教団「二次元愛」

リアルワールドに見切りをつけ、二次元に生きる男の生き様 (ニコニコでは「てとろでP」)

ガンダム00のキャラデザ仕様

2009-09-30 00:00:20 | オタネタ全般
たいぶあとで気付いたのだが、ガンダム00のキャラデザは高河ゆんらしいね。

あらためて見るとガンダム00のキャラデザは高河ゆん仕様に完璧に準拠しているようにしか見えなくなってしまった。
どこもかしこもとにかく高河ゆんの臭いが強い。

・ちょいワルのヒネたアニキ
・謀略をめぐらすオトナのお姉さま
・やたら大人びた小生意気な子供

これはかなりの頻度で使う3点セットだ。
べつにガンダム00に限らず他の著作でもそうなっている。

アニメでシナリオライターとキャラデザは別々なのはあたりまえだが、キャラの正確付けとかどっちが担当するんだろう・・・。
あまりにも高河ゆんの臭いから、じつは性格付けまで高河ゆんがやったんじゃないのかと思ってしまう。

わたしは高河ゆんはマンガの著作しか知らん。
けど世間的には必ずしもマンガ家として有名なわけでもないらしい。

高河ゆんは知ってるけどマンガの著作は1つも知らんとか言われるケースもよくある。
同人活動でむちゃくちゃ活動していたころもあり、ひところは「日本一有名な腐女子」だとの称号を勝ち取ったこともある。
そもそもいったい何屋さんなのだろうかこの人・・・。

雪歩はフヒ歩でフヒ化する!

2009-09-29 00:00:01 | オタネタ全般
わたしは信じられないものを目の当たりにした。

先週のわたしだったら、今日の記事を読んだとしても、きっとただ一笑に伏すだけで通り過ぎただろう。
ニコニコには魔物が住むことを改めて思い知らされたわけである。

なにかって?

今日のタイトルにもあるように、そりゃあもちろんアイマス関連だ。
そしてもちろん雪歩ネタでもある。

いつもあるようなただのMADではない。

そこに棲んでいた雪歩。
自分のなかにあるアイマスの雪歩のイメージを上書きしてしまうほど強烈な雪歩。

リハビリに公式の雪歩を見たところで、既にその感染性の病から立ち直ることすらできないことに愕然とするだけだ。
あれは公式の雪歩に物足りなさすらおぼえるほどに雪歩のイメージを書き換えてしまう。

これを見たものは奈落の底へ転落する。
そんな魔性の女。

その雪歩ならぬ雪歩、それは誰からともなくフヒ歩と呼ぶこととなった。



【ニコニコ動画】エロゲーっぽいアイマス 1(修正版)

問題の動画は↑これから始まるシリーズものだ。

タイトルにもあるように、それ何てエロゲ?的な超展開を駆使して作られたノベマスだ。

ニコニコにも数多のノベマスはある。
それらとは決定的に違うところがある。

それは、雪歩のようで雪歩でない雪歩。
一瞬だけ雪歩に見える超展開的な雪歩。

公式の雪歩がピッコロに会う前の孫悟飯だとしよう。
そうすると、ここにいる雪歩はスーパーサイヤ人の孫悟飯だ。

スーパーサイヤ人が何を意味するかは言語に表し難い。
しかし、人類を超越した者がサイヤ人、そのサイヤ人を超越したものがスーパーサイヤ人。
そうとだけは言っておこう。



もともと雪歩はかわいい。
笑顔のかわいらしさはアイマス中でも雪歩が一番かもしれん。
(おっぱいのかわいらしさだったら当然ちh…いやナンデモアリマセン)

その純真無垢な最高の笑顔をともなって雪歩が
「なんだってぇぇぇ!!!」
ってなことを平然とやってのける。

なぜそれを雪歩がする!?
いやまてよ、雪歩がするからグッとくるのか??
あるいみハマり役かもしれん・・・。
いやもう、このフヒ歩を見てしまったが最後、他に代役などだれ1人として思いつきもしない。
雪歩がフヒ歩だからこそ雪歩は輝いて見えるんじゃないか!!
既にもう公式の雪歩では何だか物足りない気がする・・・。

・・・うむ、すでにわたしは感染してしまったようだ。

バンナムでは、雪歩は雪歩で雪歩する。
ソビエトロシアでは、雪歩はフヒ歩でフヒ化する!

もはや解説読んでも意味がわからん。
これを解説しているわたし自身も意味がわからなくなってきた。

当blogを書いていて、ここまで自分の表現力やボキャブラリーが不足していることを痛感させられた試しは無い。
アイマスクエストを愛する同士諸君ならば、これを見なければアイマス人生の何割かを失ってしまうことを覚悟しておいたほうが良かろう。

かつてアイマス師匠はアイマスクエストにて小鳥さんをして
「なんだこの可愛い生き物は!」
との賛辞を捧げられた。

今日はそれに対してこう捧げたい。
「なんだこの腐った可愛い生き物は!」
と。



まさにニコニコは魔界。
こんなものが落ちていようとは。

旭イヒ成最高なり!
キーボードのカタカタに幸あれ!!



(23時間後 追記)

アイマス師匠が補完記事書いてくれたので追記します。

徒花な日々
エロゲーっぽいアイマス
http://blog.goo.ne.jp/styui-gdb/e/299423ac6227cfe55a86e50cabf63c0a

「しょせんアニメ」って言うなよ!

2009-09-28 00:05:46 | オタネタ全般
アニメにおけるストーリーの展開のしかたやエンディングの迎えかたには、定番/非定番に限らずいくらでもやりようはある。
これらは作家の想像力のゆるす限りいくらでも独創的にしあがる。

もちろんこれは大いに結構。
自分の好みには程遠い展開になることもたまにはある。
独創的すぎてついていけないこともたまにはある。
冷静に判断して良いものだとは思っても主観的にはおもしろくないと感じることもたまにはある。
それでも作品のオリジナリティーは大いに評価したい。

しかし!

どうにもこうにもガマンならん展開が1つだけある。
(確実に「1つだけ」とは断言できないが、本稿執筆時点では2つ以上思いつかない)

それは、アニメの中で
「しょせんコレはアニメでしかないんだよ!」
と視聴者に気付かせる展開の場合である。

何とは言わないが、某メジャーなTVアニメの映画版でそういう展開のものがあった。
このアニメ自体は大好きなのだが、特定の映画版だけはどうにもこうにも好きにはなれない。

その特定の映画版では、後ろのほうになると突然実写ばっかりになって、そしてわざわざアニメを楽しみにやってきたオタどもに
「アニメだからマジメに付き合うに値しないもんだ」
と製作者側がそうメッセージをこめたものだった。

これはほんとうに心の底からガッカリした。
映画がつまらなくて昼寝の時間になったとしても、きっとここまでガッカリはしなかっただろう。
いままでそのアニメのファンだったことの価値を製作者側から全否定された気がして無性に腹立たしかった。

わざわざ楽しみに見に行ったことをここまで後悔することになった映画は後にも先にもこれが唯一である。

さらに言うとその映画では挿入歌で
「無に還ろう」
と外国語で詠っており、人生否定論までふんだんに盛り込んであることを付け加えておこう。

いまにして思えば、School Daysのようなダークでドロドロした展開の鬱ゲーと呼ばれるものよりもさらに鬱的になるという、あるいみ真の鬱アニメと呼ぶにふさわしいかもしれない。
まあ、ずいぶん昔の話である。
・・・とはいえ、最近また新劇場版が公開されたと聞いても、それはそれで見に行くのをためらってしまったわけだが。



だいたいにおいて、
「アニメはしょせんアニメでしかない」
ということは、それがどんな重症のアニオタであっても理解している。

それでも全身全霊をかけて真剣にアニメを楽しむ。
それは人生の一部を切り売りしてアニメを作ってくれたスタッフへの敬意でもある。

これは他のことにでも言い換えたらわかりやすい。
たとえば
「しょせん生き物はいつか死ぬんだからいちいち悲しむな」
とか
「しょせん誰かは不合格になるんだから受験失敗は単なる確率的な事象でしかない」
とか言ったら、おまえバカかと言われるに決まっている。
わたしはそれと同じことだと思う。

ついでにいうと、アニメのなかで突然実写の人物や人形を出すという表現手法は、この
「たかがアニメでしかない」
という事実を嫌がおうにでも視聴者は思い知らされる。
それは、胎児が母親の胎内からこの世にはじめて生れ落ち、その絶望と恐怖と心細さに泣き喚くその衝動に等しい。
だからわたしはアニメのなかで実写を使うという表現手法には個人的にはかなり否定的だ。

既に我々アニオタはそれがしょせんアニメでしかないことを知っている。
そしてそれでもその向こう側にだけあるものを垣間見ようとする。
それは心の底から作品を堪能するために必ず必要なことである。
それを全否定して、いったいどうやってアニメを楽しもうというのだ!?

たしかに世の中にはアニメはくだらねえと思っている人が多いのも事実だ。
そういう人たちは実害がないかぎり無視しておけばいい。
しかし、アニメの製作者がそんなことをするのだけはやめてほしい。
それはファンだけでなく、自分たちの仕事をも全否定していることもなるのだから。

2.5次元世界の住人たち

2009-09-27 00:00:00 | オタネタ全般
世の中には、2次元でも3次元でもない2.5次元という概念が存在する。
究極的には2次元と3次元の両方の良さを取り込もうとしつつも、どちらか一方のメリットと比較したらどうしても少し見劣りする、そんなモノが2.5次元である。
あるいみFFIIIでいうところの赤魔道士みたいな存在だ。

テクニカルな話でいうと、たとえば電磁界解析にも2.5次元というものがある。
2次元は平面的な構造の解析しかできないが、そのかわり秒単位で解析できる。
3次元は非線形でなければどんなものでも解析できるが、そのかわり大したもんでもないくせに平気で解析に何時間もかかることもある。
2.5次元はベースは2次元だが、Z方向に特別な仮定を導入することで3次元構造のものを2次元解析に準ずる速度で実現しようとしているという、うまくいけば理想的な存在となる可能性もあるものだ。

とはいえ、2次元解析より遅いうえに3次元解析ほど融通はきかない。
2.5次元とはそういうものだ。



実はアニメの世界にも2.5次元という概念が存在する。

これはCGのことではない。
立体映像のことでもない。

アニメでいう2.5次元とは声優のことをさす。

考えてみれば声優はなかなかにして奇妙な存在感を示している。

わたしのように
「さらば3次元!」
をうたい文句にアニメ世界に没頭しているアニオタ諸君の間でありながら、それでも声優は支持されている。
顔出しで登場するにもかかわらず、である。

声優の人気の根幹を成すものは2次元世界の登場人物である。
ところが声優は3次元の人物そのものだ。

かつてスナッチャー(※1)というゲームで
「極めて、有機的、かつ無機物そのもの」
と語られる、人間を模した機械の話が登場した。
それと同じように声優は
「極めて、2次元的、かつ3次元そのもの」
であるとも言えるかもしれない。



声優に関心を持つということはどういうことだろうか?

