2006年、新潮社発行。
2011年7月26日、SF小説家の小松左京氏が亡くなりました。まさに「知の巨星、落つ」です。
小松左京は筒井康隆、眉村卓とともに「御三家」と呼ばれたSF作家。「日本沈没」「さよならジュピター」「復活の日」は映画化されましたのでご存じの方が多いと思われますが、一方、大阪万博や花博のプロデュースも手がけた多彩な才能の持ち主です。
SF少年だった私は高校生時代に彼の作品を読み耽りましたが、作品のスケールの大きさは随一で「この人の頭の中はどうなっているんだろう?」と驚かされてばかりいました。
一番記憶に残っているのが「廃墟の彼方」(おぼろげな記憶ですが)という小品。
「友達と遊んでいてふと迷い込んだトンネルのから抜け出ると、そこには赤茶けた廃墟が一面に広がっていた」・・・この展開に背筋がゾクゾクするほど興奮しました。人の脳のヒダに隠れている琴線を狙い撃ちするようなアイディア群に脱帽することしきり。
さて、表題の本は小松左京の自伝的エッセイです。
京都大学出身ですが、彼のキャリアは同門の先輩・同輩・後輩達との縁が強く、京都大学の「知」の特徴を文系とか理系といった二分法では括りきれない「学際的な知」「総合的な知」と表現しています。専門分野を持ちながらも混じり合って複合的な成果を残す・・・よい例が生物生態学が専門の梅沢忠夫さんが文化人類学を内包して国立民族博物館を設立したことが挙げられます。
小松左京自身、専攻はイタリア文学ですが、その読書量は半端でなく、入学前から新潮社の世界文学全集や名だたる海外の書籍を読破していたのでした。
彼が生業としてSF作家を選んだのは、日本の戦争の終わり方がどうにも腑に落ちず、自分の中で総括して表現するにはSFという手法を借りるのが一番合っていたからと説明しています。
沖縄戦、原爆投下で終わった太平洋戦争・・・しかし本土決戦になったらどうなっていただろう・・・それをシミュレーションして描けるのは科学論文ではなく、純文学でもなく、思考実験が可能なSF小説のみだった、と。
また、各作品が生まれた背景が記されていて興味深く読みました。また、親交のあった同時代のSF作家達との意外なエピソードも楽しく読ませていただきました。
彼の本質は「思想家」であったと感じます。SF作家としての顔は、その一面に過ぎません。ある評論家が「荒俣宏と立花隆と宮崎駿を足して3で割らない」と表現したそうですが、言い得て妙。彼は宇宙の中の生命・人類とは何かを思想し続け、かつそのベクトルは常に未来を向いていました。
<メモ>
・・・目にとまった文言を写しておきます。
■ 少年ながらに痛感したのが、科学技術の進歩と恐ろしさ。1903年にライト兄弟が飛行機で飛び、1905年にアインシュタインが相対性理論を発表し、そのわずか40年後には日本に原子爆弾が落とされた。これは大変なことになった。科学は何を造り出すかわからない。科学を制御できなければ人類は滅びてしまうぞ、と。そういう思いがあったから「復活の日」も書いたのだと思う。
■ 中学3年生の時、軽音楽部をつくって学校でジャズ演奏をした。後に俳優になる高島忠夫と「レッド・キャッツ」というジャズバンドを組んだ。高島がギター、僕はバイオリンを担当した。
■ 影響を受けた書物:ダンテの「神曲」、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」(ドストエフスキー全集は2ヶ月で読破)、サルトルの「嘔吐」、エドムント・ラッサールの「純粋現象学」、花田清輝の「復興期の精神」、埴谷雄高の「死霊」(高橋和巳と徹夜で議論)
つまらないと思った書物:志賀直哉の「暗夜行路」
■ (京都大学の同期生である高橋和巳との親交)
