いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

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法も経済学も知らぬ者~3

2014年02月25日 14時49分48秒 | 法関係
原発と石綿やPCBの規制は似ている。
実際に被害を生じるまで、汚染処理・賠償コストはほぼ無視されてきた。すなわち、生産(発電)価格にそれら外部不経済のコストが反映されておらず、そうであるが故に誤った価格(=電気料金)で流通してきた、ということだ。


失敗した価格設定により、取引量が拡大された。原発の発電量が増加した、ということである。もしも価格設定が正しかったのなら、東電は一民間企業として全額賠償を払うことができたはずである。しかし、現実にはそうなっていない。事実上の倒産だ。


これは、石綿被害の賠償負担に耐えられず倒産した企業とほぼ同じようなものだ。将来時点の損失分(具体的には保険料などの形で積立ておく、などだろう)を価格に反映していたとすれば、原発の発電コストは他の発電技術との競争に勝てないかもしれない。


前から提案したように、本当に原発は電気料が安く、完全に安全なのであれば、経団連の企業群が買えるはずだ。自分たちで買って、自分達の電気をそれで賄えばいいだけである。将来発生する汚染処理コストや賠償コストを完全に払うことが可能な水準で価格設定を行えばいいだけなのだから。その場合、果たして原発は有利なのか、ということだ。不利であると考えているが故に、大企業の連中は「原発を動かせ」と首を揃えて合唱するばかりで、商売人らしく資金を出して解決しようとはしないのだ。


要するに、池田も安念も経団連も、みな口ばかり、だ。
カネは国民に出させる、責任は企業が負わない、リスクも地方の人間に負わせるだけ、ということだ。「国が責任を持て」という都合のいい言い分は、事実上の無責任体制にさせろ、という要求に等しいのである。
真に原発を運用したいというのであれば、責任とリスクを電力事業者に全て負わせるべきである。カネも全部払わせるべき。それができないのは、市場の失敗があるからだ。


因みに、カネミ油症事件に関連して、日本の腐れ司法と霞が関官僚について一言言っておきたい。


昔の公害訴訟なんかがどうであったか、ということは知らない。
が、水俣病の例を見ても分かる通り、昔の企業も通産省あたりの官僚も、絶対に「企業責任を認めない」という姿勢を貫いていたのだと思う。これを覆すとなれば、官僚は出世の道が完全に閉ざされるだろう。だから、誰も変えようとはしない。前例踏襲主義の徹底だな。

それにより、因果関係は認められないということから、企業が責任を負わずに逃げ回ってきたわけだ。問題企業が倒産してしまえば、「責任を認めたことになる」ということで、屍状態になっているのに「生き長らえさせて」、何十年もの間無駄に時間を経過させたのだ。何故なら、当時被害者だった者たちは、必ず高齢になっていずれは死に絶えるからである。これが真の霞が関官僚たちの「踏襲」だ。彼らは、40年だろうと50年だろうと、痛くも痒くもないから。


こうした姿勢を後押ししていたのは、裁判所だったろう。中には、稀に原告勝訴の判決文を書いてくれた裁判官もいたかもしれない。が、高裁か最高裁まで行けば、必ず負けることになってきたものと思う。それが延々と継続されてきたのであろう。これも同じく、官僚主義的な司法の世界ということだ。因果関係が認定されれば、他の公害訴訟にも”悪影響”を与えてしまう、共産党勢力に手を貸すに等しいことになる、みたいな、下らない理由でもって、長年被害者たちを苦しめ続けてきたのではないのか。
だから、決して企業責任も因果関係も認めてこなかったし、行政の不作為や責任も認めたりはしなかったのでは。それが最高裁まで20年、といった理不尽な裁判を強いてきたのでは。そこで敗訴が分かったとして、次に戦い続けるのは極めて困難だ。水俣病もハンセン病も、その他公害訴訟でも、同じような構図だったのではなかったか。


法とは何の為にあるのだろうか?

