功】
マクスウェルの悪魔は実在した!
http://blog.goo.ne.jp/beamtetrode350b/d/20101117

【※2 情報からエネルギーへの変換式】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%81%AE%E6%82%AA%E9%AD%94

LUXが乙女ゲー作った

2010-11-20 00:20:33 | オタネタ全般


http://www.lux.co.jp/index.html



化粧品(というか、髪の毛用品?)で有名なLUXが、いつの間にやら乙女ゲー作ったらしい。

その名も
「the Actress ~華麗なる女優たち~」
「最高にゴージャスなハリウッド女優ゲーム登場!」
なのだとか。

なぜLUXが(-_-)?

とはいえ。
パッと見では大変LUXらしい。
LUXが売りつける、LUX商品を買った人の成功イメージ例にソックリだからだ。

わたしは男だからこの乙女ゲーはやることはない。
わたしの生息域はギャルゲーのほうだ。
そのわたしがこの乙女ゲーを観察すると、なかなかおもしろいことがわかってくる。



まず1つ。

主人公(女)の恋人役になると思われる野郎ども。
こいつらは当然ながらイケメンぞろいになっている。
いかな乙女ゲーでもそれは必須だし、ギャルゲーでヒロインが美女ぞろいなのとリクツは同じである。

しかし!

主人公(女)はたしかにハリウッド系の典型的美女風のキャラではあるが、これがまた全くといっていいほど可愛らしさを感じない。
冷静に見て美女でいい女なんだろうというのはわかるのだが。
なんというかこう、ギャルゲーのヒロインたちの持つ、あの男の心を瞬殺で鷲掴みにするような、そんな異性としての魅力をこれっぽっちも感じないのだ。



これはギャルゲーの主人公(男)視点とも構造が違う。

そういったものは、多くのものはなるべく個性を潰して主人公の我を抑えることで、プレーヤー(男)との一体感のズレが出ないように工夫されていることが多い。
おかげで単なる優しいしか褒めるところがないような、そんな没個性極まるつまらんヘタレキャラになってしまうわけではある。
つまりギャルゲーとはヒロインが輝くものであり、主人公の光をともなう活躍はほとんど伴わないものなのだ。

また、男向けの主人公が輝く的な作品ともまた構造が違う。

こういったものの典型はたとえば聖闘士聖矢である。
聖闘士聖矢の主人公はカッコいい。
もちろん男視点でそれはカッコいい。
しかし女視点でもまた乙女ゲー的(またはBL的)な萌えの対象になる。
すなわち男から見ても女から見ても聖闘士聖矢の彼らは魅力的なのだ。



つまりこのLUXの乙女ゲーは、同性(女)から見ると魅力的なあるべき姿のキャラに映る反面、異性(男)から見ると恋愛対象として見れるボーダーラインから足切りされるほど異性として魅力がない。
そんな特別な存在である。



もう1つ。

この乙女ゲーの宣伝ムービーにとあるキャッチコピーがある。
「世界中があなたに夢中!」
だと。

実はこれも男が求める女優像やアイドル像とは異なる。

たとえばアイドルマスターというギャルゲーを見てみよう。
作中では、主人公がプロデューサー役となってアイドルを成功に導く物語となっている。

これは一見すると
「世界中があなたに夢中!」
に似ている。
しかし、根本的に異なる。

主人公のプロデューサーにとっての目的とは、担当アイドルの夢をかなえてその喜びを2人で分かち合うことであり、その手段としてアイドルを成功させるにすぎない。
主人公は数多のアイドルが夢中になるようなイケメンを目指すわけではない。
主人公は世の中でたった1人だけ、その担当アイドルの女の子1人だけに振り返ってもらえれば、それでよい。

アイドルの女の子にしても同じである。
アイドルの女の子はアイドルとして活躍することで
「世界中があなたに夢中!」
にさせることを目的とするわけではない。
一見そのように見えてしまうが、実は違う。