わたしはここには2種類の人種が混在していると考える。



1つは3次元世界から2.5次元世界へ上がってきた者たち。

とある1説によると、
「現実のアイドルがピュアでなくなってしまったために、よりピュアな存在を求めて声優にたどり着いた」
のだと言われている。

わたしは3次元世界に心が居ないので彼らの気持ちを代弁してやることはできない。
なのでこれがホントかどうかは良くわからん。

たしかに70年代のアイドルはピュアだった。
アイドルの直訳である「偶像」というにふさわしい存在だった。
極端な話、アイドルはトイレに行かないという説が妥当な説としてまかり通っていた。
(実際には、いくらなんでもわたしの歳ではリアルタイムには知らんので、あとの時代から振り返るとそのように見えるということなのだが・・・)

ところが現世ではそうではない。
アイドルは人間臭くなったと同時にピュアさを無くしてしまった。

これは、バラエティー番組でアホさを売りにする芸人が増えたからなのか、くだらんゴシップ誌が大活躍しているおかげで業界全体が魑魅魍魎の跋扈する陰鬱な存在に見えてしまうからなのか、それはよくわからない。
さらに言うと、地デジになったおかげで芸能人の顔アップがうつったときに化粧臭いビミョーにイヤらしい側面を意図せずに垣間見てしまうのもこの現象を助長しているような気もする。

まあとにかく、今の時代はTVに出てくるアイドルにはピュアさを求めることはできなくなっている。
そしてアイドルにピュアさを求める人たちの最後にたどり着く桃源郷が声優なのだという説だ。

これらの人たちには明確な特徴がある。

彼らはかなり幅広くいろんな声優の情報に明るい。
どのアニメのどのキャラを演じていたかをいくつもソラで言えることもある。
しかし、その割には該当するアニメを見たことがないパターンが多い。
そして彼らの支持の強い声優は、往々にして名前は有名だけれどもアニメやゲームで主役級の仕事は全くしたことがないケースも多い。
(わたしはこういう人たちのことを「声優というジャンルのアイドル」と呼んでいるが・・・)



もう1つは2次元世界から2.5次元世界へ下がってきた者たち。

どちらかというと、わたしはこちらに位置する。

彼らが2次元世界から2.5次元世界へ下がっていく経路は明白だ。

まずアニメかゲームのとあるキャラに惚れる。
キャラが好きになると、その声も好きになる。
その声が好きになると、別の作品でその声の人が演じているキャラにも興味を持つ。
そして似たような配役になっていることが多く、ようするに相対的に好みのキャラになっている確率が高いわけで、そのキャラにまで惚れてしまう。
それを繰り返すうちに、キャラそのものよりも声の人のほうに惚れてしまう。

釘宮病(※2)の重症患者はまさにこれに該当する。

まず何気なく “灼眼のシャナ” を見たらシャナのとりこになってしまった。
(釘宮病S型ウィルスに感染)
 ↓
シャナのコミュニティーで “ゼロの使い魔” の話題が盛り上がっていたのでそっちに興味を持ってしまい、いつのまにかルイズばかり見ていた。
(釘宮病L型ウィルスに感染)
 ↓
ルイズの中の人が主役をやっているらしい “ハヤテのごとく!” がどんなものか見てみたら、ナギがかわいくて止められなくなってしまった。
(釘宮病N型ウィルスに感染)
 ↓
このころになってキャラよりも釘宮声のほうが好きなことに気付きはじめる。
(ウィルス起因による自覚症状)

まあこんな感じでひとりで勝手に次々と合併症を引き起こしてしまうものである。


ちなみに、これらの人たちには先の3次元からやってきた人たちの場合とは正反対の特徴を示す場合が多い。

彼らは自分が好きな声優以外は案外知識がない。
どのアニメのどのキャラを演じていたか、というよりも、どのアニメのどのシーンのどのセリフがいかに素晴らしいかを熱く語る。
そして、アニメやゲームそのものは好みでなくても、その声優が登場しているという理由でアニメやゲームをチョイスすることもある。
そして彼らの支持の強い声優は、特定の萌えアニメやギャルゲーでだけ有名なケースもけっこう多い。



2.5次元という声優に関心を持つ人たちは、こういった2種類の人種の混在する世界なのだ。

だから、声優は特にピュアさを要求する向きも多い。

3次元世界から2.5次元世界へ上がってきた者たちにとってはピュアさは至上命題だ。
2次元世界から2.5次元世界へ下がってきた者たちにとっても、かつて立ち去った3次元世界と同じくらいピュアさに欠けていたら関心を持たなくなる。

だから、本来は声だけしか要求されないはずの声優にもツラの良し悪しが要求される。
場合によっては、声優の誰が巨乳で誰が貧乳かということすら話題になる。
そして結婚すると人気がなくなる。

しかし!

これは本来あるべき姿ではない。
少なくともわたしはそういう事にはあまり左右されない。

わたしだったら、若くてツラが良いが声質が平凡で演技力が無い声優よりも、オバチャンで既婚でもいいから演技力が高くて声がかわいい声優のほうが好きになる。
ついでに言うと、声優のCDとか買ってみたくもなるが、しかしながら会ってみたいとか顔を拝んでみたいとかはほとんど思わない。

本来声優とはそうあるべきだと思う。
人の好みにケチをつける気はないが、声優の本業の能力以外のところを要求しすぎるとブサイクではあるが本業の能力の優れる人が生き残れなくなるので、それはそれでいかがなものかと思う次第である。



【※1 スナッチャー】

オープニングを見たい人は↓こちら
http://www.youtube.com/watch?v=vE-9anK8Dt4



【※2 釘宮病】

男性特有の精神疾患の1つ(笑)。

>釘宮病とは、声優・釘宮理恵の声に魅了されて何も手につかなくなるような過度の重病である。正式名称は「釘宮ウイルス過敏性大脳皮質炎(くぎみやういるすかびんせいだいのうひしつえん、Kugimiya Virus Hypersensitive Cerebral Corticalitis)
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C5%A3%B5%DC%C9%C2

>自制能力が著しく低下し、末期においては己の年齢や性別などをわきまえず「くぎゅうううううう」という奇妙な鳴き声を発するなど、社会的な予後は極めて悪くなる
http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E9%87%98%E5%AE%AE%E7%97%85

TVの経済番組が酷すぎる件

2009-09-26 00:00:10 | 経済/経済/社会
ひさびさに何気なくTVを見ていたら、とある経済についての番組をやっていた。
その経済番組が限度を超えて酷すぎたので、ちょいとここで書いてみたい。

その番組の趣旨はこうだ。

 ・理解できないような複雑な金融商品を作ったから悪い
 ・アメリカの企業が儲け主義に走りすぎたから失敗した
 ・いま新たに儲け主義に走りはじめており、また同じ失敗を繰り返そうとしている

これを見てあなたはどう思うか?

何だかわからんが特定の政治臭が漂ってきていると、わたしはそう思った。
また、この言いがかりにデジャブを感じた。



そのデジャブの元凶は1980年代後半にあった。
今でこそアタリマエだが、その頃はコンピュータによる制御というのが一般的になりつつあった時代だ。
そしてその変革期、日教組や赤い人たちはこぞってコンピュータに対するネガティブキャンペーンを行っていた。

その趣旨はこうだ。

 ・コンピュータのような理解できないような複雑なものを作るのは悪いことだ
 ・企業がコンピュータを使って効率を追求するような儲け主義に走っている現状では、いつか必ず失敗するに決まっている
 ・文明を発達させたおかげで第二次世界大戦のような悲惨な出来事が起きており、また同じ失敗を繰り返そうとしている

その頃のコンピュータ批判と今回のTV番組の趣旨は、こいつらおどろくほど似ているとは思わないだろうか?



そしてこれらはもう1つ共通することがある。

1980年代後半の当時、コンピュータを大々的に批判している人たちのほとんどは、実際にキーボードもさわった事もないほどコンピュータに対して無知だった。
まだワープロソフトを使った事があるとか、プログラミングをかじった経験があるとか、それくらいなら許せるかもしれない。
だが、感情的に批判している人たち(当時の小中学校の教員たち)は、わたしが知る限り全員がコンピュータに対して無知なこと極まりない酷いヤツらだった。

さて今回。
理解できないような複雑な金融商品を作ったから悪いと批判している人たち。
こいつらどの程度理解しているのだろうか。
自分から「理解できないような」と言っていることからして、ほんの少しも理解しているフシを感じられない。
だいたいひどいマスコミなんか、経済欄担当記者のくせしてCDS(クレジット・デフォルト・スワップ)のことをクレジット・デリバティブ・スワップなんて書いている記事を見たこともあるくらいなのだから、彼らの程度なんかたかが知れている。

もし批判するにしてもだね、たとえば・・・
持っている債権のリスクヘッジのためにCDSを使うのは正しい。
本来的な意味からすればCDSには存在意義がある。
しかし、ヘッジするための資産も持ってないのにCDSを使うのは良くない。
そうすると該当の会社が倒産すると儲けが出るようになる。
会社が倒産するように画策するヤツらが出てくるようになるので、景気の悪化が加速される可能性がある。
フルヘッジを上回るCDSの買いポジションを持つことに何らかの規制をかけるべきではなかろうか。
・・・とでも言ってくれればまだ納得する。

ところが、CDSやらMBSやらのことを全部ひとくくりにして「理解できないような複雑な金融商品」と言い、「だから悪い」と結論付けるのは、あまりにも頭が悪いと言わざるを得ない。
自分で理解できないならちゃんと理解するまで勉強して、そのうえでどいういう面では良くてどういう面では悪いかを語るのがスジであろう。
自分の頭が悪いことを人のせいにするのはいかがなものかと思ってしまうわけだ。

