よくよく考えてみるとこのワタシメ、釣竿・釣り道具はもとより着る物、靴、傘、調理小道具、さまざまな工具類まで、身に付けて使うモノが昔から大好き♥と来ております。
まあ、こういうのを「使う」、ではなくて「遊ぶ」というあまり上品でない形容の仕方もあるわけですけれども、ちょっとでも気に入らないところがあるとご多分に漏れず改造したくなっていられなくなり、揚げ句の果てには修理不可能となるなどということも過去にはございました。
今回は装いも新たに竹田家兵法書「具足編」ということで、「釣り」にこだわらず日本文化の身体感覚を取り戻してみようという主旨でございます。唯脳論の「触覚系」をトレーニングする有益なツール群として、参考にしていただければ幸でございます。
さて、鮎釣りの名人に野島玉造さんという方がおられるのですが、並ぶ者のない「激流立ち込み師」として有名で、ビデオも多数出ています。もちろん、立ち込めばシブキですぐにずぶ濡れになるような急流に入り、その急流の中にいる大型の鮎を狙うわけです。
以前、鮎タイツを買ったので、ちょっとマネして流心に入っていこうとしたのですが、渓流域にも関わらずやっぱりダメで、すぐにギブアップでした。もちろん「ふんばり過ぎると、流されるよ」という野島さんの言葉も頭に入っていたのですが…。
一体全体、野島さんの足はどうなっているんでしょうか。
以前お会いした時、身長170cm位とお聞きしましたので特別大柄というわけではありません。その時の印象では、特別マッチョというわけではなかったですが、表面に現れない筋肉が感じられる、引き締まったがっしりとした体躯の持ち主でした…。
話は変りますが、メバリング界の大御所が以前、自身のブログで「手の感度」という言葉を使っていました。手の感度が人によって違う…感度の良い人と、悪い人がいるというのです。
皮膚ではなく“手”そのものに「感度」があるということは、よく考えてみると意外な感じを受けるわけですけれども、このことは金属加工や光学製品の熟練した職人さんの仕事を合わせて考えてみると、「なるほど」という感じを受けます。
以前造幣局の記念硬貨を製作している職人さんがTVに出ていて、「ヤスれるようになるのに○年」といっていたのを観てビックリした記憶があります。ただ材料にやすりを掛けるだけの作業なのだから、素人でもすぐにできそうな印象を受けます。映像を見ても、熟練した職人さんのやすり掛けの作業は、自分ら素人のする作業と何ら違いはないように見えました。さしずめ、ヘンなことを言う偏屈オヤジって感じですね。
ところが、です。ここで思い起こされるのは、近所に住んでいた旋盤の職人さんのことです。
職人さんはウチにあったドリルの刃をダイヤモンドやすりで無造作に研ぎ始めました。「ああ、そんなことをしたら、刃先がダメになってしまう!」そう思ったのでした。それは、自分がダイヤモンドやすりで丁寧に研ぎながら使っていたものだったからです。それくらい、職人さんの手付きは無造作だったのです。それは、酒が入っていたせいもあると思うのですが、いかにも不器用そうなものでした。
職人さんはゴシゴシと10秒ほど研いだ後、「何か木を持って来な」といいました。自分は台所にあった割り箸を渡しました。「穴を掘ってみろ」。すると、なんと!職人さんが無造作に研いだドリルの刃は、以前よりも格段に切れるものになっていたのです。
考えられることはただ一つ。旋盤の職人さんが研いだドリルの刃は、自分が丁寧に研いだものとは刃のミクロの表面の状態がまるで違うものになっていたのだろうということです。自分が研いだものは、滑ってしまい、ドリルに装着しないで手で穴を掘るなどということは考えもつかないほどでした。
造幣局の職人さんの言う「やすれる」という状態は、このようなミクロの表面状態をイメージしながら削っていくということなのではないかと思った次第なのであります。職人さんの頭脳の中には、切れる表面、光沢のある表面、なまくらな表面…、それこそ無数の表面状態の感触がインプットされているわけです。
そしてこのような金属の表面状態は、顕微鏡で観るのではなく、やすりを通して手に伝わる感触を頼りに把握している…。
仕事で「目が慣れる」のには2、3日とか一週間もあれば充分ですが、手感で表面状態の違いを区別できるようになるには、やはり途方もない年月が掛かると思います。
と、ここまで考えてくると、メバリング名人の言う「手の感度」というものも、なんとなく分かるような気がするのです。
野島さんの足も、やはり川底の状態を詳細に把握できるだけの感度を持っているのではないでしょうか。そしてもちろん、そうした川底や石の表面の感触が豊富にインプットされていると…。