アイドルの女の子たちにはそれぞれ目的がある。
たとえば如月千早なら、ボーカリストとしてさらに高いところへ到達すること。
千早は単にもっと大勢の人に歌を聞いてもらえるきっかけを作るために手段として単にダンスやビジュアルのトレーニングをつんでいるわけであって、そこには大勢の異性を夢中にさせたり、きらびやかでラグジーな成功体験を得たいという意図は微塵もない。
こういったことは千早に限らずヒロイン全員がそうなのだ。
そしてそのひたむきで純粋な心にプレーヤーの野郎どもは心を撃ち抜かれ魂を魅入られるのだ。



アイドルマスターではそうではないが、世の中には気がつけばハーレム的な作品も少なくない。
たとえば「ラブひな」など典型だろう。

これも一見すると
「世界中があなたに夢中!」
に似ているが、これも根本的に異なるものが根底にある。

これは読者(男)視点で感情移入して見るとハーレムが望まれているわけではないこともわかる。
そこでは自分のお気に入りの特別な誰かだけが特別に素敵に見えるだけで、ほかのキャラなど極論するとどうでもいい的な存在でしかなく、不特定多数みたいな大勢の異性にチヤホヤされたい願望を満たすものでは決してないのだ。



LUXのこのゲームは男と女の価値観の違いを端的に表しているのかもしれない。

女の場合は・・・
勝ち負けがはっきりわかりやすい、異性(男)が大勢言い寄ってくるような同性(女)の誰もが羨むような生活を送ること。
そこでは自分が他人より優れていると分かる(人に分からせる?)ことが大変重要になってくる。

男の場合は・・・
自分にとって特別な異性1人だけが自分の側を向いてくれれば、ただそれでいい。
自分をのぞく世界中の同性(男)がどう思うかや、特別な1人をのぞく世界中の異性(女)からどう見られるかなど、そんなものは犬にでも食わせてやればいい。

その価値観の壁をわたしは超えることができないからこそ、このLUXの乙女ゲーが大変異質なものに見えてしまうのだ。

人類はアニメにすら劣るのか

2010-11-19 00:03:31 | オタネタ全般
アマガミSSを見よう。

森島はるかルートを見れば森嶋先輩を好きになり、
棚町薫ルートを見れば薫を好きになり、
中多紗江ルートを見れば紗江ちゃんを好きになり、
七咲逢ルートを見れば(以下省略)

・・・ということになってしまう。

なんということか!
女の子たちはみな誰もが換え難いほどにかわいらしく、その皆が皆にことごとく惚れてしまい、1人に選ぶことが苦痛なほど愛らしいではないか!

別にこれはアマガミに限る話ではない。
よくできたギャルゲーはそういうものだ。
ルート選択があるわけではないが、らき☆すた や けいおん!! だってそういうものだ。



しかし!

大変残念なことに、それに批判的な人たちは世の中に大勢いる。

彼らはほぼかならず
「けいおん!!にはストーリーに見るものがない。ただキャラに萌えているだけのアニオタにしか受けないくだらんものだ」
と言う。

これはどうなのか?

たしかに、まあ・・・
ストーリーに見るものがないのには同意せざるを得ない。
キャラに萌えているだけなのにも同意せざるを得ない。

これじゃあ全肯定じゃないかw

いやまて。
その逆は真なのかを考えてみたまえ。

けいおん!!のごとく、だれかその辺に転がっている女の何気ない日常を監視したとしよう。
監視したというと変質者にしか聞こえないが、変質者をする必要が無いことをここで証明するためにあえてそう監視したことにする。
そしてその女の何気ない日常を延々と見ていたとしよう。
これで条件はけいおん!!と同等である。

さて。
これでその女に惚れるだろうか。

絶対惚れないとは断言しないが、ふつうの神経なら3σ(99.7%)くらいの確率で惚れやしないだろう。
わたし個人だけの判断ならば絶対惚れないと断言しても良い。

なぜか?

人類は、けいおん!!に劣るからだ!