せっかくTVのニュースでやってるくらいなんだから、せめて経済をまともに勉強したことのないタダのアニオタのわたしより遥かにレベルの低いことをやるのはやめてほしい。
いや、そういうレベルの低いことしかできないほどTV局のレベルが低下したからこそ、TVというメディアが落ちぶれつつあるとも言えるのかもしれない。
こんなレベルの低いTV局は淘汰されて当然だ。



それからもう1つ。

アメリカの企業が儲け主義に走りすぎていて、また同じ失敗を繰り返そうとしている説。

儲け主義に走りすぎだというのは確かにそう思う。
株主利益に傾注しすぎていて、長期投資が困難になり、短期で利益が出る方策にばかり手を打たなければならなくなっている現状は良いとは言いがたい。
そのおかげてGMは燃費は良いが利益率の低い小型車の開発を怠ることになり倒産したし、かつて真空管を作っていたアメリカの企業で半導体を作れる会社は1つもないし、弊害は少なからずある。

しかし、また同じ失敗を繰り返そうとしていると批判するのは何かがおかしい。

アメリカが失敗した理由をよく検討し、同じ失敗をしないように規制をかけるべきである。
たとえば銀行の自己資本比率規制だとか、銀行と証券会社の役割分担とかの施策がそれに当たる。
いまある法規制のなかで企業が儲け主義に走っても経済全体が大失敗しないようにするべきだろうし、競争が激化しすぎてギリギリな危ない橋をわたらないとやっていけないヤツらがわんさか増えるのも避けるべきかもしれない。

もちろんそういう事を考えているヤツらは政府にもいる。
これから発生しそうな規制がどんな内容でどんな経済的トレードオフがあるのかには興味がある。
だからTV番組ではそういうことをやってほしい。

単に企業のモラルを批判するだけだった例の番組に出てきたヤツら。
こいつらの言うとおりにしていたら、それこそまた同じ失敗を繰り返すのは必然である。
我々はどうすべきだったのかをちゃんと解説してほしいし、だれでもできるモラル批判に終始するようでは、あまりにも頭が悪いとは思わないだろうか。



企業は儲けを追及するものだ。
その儲けのいくらかは社員の懐にも入り、社会にも還元され、国家の財政にも貢献する。
だがヤツらは企業が儲けることそのものが悪だとでも言わんばかりに批判の声を強める。

さて、企業が儲けることそのものが悪だと言っている人がどこかにいたのを知っているだろうか?

マルクス主義者である。
ようするに赤い人たち。

彼らの主張によれば、社員と社会と国家の取り分が企業の取り分によって減っていると考える。
これがどこまで正しいかどうかはここでは議論するまい。

ついでに言うと、彼らの理想とする共産主義の計画経済下では、モノの価格は国が決めるし企業の運営は国がする。
だから彼らの言うところの「理解できないような複雑な金融商品」というものが発生する余地はない。



さて、これでピンときただろう。
1980年代後半のコンピュータ批判も赤い人たちだった。
さきのTVの頭の悪い経済番組は赤い人が作っている疑いが濃厚だ。

彼らは
「我々は庶民の見方ですよ」
という顔をしてやってくる。
こういう顔をしてやってくるヤツらが一番危険だ。

ヒトラーだって庶民の見方という顔をしてやってきた。
(まるで韓国のように(笑))民族主義者だということでマスコミには右翼扱いされているが、それは正しい認識とは言いがたい。
あれは国家社会主義ドイツ労働党ということからしても主張するところは左翼(赤い人)的な傾向のほうがかなり強い。
なぜ右翼扱いされたままなのかというと、ヒトラーが赤い人だったとバレてしまい、赤い人とはヒトラーなみであると世間に認識されると困る人がマスコミにも大勢いるからだという仮説は十分なりたつ。



わたしがこの後に何を言いたいか、ここまで読んでくれたみなさんなら十分お分かりいただけるかと思っている。

貧乳派があずさを語る

2009-09-25 00:06:45 | オタネタ全般
今日はアイマス最大の禁忌に触れてしまうかもしれん。
貧乳派のわたしがチチキングあずさを語ってみようではないかと思うのだ。
あずさ派のアイマス師匠の逆鱗に触れるかもしれんのだが、そのへんは戯言ということでカンベンしてほしい。(^^;



【ニコニコ動画】アイドルマスター 「I Want」全員分

まず↑これを見よう。
ナイトメアブラッドという衣装を着た全員分である。

あなたの目は誰に釘付けになるだろうか?

最後に登場する、究極にセクシーバディーなあずさ。
そう答えるのは正常の範囲内である。

わたしはどうだろうか。

あずさのセクシーバディーはどーでもいい。
ナイトメアブラッドならぬナイムネガフラットと称される千早にしか目が行かない。
それが貧乳派の貧乳派たる持病なのである。



【ニコニコ動画】アイドルマスター 千早 あずささん 真 GO MY WAY 体操服

つぎに↑これを見てみよう。
セクシー路線たるナイトメアブラッドの正反対に位置する体操服を着せたものだ。

これをあなたはどう見るか?

ナイムネガフラットのときの千早よりはまだ見れると思うかもしれない。
あずさはもっとセクシー衣装のほうが似合うと思うかもしれない。

わたしはどうだろうか。

千早は何を着てもかわいい。
そこまでは想定の範囲内だ。
また、あえて言うならば、想定の範囲内程度にかわいい。

ところがどっこい、この動画の見所はそこだけではない。
体操服のあずさは貧乳派のわたしが見てもなかなかにグッと来るものがあるのだ。
体操服のあずさは、何だかわからないけどドキドキするほどかわいい。

これはいったい何なのだろう?

ナイトメアブラッドほどはチチキング的なものを意識させないデザインだからだろうか。
確かにそれもあるかもしれない。
しかし、それ以外にも何かが潜んでいる気がしてならない。

体操服の千早はフツーにあり得そうだ。
しかし、体操服のあずさはフツーにはあり得そうにはない。

体操服の千早にはなくて、体操服のあずさにだけあるもの。
それが事の本質である。

体操服のあずさを見ていると、なんだかこう、目覚めてはいけない何モノかに目覚めてしまいそうな、背徳的な何かを感じる。
そしてこの何モノかに目覚めてしまいそうなあずさの衣装は実に数が少ない。

何だろうかこの感情は・・・?

これがギャップ萌えというものではなかろうか!?



ギャップ萌えとは、本来ありえない組み合わせを持つキャラクターの魅力について語るときに使われる。

たとえば・・・

【ニコニコ動画】はぴねす! 渡良瀬準 画像

↑こんなやつ。
しょんじょそこいらの女の子なぞ話にならんほど可愛らしい。
けれども男。
これを人呼んで “男の娘” という。
そして紳士をして
「こんなにかわいい子が女の子のはずがない」
とまで言わしむる。

【ニコニコ動画】【化物語】ひたぎのツンドラカルタ

↑こんなやつ。
いつもは美人の優等生。
けれども二人っきりのときは主人公を罵倒しまくり殺人予告など日常茶飯事。
けれども稀にサラッとデレたことも言う。
そこをして紳士はツンデレならぬツンドラと称し愛を受け入れる。



これでわかってもらえたであろう。
貧乳派は本質的にギャップ萌えを理解しているのだ。

貧乳の女の子にはセクシー衣装を着せ、その少しだけしかないことを強調されたおっぱいを見て愛でる。
巨乳の女の子には子供っぽいロリ衣装を着せ、ロリチックなんだけど実は良く見るとセクシーなダイナマイトバディーという、その美しいスタイルを見て愛でる。
ベタベタな萌えよりも、むしろそのほうが萌えるとは思わないだろうか?



世の中にはおっぱいを強調しすぎた作品があまりにも多すぎる。
これはハチミツに砂糖をまぶして食べる行為に等しい。

海原雄山が貧乳派だったとしたら、きっと
「全く・・・アメリカ人好みのあさましい食い物だ・・・」
と、巨乳女優のセクシー水着グラビアを見てそう評価するだろう。
海原雄山を満足させるためには、貧乳が胸の内に隠れきっているように、隠し味に桑の実を入れてうならせるしかないのである。

シロウトならばそれでも良い。
巨乳女優のセクシー水着グラビアを見て愛でるだけでもいい。
我々のように二次元に精通したクロウトはそれだけを愛でるようであってはならない。

眼球で見るのではなく、心の目で見る。
わずかに垣間見える本質の姿をとらえて愛でる。
それこそが本来到達すべき楽しみ方であると、わたしはそう思えてならないのだ!

巨乳にしたいなら、いくらでも大きくすればいい。
大きく描くだけならいくらでも大きく描ける。
けれどもそれで満足だろうか?
それを自問自答したとき、はじめてあずさの巨乳を愛でることができるというものだ。

あずさと千早のおっぱいを科学する

2009-09-24 00:00:20 | オタネタ全般
なにを思ったか、今日はアイマスのあずさと千早のおっぱいの揺れを科学してみようと思ったわけだ。
今日はいつにもまして一段とアホな話題ですわ(笑)。



まず、おっぱいの揺れとは物理的にはどう解釈するか?