「唯脳論」の考え方がここでも適用できるとするなら、これはまさしく触覚系言語。これが、脳の中で見事に構築され、言うなれば足が眼の代わりにもなるほどに研ぎ澄まされていることになるわけです。
さしずめ激流鮎師の頭の中では、鮎足袋を石に置いた瞬間、ただちに、その石はざらざらしているのかそれとも滑らかなのか、どれくらい苔が生えていてどれくらい滑るのかとか、浮き石なのかどうかとか、あらゆる情報が脳の中で構築されて足を置いた石のリアルなイメージが浮かび上がるようになっているのではないでしょうか。
現代人は365日、靴や靴下を履いて生活していますから(石田純一さんは別ね)、意識的にトレーニングしてやらないと、足の感触に対応した脳の領域が発達してくれない、こういうことになるのではないでしょうか。
自分も足を怪我したから分かるんですけれども、足を怪我してから、明らかに左足の感触が鈍った感じがあるんです。そうするとどうしても不安になるから、ついつい足下に目が行くようになります。触覚系が衰えた分だけ視覚系が優勢になってるわけです。
NHK大河ドラマで、坂本龍馬が北辰一刀流の道場の門を叩くと、いきなり特殊な修行をさせられるわけです。豆を床にばらまかれ、「豆を踏むな!」。龍馬が足下を見ようとすると「足下を見るな!」と言われたシーン。まさしくこれだな、という気がしました。
まあ、豆をまかなくても、足の感触、つまりたくさん歩くということもそうですし、なるべくクッションの入っていない靴を履くというのもそうでしょう。靴下もなるべくなら履かない方が、脳に入ってくる情報・刺激は多くなるはずです。
というわけで、ワタシメが愛用するのがこのKEENのCimarron(シマロン)。
普通のスニーカーのように見えますが実はサンダルで、アッパーはメッシュになっています。パッと見スニーカーですからどこでも違和感なく履けます。もともと素足で履くように設計されていますからフィット感が抜群で、地面を踏みしめる感覚が掴めます。このサンダルは猛烈にワイドで、非常に幅広になっていますから、足の指を開いた状態で歩くことができるわけです。
これが、ソールがすり減ってきてからが凄いです。感触はまるで地下足袋です。
で、時々こちらの下駄を履きます。足の裏の固い感触が何とも言えません。
削り出しとでも言うんでしょうか、一枚板で出来ていますから、非常に頑丈で、階段の上り下りなどの時も気を使わなくて平気です。
と、いうわけで、貴方も下駄とKEENで、本格激流立ち込み師に??…わけないか。
まあ、こういうのを「使う」、ではなくて「遊ぶ」というあまり上品でない形容の仕方もあるわけですけれども、ちょっとでも気に入らないところがあるとご多分に漏れず改造したくなっていられなくなり、揚げ句の果てには修理不可能となるなどということも過去にはございました。
今回は装いも新たに竹田家兵法書「具足編」ということで、「釣り」にこだわらず日本文化の身体感覚を取り戻してみようという主旨でございます。唯脳論の「触覚系」をトレーニングする有益なツール群として、参考にしていただければ幸でございます。
さて、鮎釣りの名人に野島玉造さんという方がおられるのですが、並ぶ者のない「激流立ち込み師」として有名で、ビデオも多数出ています。もちろん、立ち込めばシブキですぐにずぶ濡れになるような急流に入り、その急流の中にいる大型の鮎を狙うわけです。
以前、鮎タイツを買ったので、ちょっとマネして流心に入っていこうとしたのですが、渓流域にも関わらずやっぱりダメで、すぐにギブアップでした。もちろん「ふんばり過ぎると、流されるよ」という野島さんの言葉も頭に入っていたのですが…。
一体全体、野島さんの足はどうなっているんでしょうか。
以前お会いした時、身長170cm位とお聞きしましたので特別大柄というわけではありません。その時の印象では、特別マッチョというわけではなかったですが、表面に現れない筋肉が感じられる、引き締まったがっしりとした体躯の持ち主でした…。
話は変りますが、メバリング界の大御所が以前、自身のブログで「手の感度」という言葉を使っていました。手の感度が人によって違う…感度の良い人と、悪い人がいるというのです。
皮膚ではなく“手”そのものに「感度」があるということは、よく考えてみると意外な感じを受けるわけですけれども、このことは金属加工や光学製品の熟練した職人さんの仕事を合わせて考えてみると、「なるほど」という感じを受けます。
以前造幣局の記念硬貨を製作している職人さんがTVに出ていて、「ヤスれるようになるのに○年」といっていたのを観てビックリした記憶があります。ただ材料にやすりを掛けるだけの作業なのだから、素人でもすぐにできそうな印象を受けます。映像を見ても、熟練した職人さんのやすり掛けの作業は、自分ら素人のする作業と何ら違いはないように見えました。さしずめ、ヘンなことを言う偏屈オヤジって感じですね。
