日本救急医学会のパブリックコメントについて、少し書いてみたいと思います。
産科医療のこれから 救急医学会「大綱案」への反対声明
本当に理解する努力をした結果が、こうした意見なのでありましょうか。いささか疑問に思う部分もございます。賛成できない、という意見表明を行うことを否定するわけではございませんが、まず「誰かに聞く」「解説をお願いする」というような基本的取組みなどを行うことが望ましいのではないかと思われます。賛否があるのは普通ですし、問題点や疑問点を炙り出すのにも役立つと思いますが、「団体として」反対表明を行うからには、個人ブログで「反対」と表明するレベルとはわけが違うのだ、という認識をお持ち下さればと思います。
ア.「Ⅰ-(1)医療安全を構築することと紛争を解決することの違い」について
ご指摘の『原因究明を通じてより安全な医療を展開しようとする作業と、原因に関する責任を追求する作業とが本質的に異なる手法である』ということが、学問的に正当であるかどうかはここでは問わず受け入れるものとして、大きく2つに分けて呼び名を付与しますと「医療安全」と「責任追及(紛争解決)」というものであると理解しました。さて、当該委員会が、この2つの根本的に異なる機能を持つことが問題なのだ、だから委員会は反対、ということが反対理由として成り立つものなのか、ということがございます。
喩えて申し上げると、弁当箱の「おかず」と「ご飯」の仕切り問題みたいなもので、区分けをして一つの入れ物(弁当箱)とすることが問題なのであれば、「おかず箱」と「ご飯箱」を個別の箱として設置するものの、外見上の認識としては「弁当箱」として理解されるものと思います。現在の厚生労働省が所管する法律には根本的に異なる分野―極端な例で言えば「医療」と「労働」というように―というものが存在しており、外見上は一つの弁当箱(=厚生労働省)ですが、内部的には組織として区分されているものとなっております。単一機能に単一組織の割当以外は、全て不当なものとして反対するというご意見が存在しないとは申しませんが、それをもって弁当箱全部の反対理由とはできないのではなかろうかと思います。
そうであるなら、「医療安全調査委員会」という弁当箱に外見上なっているとしても、内部的に「医療安全」と「責任追及(紛争解決)」とを区分けするだけでよいということになり、「本質的に2つは違う」という意見や根拠をもって弁当箱そのものの批判に使うというのは、妥当とも思われません。
イ.「Ⅰ-(2) 背景にある諸問題」について
ご指摘のことは、ポイントを示しますと、
『理解不能な刑事訴追や書類送検(検察官送致)、医療の実態を無視した民事判決があり、加えてそれらに関するマスメディアの過剰とも言える報道が散見されます。』
『ここには、前段で理解不能と表現した諸々に関する私どもの不安や不満があります。』
ということであると受け止めました。
つまり、医師たちが「理解不能」なこととして
・刑事訴追
・書類送検
・民事裁判
・過剰報道
がございます。
当該委員会の設置に反対する理由としてこの4つを挙げたということではないのであろう、と思いますけれども、これがあることが反対と結びつくということにはなり得ないのではないかとしか思えません。大きく分けますと、司法に関すること(刑事・民事)と報道に関すること、という2点になるかと思いますが、まず簡単な報道の問題についていえば、医療に限らず一般的に指摘されている問題なのではないかと思います。対抗策としては、BPOなどへの通報や名誉毀損による損害賠償請求等があるかと思われます。医療団体等が一体何の為に顧問弁護士を置いているのか判りませんが、こういう時にこそ活用すべきはこうした制度や法的枠組みなのではないかと思われます。
次に司法に関することについてですけれども、医療者が理解できないとしても、これがどこまで専門的評価を受けたものであるのか、ということに留意すべきかと思います。事例は異なりますが、花火大会で起こった圧死事件では、警備上の理由で業務上過失致死傷罪で逮捕・起訴された警察官がいたと思います。何も医療者だけに限らず、警察官だって同じなのです。こうした報道の時や事件が明らかになった時に、国民がどれ程注意や関心を払っているのか、ということにも関係しています。報道の論調の多くが、「責任追及」に終始し、それをあたかも大多数の国民が支持しているかのように錯覚しているからこそ、同じような論調が繰り返されるわけです。そうした社会の要請は、司法サイドにも影響を与えてしまうと思います。