小難しくいうと、2次系の減衰振動のステップレスポンスで近似できるのではないだろうか。
おっぱい解析はここからスタートしよう。

2次系の減衰振動ということは、等価回路的にL, C, Rの直列共振で記述できるはずである。
Lとは質量、Cとはばね定数、Rとは摩擦に相当するものだ。

次に千早のおっぱい定数を求めてみよう。
ここでは、あずさと千早のおっぱいは高さ方向にだけ違いがあり断面方向は形が同じもので、それぞれへ線形写像できる形のものだと仮定する。
これはボディーの横幅からはみ出るほどのウシチチ女では成り立たないが、あずさと千早のおっぱいくらいなら十分成り立つ仮定だろうと思う。

あずさ胸と千早胸との比例係数としてkを使う。
断面方向の座標をXY, 高さ方向の座標をZとすると、仮におっぱいが楕球で記述できるとしたら
あずさ胸:
  x^2+y^2+(z/za)^2 = const
千早胸:
  x^2+y^2+ (z/zc)^2 = const
ただし
  k = za / zc
になると仮定する意味での比例係数kである。

あずさはFカップで千早はAAカップと言われている。
それぞれトップとアンダーの差は22.5cm, 7.5cm前後であろうと考えられるので、計算上は
  k = 3
前後になるものと思われる。
直感的には
  k = 5
くらいに見える気がするが、たぶん断面方向は形が同じと仮定したのがまずいのだろう。
これくらいは誤差範囲だということでごまかして先へ進む。



あずさのおっぱい定数をそれぞれLa, Ca, Raとする。
そして千早のおっぱい定数をそれぞれLc, Cc, Rcとする。
それぞれの関係を導き出してみる。

[L:質量]
おっぱいの高さに比例して質量は増加する。
すなわち
  La = k×Lc

[R:摩擦]
ジャンプするなど上下方向の運動を伴うときには、微小高さあたりの脂肪の粘性抵抗を全高さにわたり並列接続した値がRに等しい。
すなわち
  Ra = 1/k×Rc

[C:ばね定数]
おっぱいがでかくなるということは、バネの全長が伸びるということに相当する。
すなわち
  Ca = 1/k×Cc



これから物理的な定数の比較を行ってみる。

[固有振動周波数]
固有振動周波数は単純計算では
  f = 1/(2π√LC)
で求められる。
あずさは千早に対してLがk倍、Cが1/k倍となるので
  fa = fc
となる。
つまり、あずさと千早のおっぱいの振動周期は大きさほど変わらないはずだということを意味する。(上の計算どおりだったら全く変わらないはず)

[減衰定数]
LCR直列共振での減衰定数は
  ζ = R/2×√(C/L)
で求められる。
  ζa = Ra/2×√(Ca/La) = 1/k×Rc /2×√((1/k×Cc )/( k×Lc)) =ζc / (k^2)
  ζc = Rc/2×√(Cc/Lc)
減衰定数はおっぱい高さの2乗に反比例する。

まずおっぱいの揺れが発散することはありえない。
そしてニコニコ有志諸君の観測により千早のおっぱいも揺れることが確認されている。
したがって両者とも減衰振動であり
  0 < ζa < ζc < 1
であるのは間違いなかろう。

そして先の計算結果を入れると
  0 < ζa < ζc = ζa×k^2 < 1
とも書ける。そして
  k = 3
なので
  0 < ζa < 0.11…
であるのは言うまでもない。



さて、その条件でおっぱいの揺れをエクセルで数値解析してみた。
入力をステップレスポンスとし、横軸は共振周期で正規化、縦軸はステップレスポンスの振幅で正規化してある。



上図の条件は
  ζa = 0.09
  ζc = 0.81
  k = 3
である。
明らかにあずさは揺れすぎだし、千早はまず観測できるはずがないほどしか揺れていない。



上図の条件は
  ζa = 0.3
  ζc = 0.675
  k = 1.5
としたときの特性だ。
これは直感的にそれらしい結果になるようにチューニングした値である。
さっきのよりこっちのほうがもっともそうだ。



このことは2つのことを意味する。

1つはどっかで仮定が間違っていること。
あずさと千早のバストの線形写像が正しくないとか、ばね定数が非線形になるほどゆれているのだとか、2次系の減衰振動で記述しようとしたのがおかしいとか、ブラジャーの制動が加味されていないとか、いくらでも理由は考えられる。

もう1つは揺れそのものに補正がかかっていること。
つまり、あずさの揺れが正しいとするならば、千早は現状ほんのわずかしか揺れないにもかかわらず既に揺らしすぎだということだ。

どちらが要因なのかはわからない。
今日のところはもう飽きたからこれくらいにしてやめておく。



追伸1:

アホな話題ついでにバストのカップを計算するコードを書いてみた。
ちなみにDebugしてないからマトモに動くかどうかは知らん。
なお、見づらいからインデントを全角スペースにしてあるので、そのままではコンパイルできない。

int bustcup(char *cup, double top, double under)
{
 dobule ddlt;
 int idlt;
 int i;
 int icup;
 
 ddlt = top - under;
 idlt = (int)((ddlt - 8.75) / 2.5);
 
 if(idlt>=0){
  icup = 65 + idlt;
  cup[0] = (char)icup;
  cup[1] = 0;
  if(icup>90){
   cup[0] = 90;
  }
 }else{
  for(i=0; i<=-idlt; i++){
   cup[i] = 65;
  }
  cup[i] = 0;
 }
 return 0;
}



追伸2:

今日のネタは↓これを見ていて思いついた。

【ニコニコ動画】アイドルマスター あずささんと一緒に気象庁震度階を学ぼう!

ロザバン等身大ポスターを張ってみた

2009-09-23 00:00:36 | オタネタ全般




ロザリオとバンパイアのヒロイン赤夜モカ。
これの等身大ポスターが格安で売っていたので速攻買ってしまった。
ちなみにお値段は2枚入りで定価3990円、市販価格3800円程度のところ、なんと2000円で入手できた。

さて我が家に届いた。
さすがに等身大ポスターはデカい。
(ちなみにおっぱいもデカい。貧乳派のわたしとしてはデカすぎる気がするのだが、まあそれくらいはしかたあるまい。)

こいつは飾ってみるしかなかろう。

オタもかなりの上級者になると、ポスター売るほど持ってるくせに1枚も張りもしない。
ポスターが劣化するからなのだとか。
そうはいっても、今回のコレは非売品でもなければたかが2000円だし、まあどうせすぐ飽きるに決まっている。
飾るのはデフォルトで決定事項。

寝室のドアの両脇に飾ってみる。
赤夜モカの覚醒前の正義超人(?)のが右、覚醒後のパーフェクト超人(?)のが左。
(上の絵とは左右反対ね)

飾ってからわかった。

こいつはヤバい!
どう見てもこの部屋はフツーじゃねえ!!
あまりにも怪しすぎる!!!

どれぐらいヤバいかってぇと、まあアレだ・・・
一目惚れした女の子が実はバンパイアで、グール化するほど血を吸われてしまうくらいヤバい。
いやいや、彼女のロザリオを外すと本性が現れて覚醒し、強烈な蹴りで身のほどを知らされるほどヤバい。

もう笑うしかありまへんな、これは。
どう考えても社会復帰は容易ではないことを痛感させられる部屋に瞬間的に様変わりしてしまった。
人体と同寸法のアレなグッズを買ったのはこれが初めてだが、ここまで怪しくなるとは思ってもみなかったよ(笑)。
親が見たら泣くわこれは(笑々)。

毎晩こうやって赤夜モカを眺めて愛でながら床につく。
こんな何とも形容しがたい幸せな生活をこれから満喫できる。
そう思うと、もう今からニヤニヤしてしまってしかたがない。

誰もが、心に愛があればスーパーヒーローになれるのさ。
ベッドに真っ赤な薔薇が今夜も咲くのさ。
さあ、あなたも Go Fight!



追伸:

このポスターが2000円で買えるのは、GONZO STYLEが閉店セールやっててなおかつ在庫がまだある今のうちだけだ。
迷うようだったら今すぐ買っときな。

キミの部屋が親も呼べないほど怪しさ大爆発になるのはわたしが保証しよう!

GONZO STYLE
http://www.rakuten.ne.jp/gold/gonzo/

九州に行ってきた(下巻)

2009-09-22 00:00:59 | 経済/経済/社会
(・・・つづき)



[3日目]

朝とりあえずひとっ風呂あびるなど、多少ゴロゴロしてから出発。

さいきん観光地化している宮崎県庁が宿から歩いていける距離にあるので、とりあえず行ってみる。
外から見る分には、ずいぶんと立派な庭園と、なかなかに風格のある建物とで、まあそれなりに人気が出そうな観光スポットに見えなくもない。

中に入ってみた。
なんだか見たことあるような作りだ。
ビミョーなデジャブみたいなのを感じてならない。

しばらく考えてみたところ原因に思い至る。
これは古い大学の校舎と同じ内装なんだ、と。
大学にいるときは古ぼけたボロっちい建物にしか見えなかったわけだが、見ようによっては歴史的建造物っぽくもなるもんなんだね。
おかげで全く関心することもなく過ぎてしまった・・・。

さて、お次はシーガイア。
最初はここに泊まろうかと思ったんだが、1人部屋がないのだとかでダメだった。
リゾートホテルはそんなもんか。

このシーガイア、意外に宮崎駅から離れてないわりに、けっこう敷地がでかい。
よくもまあこんな敷地が確保できたなぁ・・・と驚くやら呆れるやら。

シーガイアの中心的存在のシェラトンというホテルがある。
このシェラトン、入ってはみたけどムダにロビーが広い。
なんだいこのムダな空間?

これでわかったことはアレだ・・・。
贅沢というのは豪華な調度品や家具を所狭しとならべるのではない。
真の贅沢というのは、ムダに空間を広々と使うことなんだ、と。
スウィートルームがムダに広いのも贅沢の一環なのだろう、きっと。
国会議事堂の前がムダに広いのと同じことだ。

そしてこのシェラトンもまたお客がいねえ。
あっ客がいる!と言ってしまいたくなるほどお客がいねえ。
どう見ても、お客よりもシェラトンのスタッフのほうが明らかに人数が多い。

フツーの都内の高級ホテルだと、ちょいとリッチなランチを食べに来たオバチャンとか、待ち合わせ場所に使っているビジネスマンとか、宿泊客でもなさそうな人たちが意外にたくさんいるわけだが、そういうのが全然無さそうな。
そりゃあ第3セクターの時代に大赤字たれ流して社会問題化するわけだわ。
現時点でこれでやっていけるほうがフシギでならないよ・・・。

さて、シェラトンには温泉が併設してあるので、そこへ行ってみた。
ここもお客いねえ。
たぶん1時間半くらいちんたら風呂につかっていたと思うのだが、その間だれ1人として来もしなかった。
これじゃ、受付のオバチャンのパート代すら払えないんじゃね?
何でこんなんでやっていけるんだろ、極めてフシギだ・・・

その後まだ時間があったので、宮崎駅へ戻って繁華街のほうへむかってウロウロしてみる。
ウロウロして見物したところ、街の構造は福岡をマネたっぽい広島をマネたっぽいようなミニ広島的な印象を受けたが、実際のところどうなんかは知らん。

地鶏屋も探してみたのだが、どうも昼過ぎではどこもやってないみたいだ。
しょーがないからデパートのレストランでチキン南蛮を食ってそれでガマンする。

だんだんウロウロ歩き回るのに体力の限界を感じてきた。
ふだんなら足の関節のほうが先にダメージを蓄積するもんなのだが、どうも今回は体力的な消耗のほうが先にリミットラインに来そうな感じだ。
毎日温泉につかりまくってるから、足の関節は案外ダメージを受けたした分だけそのつど回復しているんだろうか・・・?