池田のような連中に攻撃の口実を与えるためなんかじゃないはずなのに。



法も経済学も知らぬ者~2

2014年02月25日 13時39分02秒 | 法関係
昭和40年代まで日本でも採掘されていた石綿であるが、石綿規制が法的に行われるようになったのは40年代末くらいである。環境庁が誕生する前くらいだ。当初の管理濃度水準は、2mg/cm3だった。それが時代と共に低濃度基準へと変更されていったわけである。
同じ体積当たりで、2mg→5本→2本→0.15本といった具合だ。
こうした数値基準変更は、健康被害状況の新たな知見反映であり、遂には輸入や使用が全面禁止となったのである。


池田式論法によれば、これら変更は全て違憲だ、ということだな。不遡及原則に反する、と。愚かなり。


そもそも、何故政府規制が存在するのであろうか?
外部不経済ということがあるから、である。


企業は石綿使用で利益を得るので、厳しい基準変更を自らが行う動機は乏しい。しかし、被害者が拡大し賠償額が大きくなれば、企業存続に関わる問題となるわけである。現実に製造企業で倒産した例があったわけだ。


政府規制が全くない場合には、企業が自分の責任において石綿を使用してもよいが、もしも健康被害などが生じて他者の法益侵害となれば賠償をせざるを得ないことになる。すると、企業が石綿を作って得る利益と、賠償を支払う損失との比較において、作らない方がいいという経済学的理由で石綿使用は停止されうる。その賠償の判断の基礎となるのは、社会の状況(逸失利益額等々は社会で異なる)であったり、健康被害に関する知見といったことである。

政府規制によって、賠償コストを払わずに逃げる企業を封じる、ということになる。政府が規制していなくても、通常の私企業は製造責任などから賠償コストに耐えきれず、製造しない方がよいということになってしまうのだ。企業が「被害を生じることを知っていたのに、何らの対策を講じることなく製造や使用を続けた」という事実の時点で、違法が確定する。


仮に製造設備や輸入在庫が無駄になる、ということがあるとしても、それを使用した結果生じる将来時点での損失額(賠償額)の方が甚大であるが故に、政府規制が行われたらそれらを処分するよりないということなのだ。


PCBや石綿が消えた理由というものは、そもそも市場の失敗から政府規制となり、損失コストが大きかった為に「価格がゼロ」となったのだ。すなわち、生産量がゼロになってしまったということである。これが全面禁止となっている現在の状態である。これらの処理コストは、50年前には「目の前に存在していなかった」ものだ。製造企業も、PCBや石綿含有製品の製造企業も、それら将来コストを払ってはいなかったのである。だから、利用時点では安価に流通していたし、製造可能だったわけである。


しかし、将来発生するであろう汚染処理や被害賠償コストを製造価格に反映していたとしたら、使用可能な価格とはなり得なかった、ということである。PCBや石綿の使用コストが大きいことが分かった為に、それまでは高価格であったはずの代替品に切り替わったのだ。経済学的な理由は明白である。汚染や被害をコストとして製造価格に反映した場合には、あまりに高額になってしまうので代替品との競争に勝てないが故に、それら製品の取引市場は消滅したのだよ。


石綿の製造企業は政府規制によって政府に賠償させたのか?
例えばナイガイ、ニチアスや日東紡なんかが、そういう違憲立法による賠償金を政府からせしめたという事実はあったのか?


池田式論法によれば、製造工場を作ったりJIS規格で昔は認められていたりしていたものは、「現在でも立派に有効なんだ」ということらしいので、政府規制のせいで在庫を抱えたり製造設備が無駄になった企業というのは、「行政の横暴だ、違憲立法だ」ということで訴えるとカネが取れるらしい(笑)。

池田や安念の言い分に従って、電力会社はすぐさま原発を動かすといいですよ。彼らの立論によれば、合法だそうで。しかも、行政が原発の運転を止めていたのは違憲だそうなので、損害賠償請求訴訟の提起をすればきっと勝てることでしょう。
大爆笑。

電事連・電力会社の皆様、早速やってみればいい。池田の意見が正しいと思うなら、やれるはずだ。


池田信夫は法学について全く信頼性がなかったわけだが、同じく経済学分野においても「やっぱり信頼性なし」だったな、ということが分かったわけである。


(つづく)





