日々雑感

読んだ本やネット記事の感想、頭に浮かんでは消える物事をつらつら綴りました(本棚7)。

三木清の「人生論ノート」

2017-12-25 07:45:11 | エッセイ
 NHK・(2017年4月)は三木清の「人生論ノート」でした。

 “人生論”というと、お堅い学者の説教、というイメージがなきにしもあらずで、敬遠しがちです。
 しかし三木清のそれは、私の心に響いてきました。
 時代背景から、言葉は回りくどく難解に見えますが、それをこの番組が紐解いてくれました。

 彼の思想をひと言で表現するとすれば「己を極めよ」ということでしょうか。

 中でも「孤独を否定しない」考えには大いに頷き、私自身が一匹狼的で“孤独”な理由が理解できたような気がしました。

 孤独は他人との間に生まれる。
 孤独は集団の中で生まれる。
 孤独でいることは、大衆に迎合しない強さを条件とする。他人と違う意見を持ち、それを表現する勇気が必要である。
 孤独は感情ではない、知性である。知性は扇動されないが、感情は扇動される。


 時代は第二次世界大戦前、国民が感情を扇動されて戦争に突入していく様子を暗に非難しているわけです。

 でもこの考え方は現在でも通じます。

 2017年12月現在、日本相撲界では日馬富士の傷害事件で蜂の巣をつついたような騒ぎが続いています。
 ふつう、スポーツ界で暴行事件が発生すれば、そのトップが責任を取って辞任するのが当たり前ですが、なぜか八角理事長は数ヶ月の減給のみで地位にとどまり、なぜか被害者側である貴乃花親方が「報告した・しない」「相撲協会に協力した・しない」で降格処分という重い処分を受けることになりました。

 え?だって傷害事件でしょう。刑事事件になる可能性もあり、警察に任せるべきでは?

 これは私には「現行相撲協会は指導に伴う暴力を是認し、それを改革しようとうるさく動き回る貴乃花親方を消し去りたい」としか思えません。
 
 貴乃花親方は真面目すぎる・堅すぎる嫌いはありますが、集団の中でも流されずに自分を主張する強さに共感しています。

 皆さんはどう感じているのでしょう。

■ 三木清の「人生論ノート」
100分de名著64
 「人生論ノート」という一風変わったタイトルの本があります。1937年に冒頭の一章が発表されて以来、80年近くもロングセラーを続ける名著です。「怒」「孤独」「嫉妬」「成功」など私たち誰もがつきあたる問題に、哲学的な視点から光を当てて書かれたエッセイですが、その表題に比べて内容は難解です。書いたのは、西田幾多郎、和辻哲郎らとも並び称される日本を代表する哲学者、三木 清(1897- 1945)。今年生誕120年を迎える三木は、治安維持法で検挙され、獄死した抵抗の思想家でもあります。
 三木はこの本で一つの「幸福論」を提示しようとしていました。同時代の哲学や倫理学が、人間にとって最も重要な「幸福」をテーマに全く掲げないことを鋭く批判。「幸福」と「成功」とを比較して、量的に計量できるのが「成功」であるのに対して、決して量には還元できない、質的なものとして「幸福」をとらえます。いわく「幸福の問題は主知主義にとって最大の支柱である」「幸福を武器として闘うもののみが斃れてもなお幸福である」。幸福の本質をつこうとした表現ですが、どこか晦渋でわかりにくい表現です。
 こうした晦渋な表現をとったのには理由があります。戦争の影が日に日に色濃くなっていく1930年代。国家総動員法が制定され、個人が幸福を追求するといった行為について大っぴらには語れない重苦しい雰囲気が満ちていました。普通に表現しても検閲されて世に出すことができなくなると考えた三木は、哲学用語を駆使して表現を工夫し、伝わる人にはきちんと伝わるように言葉を磨き上げていったのです。
 哲学者の岸見一郎さんは、「人生論ノート」を、経済的な豊かさや社会的な成功のみが幸福とみなされがちな今だからこそ、読み返されるべき本だといいます。一見難解でとっつきにくいが、さまざまな補助線を引きながら読み解いていくと、現代を生きる私たちに意外なほど近づいてくる本だともいいます。
 厳しい競争社会、経済至上主義の風潮の中で、気がつけば、身も心も何かに追われ、自分自身を見失いがちな現代。「人生論ノート」を通して、「幸福とは何か」「孤独とは何か」「死とは何か」といった普遍的なテーマをもう一度見つめ直し、人生をより豊かに生きる方法を学んでいきます。




第1回:真の幸福とは何か
三木清は「幸福」という概念を考え抜いた。幸福を量的なものではなく、質的で人格的なものであるととらえなおす三木の洞察からは、経済的な豊かさや社会的な成功のみが幸福なのではないというメッセージが伝わってくる。そして、真の幸福をつかんだときに、人間は全くぶれることがなくなるということもわかってくる。第一回は、三木清がとらえなおそうとした「幸福」の深い意味に迫っていく。