夕方。
大分へ向かう特急へ乗り込む。
さすがに県庁所在地間をむすぶ幹線の特急なわけだから、そんなにボロっちいものは来なかった。
けど、それでも3両編成。

電車は意外に混んでいた。
立ってるヤツもいるくらいだった。
ちなみに指定席は乗車率25%くらい。

しかし!

1時間くらいしたところ、いつの間にか自由席のお客はほとんどが降りていなくなっていた。
自由席の車両は1両に3人くらいしかいない。
乗車率25%くらいの指定席のほうが遥かに人口密度が高い。
のこりの2時間半くらいはずっとこんな感じ。
さすが宮崎、どんなところでも人がいない。

宮崎駅を出発してすぐ、電車から例のシーガイアのシェラトンが見えた。
シェラトンは海側から見るとイイ感じにリゾートホテルになっている。
ところがどっこい山側から見ると、田んぼに点在する散村のその奥に巨大なリゾートホテルが建つという、超絶なる違和感をバリバリに発するヘンテコな存在として映る。
あの違和感は言語に表し難い。
まるで東京市街地の写真に巨大怪獣でもハメコミ合成したかのようだった。

その日は大分駅近くのホテルに泊まる。



[4日目]

当初は行く予定は無かったのだが、気が向いたので別府へ行ってみることに。
別府駅とか地獄めぐりとかは何度が行ったことがあるので、今回は行ったことのない東別府の浜脇温泉へ。
大分から電車で10分のすぐ近くだし。

東別府駅を降りたところ、目の前にしなびた温泉屋があった。
ちょいとウロウロして他にないか見てみたところ、だんだんめんどくさくなってそれでいいやという気になってしまった。

これもまたフシギな温泉屋だった。
無人の温泉屋だ。

入り口にお金を入れる箱みたいなのがあって、そこに代金を入れて勝手に入ってくれというビジネスモデルらしい。
なんと1風呂100円という、日本国内とは思えないような破格の安さである。

そんなんでやっていけるのだろうか?
そのギモンはすぐに氷解した。
よく見ると
「経営難につきお金を払わないで入浴しないでください」
みたいな張り紙までしてあった。
やっぱり100円じゃあやっていけないみたいね。

中に入る。
脱衣室すらないない超絶簡素化した作りだ。
中はそれなりにスペースはあるのだが、風呂そのものはなぜか2~3人入ると窮屈なほど小さい。
なんという不自然さ!
さすが100円!!

しばらく入っていると別の客がやってきた。
もう1人入ると窮屈っぽいので早々と退散する。
トータルで東別府の滞在時間は約1時間ほど。

さて大分にもどり、本来ルートである湯布院へ。
そんなに時間は変わらんので、ここは特急は使わずに鈍行にて。
鈍行は宮崎の日南線のような列車だった。
何度も乗って飽きてくると、もうさすがに風流でも何でもなくなってくる。

湯布院にはわりと観光客がいた。
というか、町のつくりがかなり観光客用な感じになっている。
小さい子供づれのファミリーで来ると楽しいのかもしれんが、逆にイイ歳こいた男が1人でいっても楽しくない。

湯布院とはそういう所だというのはよくわかった。
もう来ることはないかも。

すでに体力の限界を感じつつあった。
それでも気合いで湯布院のメインストリートやその裏通りなんかをウロウロして歩いた。

とちゅうの店で、かぼすが20個近く入った袋が150円で売っているのを見つけ、またしても反射神経で買ってしまう。
重い・・・。
買った後で後悔した。
かぼすはミカンと比べて味わうのがめんどくさいので、とうとう旅路の最後まで温存されてしまうことに。

途中で温泉屋を見つけたので入ってみる。
ここも人がいない。
メインストリートにはけっこう人がいるのに、この温泉屋には全く人が来ない。
40~50分くらいいたと思うのだが、だれ1人として入ってこなかった。

早々とメインのところを見終わってしまい、それにいい加減疲れたので、電車が来るまで駅前の喫茶店でプラプラする。

ここでナゼか極めてフシギなことがおきた。
喫茶店のおねえさんに妙に気に入られてしまい、しこたま話し込むことになった。
他の客の相手が済んだらすぐさまわたしのところへやってきてダベるという、普段ありえんようなモテっぷりだった。
このフシギなモテっぷりはさらに後へも続く。

さて、電車が来た。
こっから博多まではさすがに駅が多いので、ゆふいんの森号という特急を使う。

これがまた凄かった。
あんなに立派な特急は日本にはそうそうない。
内装も外装もなかなかにオシャレになっている。
きっと「これがオリエント急行だぜ!」と見せられても、わたしだったら多分騙されるくらいのものだ。
この電車には、珍しいことに関東では絶滅しかけているビュッフェがあり、さらにはそれに展望室のような出入り自由のサロンまでついている。
これは一見の価値がある。
大分に行くなら、大分空港へ直接行くのではなく、新幹線を小倉で降りるのでもなく、わざわざ博多へ行って迂回してゆふいんの森号にのっていくだけの価値はある。

わたしのお気に入りの特急ランキングのかなり上位に位置するだろう。
ちなみに一番のお気に入りはサンライズ瀬戸だ。

このサロンの作りと眺めが気に入ったので、しばらくそこでボーっと景色を眺めていた。
ここでもさっき起きたような極めてフシギなことがおきた。

なぜかビュッフェのおねえさんがやってきて、そのおねえさんとしばらくお話することになった。
さっきといい、これといい、いったい何がおきたのかフシギでならない。
4σくらいの確率でしかありえんような現象がおきたような気がしてならない。

ちなみにこの列車が走っている最中、急ブレーキがかかり、しばらく止まることになった。
車内放送によると
「枕木から煙が出てます」
とか。
そんなん初めて聞きましたわ。

そしてさらに都合の良いことに、わたしのいたサロンの目の前が観光地で有名な裏見の滝(だったかな?)とかいう所で、ベストポジションでいいのを見る事ができた。
そしてビュッフェのおねえさんにもイロイロと解説してもらった。
もうこれで10年分くらいの運を使い果たしたか?
我が生涯に一片の悔いなし!

しばらくしたら
「煙は消しました」
とのことで運転再開。
消しましたって、いったいなにがあったんだろ?

そういえば、どっか途中の駅ちかく(豊後森だったかな?)の近くでこのサロンから蒸気機関車の扇形車庫の廃墟を見ることができた。
京都の梅小路蒸気機関車館では見ることができるが、あれはかなり珍しいものだ。
しかも廃墟ときたら見たこともない。
思いのほかいいものを見つけてしまった。

まあそんなかんなで博多へ着いた。
日は暮れていたがまだ寝るには早いので、とりあえずホテルにタッチダウンしてまた外出する。

博多駅からわりと近くの千早駅に行ってきた。
もちろん記念に720円の切符を買ってきたのは言うまでもない。

夜は博多駅地下街にある一蘭という有名なラーメン屋に行き、ラーメン食って寝る。



[5~6日目]

むかし福岡に住んでいたことがある。
そのためか、博多駅に来てもなんとも観光している気分にならない。
なんとも古巣に帰ってきた感じしかしないのだ。
なんとなく博多駅近辺にあるむかしよく行っていたところ(ブックオフとか)にフラっと行ってしまう。
ますます観光している気分にならない。

わたしが持っているREITがキャナルシティー(中四国九州最大のショッピングモール)の権利を持っているので、ひさびさにキャナルシティーに様子を見に行ってくる。

ふだんならショッピングモールに客がたくさんいると
「うわっうぜえ!!!」
としか思わない。
ところがどっこい、わたし自身が権利を1口持っていると見かたが180°変わってしまった。
「いっぱいお客が入っていて素晴らしいですな♪」
としか思わないのだ。
何ともフシギなもんだ。

そもそもショッピングモールになど本質的に用事はないので、ひとしきり全フロアをウロウロして感傷に浸ったあと、いいかげん体力を消耗し尽したのでホテルに帰る。

最終日は朝ちょいと博多駅近辺をウロウロしただけであとはお土産を買っておしまい。
博多駅から電車ですぐの福岡空港から飛行機で帰る。
そしてblogを書いたところで1日が終わる。

九州に行ってきた(上巻)

2009-09-21 00:01:03 | 経済/経済/社会
会社の夏休みを利用して九州に行ってきた。
季節外れ&平日出発&一人旅だったので、フツーに考えたらありえんくらい安上がりだった。
アニメも見ず、ネットニュースも見ず、メールも見ず、株価も見ず、為替レートも見ず、blogも上げず、仕事もせず、・・・というないない尽くしで過ごしたわけだが、案外何も気にもならならずにホッタラカシにできるのはフシギなもんだ。



[1日目]

飛行機で宮崎へ直行する。
次の日の昼に宮崎につくプランよりも前の日の夜に宮崎につく当プランのほうが、宿代のほとんどはそれで浮いてしまうほど安上がりだった。
もちろんそれで安くあげているのは言うまでもない。

飛行機に乗った瞬間に驚いた。
とにかくお客が少ない。
3人がけの座席にはわたし1人しか座っていないし、その後ろの3人がけの座席には1人も座ってもいなかった。
そりゃーJALも大赤字になるわ、こりゃ。
ところがこれは、宮崎の見せる驚愕の事実の一端を示す序章にしかすぎなかったわけであった・・・。

さて宮崎空港に着いた。
空港にJRの駅が隣接しているという、なかなかに便利な仕様になっている。
広島空港なんか超ヘンテコなド田舎にあるし、松本空港なんか慢性渋滞していて近いくせに1時間半もバスに閉じ込められるわけだが、それと比べたら宮崎空港は羨ましいかぎりである。

しかしそこは宮崎。
電車は1時間に1本しかない。
それは田舎仕様だからしかたがあるまい。

たまたまタイミングよくそんなに待つこともなかったので、試しに電車に乗ってみることに。
これがまた驚いた。
そこいらの特急よりも豪華な電車がとまっていた。
「これに乗っていいんだよな? 特急じゃねえよな??」
と確かめながら恐る恐る乗ってみた。

驚いたのはそれだけではなかった。
わたしの乗った車両にはわたししか乗っていなかったほどガラガラに空いていた。
何という貸切気分!
関東だと、群馬の山奥の過疎地域でも1人しか乗ってないなんて多分ないよ!?

しかしこの豪華な電車は、始発から終着まで乗ったところで10分しか使わないのである。
あの豪華さはいったい何だったんだろう・・・?