他にも、砂浜に入れた砂に空洞が生じ、子どもが空洞内に陥没して死亡した事件があったように記憶していますが、これも砂浜の担当者(具体的にどういった職務の人であったかは忘れましたが、市の管理責任者のような人ではなかったかと思います)が起訴されて有罪となっていたと思います。似ているのは、「どうして気付かなかったんだ、何故防げなかったんだ」ということになり、それは「○○に過失があったからだ」という結論になりがちなのであろうと思います。医療に限らず、どういった判決が出されているのか、ということについて、注意を払っていなければならないのだということです。問題があるのではないかと考えるなら、そうした声を司法サイドに出していくということが必要になるかと思います。法曹にはそういう検証努力が足りないと考えるのであれば、具体的に指摘するべきではないかと思います。
ウ.「Ⅰ-(3) 法曹界への要望」について
『テロリストにすら与えられる権利、国民に等しく保障されている権利さえも奪うものと主張する意見が法曹界にみられます。』とのご指摘ですが、多分コレ(法律家にお願いしたいこと)を言っているのではないかと思います。
医療界におきましても「様々な鑑定意見」が存在するのと同じく、法曹界といえども安易に「違憲である」という「ありがちな見解」になっていることは珍しくはありません。誤った解説を聞いてみたところで、あまり役立たないことはあるのではないかと思います。これを解消する方策としては、私個人の提案に過ぎないのですけれども、「反対と言う前に、まず話を聞いてみよう」という姿勢を持つことではないかと思います。論点が判り難い、条文や仕組みについて理解が困難、ということであるなら、具体的にひとつずつ「判らないこと」を解消していく以外にはないのです。
「誰にでも判るように解説してくれ」という要望はある意味万能ではあるかもしれませんが、「医師は何が理解できていないのかが判らない」ということがあるので、法曹にだって解説が難しいかもしれません。というよりも、それのはるか以前の問題として、本法案とか当該委員会の仕組みについて、「正しく理解している人は誰か」ということを探すことから始めるべきではないかと思います。ここでも「通訳」問題が発生しているわけですね(行政側情報を正確に伝えられる人がいない。コーディネーター的人材が欠けている。司法-行政-医療をうまく連結させられるような人がいない、ということです)。更に、「何を聞きたいか」ということをある程度明確にすべきかと思います。行政側の解説とか、これまでの議事録を誰かが読み、簡潔に要約できるか他の誰かに解説できる程度になるまで、理解を深めることが必要です。そういうのを理解した上で、Q&Aに類する程度の「聞くべきこと」というのを出すといいのではないかと思います。そうですね、例えば「委員会が調査した事案は全部警察に通報されるのですか」みたいな感じで。
エ.「Ⅱ-(1)~(3)」について
ここの論点を乱暴にまとめるとすれば、「警察への通知の問題」、「業務上過失致死傷罪の判断基準が不明確」ということになるかと思います。
まず、当該委員会を何の為に設置するのかといえば、「医療者の基準から判断する為」ということを目標としているのだ、ということです。これまでは、誰がどのように判断しているのか、ということが、あまりよく判らなかった(はっきりとは判らなかった)ということなのです。誰かが鑑定を書き、裁判所が鑑定結果から「好きなもの(部分)」を取捨選択し、裁判所で独自の論理が組み立てられてきたのだ、ということです。だからこそ、「理解不能」な判断結果が時として出されてきたのです。医療者たちは、それに対抗する術を持たなかった、ということです。そうした判断の権限を「大幅に委員会に移してはどうですか」ということを私は言っているのですよ。それが達成されるように、当該委員会の仕組みや機能について、個別に検討してみたらいいだけなのです。
私は「判断の基準は医療者の中にある」のだ、と記事の中で書きました。そのことの意味がまだ判っておられないのかもしれませんが、絶対基準は存在していない、ということを前提としているのですよ。絶対基準があれば、法の条文中に明確に書けるかもしれません。しかし、実際の医療というのは、そうではありません。あくまで相対的な基準でしかないのであれば、その判断基準は「医療者が持つもの」であるのだから、その判断は当該委員会において「医師たちが行えばいい」だけなので、それで解決がつきそうなのですがね。
大野病院事件における判決文中に判示されたように、「医学的準則」違反がなければ刑法上の過失を問うことは基本的に難しいということなのですから、この「医学的準則」は誰がどのように判断し提示するのですか、という話をしているのです。そういうことへの理解がないのです。医学的準則を提示できるのは、刑事さんでも検察官でも裁判官でもありませんよ、「医療者だけです」って言っているではありませんか。なぜ、そういうことを考えようとしないのか、と疑問に思います。
オ.以下全部について、というか、乱暴な総括
厳しいことを言うようですが、はっきり言えば「法案批判」のスタートラインに立つ資格が本当にあるのか、疑問に思います。某左系の方々に言わせると、「軽く2冊くらいは読んでから批判しろ」とか叱られると思いますけど(笑)。ま、これは冗談ですし、私はそういう「知らないなら意見を言うな」みたいな姿勢には賛同していないので、反対表明は別にいいでしょう。
しかし、行政側の資料を満足に読んでいない、読んでも理解できていない、しまいには「もっと易しく言ってよね」ということで、極端に表現すれば「よく判らないから反対」と言っているのとあまり変わらないようにも思えます。幼稚というか、稚拙な批判に団体名を付けて出すのが恥ずかしいと思わないのかな、とさえ思います。
本当は、私自身そういった努力をして来たわけではないので人さまのことは言えないし、医療者側が言いたいことやその気持ちは判るので、何とか前進できる道を考えるべきではないかな、と思っています。
ただ、現時点になってでさえ、「法との対話」だのとか言い出す始末で、これはどうなの、とは思うわけです。
医療界はこの10年、一体何をやってきたのですか?
法医学者たちは、絶滅していたのでしょうか?法と付いているのは、ダテですか?
法曹との対話の機会なんて、いくらでもあったではありませんか。医師会にだって、顧問弁護士の1人や2人どころか、もっとだろうと思いますけれども、何人もいたのではありませんか?学会関係の方々には、法との接点はなかったわけですか?
これまでの民事訴訟の過程や結果を受けて、法との対話はなされてこなかったわけですか?
私から見れば、まず、医療界の数名でもいいので、「正しく理解できる人」というのを全力で作り上げることでしょうね。その人がきちんと判れば、その他大勢の医師たちに解説できるでしょう。そういう通訳になれるような人というのを、医療界の中に作ることです。それから、本当に対話が必要なのは、行政となのではないでしょうか?立法趣旨とか、そういうのを理解してみることから考えた方がよいのではないでしょうか。行政側からのレクチャーを受けて、判らない部分は突っ込んだ質問をして、というようなことを、いくらか繰り返さないと、医療界の発言力があるけれども「よく判っていない人」の間違った解説や意見だけを聞いてしまうので、行政側の意図というのを殆どの医師たちが正しく理解できていないのではないかと思えます。
なぜそうしたことが行われてこなかったのか、というと、敵対視していたから、なのではありませんか?
司法はトンデモ判決や不当な起訴を生み出す敵だ、厚労省(や官僚)は役立たずの無能で邪魔ばかりする敵だ、というようなことかな、と。ここまで酷くは思っていないかもしれませんが、そもそも相手側の言い分を「聞く気」なんかなかったから、なのではないかと思います。しかし、問題に直面してみると、医療側は「法」や「行政」に関しては、やはりただの素人でしかないわけなんですよ。医療がよく判っていない患者側というのと、全く同じ構図なのですよ。だからこそ、まず落ち着いて説明を聞いてみる、という姿勢が必要なのではありませんか?
もしも、ある薬剤でも治療法でもいいのですが、新規で保険診療に導入するか否かということになった場合に、医療の素人でしかない、とある患者団体が「治療内容がよく理解できない、説明を読んでも判らない、効果も曖昧なので、導入には反対」とか要望したとすると、医療者は果たして何と言いますでしょうか?
まさか「完璧に理解してから文句を言え」、「判らないなら口を出すな」、「素人が間違った批判をするな」、みたいに言ったりはしないのですよね?そういったことを、よくお考え頂き、単純に反対と言うだけではなく、まずは「これが不安です」という率直な意見表明に留めてみてはいかがかと。その悩みを解消する為の方策は、法や立法・行政に強い方々に考えてもらえば済むではありませんか。
患者が自分で「どの薬を飲むべきか」と深刻に悩む必要なんかないではありませんか。その為に医師がおられるのですから。患者は、自分の悩みや困ることを正確に述べれば、医師がきちんと判断(診断)してくれて、必要な薬(=解決策)を患者の代わりに考えてくれるのではありませんか?
相手側になって考えるというのは、そういうことを理解していく、ということなのではないかと思います。同じなのですよ。相手も自分も。良い方法を探していけば、きっと解決の道が開けてくると思います。それには、患者が医師を信頼しなければ治療がうまくできないのと同じで、医療者たちも同じく「法」や「行政」の専門家たちを信頼することなしには、対話も成功しないし解決策も見出されず、物別れに終わるだけなのではないかと思います。また、当該委員会設置については、医療側以外の意見は「ほぼ全部」が賛成しているということも、よくお考え下さい。立法措置は、必ずしも特定業界の為にあるわけではありません。国民の為にあるのです。
産科医療のこれから 救急医学会「大綱案」への反対声明
本当に理解する努力をした結果が、こうした意見なのでありましょうか。いささか疑問に思う部分もございます。賛成できない、という意見表明を行うことを否定するわけではございませんが、まず「誰かに聞く」「解説をお願いする」というような基本的取組みなどを行うことが望ましいのではないかと思われます。賛否があるのは普通ですし、問題点や疑問点を炙り出すのにも役立つと思いますが、「団体として」反対表明を行うからには、個人ブログで「反対」と表明するレベルとはわけが違うのだ、という認識をお持ち下さればと思います。
ア.「Ⅰ-(1)医療安全を構築することと紛争を解決することの違い」について
ご指摘の『原因究明を通じてより安全な医療を展開しようとする作業と、原因に関する責任を追求する作業とが本質的に異なる手法である』ということが、学問的に正当であるかどうかはここでは問わず受け入れるものとして、大きく2つに分けて呼び名を付与しますと「医療安全」と「責任追及(紛争解決)」というものであると理解しました。さて、当該委員会が、この2つの根本的に異なる機能を持つことが問題なのだ、だから委員会は反対、ということが反対理由として成り立つものなのか、ということがございます。
喩えて申し上げると、弁当箱の「おかず」と「ご飯」の仕切り問題みたいなもので、区分けをして一つの入れ物(弁当箱)とすることが問題なのであれば、「おかず箱」と「ご飯箱」を個別の箱として設置するものの、外見上の認識としては「弁当箱」として理解されるものと思います。現在の厚生労働省が所管する法律には根本的に異なる分野―極端な例で言えば「医療」と「労働」というように―というものが存在しており、外見上は一つの弁当箱(=厚生労働省)ですが、内部的には組織として区分されているものとなっております。単一機能に単一組織の割当以外は、全て不当なものとして反対するというご意見が存在しないとは申しませんが、それをもって弁当箱全部の反対理由とはできないのではなかろうかと思います。
そうであるなら、「医療安全調査委員会」という弁当箱に外見上なっているとしても、内部的に「医療安全」と「責任追及(紛争解決)」とを区分けするだけでよいということになり、「本質的に2つは違う」という意見や根拠をもって弁当箱そのものの批判に使うというのは、妥当とも思われません。