法も経済学も知らぬ者~1

2014年02月25日 12時57分28秒 | 法関係
日本というのは、本当に不思議な国である。
間違ったことを公言し続けても、恥でも何でもないらしい。そういう人間が蔓延っていても、誰にも止められないのだ。



>http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/40032?page=2



池田や安念中大教授や諸葛東大特任教授は、『使用前検査』なんて知らなかったのではないのかね?そんなこと、全く言ってなかったろう?(笑)


続々・原子力規制委員会に関する池田信夫の無知~+諸葛宗男&澤田哲夫編


拙ブログ記事で何度も書いて、教えて差し上げたんでしたよね?(笑)



設置許可をやり直している、と主張していた人間であれば、発電と審査が同時でいい、という意見は矛盾としか思われない。
設置許可のやり直しとは、旧来の許可が失効しており、新規に許可を得るものというのが一般的であろう。以前に例示した公益法人のような場合である。以前の許認可が無効なら、新規設置許可が出ない限り、原発稼働と発電はまさしく「無免許運転」状態となってしまうのではないのか?(笑)


原子力規制委員会に関する池田信夫の無知


この点を攻めても間違っていたので、残された唯一の手掛かりが「法の不遡及原則」というものだろう。

続・原子力規制委員会に関する池田信夫の無知


しかし、これについても、不当な主張を繰り返しているのみである。何度も言ったのに、まだ分からないらしい。


また例で考えてみよう。
昨日頃、カネミ油症訴訟で除斥期間経過で敗訴となっていた、という報道があった。これも何十年にも及ぶ法廷闘争が断続的に続けられてきたわけである。PCBによる汚染や被害というのは、60年代や70年代には解決が困難であったのだ。
PCBの製造会社もあったし、この成分の含有製品を製造している会社も当然多数存在していたはずである。しかし、健康被害が拡大するという知見が得られて以降には、使用禁止へと法規制が行われたわけである。

池田式の論法で言えば、「PCB製造工場を作った時には違法ではなかったのに、後になって規制でPCBが製造できなくなった、どうしてくれる!!」ということらしい。不遡及原則に反する、だから政府が規制するなら賠償せよ、と。


或いは、アスベスト規制でも似ているだろう。
紀元前より使用実績があり、石綿の原料採掘も昔から長年行ってきたのに、使用を禁止するのは何事か、と。製造工場を作ったり輸入して在庫にしていた時には使えたのだから、政府規制で使えなくなった分を賠償しろ、と。後になってからの法規制は憲法違反だ、と。


なるほど。
そういう意見があるのかもしれない。池田は以前から、そればかりを言っていたわけだから。



ばかばかしい。

石綿の法規制のせいで、前は生産できていたものができなくなったのは違法である、違憲立法だ、という主張は、まともな人間が表明する意見とは思われない。


科学技術の進歩、といった視点が皆無である。法は永久不滅の真理などではない。時代により、解釈も変われば運用も変わるかもしれない。社会の変化に応じて、適用も法理も変わるものであるはずだろう。
しかし、論難することを目的としている人間にとっては、ただ単に「攻めることができる点」ということをもって、不遡及原則に反すると言い募っているだけなのである。


新規の知見は、科学技術の進歩によって新たに加わるものである。法と云えども、判断の基礎をなす新たな知見は無視することはできない。過失とか責任という点について検討する場合において、知見に乏しい時代とより詳しく分かっている時代では判断が異なることもあり得る。


そういう視点を欠いたままで、不遡及原則に反する、などという主張は笑止千万である。心底違憲立法であると信じる者であるなら、石綿を食うなり自宅コンロで使うなりしてみてはどうか。
有史以来、使用実績のある石綿であるのだから、最新知見など無視して、自ら使い続けてみればよいのである。法の遡及を自らを通じて阻止すればいい。何なら、カネミ油を食えばいいのだ。
いずれも「以前には違法ではなかった」んだぞ?
それくらい出来て当然だろう?(笑)


(つづく)