ぶちょうほうの画(え)日記(一語一画(え))

亭主「ぶちょうほう」の身の周りのいろいろな風物を「画(え)日記」ふうに綴っています。

12/12日 浜石岳と薩埵峠 その6(最終記事):薩埵峠着 最後の富士山を見て興津駅まで下る。

2019-12-21 07:10:57 | 草花
由比から興津に至る区間は山と海が近く、急峻な斜面が海に迫り、昔から交通の難所とされていたそうです。
近現代ではこの場所に交通の大動脈が集中していて日本経済の基盤を支える部分でもあります。
そんな場所でも自然災害は容赦なく襲い掛かり、小生が記憶しているだけでも昭和36年3月と昭和49年7月に地滑り災害が発生しています。
特に昭和49年の時は国道一号が23日も不通になり、東名高速は5日間、東海道本線は7日間の不通をと大打撃を蒙っています。

災害場所は、歩き始めに通った今宿地区に地滑り被災地があったはずですが気づきませんでした。そのほかの大部分は興津駅と由比駅の間に集まっています。
今山行では山側の海岸から遠いところを歩いていますので、そのことを実感できませんでした。

カラスウリ ↓

薩埵峠の手前の山側で枯れ気味の赤い実がぶら下がっています。


薩埵峠の展望個所に着きました。 ↓

車の駐車スペースの他にトイレもありました。

ここで小休憩を取りましょう。

富士山 ↓

こういうアングルで見えています。



ビワの花 ↓

すぐ下でビワの花が咲いています。



石碑 ↓

薩埵峠山之神遺跡と彫られています。



幸田文の碑文 ↓

地滑りに並々ならぬ関心を持っていて、全国の崩壊地を訪ねて、つぶさに調べていた幸田文の随筆「崩れ」より引用された文言が刻まれています。

碑文には「由比の家ある風景をみると、その安らぎがあってほっとしたのだが、佇んで眺めていれば、ひとりでに家のうしろの傾斜面をみてしまう。 草木のあるなんでもない山なのだ。 だが、そこを見ていると、なにかは知らず、土よ、いつまでも平安であれ、と念じていた」とありました。


休憩はごく短時間でしたが、その間に下の写真で前を歩く男性と会話しました。 ↓

彼は小平市に在住の方で、東海道を歩いていて、この時は歯抜けになっていた部分を繋いでいて、この日の宿は興津に取ってあるとのことでした。



愛鷹連峰 ↓

夕景になり、割合はっきりと見えるようになってきました。



箱根の山 ↓

箱根の山も朝よりもはっきりと見えています。



深海探査船か? ↓

伊豆半島をバックにして浮かんでいる船は深海探査船の「ちきゅう」でしょうか?



最後の富士山 ↓

ここで見た富士山を最後のものとしておきます。



ここにも薩埵峠 ↓

今山行中に「薩埵峠」という場所に三か所も出会ってしまい混乱していますが、本来的な意味での薩埵峠はここを指すのではないでしょうか。この場所は幸田文の石碑のあった薩埵峠(展望所)から興津駅に向かって山道を700メートルほど歩いたところにあります。



階段を下りて街道まで ↓






興津駅 ↓

興津駅に着いたのは夕暮れ時の午後4時40分でした。



車内 ↓

駅のホームには既に電車が据え付けられていました。電車を乗り継いで午後八時過ぎに帰宅しました。
コメント (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする