いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

オール人力狙撃システム試作機

続・反省なき愚劣国家、日本

2012年04月10日 14時23分25秒 | おかしいぞ
(つづきです)


ヘンな喩えですが、ご容赦を。

◇過去の事故:
甲は、寸胴鍋でお湯をわかし、ポットに移し替えて使っていた。ある時、お湯が沸騰し過ぎて鍋の蓋が飛び、湯が溢れた。これに慌てた甲は、急いでポットに移そうとしたところ、動揺していた為にお湯を大量にこぼして大火傷を負った。

◇新安全基準:
①蓋の上に”重り”を貼り重くする
②蓋に蒸気の抜け”穴”を開ける
③ポットに移す際には”鍋つかみ”を使用
④ポットに移す際には”漏斗”を使用
⑤寸胴鍋を”ヤカン”形状に作り替える

◇工程表:
①”重り”は3カ月以内に用意
②1年以内に”穴”を開ける
③1年以内に”鍋つかみ”を用意
④2年以内に”漏斗”を用意
⑤計画を1年前倒しし、3年以内に”ヤカン”にする


さて、これら計画が出されたとして、甲のポットにお湯を入れる作業は、従前と比べて安全になったのか?(笑)
①~⑤の何も揃ってないのに、お湯を入れる作業を再開しよう、と言っているのだ。いずれ揃うであろう、だから安全だ、と。

枝野大臣をはじめ、野田政権がやろうとしているのは、これら工程表と新基準を見たから安全は確認された、だから「作業を再開しよう」と主張するのと同じ、ということである。これが愚かでないとすれば、世の中には愚かということはあるだろうか?


しかも、新基準に挙げられた対策が、装備(設備)に関するものだけしかないのだ。装備を増やして、設備を色々と付ければ安全になると妄信している。
だからダメだ、と言っているのである。
いずれヤカンにする、というのも、多額の費用がかかってしまうなら、他の方法を考えたっていいはずなのだ。いくつかの方法を考えて、費用対効果の比較を行えばいいだけである。それもしない。

そもそも運用が変わっていない、ということの意味が判っていない。
お湯を沸かす前に、鍋のどの辺まで水を入れるといいか(上限はどこに設定するか)、といったことの検討が必要なのに、そういう発想が全くない。お湯が溢れる前の状態はどんな様子かを叩き込み、先に火を止める技術を習得する、といったことでもない。火にかけて何分くらいで危険状態になるか調べる、といったこともない。万が一、お湯が溢れたらどのように対処するか、のテストで合格した者だけがお湯番を担う、ということもない。お湯が溢れてガスコンロが故障したら、弁償責任を全額負う、といったこともない。

つまり、愚かな野田内閣の出した新安全基準とやらは、上記例で言う重り、穴、鍋つかみ、漏斗、ヤカンといったモノとしての設備関係だけであり、実際にお湯を沸かす人の能力は何ら変わらないし、ルールの変更もないわけである。大火傷を負った甲がこれまでと同様なのであれば、甲はまた失敗をするのではないか、という発想が根本的に欠けているのである。お湯を沸かす、ポットに移し替える、という仕組みそのものの検討という発想も、勿論欠如しているのだ。

工程表が明らかにしているのは、いつまでに用意できるか、といったことだけである。これが安全性を向上させたりはしないことくらい、誰でも分かるはずなのに、これをもって「概ね再稼働基準に適合している」と宣言した枝野大臣は、それが判らないらしい。工程表達成前の状態というのが「寸胴鍋でこれまで通りに湯を沸かしポットに入れる」という、以前と寸分違わぬ作業である、ということに気付けない程の愚か者なのだろうか、という話である。
せめて、これまでより安全になるのはヤカンになってからだ、ということくらいは気付くべきである。


もっと言うと、ヤカンで沸かして移し替えるのではなく、最初からポットで沸かす方式にすればいいじゃないか、と、普通の人たちならば考えるであろう(現実に電気ポットは存在しているので)。そういう根本的な変更というものを考慮すべきであるのに、これまで通りの作業方法を守り抜こうとしているのが、野田政権なのだ。

