小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、精神科医、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

三島由紀夫の死

2013-10-16 17:24:42 | Weblog
三島由紀夫が、なぜ自決したか、わからない、という人が、私には、わからない。You-Tubeでの、三島のインタビューや、死の10日前の古林尚氏との対談で、もう、ほとんど全てわかる。自衛隊の違憲性に対しては、三島はそれほど憤っていない、と私は思っている。むしろ、あれは、口実である。ただ、経済的繁栄にうつつを抜かして、戦争など忘れ、快楽ばかりを貪り、ダラダラ生きている一部(多く)の日本人に対しての訴えは、本物である。要するに、「もっと真剣に生きろ」という主張である。そして、もう一つは罪悪感である。学徒出陣、特攻隊員として死んでいった若者達に対する引け目である。三島は、(父親の協力もあったが)生きたいために徴兵のがれに必死だった。しかし乙種で合格してしまった。そして遺書まで書いた。しかし肺結核と誤診されて即日帰郷となったことを喜んだ。特攻隊員たちは皆、夢も希望もありながら、日本のために死んでいったのに、自分は、生き延びて、夢であった文学において、欲しいものを、十分すぎるほど手に入れた。夢も希望もありながら、死んでいった特攻隊員たちに対し、申し訳ない、という思いは、強くあったはずである。それと、言動一致である。自分の思想を発言(というか、書いて)しておきながら、それを行動しない、というのは、三島にとって、耐えられないほど、つらかったからである。それらは、憂国のためである。

しかし、三島の死の動機は、憂国のためだけではない。自分の欲求のためもある。それは、

△歳をとりたくない。ボディービルで作り上げた肉体美が、歳をとることによって、その美が低下することを恐れた。のである。もちろん、人間は、誰だって、歳はとりたくない、と思っている。しかし、三島の場合は、その程度が異常なほど強いのである。肉体の美や、老い、を一部の作品で文学のテーマにまでしているほどである。

△夭折したい願望。三島は文学において、夭折の美を多く書いている。三島は、幼い時から、レーモン・ラディゲの夭折に嫉妬したほどである。

△人間(自分)の死が小さくなる、ことに対する嫌悪。畳の上で、ハチの巣の中の一匹の蜂のようには、死にたくない。という願望。明治維新の英雄たちや、特攻隊員のように、男の死とは、命を捨てて目的のために、突っ込むもの、であり、そういうふうに死にたい、という願望。

三島にとって「行動」とは「目的のために、突っ込んで死ぬ」ことだった。これは、三島独特の風変りな思想である。一般の人にとって、「行動」とは、「生きて何かをする」ことである。しかし三島にとっての「行動」は、一般の人の「行動」と考え方が違うのである。

などである。

ともかく、三島は誠実で理想が高すぎる。彼の理想の高さが、彼を自刃させた、と言ってもいい。三島の死は、三島にとっては必然だった。志があまりにも高すぎる人の心理は、一般の人には、わからないものである。



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