わたしはなぜか毎日blogに掲載することがあるのだが(これは当blog最大の謎なのだがw)、ふつうの人は毎日blogに何か書けと言われたら大いに困るはずだ。
ふつうの人にはそれくらい日常には何もない。

はっきり言って、ふつうの人の実生活の中にけいおん!!同等にストーリーがあるかというと、そんな人はかなりの少数派だろう。
ふつうの人の実生活と比べれば、けいおん!!のほうがまだストーリー豊かなのだ。
そしてなぜけいおん!!のほうがまだストーリー豊かになるのかというと、それはキャラの魅力が人類平均と比べて圧倒的だという事実がそうさせるのだ。



けいおん!!のような、アマガミSSのような、そんな人たちがいるだけで、日常は夢のように楽しくなる。

しかし!

現実にはそんなことはありえない。

それは人類がアニメに劣っているからに他ならない。

人類の多くはそんなカンタンなことに気がついていない。
いち早く気がついたのは我々アニオタやゲーオタだけなのだ。



我々の感性は世界最先端をいっている。
一般人がそれについてこれないのはしかたがない。

ピカソの抽象画だって、初めは人類の誰も理解できなかった。
ベル研のトランジスタの発明だって、記者会見では記者は誰も理解できなかった。
理解できなかった者は本質的ではないトンチンカンなところで揚げ足をとって非難する。

それはしかたがない。

一般人は我々アニオタより盲目なのだから。

NVIDIAやばいのかも

2010-11-18 00:00:06 | 科学
NVIDIAというとGPUで有名なファブレス半導体メーカーである。

いつの間にやらライバルを蹴落として市場を席巻した感じがする。
GPGPUの分野ではもう完全に独占状態なのではないだろうか。



ところが!

最近なんだかNVIDIAについて不穏なウワサをよく目にするようになってきたのだ。

nVIDIAの迷走
http://meta-metaphysica.net/journal/archives/2010/04/nvidia.html

↑たとえばこの記事がユーザー視点から非常に良く解説されている。

あれこれ見ていると、NVIDIAはどうやらよりハイエンド特化に注力するようで、それがある意味で成功したからかGPGPUの分野では確かに独占状態にはなっている。
しかし、それに対してコンシューマー側がお粗末になりすぎにも見える。



コンシューマー側がそんなにお粗末でそれで良いのか?

これは当人にやる気がないからお粗末なのかもしれん。

nForceよ永遠に~NVIDIA 3rd partyチップセット事業を終了へ
http://northwood.blog60.fc2.com/blog-entry-4358.html

NVIDIAのローエンド無視の戦略は明確で、↑このようにチップセットから撤退するとのお話だ。

NVIDIAはたしかにGPGPUでは世界最強である。
しかしそれは産業用であり、マスマーケットではない。
NVIDIAほどの規模の会社をささえるだけのビジネスはそこにない。
NVIDIAは半導体売上ランキング20位くらいであり、半導体の売上ではロームや富士通よりも多いのだ。



NVIDIAはなぜこんな戦略をとったのか?

実はそれは明白だ。

AMDがGPU統合CPU「Llano」のCPUコアの技術を発表
http://pc.watch.impress.co.jp/docs/column/kaigai/20100215_348705.html

↑このように、世の中はもうCPUのダイの中にGPUを入れてしまうのがアタリマエになる時代を迎えつつある。
そうなったら恐らく、コンシューマーではハイエンド以外でのGPUの需要は壊滅する。
そうなる前にさっさとローエンド付近のラインナップから撤退するのは正しい。



CPUとGPUの統合は容易なのか?

