小説家、反ワク医師、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、反ワク医師、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

文学には最終的な責任がない

2008-11-01 22:36:51 | 考察文
文学には最終的な責任がない。

これは、三島由紀夫の発言だが、この意味がわからない人もいるのではないか、と思うので、この意味をわかりやすく説明しておこう。文学というものは、ストーリーのあるお話である。読者に対するエンターテイメントである。しかし、文学は、作者の思想の表現でもある。主張したい思想があるから、作者は小説を書くのである。文学というものは、お話という形式による作者の思想の表現である。だから、作者は、自分の思想を小説という形式で主張しているのである。自分が思想を主張したら、それを行動しなくてはならない。自分の思想を主張して、その思想を行動しなかったら、これほど矛盾した事はない。
しかし、一般には、作家は、小説を書く時、そんな義務感を持っていない。し、また、持つ必要も無いのである。小説は、何をどう書くか、全く制限がなく、自由なのである。作家は作品に対して責任を持つ必要がないのである。
ただ、小説において一つの問題点がある事があるのである。それは、文学が芸術作品である、という事である。芸術作品というものは、どんなジャンルにおいても、作品それ自体に価値があるか、どうか、という事が問題になるのである。一度、完成された芸術作品は作者の手を離れて、作品それ自体の価値が問題となるのである。だから、作者は、自分のつくった小説に対して、責任を持つ必要もなく、また、持つ事も出来ないのである。つまり、作者と作品はつながりが、なくなってしまうのである。また、芸術というものは、本来、そうでなくてはならないものなのである。
ある例を挙げれば、たとえば、医者でない人、たとえば、八百屋の親父が、医療の事を取材して、医療の名エッセイを書いたとする。エッセイも、もちろん芸術である。この場合、作品の出来がよく、すぐれた医療名エッセイなら、その作品は、芸術として、価値があるのである。もし、作者が、医者ではなく、八百屋のおやじ、だと、後で、わかっても、それでも、作品の価値が下がる事はないのである。
逆に名医が、医療エッセイを書いても、書いた医者に文章力がなく、作品が不出来であれば、それは、価値のない作品なのである。
現代の文学界は、その事を、かなり、いいかげんにしているケースがある。それどころか、逆に間違ったことさえ、積極的にしている。
つまり、作品を評価するのに、作者との関係で評価しては、いけないのに、むしろ、積極的に、作品の評価を、作者との関係で、評価してしまっている事があるのである。つまり、作品は、まず、作者の素性を見ないで、一切の先入観を入れないで作品を評価すべきなに、作品を作者との関係で、その価値を評価してしまっているケースがあるのである。
作者が人格者や、名のある人だと、それだけで、作品の出来が悪くても、評価してしまっているケースがあるのである。
昔は、現代よりは、その点は、よかった。
例を挙げると、金沢の作家、島田清次郎の「地上」は、そのはじめの一巻は、文学的価値があって文壇から認められた。しかし、島田清次郎の人格は必ずしもいいものではなかった。そのため、「地上」は、悪く言われもした。小説で、偉そうな事を言っているのに、作者の人格がよくないため、作品を批判する評論家もいた。しかし、「地上」は、まぎれもなく、文学作品であり、後世では、しっかりと、その作品の価値が評価されている。
 

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