人の顔みたいですね。
これは宮之城と祁答院の間に壁のようにそびえている高倉山~弥三郎ヶ岡の北端にあります。
「萬次郎が岩」というそうです。
「国鉄・宮之城線の今」で、たまには高い所から線路跡を見下ろすような写真を撮りたいと思っていたし、ちょうど佐志駅手前のカーブの美しさはやはり高い所から写すのが一番です。
道路沿いに携帯電話の電波塔が立っていました。そこが岩への入り口です。
また、入り口には「北薩摩 秀吉の道」という立て札もありました。
と同時に、電波塔の北側斜面は見事に伐採されており、佐志駅、薩摩湯田駅、鶴田の中心部など見下ろすことができました。
佐志駅手前のカーブは後日、アップしますね。
さて、この岩まではたいした距離はないのですが、後200mの看板の辺りから急斜面になり、そのうち立ち止まっていても、落ち葉のためにずるずると滑っていくようになりました。
でかい岩でストップがかかりましたが、今度はロープやはしごもあります。
そこに萬次郎が岩がありました。
もう少し下った所に「天乞が石(あまごいがいわ)」と場所があり、そこに時吉萬次郎(1836年生)という一向宗の指導者がおり、薩摩藩禁制の一向宗を指導していたそうです。ここはその避難の場だったらしいのです。
その彼がさらに山を登り、この電波塔の所を通って各地に向かっていたとのこと。
ちなみに、ここは豊臣秀吉が九州征伐の際(1587年)、宮之城領主・島津金吾にだまされて通った最悪のルートにもなります。
私も近くを歩きましたが、
幕末の混乱期に、萬次郎が島津藩の武士たちの追手を逃れ、
秀吉が金吾に切腹を申しつける気持ちも分かるような急坂です。
これは宮之城と祁答院の間に壁のようにそびえている高倉山~弥三郎ヶ岡の北端にあります。
「萬次郎が岩」というそうです。
「国鉄・宮之城線の今」で、たまには高い所から線路跡を見下ろすような写真を撮りたいと思っていたし、ちょうど佐志駅手前のカーブの美しさはやはり高い所から写すのが一番です。
道路沿いに携帯電話の電波塔が立っていました。そこが岩への入り口です。
また、入り口には「北薩摩 秀吉の道」という立て札もありました。
と同時に、電波塔の北側斜面は見事に伐採されており、佐志駅、薩摩湯田駅、鶴田の中心部など見下ろすことができました。
佐志駅手前のカーブは後日、アップしますね。
さて、この岩まではたいした距離はないのですが、後200mの看板の辺りから急斜面になり、そのうち立ち止まっていても、落ち葉のためにずるずると滑っていくようになりました。
でかい岩でストップがかかりましたが、今度はロープやはしごもあります。
そこに萬次郎が岩がありました。
もう少し下った所に「天乞が石(あまごいがいわ)」と場所があり、そこに時吉萬次郎(1836年生)という一向宗の指導者がおり、薩摩藩禁制の一向宗を指導していたそうです。ここはその避難の場だったらしいのです。
その彼がさらに山を登り、この電波塔の所を通って各地に向かっていたとのこと。
ちなみに、ここは豊臣秀吉が九州征伐の際(1587年)、宮之城領主・島津金吾にだまされて通った最悪のルートにもなります。
私も近くを歩きましたが、
幕末の混乱期に、萬次郎が島津藩の武士たちの追手を逃れ、
秀吉が金吾に切腹を申しつける気持ちも分かるような急坂です。