イ.「Ⅰ-(2) 背景にある諸問題」について
ご指摘のことは、ポイントを示しますと、
『理解不能な刑事訴追や書類送検(検察官送致)、医療の実態を無視した民事判決があり、加えてそれらに関するマスメディアの過剰とも言える報道が散見されます。』
『ここには、前段で理解不能と表現した諸々に関する私どもの不安や不満があります。』
ということであると受け止めました。
つまり、医師たちが「理解不能」なこととして
・刑事訴追
・書類送検
・民事裁判
・過剰報道
がございます。
当該委員会の設置に反対する理由としてこの4つを挙げたということではないのであろう、と思いますけれども、これがあることが反対と結びつくということにはなり得ないのではないかとしか思えません。大きく分けますと、司法に関すること(刑事・民事)と報道に関すること、という2点になるかと思いますが、まず簡単な報道の問題についていえば、医療に限らず一般的に指摘されている問題なのではないかと思います。対抗策としては、BPOなどへの通報や名誉毀損による損害賠償請求等があるかと思われます。医療団体等が一体何の為に顧問弁護士を置いているのか判りませんが、こういう時にこそ活用すべきはこうした制度や法的枠組みなのではないかと思われます。
次に司法に関することについてですけれども、医療者が理解できないとしても、これがどこまで専門的評価を受けたものであるのか、ということに留意すべきかと思います。事例は異なりますが、花火大会で起こった圧死事件では、警備上の理由で業務上過失致死傷罪で逮捕・起訴された警察官がいたと思います。何も医療者だけに限らず、警察官だって同じなのです。こうした報道の時や事件が明らかになった時に、国民がどれ程注意や関心を払っているのか、ということにも関係しています。報道の論調の多くが、「責任追及」に終始し、それをあたかも大多数の国民が支持しているかのように錯覚しているからこそ、同じような論調が繰り返されるわけです。そうした社会の要請は、司法サイドにも影響を与えてしまうと思います。
他にも、砂浜に入れた砂に空洞が生じ、子どもが空洞内に陥没して死亡した事件があったように記憶していますが、これも砂浜の担当者(具体的にどういった職務の人であったかは忘れましたが、市の管理責任者のような人ではなかったかと思います)が起訴されて有罪となっていたと思います。似ているのは、「どうして気付かなかったんだ、何故防げなかったんだ」ということになり、それは「○○に過失があったからだ」という結論になりがちなのであろうと思います。医療に限らず、どういった判決が出されているのか、ということについて、注意を払っていなければならないのだということです。問題があるのではないかと考えるなら、そうした声を司法サイドに出していくということが必要になるかと思います。法曹にはそういう検証努力が足りないと考えるのであれば、具体的に指摘するべきではないかと思います。
ウ.「Ⅰ-(3) 法曹界への要望」について
『テロリストにすら与えられる権利、国民に等しく保障されている権利さえも奪うものと主張する意見が法曹界にみられます。』とのご指摘ですが、多分コレ(法律家にお願いしたいこと)を言っているのではないかと思います。
医療界におきましても「様々な鑑定意見」が存在するのと同じく、法曹界といえども安易に「違憲である」という「ありがちな見解」になっていることは珍しくはありません。誤った解説を聞いてみたところで、あまり役立たないことはあるのではないかと思います。これを解消する方策としては、私個人の提案に過ぎないのですけれども、「反対と言う前に、まず話を聞いてみよう」という姿勢を持つことではないかと思います。論点が判り難い、条文や仕組みについて理解が困難、ということであるなら、具体的にひとつずつ「判らないこと」を解消していく以外にはないのです。
「誰にでも判るように解説してくれ」という要望はある意味万能ではあるかもしれませんが、「医師は何が理解できていないのかが判らない」ということがあるので、法曹にだって解説が難しいかもしれません。というよりも、それのはるか以前の問題として、本法案とか当該委員会の仕組みについて、「正しく理解している人は誰か」ということを探すことから始めるべきではないかと思います。ここでも「通訳」問題が発生しているわけですね(行政側情報を正確に伝えられる人がいない。コーディネーター的人材が欠けている。司法-行政-医療をうまく連結させられるような人がいない、ということです)。更に、「何を聞きたいか」ということをある程度明確にすべきかと思います。行政側の解説とか、これまでの議事録を誰かが読み、簡潔に要約できるか他の誰かに解説できる程度になるまで、理解を深めることが必要です。そういうのを理解した上で、Q&Aに類する程度の「聞くべきこと」というのを出すといいのではないかと思います。そうですね、例えば「委員会が調査した事案は全部警察に通報されるのですか」みたいな感じで。
エ.「Ⅱ-(1)~(3)」について
ここの論点を乱暴にまとめるとすれば、「警察への通知の問題」、「業務上過失致死傷罪の判断基準が不明確」ということになるかと思います。
まず、当該委員会を何の為に設置するのかといえば、「医療者の基準から判断する為」ということを目標としているのだ、ということです。これまでは、誰がどのように判断しているのか、ということが、あまりよく判らなかった(はっきりとは判らなかった)ということなのです。誰かが鑑定を書き、裁判所が鑑定結果から「好きなもの(部分)」を取捨選択し、裁判所で独自の論理が組み立てられてきたのだ、ということです。だからこそ、「理解不能」な判断結果が時として出されてきたのです。医療者たちは、それに対抗する術を持たなかった、ということです。そうした判断の権限を「大幅に委員会に移してはどうですか」ということを私は言っているのですよ。それが達成されるように、当該委員会の仕組みや機能について、個別に検討してみたらいいだけなのです。
私は「判断の基準は医療者の中にある」のだ、と記事の中で書きました。そのことの意味がまだ判っておられないのかもしれませんが、絶対基準は存在していない、ということを前提としているのですよ。絶対基準があれば、法の条文中に明確に書けるかもしれません。しかし、実際の医療というのは、そうではありません。あくまで相対的な基準でしかないのであれば、その判断基準は「医療者が持つもの」であるのだから、その判断は当該委員会において「医師たちが行えばいい」だけなので、それで解決がつきそうなのですがね。
大野病院事件における判決文中に判示されたように、「医学的準則」違反がなければ刑法上の過失を問うことは基本的に難しいということなのですから、この「医学的準則」は誰がどのように判断し提示するのですか、という話をしているのです。そういうことへの理解がないのです。医学的準則を提示できるのは、刑事さんでも検察官でも裁判官でもありませんよ、「医療者だけです」って言っているではありませんか。なぜ、そういうことを考えようとしないのか、と疑問に思います。
オ.以下全部について、というか、乱暴な総括
厳しいことを言うようですが、はっきり言えば「法案批判」のスタートラインに立つ資格が本当にあるのか、疑問に思います。某左系の方々に言わせると、「軽く2冊くらいは読んでから批判しろ」とか叱られると思いますけど(笑)。ま、これは冗談ですし、私はそういう「知らないなら意見を言うな」みたいな姿勢には賛同していないので、反対表明は別にいいでしょう。
しかし、行政側の資料を満足に読んでいない、読んでも理解できていない、しまいには「もっと易しく言ってよね」ということで、極端に表現すれば「よく判らないから反対」と言っているのとあまり変わらないようにも思えます。幼稚というか、稚拙な批判に団体名を付けて出すのが恥ずかしいと思わないのかな、とさえ思います。
本当は、私自身そういった努力をして来たわけではないので人さまのことは言えないし、医療者側が言いたいことやその気持ちは判るので、何とか前進できる道を考えるべきではないかな、と思っています。
ただ、現時点になってでさえ、「法との対話」だのとか言い出す始末で、これはどうなの、とは思うわけです。
医療界はこの10年、一体何をやってきたのですか?