さて宮崎駅に到着。
宿はがんばれば歩いていけそうなところにあるので、タクシーは使わずムリヤリ歩いて宿へ行くことに。
とりあえずウロウロ歩いてみるというのは、街の雰囲気が頭に入るので旅の思い出が鮮明に残りやすい。
こういうのは悪い作戦ではない。
しかし、後々になってこれは失敗したかもしれんと後悔することになる・・・。

温泉宿だったので、とりあえずひとっ風呂あびる。
観光ガイドブックを見て宿にいちばん近い地鶏屋に直行。

地鶏うめぇぇぇ!
工場で製造しているブロイラーとは似て非なるものなのが如実にわかった。
そしてこの地鶏を食いながらビール飲むのがまたサイコーなのである。
それに値段もそんなに高くもない。
宮崎に行ったら地鶏は絶対食え!

その後、ふたっ風呂目をあびて寝る。



[2日目]

朝とりあえずひとっ風呂あびるなど、多少ゴロゴロしてから出発。
また宿から駅までムリヤリ歩いて移動する。
この日は宮崎の南のほうへ向かい気が向いたところで降りて観光するという、計画的に無計画な計画を立案し、実行にかかる。

日南線というJRの地方交通線に乗る。
これがまた、1時間に1本しかなく、単線で、電化もされていないディーゼル車で、全部で1両編成、エアコンもなく扇風機装備という、ここ久しく見たこともないようなツワモノっぷりだった。
1時間に1本というのはしかたないとしよう。
けど、あの空港でのった電車の豪華っぷりに比べたら、えらくまた大きな落差を感じる。

とりあえず最初は青島。
ここはかつての新婚旅行のメッカだったらしい。
なんでそんなところへ1人で行ったのかというツッコミはナシの方向で。

ここは世間の観光地よろしく、観光地へつらなる道の両脇に土産物屋が連なっているわけだが、何だか妙にくたびれた感じがする。
まあ観光客もたまにすれ違う程度の密度でしかなく、そんなにいもしないのだからしかたないのだろうか。

青島は鬼の洗濯板というヘンテコな海岸が有名である。
実際に自分の目で見て観察してみると、粘土の層と固い岩の層が数10cmおきに交互に体積した地層が斜めに隆起し、波の潮汐力で粘土の層だけ先に削られたからこんな地形になったようだ・・・ということはわかった。
けど、そんなことはどこにも書いてもいない。
歴史的または神話的にどうのこうのという事はけっこう詳しく書いてあるのに、自然科学的な解説はいっさいない。
解説に強い不満を感じる。

たまたま入った土産物屋で、10個くらい早生ミカンが入った袋が100円で売られているのを見て反射神経で買ってしまう。
うちの近くのスーパーだと、これの半分くらいしか入ってないのに398円とか取りやがる。
それに比べたらムチャクチャ安い。
そしてこの日の昼間、バス待ちや電車待ちのヒマな時間は、思わず買ってしまったミカンをあちこちでむさぼり食うことになる。

その後、青島から南下するバスに乗り、気が向いたところで降りて観光する。
バスから見えたからいいやというので、即決で降りるのをやめたところもあった。
バスは1時間に1本しかないので、ムチャクチャ急いで観光して何とか1時間後のバスに乗り込んだところもあった。
観光地がビックリするほどショボくて、次に来るまでヒマでヒマでしょうがないようなところもあった。

そんなかんなで油津駅というところにつく。
電車にのって出発するのを待っていた。
行きの電車より少しはマシなのか、2両編成ではあった。
あいかわらず扇風機&ディーゼル車ではあったが、もはやこれくらいでは驚かない。

しらばくしたところ、女子高生が後から入ってきた。
ヤツらは突然悲鳴を上げた。
「今日はむっちゃ混んどる! 1両に3人ものっとるわ!!」
「信じられん!」
もう大騒ぎだった。
えっ、1両に3人いると混んでるの?
ふだんどんだけ人少ないねん!
この路線ヤバいんとちゃうか!?

この後、いちかばちか宮崎神宮まで行ってみたが、すでに時遅し、閉まっていた。
観光ガイドブックにのっている近くの地鶏屋に行こうとするが、いくら探しても見つからない。
すぐ近くに住んでいるという地元の人を捕まえたのだが、その人すら知りもしなかった。
しかたがないからタクシーつかまえて地鶏屋に直行。

やっぱ地鶏うめぇぇぇ!
そして地鶏とビールがサイコーですわ。
ふだん酒飲まないのに、なんで2日連続でビール飲んでるんだろ、なにかがおかしい・・・。

こうやって、朝はグータラ寝てて、昼は海にでも行って、夕方は温泉でも入って、夜は地鶏とビール、まさに地上の楽園ですな。
いやまあ、地上の楽園っていっても北朝鮮のことじゃないからね。

実はこの地鶏屋、なかなかにフシギな店であった。
わたしは初めて入った一見客なのは当然だが、他はみんな常連ぞろいっぽい。
で、他の客の場合はは入ってきたら1言も言わないのに店長が料理を作って出す。
地鶏の焼き加減も何も言わないのに全自動で細工する。
また客が1言も言わないのに店長がビールのおかわりを持ってくる。
そして店長は代金がいくらとも言いもしないのにお客はお金を払う。
そんなんで成立する店というのも、あるいみ凄いのかも。

その後、宿に帰って温泉につかって寝る。



(づづく・・・)

広島原爆資料館での語られぬ出来事

2009-09-15 00:01:13 | 経済/経済/社会
広島でいちばん定番な観光地は原爆ドームだろう。(2番目は宮島かな)
そして原爆ドームには原爆資料館が付属している。

この平和記念公園がらみのモノは特定の政治臭がきつすぎて敬遠する人もいるかもしれない。
ここではそれが何とは言わないが、あそこはそういうところだ。

彼らの宣伝活動のおかげにより、原爆資料館や原爆にまつわる逸話はそれなりに世間に広まっている。

しかし!

1つだけ絶対に語られることのない、とある事実がそこにはある。
注意深く原爆資料館を観察しなければわからない隠れた事実である。
それは、特定の政治臭がきつすぎると感じる人こそ読んでほしい内容だ。

今日はそんなことについて語りたい。



キホン的に原爆資料館は、核廃絶や軍縮や戦争反対というものがテーマとして扱われる。
必ずしも正しいと感じるかどうかはおいといて、これは世間的に見てもそんなにおかしな主張ではない。

ここを見学した日本人は
「あ~、こんなことは2度と起こさないようにするべきだよな~」
と思うのがフツーである。

実は欧米の人から見たらそうでもないようだ。
見学した欧米の人は
「原爆は戦争を早めに終結させるには必要な手段だったんだ」
とか
「連合軍側のオレたちを悪者あつかいしすぎる」
とかいう感想もある。
というか、むしろそっちのほうが多いかもしれない。

こんなことを言ったら怒られかねないが・・・
わたしは原爆はある意味で「しかたがない」的な側面があったのは理解するつもりだし、その意見に全否定しなければ倫理的に問題がある人かのように扱う今の風習もいかがなものかと思う。
だからわたしは先の欧米の人に対しても
「そうだよね~、君の意見はもっともだぜ」
と返事しても良い。

原爆資料館のいちばん最後には、見学者が好きなように感想を書いておけるノートが置いてあるのだが、そこにも
「原爆は戦争を早めに終結させるには必要な手段だったんだ」
とかいうような内容の英語の書き込みがなされているのも見てとれる。
(わたしは英語が苦手なので、得意な人はそれを良く読んで来てほしい)

まあ、しょーがねぇな。



しかし!

日本人とも欧米の人とも違う、我々の理解のはるか上をいく事を書き込んでいくヤツらもいる。

ヤツらは
「原爆で日本人がたくさん死んで嬉しい」
みたいな事を、わざわざヘッタクソな日本語で書き込んで帰っていく。

いったいなんなんだこいつらは!?
こんなヤツらは某国家のヤツら以外に考えられない!!



★日本に核を撃ち落し、海の藻屑にしたいと願っている韓国人
http://blog.goo.ne.jp/pandiani/e/f4148497e482e383bea17adc199d6599

日本大使の前で、ヒロシマ原爆をネタに下品に笑う韓国人
http://blog.goo.ne.jp/pandiani/e/ada4a7132824bf0e304172734fc18dab

<日本を核攻撃!「ムクゲの花が咲きました」>
http://blog.goo.ne.jp/pandiani/e/d1575011e07b3517da66f730f113b54f



べつにこれが韓国でなくてもいい。
だれでもいい。
人が死んだのを見て大喜びするようなヤツは人間のクズだ。
わたしが彼らのことを心の底から軽蔑しているのはここにある。

だいたい、モラルが欠けているので有名な2chでも、人が死んだのを見て大喜びなカキコをしたヤツは窘められる。
場合によっては
「韓国人みたいなことはするな」
と窘められる。

それくらい日本では人が死んだのを見て大喜びすることは道徳的に問題がある行いとされる。
それを一般人レベルで平気でやるのが韓国人なのだ。

このまえの四川大地震のときもそうだった。
たしかそのとき、中国のどこぞの掲示板では
「日本人は四川大地震を見て泣いた、韓国人は四川大地震を見て笑った」
という書き込みがあった。
これはヤツらを最も的確に表現したものだと思う。

韓国人はそうではないと言い切れる人、その人はぜひとも広島原爆資料館に行き、感想ノートのヘッタクソな日本語を読んでほしい。
あれを見て何とも思わないようだったら、そっちのほうがどうかしているだろう。



日本語を勉強する海外人口は韓国が一番多い。
人口密度で言えば他を引き離して圧倒的に高い。
(ちなみにこれは第2外国語が必修なのと、マイナーな第2外国語を選ぶと就職に不利だからという理由で、しかたなく選択で日本語を選んでいるだけだ)

わざわざ日本語を勉強して、
わざわざ日本へ来て、
わざわざ反日をして帰る。

こんな愚かなことをするのは韓国人くらいだ。

中国人もそうかもしれないが、その割合は韓国人ほど多くはないだろう。
日本に留学に来ている中国人たちはそんな強烈な反日ではない。
そもそも強烈な反日の中国人ならば、わざわざ日本に来たいとは思わないだろう。
観光に行くにしても日本を素通りして欧米へ行くに違いない。
それにわざわざ大嫌いな日本語を自主的に勉強しようとは思わないだろう。

後で記すが、これは中国人は日本人に対してコンプレックスがあるわけではないというのに起因する。

しかし、韓国人だけは違う。

大嫌いな日本へ留学に来たり、大嫌いな日本へ観光に来たりし、そしてわざわざ日本に来て反日活動して帰るのがヤツらだ。
なんてバカなヤツらだろうと、心の底からそう思う。



わたしだったら大嫌いな国へは行きたくない。
なぜなら、大嫌いな国へ行ってわたしのカネを支払いたくないからである。

わたしだったら大嫌いな国の物は買いたくない。
なぜなら、大嫌いな国の人が作った製品に対してわたしのカネを支払いたくないからである。

わたしだったら大嫌いな国の伝統や文化には興味がない。
なぜなら、大嫌いな国の人が作ったものでは楽しみたくないからだ。

ところが韓国人は違う。

韓国人は大喜びで日本へ旅行へ行き、そして自己満足的なしょーもない反日活動をして帰る。
韓国人は大喜びで日本製品を買い、そしてウリナラのサムソンのほうが優れているなどと言って悦に浸る。
韓国人は大喜びでJPOPや日本のドラマを見、そして芸能人の○○は韓国人だとか変な認定をして身内で盛り上がる。

これを日本コンプレックスと言わず何と言おう!

韓国は「自称」先進国だが、先進国がこんなんだと思われかねないとしたら他の先進国に対して失礼極まりない。
韓国が「自称」ではない先進国になる日は未来永劫来ない気がする。
先進国というのはサイフの中身だけでは決まらないからだ。

カスミを食らって生きる

2009-09-14 00:00:54 | オタネタ全般
> DS『ラブプラス』新聞に載る、「凛子は俺の嫁」
http://blog.livedoor.jp/jin115/archives/51565360.html



最近発売されたニンテンドーDS用ギャルゲー「ラブプラス」が、何だかやたらと人気らしい。
あげくの果てにはカラー写真つきで全国紙の記事にまでなってしまっている(上記リンク参照)。

くわしいことはよくは知らんが、普通のギャルゲーはプレーヤーが女の子を攻略するものなのに対し、ラブプラスは女の子にプレーヤーが攻略されるものなのだとか。
そこで世間ではこれを草食系男子向けとでも言うそうな。

まあきっと、
 攻略する=能動的=肉食系
 攻略される=受動的=草食系
ということなんだろう。



まあギャルゲーはおいといて、世間でも草食系を自認するヤツらは多いらしい。
何でも、
「恋愛関係にガッついていないから」
とか、そういう理由でみずからのことを草食系と言うそうな。

わたしはどうなのだろうか?

恋愛関係に[ガッついている]/[ガッついてない] で分けるとすると、どうにもこうにもどっちでも当てはまらないような気がする。

あえて言うならば・・・
肉を食らってそうなのが肉食系、
草を食らってそうなのが草食系、
さらにわたしの当てはまるカテゴリーを新設すると、
カスミを食らってそうなのが我輩、
・・・と分類してみるのが良くはないだろうか。

実体のない虚構の恋愛を食らって生きている者、それがわたしである。
肉食系とか草食系とかに対応する単語を新設するならば、カスミ(霞)を食らうということで霞食系とでも言ったらいいんじゃなかろうか。

ちなみに、カスミ(霞)を食うというのは仙人の生き方である。
実体のないモノを取り込んで自分自身の内なるもののなかだけで循環して生きていく、世俗を超越した人生ということでもある。



話は変わるが、昔とある宝石のキャッチセールスのねえちゃんに引っかかったてしまったことがある。
その時ねえちゃんは
「○○さんは何になりたいと思いますか?」
と聞いてきた。わたしはとっさに
「わたしは仙人になりたい」
と答えた。

キャッチセールスのねえちゃんの魂胆としては

・△△となって幸せな人生を送りたい
  ↓
・幸せな人生を送る過程ではいつかは結婚する
  ↓
・今のうちから準備をしましょう
  ↓
・だからこのダイヤ買ってね♪

という3段論法ならぬ4段論法でダイヤを売りつけようとしたわけだ。
要点だけ羅列するとどう考えても論理が破綻しているようにしか見えないが、相手も売りつけるためのマニュアルを完備しているその道のプロなわけで、その場ではそこまで破綻しているようには聞こえないからフシギなものだ。
フツーの若い男ならそこでひっかかっていりもしないダイヤを買ってしまうことになるのだろう。
ところが、わたしみたいな変なのをとっ捕まえたおかげで、その魂胆はものの見事に崩壊したわけだ。

奴「その仙人のような人生って幸せなんですか?」
俺「幸せだと思いますけど?」
奴「そうですか・・・」

奴「いつかは結婚したいと思いませんか?」
俺「断固したくないとは思わないけど、特にしたいとも思わないかな」
奴「そうですか・・・」

奴「今のうちから将来の奥さんのために準備をしておきませんか?」
俺「たぶん結婚する確率は5割を大きく下回る。予想が外れた場合のリスクを考えたら準備をするのは投資に見合わない」
奴「そうですか・・・」

奴「(前略)~だから今のうちからダイヤを買っておいてですね」
俺「いやだから、そんな永久に使う機会なさそうなものいらねぇって」
奴「そうですか・・・」

自分で言うのもなんだが、カスミを食って生きてそうなヤツに対して、世俗の小さな幸せを煽って感情論で高額物品を売りつけようとしても土台ムチャな話であろう。



先のリンク先の記事に

> あまりにリアルなコミュニケーションに、
> 「3次元(現実)の女子はいらない」
> との書き込みに同意しかけた。

というのがある。
世間でも、カスミを食らうがごとく、虚構の恋愛を食らって生きることを理解しはじめたようだ。

ようやく世間はわたしに追いついたということか。

恋のコモディティー化

2009-09-13 00:09:42 | オタネタ全般
『恋とは物欲である。』

・・・というと、いつにも増して言いたい放題な感じではあるが、今日のところはそう断言してみたい。
なぜなら、恋と物欲には共通点が多いからだ。



物欲とは、特定の物品を欲しがる欲求のことを指す。
恋とは、特定の異性を欲しがる欲求のことを指す。

物欲の悩みの解消には、特定の物品を与えてやれれば手っとり早く収まる。
恋の悩みの解消には、特定の異性を与えてやれれば手っとり早く収まる。



さて。
わたしは物欲には2種類あるように思っている。


その①
そうカンタンに手に入らない高額物品を欲しがる衝動。

たとえば高級車が欲しいとかブランドのバッグが欲しいとかいうのはこれにあたる。

それらは車やバッグの持つ性能に惹かれたのではなく、たいがいは値段が高いから所有欲をかきたてられて惹かれるのである。
もっと言えば、人がカンタンには買えないほどのレアな高額商品だから、それを持っていればステータスアイテム化するために人に欲しがられるのである。


その②
高額物品に限らず特定のカテゴリーのものを欲しがる衝動。

たとえばマイカーが欲しいとかパソコンが欲しいとかいうのはこれにあたる。
昭和の子供のアイテムでいうと、キン消しとかビックリマンシールとかもそれに近いかもしれん。

これらの物は単に持っていないから欲しいというものだろう。
レア商品でなく、どちらかというと商品的には①よりもコモディティー化(※1)しているものが多い。



では恋の話に。

恋の欲求をカテゴライズするとどうなるだろうか?

どう考えても①に該当するものだろう。

だれもが所有欲をかきたてるようなイイ男/イイ女を欲しがるのがキホンだ。
そしてそういうモノは競争率が高いから入手困難なレア商品(?)でもある。

なかには何でもいいから恋人が欲しいというところまで閾値を下げる場合もありうる。
その場合は②に近いかもしれん。
とはいえ、こういうのはかなり妥協しての言動であろう。



物欲の満たし方を考えてみよう。

②の場合はとりあえず買っちゃえばいい。
キホン的にコモディティー化しているので入手はカンタンだ。

①の場合はとりあえず買っちゃうわけにもいかないケースが往々にしてある。

独身の社会人ならかなりのモノはポイポイ買えるほど資金力はある。
学生や既婚子連れだとかなりキビシイかもしれん。
今すぐそれを満たせないとしても、とりあえずがんばってカネを溜めてそのうち買えば良い。

とはいえ、どちらにせよかなりの金銭的な対価を要求されるのは間違いない。
大概の場合は、たとえばレクサスLSを一括で買えるほどの資金力があったとしても、そんなものにカネを使うのはアホらしいと思い、物欲が対価に見合わないからもっと安いの、いわゆるコモディティー商品で済ますのがフツウである。

ようするに入手しやすい代替物で当面ガマンするという手段がとられる。

コモディティー商品は値段が全てなのでとにかくコストパフォーマンス(※2)が良い。
他の工業製品に比べると、たとえば完全にコモディティー化しているパソコンなんか、性能を考えたら値段はメチャメチャ安いと思う。



恋の満たし方はどうだろう。

恋の欲求は①だ。
確率的な意味で言えば、カンタンに入手することができないケースのほうが多い。

金銭的な対価を支払って満たす方法はたしかにある。
しかし、こういうのはかなりアレな労働を相手に強いるものなので、こちらが支払う人件費相当はかなり高額になる。
自分がモテる努力をして相手を探す努力をするのと、これだけの金銭を支払うのと、どっちがカンタンかなのかはかなり難しいものがある気がする。

ではどうだろう。
代替物で当面ガマンするという手段はとりうるだろうか?
対価に見合わないからもっと安いので済ますという手段はとりうるだろうか?