この頃に高橋と知り合っていたのは、僕にとっても救いだった。政治や党派性の波にもまれて、戦争の時のように「自分」というものがまた抹殺されそうになり、そこから抜け出すためにはどうしても文学が必要だった。
「悲の器」という高橋の作品は彼の愚痴みたいなものだと思ったが、「邪宗門」(1966年)は小説としてよくまとまっている。これは僕の「日本アパッチ族」(1964年)の方法を意識しているのは間違いない。「アパッチのやり方をパクったな」と言ったら「ばれたか」と笑っていた。
■ 実は京都大学の学生時代にモリ・ミノルというペンネームで、すでにマンガの単行本を3冊出していた。「僕らの地球」「イワンの馬鹿」「大地底海」という漫画で、いずれも大阪の貸本屋系の版元から出したもの。
・・・モリ・ミノルのファンの一人に松本零時さんがいました。
■ 早川書房の「SFマガジン」での第一回SFコンテスト(1960年)で努力賞を受賞(安部公房さんが評価してくれたのがうれしかった)。その時は入選なし、佳作が3人で、その中に眉村卓と豊田有恒がいた。翌第二回では「お茶漬けの味」で入選した。
■ 自ら生み出した文明によって翻弄される人類。その認識を持つことからしか、理性やモラルの回復は始まらないという思いが僕にはあった。原子爆弾の造られ方、使われ方を見ても、科学は常に「悪魔の科学」になる危険性をはらむ。我々人類は、常にその縁に立っていることを自覚しなければならない。
■ (1963年「日本SF作家クラブ」結成に際して)
僕にとってのSF作家クラブは、SFを語り合ったり、バカ話のできる仲間に会える場であり、楽しくて仕方がなかった。特に星新一さんの存在は大きくて、世の中にこんなにおかしな人がいるのかと思ったくらいだ。
有名なエピソードは東海村の日本原子力研究所に視察に行ったときの話。係の人が出てきて「何からお見せしましょうか」というと、星さんが「まず原子というものを見せてください。この目で見ないと信用できない。」みんなで大受け。星さんの不思議な存在感が、初期の日本SF界の雰囲気を作っていったような気がする。
■ (1970年、日本で行われた「国際SFシンポジウム」に際して)
イギリスからブライアン・オールディスとアーサー・C・クラーク、米国からフレデリック・ホール。アイザック・アシモフにも声をかけたのだが、アシモフは飛行機にも舟にも乗れないということで断られた(「ロボット三原則」作成者の意外な一面!)。アーサー・C・クラーク氏は冗談ばかり言って、SF作家はどこの国でも同じような人たちなんだと感心した。
・・・アーサー・C・クラーク氏は「2001年宇宙の旅」の原作者です。
■ 政治家達も「日本沈没」を結構読んでいた。福田赳夫氏が早くから読んでくれていたらしい。当時首相だった田中角栄氏も、ホテル・ニューオータニですれ違ったら「あ、小松君か」と向こうから声をかけてきた。「君とはいっぺんゆっくり話したい。今度時間を作ってくれ。」と。そんなことを言っているうちに、田中首相は翌年、金脈問題で失脚してしまったが。
・・・そして最後に、彼の人類に対する遺言とさえ聞こえる文章を;
「今の世界を見ていると、宗教とか民族とか、それぞれの歴史的なアイデンティティに搦め捕られすぎているように思う。それは世界のどの地域でも必ずあるけれども、内包しながら超えていく方法を見つけなければいけない。つまり各自のアイデンティティを建てたまま乗り越えていく、それを支えるような学問のフレームが必要なのだと思う。
それが何かと言えば、やはりナチュラル・ヒストリー、生物の発生から始まる地球史であり、それをバックグラウンドにした人類社会史、情報進化史といったものなのではないか。それぞれの人間が「地球に発生した生物の一固体」という認識に立って知性を結集していかない限り、戦争も環境問題も貧困も飢饉も何一つ解決できないであろう。」
天国で待っている星新一さんと、またバカ話を楽しんでください。