法医学者たちは、絶滅していたのでしょうか?法と付いているのは、ダテですか?
法曹との対話の機会なんて、いくらでもあったではありませんか。医師会にだって、顧問弁護士の1人や2人どころか、もっとだろうと思いますけれども、何人もいたのではありませんか?学会関係の方々には、法との接点はなかったわけですか?
これまでの民事訴訟の過程や結果を受けて、法との対話はなされてこなかったわけですか?
私から見れば、まず、医療界の数名でもいいので、「正しく理解できる人」というのを全力で作り上げることでしょうね。その人がきちんと判れば、その他大勢の医師たちに解説できるでしょう。そういう通訳になれるような人というのを、医療界の中に作ることです。それから、本当に対話が必要なのは、行政となのではないでしょうか?立法趣旨とか、そういうのを理解してみることから考えた方がよいのではないでしょうか。行政側からのレクチャーを受けて、判らない部分は突っ込んだ質問をして、というようなことを、いくらか繰り返さないと、医療界の発言力があるけれども「よく判っていない人」の間違った解説や意見だけを聞いてしまうので、行政側の意図というのを殆どの医師たちが正しく理解できていないのではないかと思えます。
なぜそうしたことが行われてこなかったのか、というと、敵対視していたから、なのではありませんか?
司法はトンデモ判決や不当な起訴を生み出す敵だ、厚労省(や官僚)は役立たずの無能で邪魔ばかりする敵だ、というようなことかな、と。ここまで酷くは思っていないかもしれませんが、そもそも相手側の言い分を「聞く気」なんかなかったから、なのではないかと思います。しかし、問題に直面してみると、医療側は「法」や「行政」に関しては、やはりただの素人でしかないわけなんですよ。医療がよく判っていない患者側というのと、全く同じ構図なのですよ。だからこそ、まず落ち着いて説明を聞いてみる、という姿勢が必要なのではありませんか?
もしも、ある薬剤でも治療法でもいいのですが、新規で保険診療に導入するか否かということになった場合に、医療の素人でしかない、とある患者団体が「治療内容がよく理解できない、説明を読んでも判らない、効果も曖昧なので、導入には反対」とか要望したとすると、医療者は果たして何と言いますでしょうか?
まさか「完璧に理解してから文句を言え」、「判らないなら口を出すな」、「素人が間違った批判をするな」、みたいに言ったりはしないのですよね?そういったことを、よくお考え頂き、単純に反対と言うだけではなく、まずは「これが不安です」という率直な意見表明に留めてみてはいかがかと。その悩みを解消する為の方策は、法や立法・行政に強い方々に考えてもらえば済むではありませんか。
患者が自分で「どの薬を飲むべきか」と深刻に悩む必要なんかないではありませんか。その為に医師がおられるのですから。患者は、自分の悩みや困ることを正確に述べれば、医師がきちんと判断(診断)してくれて、必要な薬(=解決策)を患者の代わりに考えてくれるのではありませんか?
相手側になって考えるというのは、そういうことを理解していく、ということなのではないかと思います。同じなのですよ。相手も自分も。良い方法を探していけば、きっと解決の道が開けてくると思います。それには、患者が医師を信頼しなければ治療がうまくできないのと同じで、医療者たちも同じく「法」や「行政」の専門家たちを信頼することなしには、対話も成功しないし解決策も見出されず、物別れに終わるだけなのではないかと思います。また、当該委員会設置については、医療側以外の意見は「ほぼ全部」が賛成しているということも、よくお考え下さい。立法措置は、必ずしも特定業界の為にあるわけではありません。国民の為にあるのです。