小説家、反ワク医師、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、反ワク医師、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

ニュールンベルグ裁判

2014-01-15 17:24:26 | 政治
東京裁判、同様、ナチス首脳を裁いたニュールンベルグ裁判も国際法からすれば違法と言わねばならない。

新しく作った法律でもって過去の出来事を裁く、という行為が誤りであることは、明白である。

(そんなことをされたんでは、たまったものではない)

ユダヤ人を500万人も殺したホロコーストも、それが、戦争と関連して、戦争に勝つために、国家が行った行為である以上、それは個人の殺人罪とは言えない。

ドイツ兵士の中でも、ユダヤ人を殺すことが、正義の行為だと思っていた兵士は、多く、いるはずである。

仮に、殺人罪として裁くのであれば、ナチス首脳に限らず、ドイツ兵士、全員を殺人罪として、裁かねばならない。

戦争の犯罪性の難しいところは。戦争による殺人は個人の犯罪とはならい。が、たとえば、アメリカ軍のグラマンによる、日本の民間人の機銃掃射が、人を殺す快感をともなっている点である。

戦争の犯罪性の難しさ。それは「人を虫ケラのように殺すことを楽しい遊びとしてする」これは、明らかに個人の殺人罪である。しかし、それが、国家が認めた、戦争という国家利益の追及ための行為の中で行われた、という点で正当化される、という点にある。

アメリカが日本に原子爆弾を落としたことは、殺人罪として、全く裁かれていない。

ナチスのホロコースト、つまりユダヤ人をガス室に入れて毒ガスで殺す、行為は、非人道的の極みだが、原子爆弾を投下して、無辜の民間人、罪のない女子供を大量に虐殺し、死ななかった人達には、原爆の後遺症で、死ぬ以上の、生き地獄を味あわせることは、やむを得ない、仕方のないことだったというのか?そんなのは連合国の勝手な言い分である。

残虐性を比較することは、意味のないことだが、死ぬより苦しい、生き地獄の後遺症に悩まされながら生かされるより、スッパリと殺される方が、まだ、むごたらしく苦しませない分、原子爆弾より、ナチスのホロコーストの方がまだ、まし、とも言えるはずだ。

東京裁判。原爆を落とした国が、何が、「平和に対する罪」だ。

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原子爆弾

2014-01-15 11:38:56 | 政治
アメリカは、太平洋戦争で、日本の広島、長崎に原子爆弾を落とした。

昭和天皇は、戦後の記者会見で、これは、「戦争であるから、やむを得なかったこと」と発言した。

日本は、一億玉砕、最後の一人まで戦う、と(特に精神主義の強い陸軍は)言っていた。

しかし、はたして、そうだろうか。

日本の内閣、軍部の首脳陣の数名を戦時中に、外交で、アメリカに連れて行き、原子爆弾を落とす実験を見せていれば、日本は、とても、この新兵器には、かなわないと停戦を申し出た可能性もある。日本も、原子爆弾の研究はしていたのだから。

あるいは、アメリカが原子爆弾を開発したことを日本に告げ、原子爆弾の実験のフィルムを日本政府に送っていても、日本は停戦を決定した可能性はあり得る。

アメリカには、日本に対し、そういう外交的な働きかけをしようとする人物はいなかったのか?

アメリカ大統領ルーズヴェルトに、そういう気持ちは全く起こらなかったのか?

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大川隆法

2014-01-15 05:28:43 | 考察文
幸福の科学の大川隆法は、田原総一郎との対談で、

「戦争とは、イデオロギーの対立であり、人類が進歩するために、より優れたイデオロギーの方が側が勝つ」

と言っている。氏はアドリブの発言なので失言が多い。これは全く間違っている。

なぜなら、戦争は、確かに、宗教対立(カトリックとプロテスタントなど)のように、イデオロギーの対立で起こる戦争もあるが、基本的に、

「戦争とは、基本的に、国家の利益を拡大(あるいは、守る)するために行うもの」

だからである。戦争の動機は国家のエゴであり、また、人類は、(大きな流れとしては進歩しているが)進歩ではなく、退歩することも、いくらでもある。

「歴史は繰り返す」である。

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予定調和

2014-01-15 04:41:10 | 考察文
ライプニッツの予定調和は、単純に同感できる。もちろん私も予定調和説を信じている。

しかし、ルネッサンスの宗教改革者のカルヴィンの予定調和の考え方には、疑問がある。

あらかじめ、人間の一生や、この世は、神の意志によって決定されている、と考えるのならば、その説を人に主張したり、働くことが大切だから、熱心に働け、と主張する必要もないことになる。なぜなら、人間の一生や、この世は、あらかじめ、神の意志によって決定されている、のであるから、何もカルヴィンが熱心に自分の意志で他人に働きかけて、影響を及ぼそうとする必要もない、ことになる。からだ。カルヴィンが自分の意見を主張しても、主張しなくても、人間の人生は、影響を受けないことになるからだ。予定調和は、(あらゆる)人間(特に思想家)の行動や教えが、人間の運命を変えない、という考えなのだから。

しかし、カルヴィンが、この世に生まれた事、カルヴィンの他者への働きかけの行動や教えも、あらかじめ神が計画したものであり、カルヴィン自身の行動や教えも、神の予定調和として、あらかじめ神の予定調和の中に組み込まれていた、とも考えることも出来るわけだから、矛盾はない、とも言える。

予定調和は、自由意志の否定につながる。もちろん私は、(これだけは絶対、自分の物であると、全ての人間が信じている)自由意志はないと絶対的に確信している。

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芥川龍之介

2014-01-15 04:09:51 | Weblog
「阿呆は他人を阿呆と思っている」とは、芥川龍之介の箴言であるが、昔は、これを素直に芥川が(軽い気持ちで)自嘲的に自分のことを言っている箴言だと思った。しかし、今は、この意味がわからなくなった。芥川ほど博学で教養があり、小説の文章も完璧で、他人の文学作品に対する評価も正確で、侏儒の言葉、のように、物事の本質を見抜く能力も優れている。どこをどうとっても、芥川が阿呆である点は見つからない。だから、これは芥川の自嘲の格言ではなく、一般論ではないか、と考えを切り替えた。一般論なら、この格言は正しい。しかし、さらに考えてみると、芥川は、「ある阿呆の一生」と題して、自分の一生を小説的に述べている。なので、やはり、「阿呆は他人を阿呆と思っている」とは、芥川自身のことである、と捉えるしかない。はたして芥川は自分の何をもって、自分のどの点をさして、自分を阿呆と考えたのか。これはわからない。芥川は、思ってもいないのに、謙虚卑下する性格ではない。むしろ、芥川ほど読者を阿呆よばわりした度胸のある作家はいない。芥川は文壇へのデビューから、死ぬまで、小説を通して、読者、世間一般の人間との戦いだった。

芥川龍之介が、自分を阿呆と思った理由を芥川が言っていないので、こっちで、なんらか解釈するしかない。

私の解釈。「阿呆は他人を阿呆と思っている」という芥川の作り出した格言を、芥川は、普遍的に当てはまる、ほとんど絶対的な格言だと自信を持っていたのだろう。そして、芥川は、死ぬまで、人間を阿呆と見なし続けた。だから、人間を阿呆と思っている芥川自身も阿呆である、ということになる、という芥川の理論からではなかろうか。

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