運用を変えるのは、設備を増強するということだけを意味しない。
原発事故発生時の、対処・対策手順を強化して、これを公表するといったこともできてないでしょう?
現地入りする人間とか、指揮する人間とか、そういうのをどのように強化するか、支援体制はどう作るのか、といったことを、本当にやったのですかね?
どうせ、誰もやってない、仕組みもできてない、ということなんじゃないの?
これは装備(設備)の問題などではないんだよ。原発事故に対処する専門部隊ないし専門部署なりを養成し、いつでも派遣できるチームを作るとか、そういう対策を本当に立てたのか?まさに、運用する人間、対処する人間、そういうのを強化しなければ、いくら設備だの機械だのを揃えたって、いざとなったら役には立たないんだよ。そういうことが、心の底から判ってないんだ、と言っているのである。

現実に、対策設備があったとしても、現場でそれが使いこなせるかどうか、というのが最も重要なのだよ。戦争だって同じだ。
福島原発事故では、うすらバカだけ雁首並べていたって、全く役に立たなかっただろう?政府の対策本部がいかに機能しなかったか、ということが、本当に反省されたか?今の対策のどこに生かされたのか?
実務に長けた人間たちを養成し、いざとなったら戦力を一気に投入できる、そういう緊急対処体制を構築するというのが、最も大事なんだぞ。誰が何をやり、何を確認し、手順はどうなっているか、そういうのを基礎から作り上げることが、一番必要なんだぞ。
寸胴鍋やヤカンの突沸はどういう状態になったら発生するか、発生の兆候はどんな音や蒸気の出方なのか、水蒸気がどのくらい熱いものなのか、鍋やコンロの構造はどうなのか、火が消える機構はどうなってるか、どう操作すれば消えるか、そういうのを「体に叩き込む」ことこそが、安全向上に寄与するんだぞ。設備を変えることではない。


そもそも安全だ、対処に自信がある、というのであれば、原発事故の賠償責任は完全に電力会社が負うものとして、自己責任でやればいい。地域住民にも、万が一の賠償はないものと思って、自分たちの責任においてやればいいのだ。事故が起こってから、国に助けてくれ、と求める発想がおかしい。事故賠償は、全てを事業者と地域で負い、事業者が破綻するのでリスクを負えないというのであれば、経済原則として成り立たないのだから、やるべきではないのだ。
再稼働したいなら、その前に賠償法を書き換えて、事業者が自分たちの責任において全ての賠償義務を負うものとせよ。それくらい、当然応じられるはずであろう。だって、安全だと言うのだから。引き受けられない程のリスクであるのなら、最初から手出しすべきではない、ということだ。
元から日本には不向きなエネルギー源である、と考えることも必要だということである。



反省なき愚劣国家、日本~原発再稼働に見る失敗の上塗り

2012年04月10日 12時56分27秒 | おかしいぞ
私たちは、大震災と福島原発事故を経験した。災害復興は未だ道半ばである。福島原発周辺は人の住めない土地となった。父祖伝来の土地は、穢れた死地と化した、ということである。
震災直後に拙ブログではそう予想していたが、死の土地という菅総理(だったか?)の発言は、マスコミの”言葉狩り”に遭った。
11年3月30日>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/fb447545961d49a42ed533fa7f7305de

原発推進派たちには、このことの重さが身にしみてなどいない。
それは、自分が住んでいる場所ではないから、である。遠くのどこかで起こっている他人事だから、だ。わが身に降りかかる災厄であるとは感じられない、ということなのである。もっと平たく言えば、「誰かの庭先で起こる汚染」ということくらいであり、それは所詮「自分の庭でなければ平気」ということだ。

わたくし自身の愚かさを反省している。もっとまともに管理されているはずだと、何となく安易に思い込んできたことで、明確な反対の声を上げてこなかった。疑問を感じる部分はあれど、これほど重大なことなのだから、きっと「きちんとやっているだろう」と思ってきたのである。それは、原発関連の技術者や学者等もそうだし、最高裁などの裁判所の連中などについても同じである。そういう人たちが「お墨付き」を与えてきたことについて、盲目の信頼という部分があった。これこそが、わたくし自身に関わる重大事ではなかったが故に、ある種の「傍観者」であったが故に、原発の存在を間接的にでも是認してこれた、という理由なのだ。