半導体プロセスとしては、CPUとGPUはものすごく良く似ている、というか同じプロセスでも全く問題がないのかもしれないくらい差が無い。
CPUもGPUもどちらも高速ロジックで同じようなものだからだ。

これがCPUとDRAMをオンダイにしようとすると特有の問題が出てくる。
DRAM詰め込み優先でスタックキャパシタにしてトランジスタに熱ストレスが加わるのを許容して遅いCPUでガマンするか、もしくはCPUの速度優先でトレンチキャパシタにしてDRAMの容量をちょっとでガマンするか、…の2択を迫られることになる。
だから別chipで作ってTSVで1パッケージ化するならまだしも、高性能なCPUとDRAMはオンダイでの統合にはメリットが少ないとされ、未だに別々に作られている。
無線LANなどの高周波を詰め込むのはさらにやっかいで、SW電源にいたっては近い将来は現実的なものは作れそうにないと皆が諦めているほどだ。

だからCPUと何かを統合するとしたら、GPUが真っ先に槍玉に上がるのは当然だ。



ではなぜ今までそれをやらなかったのか?

たぶんCPUメーカーにGPUの設計能力がなかったからだろうと思われる。

インテルはチップセットに無いよりマシ程度のローエンドGPUを組み込んで製品化するところから始めた。
AMDはNVIDIA最大のライバルだったATIを買収してNVIDIA同等のGPUの設計能力を手に入れた。
ARMもベンチャーを買収して設計能力を手に入れ、ポン載せでMaliを使えるようにしてしまった。

かつてはできなかったのかもしれないが、今はもはやCPUメーカーがGPUを設計することくらい手馴れたことになっている。
GPGPUの分野で世界最強のNVIDIAには設計能力としてまだ一日の長があるかもしれないが、その優位性は十分に生かせないかもしれないわけだ。



NVIDIAはこれからどうしたいのか?

・・・よくわからん。

最近は携帯のアプリケーションプロセッサに手を出していて、そこではまあTegraが省電力でかつグラフィック性能が高い逸品としてそこそこ名が知れているような気がする。
そっちで生き残りを賭けているのだろうか。

しかし。

これが意外にいい値段するという話も聞く。
消費電力の優劣はともかくとして、インテルのAtomやその周りは案外安いらしく、そちらを使ってシステムアップした場合と値段は同程度になってしまうというウワサである。

ハイパフォーマンスなほうはマジメにWindowsが動くようなモノが好まれるに決まっているし、ローエンドのほうはARMからMaliつきのCPUを買ってきてポン載せしてある有象無象のchipを使えば良い。
そのどちらでもないスマートフォン向けといった市場にTegraは向いているが、しかしそこはそこでQualcommもいるしFreescaleもいる。

ちなみにこれは余談だが・・・
iPhoneやiPadはコアがARMでGPUがPowerVRの単なるポン載せのバカチョンで作ったサムソン製CPUであり、その巨大市場にはTegraは入れない。



はたしてNVIDIAはこれから生き残ることができるのだろうか。
NVIDIAの未来が見えないのはわたしだけではないだろう。

マクスウェルの悪魔は実在した!

2010-11-17 00:01:31 | 科学
> 情報をエネルギーに変換することに成功!
> “マックスウェルの悪魔”を実験により世界で初めて実現。新規ナノデバイスの実現に期待。
http://www.chuo-u.ac.jp/chuo-u/pressrelease_files/kouho_926d762ef5d729c7544d1276739468c5_1289788403.pdf



これはおもしろい。

マクスウェルの悪魔は実在したのだ。
いや、マクスウェルの悪魔を作ってしまったと言ったほうが良いのかもしれん。

情報からエネルギーへの変換効率は約30%だったという。
本当に変換できているんだから驚くべきことだ。
実験室レベルではあるものの、自然エネルギー(なのか?)で変換効率30%なのだから、これはかなり良くできている。



ちなみに。
マクスウェルの悪魔は創作でも登場する。

「ああっ女神さまっ」に登場する空飛ぶほうき。
これはマクスウェルの悪魔の原理を利用して空気を高温にし、後ろに噴射して空を飛ぶとされている。
作者の藤島康介氏もホントにそれが原理的に可能だとは思ってもみなかったろう。



次に人間界に召喚される悪魔はどいつだろうか。
次はラプラスの悪魔だろうか。

ラプラスの悪魔も創作で登場する。
「GS美神 極楽大作戦!!」で登場するのだ。
そこでどう登場するかは読んでのお楽しみということで。