ところが、です。ここで思い起こされるのは、近所に住んでいた旋盤の職人さんのことです。
職人さんはウチにあったドリルの刃をダイヤモンドやすりで無造作に研ぎ始めました。「ああ、そんなことをしたら、刃先がダメになってしまう!」そう思ったのでした。それは、自分がダイヤモンドやすりで丁寧に研ぎながら使っていたものだったからです。それくらい、職人さんの手付きは無造作だったのです。それは、酒が入っていたせいもあると思うのですが、いかにも不器用そうなものでした。
職人さんはゴシゴシと10秒ほど研いだ後、「何か木を持って来な」といいました。自分は台所にあった割り箸を渡しました。「穴を掘ってみろ」。すると、なんと!職人さんが無造作に研いだドリルの刃は、以前よりも格段に切れるものになっていたのです。
考えられることはただ一つ。旋盤の職人さんが研いだドリルの刃は、自分が丁寧に研いだものとは刃のミクロの表面の状態がまるで違うものになっていたのだろうということです。自分が研いだものは、滑ってしまい、ドリルに装着しないで手で穴を掘るなどということは考えもつかないほどでした。
造幣局の職人さんの言う「やすれる」という状態は、このようなミクロの表面状態をイメージしながら削っていくということなのではないかと思った次第なのであります。職人さんの頭脳の中には、切れる表面、光沢のある表面、なまくらな表面…、それこそ無数の表面状態の感触がインプットされているわけです。
そしてこのような金属の表面状態は、顕微鏡で観るのではなく、やすりを通して手に伝わる感触を頼りに把握している…。
仕事で「目が慣れる」のには2、3日とか一週間もあれば充分ですが、手感で表面状態の違いを区別できるようになるには、やはり途方もない年月が掛かると思います。
と、ここまで考えてくると、メバリング名人の言う「手の感度」というものも、なんとなく分かるような気がするのです。
野島さんの足も、やはり川底の状態を詳細に把握できるだけの感度を持っているのではないでしょうか。そしてもちろん、そうした川底や石の表面の感触が豊富にインプットされていると…。
「唯脳論」の考え方がここでも適用できるとするなら、これはまさしく触覚系言語。これが、脳の中で見事に構築され、言うなれば足が眼の代わりにもなるほどに研ぎ澄まされていることになるわけです。
さしずめ激流鮎師の頭の中では、鮎足袋を石に置いた瞬間、ただちに、その石はざらざらしているのかそれとも滑らかなのか、どれくらい苔が生えていてどれくらい滑るのかとか、浮き石なのかどうかとか、あらゆる情報が脳の中で構築されて足を置いた石のリアルなイメージが浮かび上がるようになっているのではないでしょうか。
現代人は365日、靴や靴下を履いて生活していますから(石田純一さんは別ね)、意識的にトレーニングしてやらないと、足の感触に対応した脳の領域が発達してくれない、こういうことになるのではないでしょうか。
自分も足を怪我したから分かるんですけれども、足を怪我してから、明らかに左足の感触が鈍った感じがあるんです。そうするとどうしても不安になるから、ついつい足下に目が行くようになります。触覚系が衰えた分だけ視覚系が優勢になってるわけです。
NHK大河ドラマで、坂本龍馬が北辰一刀流の道場の門を叩くと、いきなり特殊な修行をさせられるわけです。豆を床にばらまかれ、「豆を踏むな!」。龍馬が足下を見ようとすると「足下を見るな!」と言われたシーン。まさしくこれだな、という気がしました。
まあ、豆をまかなくても、足の感触、つまりたくさん歩くということもそうですし、なるべくクッションの入っていない靴を履くというのもそうでしょう。靴下もなるべくなら履かない方が、脳に入ってくる情報・刺激は多くなるはずです。
というわけで、ワタシメが愛用するのがこのKEENのCimarron(シマロン)。
普通のスニーカーのように見えますが実はサンダルで、アッパーはメッシュになっています。パッと見スニーカーですからどこでも違和感なく履けます。もともと素足で履くように設計されていますからフィット感が抜群で、地面を踏みしめる感覚が掴めます。このサンダルは猛烈にワイドで、非常に幅広になっていますから、足の指を開いた状態で歩くことができるわけです。
これが、ソールがすり減ってきてからが凄いです。感触はまるで地下足袋です。
で、時々こちらの下駄を履きます。足の裏の固い感触が何とも言えません。
削り出しとでも言うんでしょうか、一枚板で出来ていますから、非常に頑丈で、階段の上り下りなどの時も気を使わなくて平気です。
と、いうわけで、貴方も下駄とKEENで、本格激流立ち込み師に??…わけないか。