ー合掌ー
2011年7月26日、SF小説家の小松左京氏が亡くなりました。まさに「知の巨星、落つ」です。
小松左京は筒井康隆、眉村卓とともに「御三家」と呼ばれたSF作家。「日本沈没」「さよならジュピター」「復活の日」は映画化されましたのでご存じの方が多いと思われますが、一方、大阪万博や花博のプロデュースも手がけた多彩な才能の持ち主です。
SF少年だった私は高校生時代に彼の作品を読み耽りましたが、作品のスケールの大きさは随一で「この人の頭の中はどうなっているんだろう?」と驚かされてばかりいました。
一番記憶に残っているのが「廃墟の彼方」(おぼろげな記憶ですが)という小品。
「友達と遊んでいてふと迷い込んだトンネルのから抜け出ると、そこには赤茶けた廃墟が一面に広がっていた」・・・この展開に背筋がゾクゾクするほど興奮しました。人の脳のヒダに隠れている琴線を狙い撃ちするようなアイディア群に脱帽することしきり。
さて、表題の本は小松左京の自伝的エッセイです。
京都大学出身ですが、彼のキャリアは同門の先輩・同輩・後輩達との縁が強く、京都大学の「知」の特徴を文系とか理系といった二分法では括りきれない「学際的な知」「総合的な知」と表現しています。専門分野を持ちながらも混じり合って複合的な成果を残す・・・よい例が生物生態学が専門の梅沢忠夫さんが文化人類学を内包して国立民族博物館を設立したことが挙げられます。
小松左京自身、専攻はイタリア文学ですが、その読書量は半端でなく、入学前から新潮社の世界文学全集や名だたる海外の書籍を読破していたのでした。
彼が生業としてSF作家を選んだのは、日本の戦争の終わり方がどうにも腑に落ちず、自分の中で総括して表現するにはSFという手法を借りるのが一番合っていたからと説明しています。
沖縄戦、原爆投下で終わった太平洋戦争・・・しかし本土決戦になったらどうなっていただろう・・・それをシミュレーションして描けるのは科学論文ではなく、純文学でもなく、思考実験が可能なSF小説のみだった、と。
また、各作品が生まれた背景が記されていて興味深く読みました。また、親交のあった同時代のSF作家達との意外なエピソードも楽しく読ませていただきました。
彼の本質は「思想家」であったと感じます。SF作家としての顔は、その一面に過ぎません。ある評論家が「荒俣宏と立花隆と宮崎駿を足して3で割らない」と表現したそうですが、言い得て妙。彼は宇宙の中の生命・人類とは何かを思想し続け、かつそのベクトルは常に未来を向いていました。
<メモ>
・・・目にとまった文言を写しておきます。
■ 少年ながらに痛感したのが、科学技術の進歩と恐ろしさ。1903年にライト兄弟が飛行機で飛び、1905年にアインシュタインが相対性理論を発表し、そのわずか40年後には日本に原子爆弾が落とされた。これは大変なことになった。科学は何を造り出すかわからない。科学を制御できなければ人類は滅びてしまうぞ、と。そういう思いがあったから「復活の日」も書いたのだと思う。
■ 中学3年生の時、軽音楽部をつくって学校でジャズ演奏をした。後に俳優になる高島忠夫と「レッド・キャッツ」というジャズバンドを組んだ。高島がギター、僕はバイオリンを担当した。
■ 影響を受けた書物:ダンテの「神曲」、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」(ドストエフスキー全集は2ヶ月で読破)、サルトルの「嘔吐」、エドムント・ラッサールの「純粋現象学」、花田清輝の「復興期の精神」、埴谷雄高の「死霊」(高橋和巳と徹夜で議論)
つまらないと思った書物:志賀直哉の「暗夜行路」
■ (京都大学の同期生である高橋和巳との親交)
この頃に高橋と知り合っていたのは、僕にとっても救いだった。政治や党派性の波にもまれて、戦争の時のように「自分」というものがまた抹殺されそうになり、そこから抜け出すためにはどうしても文学が必要だった。
