Yahooで、「スポーツ上達」で検索すると、一番上に、私の書いた「武道・スポーツ上達法」が出てくる。
五番目くらいに、「なぜ練習すると上達するのか」という見出しのサイトがあり、「あるスポーツを修得する場合、反復練習するとなぜ上達するのか、なぜ身体が覚えてくれるのか ということをひるがえって考えてみると、明確な答えは出てこない。」と、いくつもの大学の運動の講師をしている先生のサイトが出てくる。
わからないのであれば、では私が説明してさしあげよう。「体が覚える」というのは、便宜的に悪くない表現であるが。本当は、スポーツの練習とは、体ではなく、脳(特に、運動をつかさどる小脳)を鍛えていることなのである。運動が出来るようになる、というは、脳の神経細胞が、樹状突起を伸ばして、他の神経細胞にシナプス結合という形で、結びつき、神経細胞の、一つの回路が出来上がるからである。これを租協調という。(これは、勉強でも同じで、英単語を何度も何度も繰り返して覚えることによって、忘れないようになるのと同じである)
運動の種類にもよるが、体操などの瞬発的な運動の場合、租強調は、長い上達しない反復練習を根気よく繰り返している、ある時に、パッと起こる。スキーでも何でも、練習していて、「あっ。出来た」と実感して喜んだ経験は、誰でもあるのではないかと思う。それが、運動の技術がワンステップ上達した、ということである。そして、また運動を続けていると、また、なかなか上達しない苦しい期間が続く。これがスランプである。しかし、ある時、また、パッと、さらなる上達が起こる。練習によって、運動の技術は、そういう階段状の上達をしていくのである。もう、上達が頭打ちになった時が、運動が身についた、(達人になった)状態である。
逆に、運動が身についた後でも、繰り返しているうちに、悪いクセが出来てしまうことがある。これは、反復練習によって、神経細胞と神経細胞の間に悪い回路が出来てしまった状態なのである。これを直すのは非常に根気がいる。
私が空手を訓練しだしたのは、20歳の頃だったが、その時、私は、自分の上等でない月並みな運動神経ていどで、はたして空手を身につけられるのか、非常に悩んだものである。身につけられなければ、格好悪く、やめてしまうことになれば、結局、時間の無駄になってしまう。やうか、やめようか、非常に悩んだ。正拳突き、や、下段払いは、そう難しい動作ではないが、上げ受けは、非常に難しく、はたして、上げ受け、が出来るようになるのかどうか、非常に悩んだものである。しかし、空手の出来る人で、上げ受け、だけ出来ない人というのは、いないのである。なので、時間は、かかるが、いつかは身につくのではないか、と推測した。それで、わかったことだが、空手は体系的な運動であり、上手くなる時は、突きにせよ、受けにせよ、蹴りにせよ、要するに、全ての技が一気に上手くなる、ということだった。これは、感動をともなう瞬間である。空手の正拳突きの練習をしているというのは、単に、正拳突きの技術の練習をしているのでは、ないのである。正拳突きの練習によって、空手という運動の全てを練習しているのである。だから、上手くなる時は、租強調が起こった時であり、空手の全ての技が、一気にワンステップ上手くなるのである。では、正拳突きの練習が、空手という運動の練習であるならば、正拳突きの練習だけしていれば、蹴りにせよ、受けにせよ、空手の全ての技が上手くなるか、といえば、それは、わからない。そういう実験をした人がいないからである。それに、正拳突きの練習だけしか、しなかったら、あきてしまうし、蹴り、や、受けの練習も、せずにはおれないものである。ただ、正拳突きの練習だけしていても、それが上達すれば、蹴り、や、受け、など他の技も上達しかねない、と私は思っている。
五番目くらいに、「なぜ練習すると上達するのか」という見出しのサイトがあり、「あるスポーツを修得する場合、反復練習するとなぜ上達するのか、なぜ身体が覚えてくれるのか ということをひるがえって考えてみると、明確な答えは出てこない。」と、いくつもの大学の運動の講師をしている先生のサイトが出てくる。
わからないのであれば、では私が説明してさしあげよう。「体が覚える」というのは、便宜的に悪くない表現であるが。本当は、スポーツの練習とは、体ではなく、脳(特に、運動をつかさどる小脳)を鍛えていることなのである。運動が出来るようになる、というは、脳の神経細胞が、樹状突起を伸ばして、他の神経細胞にシナプス結合という形で、結びつき、神経細胞の、一つの回路が出来上がるからである。これを租協調という。(これは、勉強でも同じで、英単語を何度も何度も繰り返して覚えることによって、忘れないようになるのと同じである)
運動の種類にもよるが、体操などの瞬発的な運動の場合、租強調は、長い上達しない反復練習を根気よく繰り返している、ある時に、パッと起こる。スキーでも何でも、練習していて、「あっ。出来た」と実感して喜んだ経験は、誰でもあるのではないかと思う。それが、運動の技術がワンステップ上達した、ということである。そして、また運動を続けていると、また、なかなか上達しない苦しい期間が続く。これがスランプである。しかし、ある時、また、パッと、さらなる上達が起こる。練習によって、運動の技術は、そういう階段状の上達をしていくのである。もう、上達が頭打ちになった時が、運動が身についた、(達人になった)状態である。
逆に、運動が身についた後でも、繰り返しているうちに、悪いクセが出来てしまうことがある。これは、反復練習によって、神経細胞と神経細胞の間に悪い回路が出来てしまった状態なのである。これを直すのは非常に根気がいる。
私が空手を訓練しだしたのは、20歳の頃だったが、その時、私は、自分の上等でない月並みな運動神経ていどで、はたして空手を身につけられるのか、非常に悩んだものである。身につけられなければ、格好悪く、やめてしまうことになれば、結局、時間の無駄になってしまう。やうか、やめようか、非常に悩んだ。正拳突き、や、下段払いは、そう難しい動作ではないが、上げ受けは、非常に難しく、はたして、上げ受け、が出来るようになるのかどうか、非常に悩んだものである。しかし、空手の出来る人で、上げ受け、だけ出来ない人というのは、いないのである。なので、時間は、かかるが、いつかは身につくのではないか、と推測した。それで、わかったことだが、空手は体系的な運動であり、上手くなる時は、突きにせよ、受けにせよ、蹴りにせよ、要するに、全ての技が一気に上手くなる、ということだった。これは、感動をともなう瞬間である。空手の正拳突きの練習をしているというのは、単に、正拳突きの技術の練習をしているのでは、ないのである。正拳突きの練習によって、空手という運動の全てを練習しているのである。だから、上手くなる時は、租強調が起こった時であり、空手の全ての技が、一気にワンステップ上手くなるのである。では、正拳突きの練習が、空手という運動の練習であるならば、正拳突きの練習だけしていれば、蹴りにせよ、受けにせよ、空手の全ての技が上手くなるか、といえば、それは、わからない。そういう実験をした人がいないからである。それに、正拳突きの練習だけしか、しなかったら、あきてしまうし、蹴り、や、受けの練習も、せずにはおれないものである。ただ、正拳突きの練習だけしていても、それが上達すれば、蹴り、や、受け、など他の技も上達しかねない、と私は思っている。