第2回:自分を苦しめるもの
「怒」「虚栄心」「嫉妬心」。誰もがふとした瞬間に陥ってしまうマイナスの感情は、暴走を始めると、自分自身を滅ぼしてしまうほどに大きくなってしまう。これらの感情をうまくコントロールするにはどうしたらよいのか? 三木が提示する方法は「それぞれが何かを創造し自信をもつこと」。たとえば「虚栄心」には「自分をより以上に高めたい」といった肯定的な面も潜んでいる。「何事かを成し遂げよう」という創造性が、こうした肯定面を育てていくのだ。第二回は、自分自身を傷つけてしまうマイナスの感情と上手につきあい、コントロールしていく方法を学んでいく。

第3回:「孤独」や「虚無」と向き合う
三木清は、哲学者ならではの視点から人間が置かれた条件を厳しく見定める。そして人間の条件の一つを「虚無」だと喝破する。だがこれは厭世主義ではない。人間の条件が「虚無」だからこそ我々は様々な形で人生を形成できるというのだ。また、一人だから孤独なのではなく、周囲に大勢の人がいるからこそ「孤独」が生まれると説く。そして、その「孤独」こそが「内面の独立」を守る術だという。第三回は、人間の条件である「虚無」や「孤独」との本当のつきあい方に迫る。

第4回:「死」を見つめて生きる
「人生論ノート」の冒頭で、三木は「近頃死が恐ろしくなくなった」と語る。人間誰もが恐れる「死」がなぜ恐ろしくないのか? 死は経験することができないものである以上、我々は死について何も知らない。つまり、死への恐怖とは、知らないことについての恐怖であり、死が恐れるべきものなのか、そうではないのかすら我々は知ることができないのだ。そうとらえなおしたとき、「死」のもつ全く新しい意味が立ち現れてくる。第四回は、さまざまな視点から「死」という概念に光を当てることで、「死とは何か」を深く問い直していく。

<プロデューサーAの“こぼれ話”>
三木清が遺したもの
三木清「人生論」、実はこの番組のプロデューサーに就任してからずっと取り上げてみたかった本でした。大学時代に、全体はよく理解できないながらも、「幸福」について洞察するいくつかの文章が心に突き刺さった経験があり、いつか深く読み解いてみたいと思っていました。しかし、長らく、「これは!」という論者がみつかりませんでした。もちろん専門家による三木清についての優れた研究書はいろいろあるのですが、意外にも「人生論ノート」にスポットが当たったものは少なかったのです。

心の中で温め続けていたある日のこと。意外なところから道が開けました。アドラー「人生の意味の心理学」の解説を岸見一郎さんにお願いしたとき、書棚に三木清の全集があるのを見つけて、小さく「あっ!」と声を出して驚いたのを今でもよく覚えています。「アドラーの研究者である岸見さんが三木清を?」と一瞬意外な印象をもちましたが、一方でギリシャ哲学の研究者でもある岸見さんならば、もちろん読み込んでいてもおかしくないだろうと思いなおし、番組終了後にお話をお聞きしてみました。すると、なんと「人生論ノート」は、若き日に哲学を学び始める原点の一つにとなった名著だというのです。

三木清の難解な文章に見事な補助線を入れつつ、現代の私たちに近づけて解釈してくれる岸見さんの解説を聞き、これは講師をお願いするしかないと考えて、折に触れ打ち合せを続けてきました。ときあたかも、アメリカにトランプ政権が誕生し、フランスでは大統領候補としてマリーヌ・ルペン氏が大いに注目を集め始めていた時期。世界各国で排外主義的な思潮が猛威をふるいはじめていました。また、国内でも、少しでも政府に対して批判的な態度を示すと、「非国民」「反日」といったレッテルをはられて攻撃されてしまうような風潮が、ネット上を中心にたちこめていました。

岸見さんと三木清について話すたびに、「今の時代は、三木が生きた時代にとても似てきているかもしれない」という感慨が深まっていきました。とともに、「三木が、戦前の厳しい時代に、言葉を通してどう現実と闘っていたのか」を見極めていく作業は、今、この時代だからこそ、とても意義深いことではないかという思いも強くなっていきました。そして実際、番組をご覧いただいてもおわかりの通り、三木の言葉は、まるでこうなることを予言していたかのように、今の世の中の状況を鋭く抉り出してします。

晩年の三木清は、言論の自由も奪われ、特高警察にマークされていた昔の友人を一晩泊め外套を貸し与えたというだけで検挙され、最終的には、戦争が終結した後にもかかわらず、釈放されることなく獄死します。GHQが「人権指令」によって治安維持法を廃止したのは、一説によれば、この三木の獄死に衝撃を受けたからだともいわれています。

犯罪とは無関係の一市民が、法律の拡大解釈で投獄され、殺される。こうしたことは二度とあってはなりません。三木の死を単なる過去の出来事としてかたづけてしまうことなく、貴重な教訓として、現代の制度設計の議論に徹底して生かしぬいてほしいと思います。

「感情を煽ることは容易だが、知性を煽ることはできない」。岸見さんは三木の知性に対する考えを一言に凝縮してこう表現してくれました。私たちは、ともすると、周囲の空気に流されてしまい、自分で考えることをやめてしまいがちです。三木は、こうした状況を「精神のオートマティズム」と名づけて鋭く批判しました。三木が訴え続けた、「知性」、そして「考え続けること」の大切さを胸に刻みながら、「偽善者」たちに煽られることなく、「孤の独立」を守り抜いていくこと。それこそが、三木の遺してくれたものを生かす道だと思います。


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