「悲の器」という高橋の作品は彼の愚痴みたいなものだと思ったが、「邪宗門」(1966年)は小説としてよくまとまっている。これは僕の「日本アパッチ族」(1964年)の方法を意識しているのは間違いない。「アパッチのやり方をパクったな」と言ったら「ばれたか」と笑っていた。
■ 実は京都大学の学生時代にモリ・ミノルというペンネームで、すでにマンガの単行本を3冊出していた。「僕らの地球」「イワンの馬鹿」「大地底海」という漫画で、いずれも大阪の貸本屋系の版元から出したもの。
・・・モリ・ミノルのファンの一人に松本零時さんがいました。
■ 早川書房の「SFマガジン」での第一回SFコンテスト(1960年)で努力賞を受賞(安部公房さんが評価してくれたのがうれしかった)。その時は入選なし、佳作が3人で、その中に眉村卓と豊田有恒がいた。翌第二回では「お茶漬けの味」で入選した。
■ 自ら生み出した文明によって翻弄される人類。その認識を持つことからしか、理性やモラルの回復は始まらないという思いが僕にはあった。原子爆弾の造られ方、使われ方を見ても、科学は常に「悪魔の科学」になる危険性をはらむ。我々人類は、常にその縁に立っていることを自覚しなければならない。
■ (1963年「日本SF作家クラブ」結成に際して)
僕にとってのSF作家クラブは、SFを語り合ったり、バカ話のできる仲間に会える場であり、楽しくて仕方がなかった。特に星新一さんの存在は大きくて、世の中にこんなにおかしな人がいるのかと思ったくらいだ。
有名なエピソードは東海村の日本原子力研究所に視察に行ったときの話。係の人が出てきて「何からお見せしましょうか」というと、星さんが「まず原子というものを見せてください。この目で見ないと信用できない。」みんなで大受け。星さんの不思議な存在感が、初期の日本SF界の雰囲気を作っていったような気がする。
■ (1970年、日本で行われた「国際SFシンポジウム」に際して)
イギリスからブライアン・オールディスとアーサー・C・クラーク、米国からフレデリック・ホール。アイザック・アシモフにも声をかけたのだが、アシモフは飛行機にも舟にも乗れないということで断られた(「ロボット三原則」作成者の意外な一面!)。アーサー・C・クラーク氏は冗談ばかり言って、SF作家はどこの国でも同じような人たちなんだと感心した。
・・・アーサー・C・クラーク氏は「2001年宇宙の旅」の原作者です。
■ 政治家達も「日本沈没」を結構読んでいた。福田赳夫氏が早くから読んでくれていたらしい。当時首相だった田中角栄氏も、ホテル・ニューオータニですれ違ったら「あ、小松君か」と向こうから声をかけてきた。「君とはいっぺんゆっくり話したい。今度時間を作ってくれ。」と。そんなことを言っているうちに、田中首相は翌年、金脈問題で失脚してしまったが。
・・・そして最後に、彼の人類に対する遺言とさえ聞こえる文章を;
「今の世界を見ていると、宗教とか民族とか、それぞれの歴史的なアイデンティティに搦め捕られすぎているように思う。それは世界のどの地域でも必ずあるけれども、内包しながら超えていく方法を見つけなければいけない。つまり各自のアイデンティティを建てたまま乗り越えていく、それを支えるような学問のフレームが必要なのだと思う。
それが何かと言えば、やはりナチュラル・ヒストリー、生物の発生から始まる地球史であり、それをバックグラウンドにした人類社会史、情報進化史といったものなのではないか。それぞれの人間が「地球に発生した生物の一固体」という認識に立って知性を結集していかない限り、戦争も環境問題も貧困も飢饉も何一つ解決できないであろう。」
天国で待っている星新一さんと、またバカ話を楽しんでください。
ー合掌ー