だが、管理者たちへの信頼は全くの幻想であった、ということが思い知らされた。福島原発事故は、わたくしが想像していた以上に、原発行政と東電が杜撰な体制であったということを明らかにした。こんな連中が安全を騙っていただけ、ということだ。
彼らの呆然自失となった無様な姿は、世界中に晒された。無為無策を重ねる組織と、的確な対処行動も命令も指示もない管理者である政府や経産省や保安院は、事態悪化を食い止める術を持っていなかった。このような愚か者たちに、原発を委ねることなど許し難い。一体、彼らの何が変わったのか?

東電も原発行政も、これまで反省して改善できるチャンスを幾度となく有してきたにも関わらず、過ちをただただ繰り返してきただけに過ぎない。何も学んでこなかった。いや、学んだのは、隠蔽工作をより巧妙に厳重に行う卑怯な手法だけだ。横柄な開き直りと傲慢さも、以前よりも増して酷くなった。東電が得たものは、マスコミや政治家を丸めこみ、総理の首を挿げ替えてまで存続を確約させる「原子力ムラ」の結束力だった。

そうして、傲慢経営陣は東電と共に生き延びたのである。マスコミ支配力を持つ者達が権威の側におり、特定権力サークルの影響力が奏功した結果だ。

原発亡者たちは、再稼働に向けて、必死で蠢いている。
マスコミと霞が関と財界の生み出す影響力を最大限に発揮して、再び原発推進路線へと回帰させようとしているのである。これまでに営々と築き上げてきた、特定権力サークルを維持せんが為、である。
多くの一般大衆に物事を決められると大変困る連中がいる。それは特定権力サークルの連中である。これまでに、政治家の首を挿げ替えたり、彼らにとって都合のよい政策を実現させるのに使ってきた手法が、今後通用しなくなってしまうからである。
原発再稼働は、彼奴らの権力構造をひっくり返されることを阻止する為の、踏み絵に過ぎない。再稼働を実施する政治家―具体的には野田総理・官房長官・枝野大臣など―が、特定マスコミ・東電幹部や財界連中・霞が関といった権力構造の側に屈するということを意味する。操り人形として簡単に靡く総理や大臣である、ということなのだ。


政治的な意味合いは別としても、再稼働判断は穴だらけである。
枝野大臣は、「新安全基準」を作った、と言った。そして、関電に工程表の提出を命じた上で、閣僚協議で「概ね再稼働基準に適合している」と述べた。これは、原発の安全性を高めることには役立っていない。

今年の3月11日、拙ブログでは運用が変わっていない、運用能力が欠如しているのに安全になるわけがない、と書いた。これは根本的問題なのである。
>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/3c6e80ee339f31c6019ce2f34cc4753d


枝野大臣の言う「新安全基準」も「工程表」も「再稼働基準」も、いずれも平たく言えば”機械を変えた”という形式に過ぎない。
何故彼らが、従前とほぼ同様の書類の整備・形式を整えることだけしかできないのかといえば、ただ単に目先の「再稼働を急げ、全国の全原発停止だけは避けろ」という愚かな目的のみに基づいて行動するから、である。
彼らには、原発を用いることによって、日本国民を豊かにし、生活を良くし、地域や産業をよくしたいというような純粋な目的が存在してないから、である。本当に、心の底から原発を大事に思い、原発で日本が豊かになり、国民が幸せになると信じている人間なのであれば、もっと全然違った対応になるであろうし、考え方も出てくるであろうし、意見も出るであろう、ということだ。低劣な欲望優先の人間たちには、そういうことは考えつかない、ということである。
そういう連中には、原発管理は無理だ、と言っているのである。


枝野大臣が進めてきた再稼働基準とやらを、また喩え話で書いてみよう。

(つづく)