これはとりうる。

恋の欲求を満たすコモディティー商品を買ってくればいい。
はやい話、実在のねえちゃんでは高額すぎるから、絵に描いたねえちゃんを消費するということ。



わたしは思うところがある。

実在のねえちゃんにモテるようになるほど努力するのはアホらしい。
そんな高い服を買うカネや散髪に凝るカネがあったとしても、気分的にはドブに捨てているのと大して変わらない気がしてならない。
そんな腕前を磨く時間があれば、本でも読んでるか、アニメでも見てるか、昼寝でもしてるか、そんなほうが有意義な気がしてならない。
かといって金銭的な対価を支払って満たすにしても、高額すぎるのでこれはこれでアホらしい。

ところが!
絵に描いたねえちゃんならカンタンに手にはいる。
モテるようになるために努力するだけの時間やカネを他に回せる。
ついでにいうと、現物では見たこともないようなイイ女が手に入る。
コストパフォーマンスからいえばこんなに素晴らしいものはない。

絵に描いたねえちゃんはいわゆる量産品でもあるので、いわゆる恋の欲求をカンタンに満たすためのコモディティー商品だと言ってもいいだろう。
そして今日もまたわたしはロザリオとバンパイアの等身大ポスターを買ってしまい、またそれを眺めてニヤニヤして過ごすのである。
ところがニヤニヤして過ごすのにかかる費用はわずか2000円ほどしか消費しないのだ。

ついでにいうと、こんなにカンタンにイイものが手に入るのを知ってしまうと、もう現物に手を付けたいと思う気持ちが完全に失せてしまう。
努力を消費するにせよ、時間を消費するにせよ、カネを消費するにせよ、とにかく現物の恋愛はコストパフォーマンスが非常に悪い。



ただし、この方法にはデメリットもある。

コモディティー商品では、高級車やブランドのバッグのようないわゆるステータスアイテム化は行われない。
だから、②に近い形の恋の欲求は満たせるが、①に近い形の恋の欲求は満たすことができない。

ある意味、コストパフォーマンスを気にするような経済学的トレードオフの打算のほうが感情を上回るような人でなければ満足できないだろう。

ようするに、カネ無いのにフルローンでレクサスLSを買ってしまうような人には向かない。
そして、レクサスLSを一括で買えるだけのタマはあってもアホらしいから買わないと思っている人にはこれは向いている。

さああなたもコストパフォーマンスのよい2次元世界へと来たれ。



【※1 コモディティー化】

> ある商品カテゴリにおいて、競争商品間の差別化特性(機能、品質、ブランド力など)が失われ、主に価格あるいは量を判断基準に売買が行われるようになること。一般に商品価格の下落を招くことが多く、高価な商品が低価格化・普及品化することを“コモディティ化”という場合もある。
(以下略)

http://www.atmarkit.co.jp/aig/04biz/commoditize.html



【※2 コストパフォーマンス】

> 価格性能比。
> ある商品に設定された価格の妥当性を形容する際に用いられる言葉。
> 価格に対して期待される性能(内容)と比べ、実際の性能(内容)が釣り合っているかそれ以上の場合には「コストパフォーマンスが良い」「コストパフォーマンスが高い」と形容する。
> 逆に、価格に対して期待される性能(内容)と比べ、実際の性能(内容)が劣っている場合には「コストパフォーマンスが悪い」「コストパフォーマンスが低い」と形容する。
> 類語として「対投資効果」がある。

http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B3%A5%B9%A5%C8%A5%D1%A5%D5%A5%A9%A1%BC%A5%DE%A5%F3%A5%B9



追伸:

ハヤテのごとく!S2の25話に、なかなかこうグッとくるセリフがあったので転載したい。

歩「でも、だったらヒナさんも告白とかしないんですか?」
雛「へ?」
歩「べつにそういうこと、私に気を使わなくてもいいんですよ」
雛「私は、告白とかしないと思うんだ・・・」
歩「どうしてですか? やっぱり私に気をつかって・・・?」
雛「うぅ、いや、その、言いにくいことなんだけど、自分から『好き』とか言うなんて、負けた気がして恥ずかしいじゃない!」
歩「・・・何ですかその子供理論は!?」
雛「大事なことよ、大事な! そりゃ向こうから告白してきたんなら考えなくもないけど、自分から言うなんてそんなの断固お断りよ!」
歩「あの、恋愛は別に勝ち負けの問題じゃないと思うんですけど・・・」

青の6号と魂の雄叫び

2009-09-12 00:00:00 | オタネタ全般
某blog(※1)で青の6号ネタやってたので、ひさびさにまた見たくなったので見直してみた。
もうぼちぼちできてから10年くらいになる作品である。



話は少しさかのぼったところから始めよう。

もともと青の6号を見る前からGONZOという名前だけは見たことはあった。
ゲームのクレジットに時々GONZOというロゴが出ていたからだ。

それらのゲームは、ムービーシーンを含めた作品の雰囲気の出しかたにとくに気をつかった作品が多かった。
ただ、それがGONZOと関係があるかどうかについては当時は知る由もなかった。
当時は気にもしていなかったから、残念ながらどのゲームがそれだったのかをもうほとんど憶えていない。



そしてそのGONZOがアニメ屋だとわかったのはとある偶然によるものだった。

レンタルビデオ屋で
「なんかおもしろそうなOVAないかな・・・」
と物色していたときだった。
(そういえば当時はDVDなんてのはレンタルしてなくて、今やなつかしのアナログ磁気テープだったなぁ。)

本当に何となく手にとった。
青の6号とはそんな出会いだった。

家に帰ってレンタルしてきたビデオを再生した。
これには度肝を抜かれた。
再生してすぐに始まる3DCGで描かれた波の質感から潜水艦から何から、映像の美しさに惚れこんでしまった。

そしてよくよく見てみると、クレジットはGONZOとなっていた。
「そうか、GONZOはアニメ屋だったのか・・・、だからあのゲームたちはムービーシーンで格別にいい雰囲気を出していたのか・・・」
と、そのとき改めて納得した。
既にこのときにはGONZOファンになってしまっていた。

全盛期には年に8本のアニメを抱えられるにまで成長したが、当時は完全に無名だった。
作品がOVAで、しかも無名作品のOVA化(当時は原作のマンガなど知らずアニメがオリジナルだと思っていた)だったのだから、なおさら出だしは無名だった。

ひところわたしは青の6号の素晴らしさについて良く語ってみたものだが、誰にも相手にされなかった。
アニメの消費量が多いエヴァンゲリオンのファンの人たちでさえ
「なにそれ? そんなの見ねえよ」
という有様だった。
そのうちにわたしは青の6号について語るのをやめた。

しかし、あれだけの作品を生み出せる会社が、ただの無名な零細企業なままで終わるはずもなかった。
なかには当時にしてみれば青の6号のGONZOらしからぬと思うような作風の作品もあったと感じたのも事実だが、アニメの製作本数は年を追うごとにどんどん増えていった。

後の会社の成長っぷりを見るかぎりにおいて、わたしの目に狂いは無かったと確信した。
そのときはちょっぴり誇らしく思ったものだ。
(さらにその後には債務超過で上場廃止になってしまい、ある意味わたしの目はフシアナだったとも言えるのだが、まあそれはおいといて)



さて、いま改めて青の6号を見直してみて新たに感じることもある。

良くも悪くもラストエグザイルやサムライ7を作ったGONZOの原点がここにある。
さらに言うと、ガイナックスの不思議の海のナディアに対してのカウンター作品のように見える。

まずナディアも青の6号も、どちらも超科学で作られた潜水艦での戦闘をテーマにしたSFという、同じ土俵で作られている。
今にして思えば、これはわざとなのではなかろうかと勘ぐってしまいたくなるところである。

ようするに、
「オレたちならこうするんだ!」
と世間に主張したいがために、あえて同じ土俵にしたのではないかと思うわけだ。

ナディアと青の6号は一見似てはいるかもしれないが、実は共通点はそれくらいしかなく、他はことごとく別物に作られている。


ナディアでは、世界征服をもくろむ悪の組織を率いる巨悪のボスと大戦闘をくりひろげ、結局のところ暴力で最終的解決をはかる。
青の6号では、暴力をもって悪の組織を滅ぼさんとする味方を止め、最後は話し合いで解決する。


ナディアでは、誰だかよくわからんような人の作った超兵器を使って、誰だかよくわからんような悪い人たちと戦う。
青の6号では、かつて人の造ってしまった超兵器を使って、人の造ってしまった人ならざる者たちと戦う。


ナディアでは、SF作品でありながら人物描写に非常に力を入れていて実に燃えに萌える人たちが出てくる反面、メカや背景の作画自体には大して興味を引くほどのものでもない。
青の6号では、メカや背景の3DCGが声も出ないほど美しい反面、他のGONZOのSF作品に多いように描かれた人物の印象がイマイチ希薄なままになっている。


ナディアでは、戦闘シーンでは戦闘そのものよりも艦内のクルーの悲喜こもごもが見せ場になっている。
青の6号では、戦闘シーンでは戦闘する兵器の美しさと3次元空間で戦う広がりを持った戦術そのものを見せ場にしている。

これらは、極端なことを言ってしまうと、2つの主張があるように思える。

①②からは、子供むけアニメのような勧善懲悪的なものを作ることに対して「否!」と言い、もっといい歳こいたオトナが見てもおもしろい作品を作らんとする事。
③④からは、SF作品において人物描写で勝負することに「否!」と言い、SFでは世界観やメカや戦闘そのものの描写のほうが本質であると主張する事。

それもそのはず、不思議の海のナディアに対してのカウンター作品のように見えるのも当然だ。
不思議の海のナディアのスタッフの何人かが放送後に抜け出して作った会社がGONZOで、しかも自前で作った最初のアニメが青の6号なのだからだ。

ナディアの監督はかなり個性豊かではあるものの、反面かなりワンマンな感じがする人物でもある。
クリエイティブに生きる情熱的なスタッフたちは、そこではやりたい事を却下されて不満に思っていたかもしれない。

だから、新たに会社をおこし
「オレたちならこうするんだ!」
という魂の雄叫びをそこに織り込んだようにも見えてしまうわけである。

今やGONZOには創業当時のメンバーはほとんど残ってはいない。
彼らは新天地を求めて別の場所で勝負を挑もうとしている。
彼らはこれからいったいどんなものを作りにかかるだろうか。

青の6号で受けたの同じくらいの衝撃を与えてくれることに期待したい。
創業メンバーかつ元社長のおこしたΛ FILM(※2)はその中でも特に注目すべき存在であろう。



追伸:

今回はアンチ不思議の海のナディアっぽくなってしまったが、わたしはナディアも青の6号も両方とも大好きだ。
それに、今回は違うところばかりピックアップしてみたが、細かいことを挙げると共通点もかなりたくさんある。
一応それらは過去記事で書いたことがあるので、そちらを参照ねがう。

ナディアとラストエグザイルの共通点
http://blog.goo.ne.jp/beamtetrode350b/d/20090605

ホントはすごいナディアのガーゴイル
http://blog.goo.ne.jp/beamtetrode350b/d/20090420

ノーチラス号の外装のヒミツ
http://blog.goo.ne.jp/beamtetrode350b/d/20090427



【※1 某blog】

個人就活ブログ ...
http://japanimation.blog72.fc2.com/



【※2 Λ FILM】

Λ FILM
村濱章司
http://www.lambdafilm.co.jp/